「橘氏」出身で唯一皇后に立てられ女性。それが第52代・嵯峨天皇の皇后となった橘嘉智子(かちこ/786-850年/享年65)だ。仏教への信仰が篤く、日本最初の禅院・檀林寺を創建した事績から、「檀林皇后」と諡号された。世に類なき美貌を備えた女性だったとされているが、千年
日本史について思いつきの探検を繰り返しています。 姫隊長・史乃/古参隊員・歴三
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「橘氏」出身で唯一皇后に立てられ女性。それが第52代・嵯峨天皇の皇后となった橘嘉智子(かちこ/786-850年/享年65)だ。仏教への信仰が篤く、日本最初の禅院・檀林寺を創建した事績から、「檀林皇后」と諡号された。世に類なき美貌を備えた女性だったとされているが、千年
~とんでもないことを思いつき、また、後先を考えないでそれを実行する~ 時としてそんなこともしてしまうのが人間というものかもしれん。これはなにも庶民に限らず、殿上人とか天下人とか呼ばれる身分の高い人物でも同様に言える気がする。そう思ったのは、実は第96代・後
日本列島をいくつかの地方に分ける基準は、古来あれこれあるようだが、その代表的なひとつとして以下の「八つ」に分類する方法が挙げられる。北から順に並べると、北海道/東北/関東/中部/近畿/中国/四国/九州、この「八つ」の地方ということだ。その名称も大体におい
1890年(明治23年)に浅草公園に建築された、当時日本一の高さ(高さ52M/12階建て/10階まで煉瓦造、それ以上は木造)を誇る八角形の建物は、「雲を凌ぐほど高い」という形容から、「凌雲閣」(りょううんかく)と命名された。 中ほどの各階には物品販売店が並び、上階は展
古事記では木花之佐久夜毘売、日本書紀では木花開耶姫、一般的には「木花咲耶姫」と表記する「コノハナノサクヤヒメ(ビメ)」という名が神話に登場している。咲く花をイメージさせるまことに美しい名だが、この女性は、いわゆる天孫降臨を果たしたニニギノミコト(天照大神
織田信長(1534-1582年)についての一代記「信長記」の主だったものは二つある。〇太田牛一(1527-1613年)の手によるものと、もうひとつ、〇小瀬甫庵(1564-1640年)が著したものだ。両者を区別するために、一般的には牛一版を「信長公記」(1600年頃?)、甫庵版を単に「信
~嵐で江戸への航路が閉ざされていた年、紀州のミカンを家に残った ボロい大船にドッチャリ積み込んで、猛烈な嵐の中を江戸へ運んだ~この命懸けの行動が史実か伝説なのかについては、幾分あいまいなところがあるが、ともかくこれが紀伊國屋文左衛門(1669?-1734年)にまつ
江戸時代後期の浮世絵師・葛飾北斎(1760-1849年)には、ユニークな逸話が数多く残されている。 たとえばだが、〇改号すること30回?(異見もあり/「北斎」はその内の一つ)。〇生涯に93回?の「引っ越し」を繰り返した。〇どの住まいも掃除をすることなく「ゴミ屋敷」化が
さて「旗本八万騎」という言葉は、一般的にはこのように説明されている。~徳川将軍家の旗本の数を称したもの。 旗本は、実際には五千を少し 上回る程度でであったが、御家人と陪臣を含めれば、約八万騎であった~ (三省堂・大辞林)この程度の説明なら、まあ大概の人に
その藩の籍から離れ主従関係を解消する「脱藩」・・・こうした経験を持つ人物は、幕末に限っただけでもすぐさま何人かの名を挙げることができそうだ。たとえばダ、長州藩士・吉田松陰(1830-1859年)は我が目で東北の状況を確かめるべく旅行を計画したものの、藩の許可発行が
現在の地理では、「東西南北」でその位置を示すことが一般的だ。例えば、本州の「北」端部には青森県があり、山口県なら同じく「西」端部に位置するといった具合だ。これが昔の場合には、「遠・近/上・下/前・中・後」などの表現を用いた。遠い湖(浜名湖)がある国を「遠
それなりの歴史知識を持った人でないと解けそうもない少し意地悪なクイズになるが、姫隊員は答えられるかな?~以下の四人の有名人?の共通点はなに?~ 〇第84代・順徳天皇(1197-1242年) 〇日蓮宗宗祖・日蓮(1222-1282年) 〇後醍醐天皇側近・日野資
東洲斎写楽(生没年不詳)と名乗る謎の?絵師が突如出現(1794年)したのも、また伊能忠敬(1745-1818年)が初めて蝦夷地の測量(1800年)をしたのも、元号では「寛政年間」(元年~13年)、つまり、西暦でいえば1789年から1801年にまたがる期間の出来事だ。そして、実はその
随昔々の映画の中にこんなセリフがあったことを思い出した。 正義の人VS悪漢の対決が見せ場という、お約束通りに展開する西部劇の中で、正義の人が悪漢に向かってこんな言葉を吐いた。~世の中には二種類の人間がいる。 (建物に)ドアから入るヤツと(お前のように)窓
~勢力・権力のある者には逆らわないほうが身のためであるゾ~こうした助言・忠告うぃ意味した格言が~長い物には巻かれよ~なかなかに説得力のある言葉で、長い歴史の中には、この言葉を彷彿させる恰好の出来事を見つけることもできる。戦国乱世でその例を取り上げるなら、
幕末に活躍した人物については、その評価が分かれることも珍しくない。その行動を肯定的に捉えれば、間違いなく一種の「先駆者/功労者」の評価になるものの、一面ではちょっとばかり首を傾げたくもなる行動もある場合などがそうだ。たとえば、幕末尊王攘夷の志士として一般
平安京を開いたことでも有名な第50代・桓武天皇(737-806年)の同母弟に、一回りほど齢の違う早良親王(さわら/750-785年)という方がいた。共に父は、第49代・光仁天皇(709-782年)だ。天皇家は特別の存在だと思っている人でも、長幼の順の扱いは庶民階級とそんなに違わな
現在では「日本」と言っているこの国を、アマテラスの代々子孫が治めることの正当性は、神話の「天壌無窮の神勅」にあるとされている。その「天壌無窮」とは、日常生活ではあまり使わない言葉だが、平たく言えば「天地を永遠に」ほどの意味になり、これに続く「神勅」は「神
ペリー代将率いるアメリカ海軍による、いわゆる「黒船来航」(1853年)から、それ以降「明治維新」に至るまでの期間(約15年)を、一般的には「幕末」(江戸幕府の末期)と呼ぶ。一口に言えば、「江戸幕府」の在り方を巡り政治的にも社会的にも大きな混乱を生じた時期だ。~
~「来世」を(素晴らしいものと)信じる者は(現世での)死を恐れない~なぜなら、「来世」とは「現世」の苦労や悩みから解放された、文句のつけようもなく素晴らしい場所である、とされているからだ。実は同様な概念を指す別の言葉もある。「厭離穢土 欣求浄土」(おんりえ
平清盛(1118-1181年)を頂点として朝廷を凌ぐほどの栄華を誇った平家一門の隆盛ぶりを、同門にあった平時忠はこう評したそうだ。~一門にあらざらん者はみな人非人なるべし~(現代言葉に直した~平氏にあらずんば人にあらず~が有名)確かに一時期はこの言葉の通りに「飛ぶ
二度にわたる「大坂の陣」(冬1614年/夏1615年)を制したことによって、かつての主家・豊臣家を滅亡にまで追い込んだ徳川家康(1543-1616年)は、その後も諸大名をコントロールすべく対策を怠ることはなかった。目につく大名に対してはしっかりイチャモンをつけ、次にはその
~古池や 蛙飛び込む 水の音~~一戸建て まわりを見ると 一戸だけ~上の二つの詩は両方とも五・七・五の十七音から成っているが、ジャンルで分ければ別物の扱いになる。文芸オンチの定評がある姫隊員でもさすがに判断がつくと思うが、前の「古池や・・・」は「俳句」であり
武士政権が滅び、明治という新しい時代を迎えた日本には、西洋の文明が怒涛の如く押し寄せてきた。そうした事物を初めて見聞き体験する日本人の側にも、当初は戸惑いだけでなく、相当な抵抗感・違和感を覚えた様子も窺える。ただ、接触する機会が増えるに伴い、次第に慣れ親
~泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず~いわゆる「黒船来航」(1853年)で吃驚仰天した様を揶揄した狂歌だ。蛇足ながら、この「上喜撰」とは茶の銘柄であり、「蒸気船」(黒船のこと)にかけた言葉になっている。それはともかく、それこそ「見たこともない」ハ
戦国の時代に、遥かヨーロッパから九州の南に位置する種子島に初めて鉄砲という道具が伝わったのが、いわゆる「鉄砲伝来」(1542?1543年?)だ。ときの若き領主・種子島時堯(1528-1579年)は、その鉄砲が備えた威力を間近に見て、さっそく実物二丁を買い求め、そして、すぐ
これも「日本の常識は世界の非常識」のひとつに当てはまるのかもしれんが、日本の歴史にはなんとも不思議な現象がある。 それは、~どんなに大きな権力を獲得した実力者でも、天皇家以外に生まれた 者は決して「天皇」にはなれない~ ということだ。他の国なら、その実力
「寛政の三奇人」という言葉がある。ちなみに「寛政」とは元号で、たとえば東洲斎写楽(生没年不詳)なる謎の?絵師が突如出現(1794年)したのも、また伊能忠敬(1745-1818年)が蝦夷地を初めて測量(1800年)したのも、元号では「寛政年間」(元年~13年)、に当たり、西暦
白地の中央に太陽(日章)の赤丸をあしらった日章旗(日の丸)を、誰がいつ日本国の国旗と決めたのか? 突然にこんな素朴な疑問をぶつけられたとしたら、自信を持って答えられる人はたぶん少数派だと思う。「日の丸弁当」のことならともかくも、本家?の国旗「日の丸」なの
随分と昔の映画の中にこんなセリフがあったことをヒョッコリ思い出した。正義漢VS悪漢の対決という、お約束通りの「西部劇」の中で、正義漢が悪漢に向かってこんな言葉を吐いていたのだ。~世の中には二種類の人間がいる。 (建物に)ドアから入るヤツと(お前のように)窓
勢力・権力のある者には逆らわないほうが身のためであるゾ。こうした意味の助言・忠告の格言が、~長い物には巻かれよ~なかなかに説得力のある言葉であり、また長い歴史の流れの中には、この言葉に恰好の出来事を見つけることもできる。戦国乱世での一例を取り上げてみれば
幕末に活躍した人物の一部については、その評価が分かれることも少なくない。その行動を肯定的に捉えれば、間違いなく一種の「先駆者/功労者」という評価になるものの、一面ではちょっとばかり首を傾げたくもなる行動も併せて取っているということだ。たとえば、幕末尊王攘
日本史の中の幕府政治における「将軍大将軍」についてのイメージを問えば、現代でいう「総理大臣」もどきに地位というくらいの答えが返ってくるのが、まあ一般的だろう。要するに、国家の政権の最高の地位にあり、また最大の権力を握った者、というイメージだ。たとえば、江
世界征服を目指すがごときに領土拡張を続けた超大国・元が大海に浮かぶ孤島・日本に目をつけ、その征服を目指したのが、いわゆる「元寇」(蒙古襲来)だった。その実行は前後二度に渡り、一度目を「文永の役」(1274年)二度目を「弘安の役」(1281年)と呼んでいるが、ちっ
当初大陸の大西洋側(東海岸)のみを有するにとどまっていたアメリカ合衆国の国土は、イギリスの支配から独立を成し遂げた(1776年)後には、西へ西へと拡張する努力を続け、そして1848年にはカリフォルニアなどを獲得し、遂に太平洋側(西海岸)に達するまでになった。この
同じ言葉でありながら、時代によってはその意味するところが違っている場合も決して少なくない。たとえば「御家人」という言葉もその一つで、こんな説明になっている。~武家の棟梁(将軍)の家人(家臣・郎党・従者)の身分を指す 語であるが、中世と近世では意味合いが異
「応仁の乱」(1467-1477年)の大混乱もあって、室町幕府はほぼほぼ機能不全に陥ってしまったのだが、そうしたことに伴って、民衆による政治的要求活動、いわゆる「土一揆」が盛んになった。中でも本願寺(一向宗)の門徒・信徒たちが中心となった「加賀一向一揆」(1488頃-1
それまで縁のなかった日本にキリスト教を最初に紹介した人物は宣教師フランシスコ・デ・ザビエル(1506?-1552年)とされているが、これ以後も多くの宣教師が訪れ熱心な布教活動を展開した。ただしダ、その「布教活動」の中身が、現代日本人の感覚からしたら、ちょっとばかり
~自分は歴史にはとんと疎くて、実は室町時代と鎌倉時代のどちらが 先なのかも、よく分かっていない~詳しいことは忘れてしまったが、昔の小説に、こう語る自称・歴史オンチが登場していたような記憶がある。ままあり得ないことでもないのだろうが、この手に倣った「分から
天皇の諡号を表すのに、例えば「朱雀帝」とか「持統帝」とか、「○○帝(てい)」という呼び方をすることも少なくない。それに、「持統帝」のような女性天皇については「女帝(じょてい)」という言葉も併せて使われている。ところがダ、いったんは天皇に即位しながら諸事情