メインカテゴリーを選択しなおす
目次 晴明の位階・官歴 解説 天文博士 主計権助・主計助 備中介 大膳大夫 散位 晴明の位階・官歴 官職 官位 初出 典拠 天文得業生 天徳四年(960)9月23日 『中右記』嘉保元年(1094)11
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 51.徳川家康・三十九
1586年(天正十三年)11月29日、日本列島中央部を「天正大地震」が襲った。 被害は、甚大であり、中部、東海・北陸の広範囲に及んだ。 地震発生の際、豊臣秀…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 50.徳川家康・三十八
1586年(天正十三年)1月2日、徳川家において、主君の徳川家康に次ぐ、筆頭家老の重臣である、石川数正が、出奔し、羽柴秀吉に帰属する、事件が発生した。 石川…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 49.徳川家康・三十七
羽柴秀吉は、滝川雄利を使者として、浜松城に送り、徳川家康と講和しようと試みた。徳 川家康は、返礼として、次男の於義丸、即ち、結城秀康を秀吉の養子にするために…
【中学受験】社会(歴史)の勉強にオススメ!『イラストでサクッと理解 流れが見えてくる日本史図鑑』と歴史学習まんが
イラストや漫画でわかりやすく説明してくれる日本史の本はたくさんありますが、これほどに古代から現代までの重要事項をまとめてわかりやすくしてくれた本は初めてです!受験間近で学習漫画を読む時間はないけれども、わかりやすく説明してほしいと思っている方にオススメです。
今回紹介するのは、日光街道12番目の宿場・小山です。JR宇都宮線、水戸線、両毛線の乗り継ぎ駅で、東北新幹線の駅もあります。現在の行政区画は栃木県小山市の中心部になります。 小山が宿駅の指定されたのは1617年(元和3年)以降と考えられています。宿駅の管理は、当初は古河...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 48.徳川家康・三十六
四国では、6月11日、長宗我部元親が、十河存保の十河城を落し、讃岐国を平定した。 第二次十河城の戦いである。 徳川家康は、長宗我部元親に「淡路・摂津・播磨を…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 47.徳川家康・三十五
森長可の討ち死によって、池田・森軍の左翼が、崩れ始めると、徳川軍の優勢となった。 池田恒興は、自軍の立て直しを図ったが、永井直勝の槍を受けて、討死にした。…
記憶に定着する社会の暗記授業 織田信長がいちごパンツをはく⁉
5年生の中学受験コース。2学期の塾が始まりました。そして最初の授業は忘れられないほど記憶に定着する織田信長のお話がありました。信長が「いちごパンツをはいていた」件については、生徒さんたちが一番のお気に入りの、語呂合わせとなりました。楽しくて記憶に定着するなら、何でもありな語呂合わせは、生徒さんたちの心に残る授業です。
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 46.徳川家康・三十四
4月7日、徳川家康は、羽柴秀吉の姉の息子、即ち、甥である、羽柴秀次の軍が、上条城・大留城等、篠木周辺に、二泊宿営した頃に、近隣の農民、伊賀衆からの情報で、秀…
4月11日にバターン半島を攻略したが、半島尖端から4キロの距離に浮かぶコレヒドール島の攻略という難関が待ち受けていた。東西7キロほどのオタマジャクシのような形をした島なんやが、周囲6キロの島は断崖絶壁で、その上にコンクリートに鉄板を張り詰めた陣地を巡らし、オタマジャクシの頭には、十六インチ要塞砲や三十サンチ加農砲、高角砲などがズラリと砲口を並べている大要塞や。そんな「浮沈軍艦」と呼ばれたコレヒドール島攻略作戦に、我々の部隊にも出動命令が出た。島の攻略に歩兵が刈り出されるということは、最も危険な敵前上陸をせよというこっちゃ。小さな島の敵の懐に上陸したんでは逃げることも出来んがな・・・。こら、ほんまにアカン!三日後の5月4日は、半島の突端のジャングルの中で夜を過ごした。夜空に輝く南十字星を見ながら、いよいよ明...歴史35昭和――春やん戦記➆
第一次防衛線は突破したものの、第二次防衛線は20キロほど先の山の中腹にあった。それを攻撃するためにはジャングルの山道を登っていかんとあかんかった。しかも、昼間は敵の目につきやすいので、行動はすべて夜間あった。尻の上のバンドに白い手拭いをぶらさげて、それを目印にして、はぐれんように闇の中を行軍した。ほんでもって、適当な場所を見つけてジャングルの中で寝たんや。キキッ、ギャーギャーと、名前も知らん鳥の鳴き声で目が覚めた。眠たい目をこすりながら山の中腹を見てびっくりしたがな!山の上から白旗をかかげたアメリカ兵が、蟻の行列のように降りてくるやないかい。一人、二人・・・十人、二十人・・・百人、二百人・・・、千人、二千人・・・?!小便ちびるほどびっくりした!わしら日本兵を見つけると「グモーニン」やら言うて、ニコニコ笑い...歴史35昭和――春やん戦記⑥
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 45.徳川家康・三十参
羽柴秀吉は、織田信雄が、津川義冬・岡田重孝・浅井長時を処刑したことに激怒すると、織田信雄に対し、出兵を決断した。 徳川家康は、織田信雄と同盟を結ぶと、紀州の…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 44.徳川家康・三十弐
しかし、同時刻、船によって、琵琶湖を渡っていた丹羽長秀が、「一度坂本に戻るべし」との部下に反対されたが、進路を変更して、海津への上陸を敢行した事で、戦局は一…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 44.徳川家康・三十弐
しかし、同時刻、船によって、琵琶湖を渡っていた丹羽長秀が、「一度坂本に戻るべし」との部下に反対されたが、進路を変更して、海津への上陸を敢行した事で、戦局は一…
本多勝一って、朝日新聞の記者がいたじゃない。日本の良識のジャーナリストだったと思うんだけど、その人のスクープを、自虐史観とか言って否定されてもねえ?なーんて疑問もってる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『本多勝一の守護霊インタビュー―朝日の「良心」か、それとも「独善」か』(幸福実現党刊)のまえがきとあとがきで、こう説いておられます。まえがき今の若い人たちは、本多勝一というジャーナリストのことはもう忘れているかもしれない。しかし、かつては大朝日新聞をバックにして、日本の良心・良識のようにスター記者として輝いていた時もあった。ある意味では、日本の戦後の自虐史観と大企業の発展を憎む共産主義的呪いの“源泉”あるいは、“毒泉”ともいえる人物かもしれない。本文中にもあるが、スター記者としての本多勝一は知って...本多勝一って?
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 43.徳川家康・三十壱
前述の通り、織田信長が、本能寺の変によって、明智光秀に討たれると、羽柴秀吉が、山崎の戦いで、明智光秀に勝利し、主君の仇を討った。 織田信長の嫡男で、織田家の…
靖国神社へ首相が参拝する問題について、アメリカ政府って、どう考えてるのかなあ?なーんて疑問もってる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『守護霊インタビュー駐日アメリカ大使キャロライン・ケネディ日米の新たな架け橋』(幸福の科学出版)で、2014年当時のキャロライン・ケネディ駐日アメリカ大使の守護霊の言葉(「霊言」)を、インタビュー形式で次のように紹介しておられます。キャロライン守護霊安倍首相に?靖国神社へ参拝しないように?ああ、きわめて重要で難しい問題です。私の(首筋を手で何度も叩きながら)……が、かかっています。お分かりですか。石川ご存じのように、あの神社には戦犯として有罪になった人たちが祀られています。キャロライン守護霊はい、知っています。分かります。和田アメリカには、バージニア州にアーリントン...靖国神社問題へのアメリカの考えって?
こらアカン!2月に米軍の基地からバターン半島の地図が見つかったんやが、バターン半島は、戦争が始まる一年前から、三段構えの防御線を造り、6カ月の攻防に耐えられる物資を貯えた大要塞あったんや。そのうえ、半島の先にはコレヒドール島というもう一つの大要塞がある。こらアカン!思わず女房の小春の泣いとる顔が眼に浮かびよった。ところがや、わしらが上陸した次の日から、リンガエン湾に次々と兵隊が到着してきた。砲兵部隊も続々とやってきた。重爆撃機を中心とした航空隊も配属されて、日本軍は五万人ほどの大軍団になっていた。ああ、これで助かった!しかし、そう思たのもつかの間や。日本軍が侵攻した島々から撤退してきたアメリカ兵が、バターン半島に集結して二倍の8万人に膨れ上がっていた。そこにフィリピンの避難民2万人も加わって日本軍を上回る...歴史35昭和――春やん戦記⑤
昭和16年の7月5日に大阪城のそばにある歩兵第八連隊に入営をして、十日も経たんうちに、大阪港から上海に移動させられた。そのときの日本軍は、国際都市の上海どころか南京も占領してイケイケの時あった。当時は何の情報も知らされずに分からんままに行ったが、あとで調べたら、アメリカもイギリスも「黄色人種同士で戦っとけ」みたいな気持ちあったんやろなあ。おまけに、ドイツがソ連と交戦したために、その年の四月に日ソ中立条約が結ばれて、中国は虫の息あった。そやから、大工をしていたわしは、上海では銃を持ったことがなかった。駐屯地の兵舎やら、日本からぎゅうさん移住して来た日本人街の建築やらに刈り出されて、そら、忙しい毎日あった。せやけど、このまま日中戦争が終わってくれたらええのになあと思てた。ところが、7月28日に日本軍が、フラン...歴史35昭和――春やん戦記④
最初の現役を終えて、昭和14年の暮れ、大阪の聖天坂の家に帰ってきて、久々に小春との正月を迎えた。小春は道頓堀の劇場でお茶子(客接待)して、舞台にもちょこちょこ上がっとった。わしも、いつまでもぶらぶらしてられんので、入隊前に勤めていた岸里の工務店の社長はんに働かせとくなはれと頼みに行った。社長はんは、ご苦労さんあったと言うて、心良う引き受けてくれはったがな。大工に左官に電気の配線と忙しかったが、一ぺん軍隊にいったら多少のことは辛抱できるもんや。贅沢は出来んけども、まあまあ幸せな日々あった。しかし、それも一年半ほどや。わしが満州から帰ってきた昭和14年9月には、ドイツが突如ポーランドへ侵攻して、すでに第二次世界大戦が始まてた。おまけに、三年前のから始まった日中戦争がまだ続いてる。そこへきて、昭和15年9月に、...歴史35昭和――春やん戦記③
「15年前の今日ら(8月14日)あったら、酒飲んで、こんなごっつぉは食べられへんかったがな!」そう言いながら春やんが、ちびちびと飲んでいたコップの酒をゴクリと飲んで続けた。富田林は、大阪(市内)から疎開してくるぐらいやから、まだましなほうあった。ほやけど、酒どころか醤油は無い、砂糖も塩もなかった。それやのに、ラジオから流れる大本営発表は『勇猛果敢に敵戦力を撃砕せり』ばっかしや。当時は、こんなこと言われへんかったけど、みんな負けると思てた。せやのに、なんで戦争を続けるねん!もうええわ!もうどうなろうがかまへん。もうええから戦争を止めて、もはや玉砕あるのみ。あのときの「もうええわ」には、諦めのような、願いのような、覚悟のような複雑な思いが込められてた。そやさかいに、15日に終戦の詔書を聞いたときには、どない言...歴史35昭和――春やん戦記②
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 42.徳川家康・三十
しかし、依田信蕃の許に集結するのに反対する、勢力は、北条氏政の信濃佐久郡の岩尾城主の大井氏の許に集まった。 11月、依田信蕃は、信濃国の前山城を攻めて、前山…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 41.徳川家康・二十九
6月11日、北条氏政は、本能寺の変で、織田信長が、横死したことを知ると、6月12日、軍事動員を行った。 6月中旬、秩父往還を守備していた、浄居寺城の大村忠堯…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 40.徳川家康・二十八
織田信長の領地になった、甲斐国・信濃国・上野国の三カ国が、空白地帯であったのは、畿内において、織田家の内紛があっためである。 本来、織田信長が、死去しても、…
夏期講習の話です。 授業が始まって、先生が一言。 理系は日本史をとってはいけません!覚えることが多すぎる。でも、ここに来ている人はもう手遅れです。変更は無理で…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 39.徳川家康・二十七
服部半蔵の家臣の芝山小兵衛は、徳川家康に対し、「正成は、討ち死にした」と伝えたが、遺体を回収しようと戻ると、生きていたため、介抱しながら、共に帰ったと言われ…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 38.徳川家康・二十六
徳川家康は、甲州征伐後、駿府において、織田信長を接待した。 徳川家康は、織田信長の接待のために、莫大な私財を投じて街道を整備し、宿館を造営した。 織田信長は…
もう80年近く前だけど、沖縄戦って、ほんとに悲惨だったって話だよね。あの戦争って、やっぱし日本が悪かったのかなあ?なーんて疑問もってる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『沖縄戦の司令官・牛島満中将の霊言』(幸福の科学出版)のあとがきで、次のように説いておられます。人間の偉さとは、自分の生き様が、歴史に与える影響とその責任をどこまで感じうるか、ということでもあろう。私自身も自分の発言の一言一言や著書の一冊一冊が、現在及び将来の日本と世界にどれだけの影響を及ぼし、責任が生じるかを考え続けながら、使命を果たしているつもりだ。先の大戦の歴史認識の見直しも、宗教家として、鎮魂の願いもかねて、「粛々」とやり続けるつもりだ。他の誰にもできない仕事こそ、私の仕事である。今週末には、沖縄での講演会も予定している。...沖縄戦って?
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 37.徳川家康・二十五
阿部勝宝は、敵陣に切り込み戦死した。 武田勝頼の最後の戦いとなった、田野の四郎作・鳥居畑では、織田信長の大軍を僅かな手勢で、奮闘して、撃退した。 しかし、衆…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 36.徳川家康・二十四
仁科信盛等の首級は、織田信忠の陣に届けられ、主従の首級は、京で晒し首となった。 首を取られ残された、仁科信盛の遺体は、信盛を崇める、地元の領民により、埋葬さ…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 35.徳川家康・二十参
1582年(天正十年)2月3日、森長可及び、団忠正の織田軍先鋒隊が、岐阜城を出陣。 若い両将の目付けとして、河尻秀隆が本隊から派遣された。 2月6日、先鋒隊…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 34.徳川家康・二十弐
1574年(天正二年)の第一次高天神城の戦いは、徳川家康が、救援を送れなかったため、徳川家康の威信を低下させ、離反者が続出した。 そして、八年後の1581年…
アメリカって、やっぱり一番進んだ国なんだから、その歴史認識は正しいんでしょ。だから戦前の日本って、やっぱり悪い国だったんでしょ?なーんて思ってる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『日本よ、国家たれ!』――元台湾総統李登輝守護霊魂のメッセージ(幸福の科学出版)で、李登輝・元台湾総統の守護霊の言葉(「霊言」)を、次のように紹介しておられます。(アメリカは)日本に対する偏見の部分について、反省してないよね。だから、歴史認識では、韓国や中国と同じだよ。日本を、悪い国で、ヒトラー的な国にしないと、自分たちのやったことを正当化できないからね。(中略)ハワイの真珠湾奇襲攻撃だって、一週間前から知ってたからさあ。実際は知ってたのに、自分たちの身内を犠牲にして、三千人近くの人を死なせてまで戦争を始めたかったのは、...アメリカの歴史認識って?
目次 後一条天皇時代 長和五年(1016) 1月29日 陰陽寮が神鏡を移す日時と伊勢奉幣の日時を勘申する 2月6日 陰陽寮が翌日の行幸の吉時を勘申する 2月19日 陰陽寮が斎王のことを伊勢に報告する日
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 33.徳川家康・二十壱
1580年(天正八年)8月までには、徳川家康は、「高天神六砦」と呼ばれる、小笠山砦、能ヶ坂砦、火ヶ峰砦、獅子ヶ鼻砦、中村砦、三井山砦を完成させ、高天神城への…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 32.徳川家康・二十
高天神城の守将の小笠原信興は、徳川家康を見限り、武田勝頼氏に降ると、駿河国東部に一万貫の高待遇で、移封されている。 松下之綱は、解放されたが、その後、織田信…
「織田信長の凄味」偶然YouTubeに表示された。恥ずかしながら初めて知ったエピソード。織田信長の凄味が分かる。うーん、織田信長のイメージがかなり変わるかと。…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 31.徳川家康・十九
武田勝頼は、上杉景勝と同盟したため、北条氏政と対立することになった。 武田勝頼は、織田信長との和睦を模索し、人質の信長の五男、勝長を返還したが、信長は、黙殺…
天徳五年(961)~寛弘二年(1005)。 目次 年表 詳細なできごと 村上天皇:天慶九年(946)4月20日-康保四年(967)5月25日 康保年間(964~968) 源満仲の夢に龍女が現れる 冷泉
予備校の三者面談に行ってきました。 特に話すことはなかったのですが、娘のプリンちゃんが、どうしてもというので仕方なく。 必要な情報はメールやホームページから取…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 30.徳川家康・十八
以上が、『どうする家康』の展開であるが、明らかに、史実を逸脱しており、諸説として、完全に認められない。 通説では、築山殿は、徳川家康と不仲であり、悪女とされ…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 29.徳川家康・十七
織田信長が、長篠の戦いにおいて、武田勝頼に勝利を治めた頃から、信長と徳川家康は、対等な同盟関係ではなくなってゆく。 徳川家康は、「一門に準ずる、織田政権下の…
芸術の世界って、宗教と関係あるのかなあ?なーんて疑問もってる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『竜宮界の秘密』――豊玉姫が語る古代神話の真実(幸福の科学出版)のあとがきで、次のように説いておられます。日本神道の源流に迫る一書である。私は、宗教も「真」「善」「美」の中の「美」についても追求すべきだと思う。「芸術の世界」と言いかえてもよいかもしれない。現代人は、心の透明度とか魂の美しさについて、もっともっと考えてもよいのではないか。それが、人間の本質が霊であり、魂こそが人間の本体であるという悟りに近づく道の一つであると思う。本書によって、来世の美しさの一部でも開示できたとするなら、著者としては望外の喜びである。(180~181ページ)宗教も「真」「善」「美」の中の「美」、つまり「芸術の世界」について...芸術の世界と宗教って?
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 28.徳川家康・十六
鳶ヶ巣山攻防戦によって、武田軍は、武田勝頼の叔父の河窪信実を筆頭に、三枝昌貞、五味高重、和田業繁、名和宗安、飯尾助友等の家臣が討死している。 武田の敗残兵達…
◆第061位 『ノルマン騎士の地中海興亡史』評価:085点/著者:山辺規子/巻数:全1巻/ジャンル:西洋史/2009年 ◆第062位 『韓国の教科書に出てくる…
こんばんは最近、鎌倉殿ズのイラストを描いてるんですけど、狩衣の参考資料が欲しくて、NHKオンデマンドで配信されている『鎌倉殿の13人』を観ようとしたんですよ。…
戦争は絶対にいけない、平和だけが善だっていう考え方があるけど、たとえば、仏教系の多くの宗派が奉じてる日蓮聖人は、このあたりを、いま、どう考えてるのかなあ?なーんて疑問もってる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『日蓮聖人「戦争と平和」を語る』――集団的自衛権と日本の未来(幸福の科学出版)で、天上界の日蓮聖人の言葉(「霊言」)を、次のように紹介しておられます。だから、「戦争というのは、とにかく善なる戦争も悪なる戦争もなくて、完全に、戦争そのものが悪なんだ。平和そのものが善なんだ」という感じ方、考え方は、非常に単純な正義論ではありますし、政治学者、国際政治学者等のなかにも、そういうふうに言う方はいらっしゃいますが、本当に歴史をよく勉強した人であったら、その考えが間違いであることは分かるはずなんですね。...日蓮の考えって?
目次 陰陽師が登場する説話宇治拾遺物語内記上人、法師陰陽師の紙冠を破ること今昔物語集慈岳川人、地神に追わるること東三条の銅の精、人の形となりて掘り出ださるること近江国安義橋なる鬼、人を喰らうこと播磨国