鶏足山 養運寺(→東京都町田市本町田)は、鎌倉時代中期の文永年間(→1264年~1275年、8代執権北条時宗が最高権力者の治世)に天台宗寺院として創建された、現在は浄土宗寺院です。小田原北条氏の統治下にあった戦国時代の1567(永禄10)年2月に僧の誓誉によって浄土宗に改宗されました。江戸時代には幕府より寺領三石を拝領し、本山・末寺の制により宝樹山 極楽寺(→東京都八王子市大横町7丁目)の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。...
羅針盤ゼミナールの徒然ブログです。当塾の公式マスコットが歴史学の立場から解説を加え、訪問した神社・寺院・史跡などを紹介してまいります。塾の公式ブログですが塾の宣伝は少なめです。
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龍宿山 金剛院 西明寺(→神奈川県川崎市中原区小杉御殿町1丁目)は創建の詳細は不詳で様々な俗説が伝わりますが、川崎市教育委員会の調査によると室町時代中期の嘉吉(→1441年~1444年)・文安(→1444年~1449年)年間に川崎市宮前区有馬から現在地に移築されたという真言宗智山派寺院です。寺伝では西福寺は鎌倉幕府5代執権北条時頼の創建といいますが、真偽の程は定かではありません。ただし、有馬郷は鎌倉時代には鎌倉北条氏の荘園が...
宝林山 運昌院 泉澤寺(→神奈川県川崎市中原区上小田中7丁目)は、戦国時代前期の1491(延徳3)年に世田谷城主吉良頼高(きらよりたか)が世田谷領烏山(→東京都世田谷区千歳台、旧廻沢町)に開基した自身の菩提寺が前身の浄土宗寺院です。開山は僧の好善と記されます。世田谷吉良氏は武蔵守護扇谷上杉氏(おうぎがやつうえすぎし)の有力国衆でしたが、1546(天文15)年の河越合戦で扇谷上杉氏が北条氏康に滅ぼされると北条氏に従属し、北条氏...
恵日山 成就院(→神奈川県川崎市中原区小杉陣屋町1丁目)は創建の詳細は不明ですが、江戸時代前期に僧の尊秀が創建した真言宗智山派寺院です。尊秀は江戸時代前期の1662(寛文2)年に死去しているので創建はそれ以前であることが分かります。創建時の本尊は大日如来でしたが、現在は阿弥陀如来となっています。江戸時代には本山・末寺の制により龍宿山 金剛院 西明寺(→神奈川県川崎市中原区小杉御殿町1丁目)の末寺として幕藩体制の一翼...
覚王山 高願寺(→神奈川県川崎市中原区宮内4丁目)は、南北朝時代中期に南朝方の新田・北条軍と北朝方の足利軍との間で鎌倉争奪戦(→武蔵野合戦)がおこり、市内各所でも戦闘が行われました。これらの戦いで死亡した人々を弔うために真言宗寺院の草庵(→後の高元寺)が建てられました。1352(正平7)年に南朝方の新田義興(→新田義貞の次男)・北条時行(→北条高時の次男)らが南朝の征夷大将軍宗良親王(→後醍醐天皇の子)を奉じて鎌倉奪還を目...
上小田中神明神社(→神奈川県川崎市中原区上小田中6丁目)は、神奈川県教育委員会の調査により江戸時代前期の元禄年間(1688年~1704年)から宝永年間(1704年~1711年)に創建されたと推察されます。現在の社殿は明治時代前期の1877(明治10)年に造営、1904(明治37)年に銅板葺屋根へ改修されたもので、神奈川県の有形文化財に登録されています。石造鳥居は太平洋戦争開戦の前年にあたる1940(昭和15)年に建てられました。1877(明治10)年は...
瑠璃光山 薬王院 長福寺(→神奈川県川崎市中原区上小田中6丁目)は大日如来を本尊とする真言宗智山派寺院です。創建の詳細は不詳ですが、過去帳(→故人の俗名・戒名・死亡年月日などを記した帳簿)に戦国時代中期の1554(天文23)年7月18日に死去した良僅という僧侶の名が記されているため、戦国時代には長福寺、もしくは前身となる寺院が建立されていたことが分かります。1554(天文23)年頃のこの辺りは小田原北条氏(→当主は3代北条氏康)...
長津田宿常夜灯(上宿)は、大石神社(→神奈川県横浜市緑区長津田町)の参道にある、江戸時代後期の1843(天保13)年に秋葉山講中が建立した常夜灯で、高さは240cmあります。長津田宿は江戸時代に江戸城赤坂門から9里(→約36km)ほどの地点にあった宿場町で、大山阿夫利神社へと続く矢倉沢往還(→大山街道とも)沿いにありました。江戸時代後期にはお陰参り(→伊勢神宮への集団参拝)や大山詣(おおやまもうで→大山阿夫利神社への集団参拝)で街...
大石神社(→神奈川県横浜市緑区長津田町)は創建年代の詳細は不明ですが、人体ほどの石を神体として在原業平(ありわらのなりひら)を祭神として武蔵国と相模国の境界にありました。その後、村民どうしの境界争いの末、現在地に移されたと記されています。神仏習合の頃は「大石権現社」と称していました。在原業平は皇族から臣籍降下した平安時代前期の貴族で、『伊勢物語』の主人公ともいわれています。また、業平は平安時代前期の905...
牛頭天王社(ごずてんのうしゃ→神奈川県横浜市緑区長津田町)は、長津田村が小田原北条氏の領国であった頃、この地の領主であった引田氏が祇園社(現在の八坂神社→京都府京都市東山区祇園町北側)を勧請して牛頭天王(ごずてんのう)を祀ったのが始まりです。創建時の牛頭天王社は現在の王子神社(→神奈川県横浜市緑区長津田7丁目)寄りにあったようですが、江戸時代中期の1796(寛政8)年に現在地に移されたようです。『小田原衆所領役帳』(...
薬王山 医王院 福泉寺(→神奈川県横浜市緑区長津田町)は、寺伝によると室町時代中期の1492(明応元)年3月15日に僧の尊祐が開基した小さな寺院が前身となります。尊祐は熊野山 観音院 玉泉寺(→東京都狛江市東和泉3丁目)を開基したことで以前ご紹介した僧侶です。この小さな寺院は戦国時代に荒廃したようですが、安土桃山時代後期に小田原北条氏の旧臣で北条氏滅亡後に1500石で徳川氏の旗本に取り立てられ長津田村の領主となった岡野房...
王子神社(→神奈川県横浜市緑区長津田7丁目)は、江戸時代にこの地を治めていた旗本岡本房恒が勧請したと伝わり、神仏習合の頃は「王子権現社」と称していました。岡野房恒は昨日ご紹介した慈雲山 大林寺(→神奈川県横浜市緑区長津田6丁目)を開基した人物でもあります。祭神の速玉男命(はやたまのをのみこと)は熊野権現とも呼ばれているので、熊野信仰の影響が窺えます。江戸時代には同じく岡野房房が開基した高野山真言宗寺院の薬王...
慈雲山 大林寺(→神奈川県横浜市緑区長津田6丁目)は、安土桃山時代末期に東福山 清源院(→神奈川県厚木市三田)の5代住職麟哲が開山、徳川家臣の岡野房恒(ふさつね)が開基した曹洞宗寺院です。詳しい創建年月日は不明ですが、麟哲は1608(慶長13)年に死去しており、寛政年間(江戸時代中期→1789年~1801年)に開山二百年と鐘楼に彫られたと記されているため、創建は1591(天正19)年~1601(慶長6)年であることが分かります。大林寺を開基し...
弘法松公園(→神奈川県川崎市麻生区百合丘2丁目)は、平安時代前期にこの地を訪れた弘法大師(→真言宗の開祖空海)が、100の谷があれば真言宗寺院を建立しようとしたが、99に止(とど)まったため建断念し、代わりに丘陵の尾根に松を植樹したという伝承をもつ「弘法松」があった場所です。弘法大師(空海)が東国教化と称して門弟5名を伴い関東地方で布教を行ったのは平安時代前期の820(弘仁11)年と記録にあります。なので、弘法大師が松を...
川崎市内には源義経(→源頼朝の異母弟)にまつわる史跡が数多く残されていますが、「弁慶の鍋ころがし」(→神奈川県川崎市麻生区百合丘3丁目)として知られる高台もその1つで、現在は「王禅寺見晴し公園」として整備されています。平安時代末期の1180(治承4)年10月21日に源義経は黄瀬川宿(→静岡県駿東郡清水町八幡)で源頼朝と「涙の対面」を果たし、呉座勇一氏はその際に義経は当時男子のいなかった頼朝の養子となったと指摘しています...
2022(令和4)年12月18日 13:00入場池袋・サンシャインシティで行われているガルパン10周年記念の「10th ANNIVERSARY ガールズ&パンツァー博覧会 ~これまでと、これから~」を見てきました。「大洗女子学園」校内をモチーフにした展示空間、主人公・西住みほをはじめとする大洗女子学園の各戦車道チームのコーナーはどれもこれも期待通りでした。あんこうチームとカメさんチームの格好良さは別格として、個人的には日本人ですので...
草香山 小沢院 威光寺(→東京都稲城市矢野口)は1643(寛永20)年以前に創建された真言宗豊山派寺院で、1675(延宝3)年に穴澤天神社(→東京都稲城市矢野口)の別当寺となり祭祀を司りました。創建時の本堂は江戸時代中期の火災で焼失し、明治時代初期の1870(明治3)年に改築されました。威光寺は江戸時代の本山・末寺の制により真言宗豊山派寺院の岩船山 大智院 高勝寺(→東京都稲城市坂浜)の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。威光寺...
雲騰山 妙覚寺(→東京都稲城市矢野口)は、室町時代に僧の陽雲が創建した臨済宗建長寺派寺院です。寺伝によると室町時代後期に12代将軍足利義晴が開基したとありますが、足利義晴は前将軍足利義稙(よしたね)とその後見人である周防守護大内義興(よしおき)に京都を追われ征夷大将軍を解任され、近江守護の六角高頼を頼って落ち延び、同地で死去した波乱の人生を送った人物です。そのような人物が武蔵国の妙覚寺を開基するはずがなく、...
穴澤天神社(→東京都稲城市矢野口)は、東京神社庁によると紀元前423(孝安天皇4)年の創建としていますが、これは大和地方に大王(→現在の天皇)が王権を確立していない弥生時代中期(→紀元前5世紀)にあたり、もちろん孝安天皇は実在の人物ではないため縁起の信憑性は薄く、創建年代不詳というのが実態です。しかし、穴澤天神社は平安時代前期の927(延長5)年に編纂された『延喜式神名帳』に記載されている多磨郡8座のうちの1社と比定され...
小沢城(→神奈川県川崎市多摩区菅仙谷1丁目)は、鎌倉時代初期の御家人稲毛三郎重成(→小山田有重の子、北条時政の娘婿、畠山重忠の従兄弟)が築城し、嫡男の小沢小太郎重政がこの地の支配のために居城していました。鎌倉時代の武士は、所領(→本貫地)となる荘園を名字にしたため、親子兄弟で名字が異なることは珍しいことではありません。稲毛重成の弟は榛谷重朝(はんがやしげとも)・森行重・田奈有朝・小山田重親と全員異なる名字を名...
菅薬師堂(すげやくしどう→神奈川県川崎市多摩区菅北浦4丁目)は、鎌倉時代初期の1187(文治3)年にこの地を治めていた御家人稲毛三郎重成(→小山田有重の子、北条時政の娘婿、畠山重忠の従兄弟)が創建したと伝わる薬師堂です。本尊の薬師如来像は天台宗寺院の大谷山 吉祥院 法泉寺(→神奈川県川崎市多摩区菅北浦5丁目)の鎮守仏で、神仏習合の頃は菅子之神社(すげねのじんじゃ→神奈川県川崎市多摩区菅北浦5丁目)に祀られた根上明神(→根之...
仙谷山 寿福寺(→神奈川県川崎市多摩区菅仙谷1丁目)は、飛鳥時代前期の598(推古天皇6)年に開基された古寺で、平安時代に天台宗寺院となり、1060(康平3)年には前九年合戦に東国兵を率いて赴く際に源義家(→源頼朝の祖先)がこの地に宿し、寿福寺観音堂に参籠して開運を祈願したといいます。また、鎌倉時代初期の1185(文治元)年に源義経(→源頼朝の異母弟)・武蔵坊弁慶主従が大般若経を奉納し、寺宝として残されているようです。たび重な...
神鳥前川神社(しとどまえかわじんじゃ→神奈川県横浜市青葉区しらとり台)は由緒によると、鎌倉時代初期の1187(文治3)年5月に武蔵国稲毛荘の御家人稲毛三郎重成(しげなり→北条時政の娘婿、小山田有重の子、畠山重忠の従兄弟)が「霊夢」を受け、日本武尊(やまとたけるのみこと)と弟橘媛(おとたちばなひめ)を祭神として祀った古社だと伝わります。当初は「白鳥前川社」と称したようですが、いつの頃か白鳥が転じて「神鳥」と書くように...
興栄山 信乗院 万福寺(→神奈川県横浜市青葉区田奈町)は、『新編武蔵風土記稿』には創建年代は不詳とありますが、寺伝によると南北朝時代中期の1369(応安2)年9月に僧の快秀が創建したと伝わる高野山真言宗寺院です。本尊は薬師如来像で、江戸時代には本山・末寺の制により摩尼山 延寿院 徳恩寺(→神奈川県横浜市青葉区恩田町)の末寺に置かれ幕藩体制の一翼を担いました。万福寺は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武...
摩尼山 延寿院 徳恩寺(→神奈川県横浜市青葉区恩田町)は、平安時代前期の10世紀(→901年~1000年)に延命院という草庵が前身ですが、戦乱や自然災害、恩田郷を治めていた恩田氏(→金沢北条氏の被官)の没落により、延命院は鎌倉時代末期には廃寺寸前となっていました。鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇が行った建武の新政は一部の例外を除き公家にも武家にも評判が悪く1335(建武2)年には各地で北条氏与党による叛乱(→中先代の乱など)が相次ぎ...
子之辺神社(このべじんじゃ→神奈川県横浜市青葉区恩田町)は、江戸時代後期の1846(弘化3)年に別当寺として祭祀を司った高野山真言宗寺院の摩尼山 延寿院 徳恩寺(→神奈川県横浜市青葉区恩田町)の住職空弁が再建したと伝わります。創建年代や祭神は不詳ですが、1955(昭和30)年代に著された『都筑の丘に拾ふ』には「子野辺」と「此野辺」の社号が使われているとあるので、「ねのべ」ではなく「このべ」と読むことが分かります。「野」...
内方姫供養塔(→神奈川県横浜市青葉区あかね台1丁目)は、恩田川の氾濫で村が水没しかけた時に、自ら川に身を投じて水害から村を守ったとされる鎌倉幕府の御家人恩田氏の娘・内方姫(うちかたひめ)の供養塔と稲荷神社です。4月11日が命日とされ、現在も地元の旧家14軒が「姫宮様講中」(ひめみやさまこうちゅう)を作り、交代で供養祭を行っているそうです。供養塔はかつては山の上にあったようですが、土地区画整理事業の一環で現在地...
上恩田杉山神社(→神奈川県横浜市青葉区あかね台1丁目)は、江戸時代に創建された神社で、江戸時代後期の1852(嘉永5)年3月の社屋造営の棟札が現存しているといいます。アメリカ東インド艦隊司令長官のマシュー=カルブレイス=ペリーが「黒船」を率いてい浦賀(→神奈川県横須賀市)に最初に来航するのは、翌年の1853(嘉永6)年6月3日のことです。上恩田杉山神社は、江戸時代には高野山真言宗の摩尼山 延寿院 徳恩寺(→神奈川県横浜市青葉...
大龍山 福昌寺(→神奈川県横浜市青葉区恩田町)は、僧の国抽太山が開山したと伝わる曹洞宗寺院です。国抽太山は江戸時代前期の1651(慶安4)年4月15日に死去しているので創建はそれ以前のことと分かります。3代将軍徳川家光が死去するのは国抽太山が死去した5日後の4月20日のことです。 福昌寺は、江戸時代には本山・末寺の制により幕府より15石の寺領を拝領した慈雲山 大林寺(→神奈川県横浜市緑区長津田6丁目)の末寺として幕藩体制の...
九郎明神社(→神奈川県川崎市麻生区古沢)は、鎌倉時代中期の建長年間(→1249年~1256年)に九郎判官(くろうほうがん)こと源義経(→源頼朝の異母弟)を祭神として祀った社を起源とする、旧古沢村の村社です。ただし、義経は「謀叛人」のため、社伝では「祭神不詳」という扱いになっています。戦国時代には記録から消えますが、江戸時代中期の1711(正徳元)年に「久能社」として再建されたようで、福正寺(→旧古沢村にあった寺)が別当寺とし...
青渭神社(あおいじんじゃ→東京都調布市深大寺元町5丁目)は、平安時代中期の927(延長5)年に編纂された『延喜式神名帳』(えんぎしき じんみょうちょう)に記された武蔵国多磨郡八座の1つで、創建は900(昌泰3)年以前と言われています。境内掲示によると、この地を開拓した民衆や渡来人が生活に欠かせない水を尊び、祠を建て水神を祀ったのが興りで、祭神は水神の水波能売大神(みずはのめおおかみ)と青渭押比売命(あおいおしひめのみこ...
深大寺は「深大寺そば」がご当地グルメとして有名で、参道や門前には「深大寺そば」を提供する飲食店がずらりと軒を連ねています。江戸時代には深大寺城周辺の農家約300軒のうちほとんどが裏作でそばの実を栽培していたと記されています。深大寺そばの歴史については諸説ありますが、江戸時代に浮岳山 昌楽院 深大寺(→東京都調布市深大寺元町5丁目)の庫裏の畑で栽培され、参拝者に蕎麦を供したのが始まりと伝わります。深大寺そば...
浮岳山 昌楽院 深大寺(→東京都調布市深大寺元町5丁目)は、奈良時代中期の733(天平5)年に虎柏山 日光院 祇園寺(→東京都調布市須佐町2丁目)を開基した満功(まんく)上人が創建した天台宗寺院です。750(天平勝宝2)年に水神の深沙大王像を安置して淳仁天皇の勅額で「浮岳山 深大寺」と名付けられました。全国的にみても創建時の記録がしっかりと残されている数少ない寺院の1つといえます。創建時は法相宗(ほっそうしゅう→南都六宗の1つ...
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鶏足山 養運寺(→東京都町田市本町田)は、鎌倉時代中期の文永年間(→1264年~1275年、8代執権北条時宗が最高権力者の治世)に天台宗寺院として創建された、現在は浄土宗寺院です。小田原北条氏の統治下にあった戦国時代の1567(永禄10)年2月に僧の誓誉によって浄土宗に改宗されました。江戸時代には幕府より寺領三石を拝領し、本山・末寺の制により宝樹山 極楽寺(→東京都八王子市大横町7丁目)の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。...
金井八幡神社(→東京都町田市金井町)は、創建年代等の詳細は不明ですが、江戸時代には広福寺(→現在は廃寺)が別当寺として祭祀を司りました。江戸時代中期の1726(享保11)年10月に仏師佐野木丞が御神像(→神仏習合の頃の神体、約15cm)を作り奉納、1751(寛延4)年7月に石段を建立、1828(文政11)年に仏師田村幸左衛門が神体の神像に彩色を施したと伝わります。また、この年に社殿が再建されたようです。現在の社殿は太平洋戦争が始まる194...
能ヶ谷神社(→東京都町田市能ヶ谷6丁目)は、江戸時代前期の正保年間(→1644年~1647年)に東照宮として創建された村民持(もち)の神社を母体とし、江戸時代後期には十六所神社といいました。幕末期の1854(安政元)年4月に再建され、1877(明治10)年6月に村社に列せられたと記されます。1914(大正3)年11月に近隣の表谷神社・天照大神・神明社・住吉神社を合祀して社号を能ヶ谷神社に改めました。現在の社殿は戦前の1931(昭和6)年4月に造営...
長滝山 多聞院 妙延寺(→東京都町田市森野2丁目)は、室町時代前期にこの地の領主であった渋谷重宗(しぶやしげむね)が長栄山 大国院 池上本門寺(→東京都大田区池上1丁目)の4代住職日山の弟子である日顕を開山に招いて創建した日蓮宗寺院です。日顕は1429(正長2)年7月23日に死去したので創建はそれ以前であることが分かります。江戸時代には本山・末寺の制により前述の池上本門寺の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。また、江戸...
森野住吉神社(→東京都町田市森野5丁目)は、江戸時代前期の1640(寛永17)年9月にこの地の領主であった幕府旗本須藤家の3代須藤太郎左衛門盛忠(すどうたろうざえもんもりただ)が、祖先の菩提と武運長久のため名主の渋谷由右衛門尉重忠(しぶやゆえもんのじょうしげただ→旧北条家臣、帰農)および氏子により摂津国住吉郡の住吉大社を勧請して創建したと社宝の棟札に記されます。1710(宝永7)年12月に5代須藤権之助盛連(すどうごんのすけも...
西田杉山神社(→東京都町田市金森6丁目)は、江戸時代前期の1683(天和3)年12月に幕臣高木伊勢守の館の鬼門の守護神として創建したと伝わる神社で、社殿・参道ともに高木伊勢守の館(→神奈川県大和市下鶴間)の方角を向いてます。1793(寛政5)年12月と1936(昭和11)年に社殿が再建されました。境内には5mほどの神木の大公孫樹があります。〖祭神〗・日本武尊(やまとたけるのみこと)西田杉山神社は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂...
金神神社(こんじんじんじゃ→神奈川県川崎市麻生区白鳥4丁目)は、創建年代等の詳細は不明ですが、1873(明治6)年に富士講(→富士山信仰)を束ねて設立された富士一山講社を起源とする扶桑教の神社です。扶桑教はかつての教派神道13派(→明治時代以降、政府によって公認された神道系の宗教団体)の一つとして知られます。境内社には笑顔が印象的な江戸期の一木彫り日本一の大黒天が祀られています。〖祭神〗・天祖参神・金山比古命(かな...
日吉神社(→神奈川県横浜市港北区日吉3丁目)は、創建年代の詳細は不明ですが、往古から武蔵国橘樹(たちばな)郡矢上村の総鎮守として同村北方の俗称「お伊勢原」と呼ぶ丘上にあり神明社と称しました。江戸時代には曹洞宗寺院の谷上山 保福寺(→神奈川県横浜市港北区日吉4丁目)が別当寺を務めましたが、祭祀は平村の神職小泉信濃が来て行ったと記されます。旧社殿は田沼意次(たぬまおきつぐ)が老中首座にあった1785(天明5)年の修造と伝...
普賢山 妙海寺(→神奈川県川崎市中原区木月4丁目)は、戦国時代の1534(天文3)年に木月村の村民鳥海讃岐が開基、僧の仏性院日正が開山したと伝わる日蓮宗寺院です。鎌倉時代初期の1187(文治3)年に源義宗という人物が創建した薬師寺という草庵を鳥海讃岐が一寺としたと伝わります。境内には南北朝時代の「貞和六年」(北朝年号→1350年)と彫られた板碑があるようです。江戸時代には後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の中宮となった徳川和子...
横浜赤レンガ倉庫(→神奈川県横浜市中区新港1丁目)は、現在は公園を備えた赤レンガパークとして1年中何かしらのイベントが行われているみなとみらい地区の代表的な文化・商業・観光施設ですが、もともとは、開国以来、国内最大の貿易港となり取り扱い貨物の急増に対応するため、1899(明治32)年に東洋初の接岸式埠頭として新港埠頭の建設が始まり、その一環として作られた保税倉庫(→外国から運び込まれた輸入手続きが済んでいない物...
横浜市開港記念会館(→神奈川県横浜市中区本町1丁目)は、横浜市開港50周年を記念して市民の寄付金によって第一次世界大戦中の1917(大正6)年6月30日に竣工した「ジャックの塔」の愛称で知られる国の重要文化財です。赤レンガに花崗岩(かこうがん)をとり混ぜた辰野式フリークラシック様式(→東京駅丸の内駅舎など赤レンガに白い石材を配した華やかな西洋建築)で、通りに面した3つの隅部に時計塔・角塔・八角塔を配し、ドームを架けた建...
横浜税関本関(→神奈川県横浜市中区海岸通1丁目)は、先代が1923(大正12)年9月1日の関東大震災で倒壊焼失したため、復興事業の一環で1934(昭和9)年に再建されました。竣工当時は横浜市で最も高い建造物で、イスラム寺院(→モスク)風の塔や連続アーチなど優美でエキゾチックな雰囲気から「クイーンの塔」の愛称で親しまれている横浜市認定歴史建造物です。横浜税関資料展示室「クイーンのひろば」では横浜港と横浜税関の歴史、貿易の最...
神奈川県庁舎(→神奈川県横浜市中区日本大通1丁目)は、横浜港近くの日本大通りに面して建ち、「キングの塔」の愛称で親しまれている国指定重要文化財です。先代が1923(大正12)年9月1日の関東大震災で大被害を受けたため鉄骨鉄筋コンクリート構造が採用され、1928(昭和3)年10月31日に竣工しました。昭和初期に大流行したライト様式(→旧帝国ホテルなどを設計した近代建築の巨匠フランク・ロイド・ライトの手による建築様式で、茶色の...
鵜野森日枝神社(→神奈川県相模原市南区鵜野森2丁目)は、創建年代の詳細は不明ですが、中世の頃より鵜野森郷の鎮守四社(→山王社・神明社・鹿島社・八幡社)として祀られており、江戸時代中期の1725(享保10)年に社殿を再建した棟札があるようです。明治維新後の1871(明治4)年に山王社を日枝大神と改称し、さらに1873(明治6)年に日枝神社と改称して村社となりました。国の一村一社政策を受けて1922(大正11)年には神明社・鹿島社・八幡...
方運山 青柳寺(→神奈川県相模原市南区上鶴間本町3丁目)は、室町時代中期の1499(明応8)年に日朝が創建した清龍寺という小庵を前身とする日蓮宗寺院です。1583(天正11)年に、室町幕府15代将軍足利義昭(あしかがよしあき)のもとを離れ小田原北条氏の家臣となった渋谷越後守義重が、日蓮宗僧侶日題が開山に迎えて青柳寺を開基したと記されます。江戸時代には本山・末寺の制により鎌倉の妙巌山 本覚寺(→神奈川県鎌倉市小町1丁目)の末寺...
上鶴間鹿島神社(→神奈川県相模原市南区上鶴間本町3丁目)は、鎌倉時代初期の建久年間(→1190年~1199年)に鎌倉幕府の初代将軍源頼朝が鶴舞の里(→鶴間)に鶴舞神社(→現在の上鶴間浅間神社)を創建した頃に境川付近の下森に創建した神社が前身と伝わる神社です。江戸時代後期の1801(享和元)年8月に現在地に遷座したという文書(→「鎮守鹿島明神社遷座願」)が残されています。遷座後は隣接する方運山 青柳寺が鹿島社と境内社の天神社(→現在...
町田天満宮(→東京都町田市原町田1丁目)は、戦国時代の天正年間(→1573年~1593年)のうち小田原北条氏の統治下(→1590年まで)に創建され、江戸時代前期の1615(元和元)年にこの地の領主となった幕府の旗本三橋氏・武藤氏によって社殿が造営されたと伝わる神社です。江戸時代には寺領7石3斗の曹洞宗寺院、金森山 宗保院(→東京都町田市原町田1丁目)が別当寺として祭祀を司りました。明治維新後は菅原神社と称したようです。1872(明治5)年...
金森杉山神社(→東京都町田市金森7丁目)は、創建年代等の詳細は不明ですが、江戸時代前期の1683(天和3)年12月に幕府の旗本高木伊勢守夫妻(→妻は於亀)及びその一族が下屋敷内に社殿を再建したと社宝の棟札に記されています。再建には家臣や名主(→村長)の大貫助兵衛・囲曽甚五右衛門が費用の大半を工面したようです。江戸時代を通して金森村の村民が西田杉山神社(→東京都町田市金森6丁目)と隔年で神体を奉遷して祭礼を行ったようです...
母智丘神社(もちおじんじゃ→東京都町田市原町田5丁目)は、『東京都神社名鑑』によると第一次世界大戦末期の1919(大正8)年に黒木昇・黒木ハナの両氏が宮崎県の石峰山山頂に鎮座する母智丘神社(→石岑稲荷明神とも、宮崎県都城市横市町)を自宅に勧請したが、「家屋鳴動し畏懼(いく→恐れおののくこと)の念に耐えず」社殿を創建したと記される神社です。家屋鳴動云々の真偽の程は定かではありませんが、個人によって建てられた神社とし...
高ヶ坂熊野神社(→東京都町田市高ヶ坂2丁目)は、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災によって由緒等が散逸したため創建年代等の詳細は不明ですが、和歌山県の熊野三山神社の那智大社に地形がよく似ていて水源に奉斎し、裏山に滝があったようです。1843(天保14)年の古文書に御供米として毎年地頭より6斗の奉納があり、また除地分として600坪があったとあります。江戸時代の頃は図師村の図師山 大蔵院 釜田寺(→関東大震災で倒壊...
当麻山 無量光寺(→神奈川県相模原市南区当麻)は、鎌倉時代の1261(弘長元)年に「踊り念仏」を広めたことで知られる一遍(いっぺん)が開いた草庵を起源とする時宗(じしゅう)寺院です。一遍から遊行を引き継いだ真教(しんきょう)が老衰のためこの地に戻り、1304(嘉元2)年ここに堂宇を建立し、阿弥陀仏の別名である無量光仏から「無量光寺」と名付け、一遍の分骨を埋骨して念仏の根本道場としました。真教は1319(文保3)年1月に死去する...
根小屋諏訪神社(ねこやすわじんじゃ→神奈川県相模原市緑区根小屋)は、鎌倉時代初期の1192(建久3)年に筑井城(つくいじょう)を築城した筑井太郎次郎義胤(つくいたとうじろうよしたね)が勧請したと伝わります。神仏習合の頃は井木山寿性院(→現在は廃寺)が別当寺を務めました。『津久井郡文化財神社編』によると、戦国時代には小田原北条氏の有力国衆であった津久井城主内藤景定(ないとうかげさだ)によって1527(大永7)年に50間4面の社...
飯縄神社(いいづなじんじゃ→神奈川県相模原市緑区根古屋)は、小田原北条氏の有力国衆であった津久井内藤氏の居城津久井城の飯縄曲輪(いいづなくるわ)にある神社で、鎌倉時代の1197(建久8)年に前身の筑井城(つくいじょう)を築いた筑井太郎次郎義胤(つくいたろうじろうよしたね)が勧請したと伝わります。戦国時代には津久井城主内藤景定が城の守護神として社殿を改築したと伝わります。津久井城の山頂付近は西峰の本城曲輪・太鼓曲輪...
津久井城(つくいじょう→神奈川県相模原市緑区根古屋)は、鎌倉時代初期に三浦氏の一族である筑井太郎次郎義胤(つくいたろうじろうよしたね→筑井為行とも)が築城したところから始まる根古屋式の山城で、津久井湖の南に聳える標高375ⅿの城山に築かれています。戦国時代には、小田原北条氏の有力国衆で「津久井衆」を率いた津久井内藤氏が城主を務め、対武田氏の最前線の城として重視されました。『勝山記』には、1525(大永5)年に甲斐...
浅利明神(→神奈川県愛甲郡愛川町)は、戦国時代の1569(永禄12)年10月8日の三増合戦(三増峠の戦い)において戦死した武田方の重臣浅利信種(あさりのぶたね)を祀った神社です。江戸時代の1700(元禄13)年3月に曾雌常右衛門知義(そしつねえもんともよし)という武士が、主君の下総関宿藩主牧野備前守成春(まきのびぜんのかみなりはる)の命でこの地を検分した際に、自身にゆかりのある浅利信種がこの地で戦死したことを知り、「浅利墓所」...
三増合戦史跡(→神奈川県愛甲郡愛川町三増)は、戦国時代の1569(永禄12)年10月8日に、甲斐の武田信玄と小田原北条氏の別動隊との間で行われた「三増合戦(みませかっせん)」「三増峠の戦い(みませとおげのたたかい)」に関する史跡です。三増合戦場碑は昭和時代後期の1969(昭和44)年に建立され、その周辺には両軍の戦死者を埋葬したと伝わる首塚や胴塚や、戦死した武田家臣浅利信種(あさりのぶたね)を祀る浅利神社などがあります。〖三...