三増合戦史跡(→神奈川県愛甲郡愛川町三増)は、戦国時代の1569(永禄12)年10月8日に、甲斐の武田信玄と小田原北条氏の別動隊との間で行われた「三増合戦(みませかっせん)」「三増峠の戦い(みませとおげのたたかい)」に関する史跡です。三増合戦場碑は昭和時代後期の1969(昭和44)年に建立され、その周辺には両軍の戦死者を埋葬したと伝わる首塚や胴塚や、戦死した武田家臣浅利信種(あさりのぶたね)を祀る浅利神社などがあります。〖三...
羅針盤ゼミナールの徒然ブログです。当塾の公式マスコットが歴史学の立場から解説を加え、訪問した神社・寺院・史跡などを紹介してまいります。塾の公式ブログですが塾の宣伝は少なめです。
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三増合戦史跡(→神奈川県愛甲郡愛川町三増)は、戦国時代の1569(永禄12)年10月8日に、甲斐の武田信玄と小田原北条氏の別動隊との間で行われた「三増合戦(みませかっせん)」「三増峠の戦い(みませとおげのたたかい)」に関する史跡です。三増合戦場碑は昭和時代後期の1969(昭和44)年に建立され、その周辺には両軍の戦死者を埋葬したと伝わる首塚や胴塚や、戦死した武田家臣浅利信種(あさりのぶたね)を祀る浅利神社などがあります。〖三...
小山田家住宅・矢沢家表門(長野県長野市松代町)を訪問しました
小山田家住宅(→長野県長野市松代町)は、1849(嘉永2)年に建てられた木造2階建て、寄棟、銅板葺の数寄屋造(すきやづくり)の上級武家屋敷で、冠木門(かぶきもん)の西側に置かれた番所と母屋は2006(平成18)年に国登録有形文化財に指定されています。初代の小山田茂誠(おやまだしげまさ、1561年~1637)年は、甲斐都留郡の国衆小山田氏の一門筆頭で、父は1582(天正10)年3月の武田氏滅亡後に小田原北条氏を頼り、武蔵鉢形城(→埼玉県寄居町...
日本初の歌う女優として大正時代に一世を風靡した松井須磨子(まついすまこ)は、本名を小林正子といい、1886(明治19)年3月8日に長野県埴科郡清野村(→現在の長野県長野市松代町清野)で旧松代藩士小林藤太の五女(9人兄妹の末子)として生まれました。1909(明治42)年に坪内逍遥(つぼうちしょうよう)の文芸協会の第1期研究生となり、『ハムレット』のオフェリア役や『人形の家』の主人公ノラなど多くの舞台で活躍し、新劇界を代表する女...
真光山 林正寺(→長野県長野市松代町清野)は、鎌倉時代後期にこの地に配流され没した右大弁信広(うだいべんしんこう)の菩提を弔うために創建されたと伝わる浄土宗寺院です。戦後の1952(昭和27)年に旧松代藩主真田家の菩提寺である曹洞宗寺院・真田山 長國寺(→長野県長野市松代町松代)より2代藩主真田信政の御霊屋と表門が移築されたといいます。これらは江戸時代初期の霊廟建築として貴重であることから1966(昭和41)年に長野県の県...
科野のムラ(しなののむら→長野県千曲市屋代)は、長野県立歴史館の地下から発見された古墳時代のムラを復元したもので、発掘された茅葺の家・竪穴住居・高床倉庫・儀式場などの建物が復元されています。森将軍塚古墳の麓にあたる科野の里歴史公園の敷地内にあり、竪穴住居は囲炉裏に火がつき煙が噴き出していてリアルでした。水田や畑や池もあり、6月の第2日曜日に田植えの体験学習ができるようです。毎年11月には森将軍塚まつりが...
長野県立歴史館(→長野県千曲市屋代)は、森将軍塚古墳館とともに科野(しなの)の里歴史公園にあり、長野県内の考古資料や歴史史料などの展示によって原始から現代までの信濃(→長野県)の歴史を紹介する博物館で、1994(平成6)年11月に開館しました。常設展示室は「信濃の風土と人びとのくらし」をテーマに原始から近現代までを5つの時代に区分し、各時代を象徴する実大環境復元(→鎌倉時代の善光寺門前や江戸時代前期の中農農家、近代製...
千曲市森将軍塚古墳館(→長野県千曲市大字屋代)は、古墳時代前期に「科野(しなの)のクニ」を治めていた王(首長)の墓と考えられる森将軍塚古墳の資料を中心に、千曲市内の遺跡から発掘された考古資料などを所蔵・保管・展示している資料館です。2階の展示室には、森将軍塚古墳の後円部と竪穴式石室を再現し、周りには土器・埴輪・副葬品などをはじめ、長野県内の古墳・埋葬品や発掘調査のパネルなど、テーマごとに展示スペースが設け...
森将軍塚古墳(→長野県千曲市大字森字大穴山)は、古墳時代前期(→4世紀中頃)に造られた長野県最大規模の前方後円墳で、古墳時代の「科野(しなの)のクニ」を治めていた王(首長)の墓と考えられ、全長は約100ⅿあります。古墳館の裏山の標高490ⅿの山頂には、発掘調査をもとに復元された森将軍塚古墳があり、古墳までは遊歩道が設けられ歩いて往復40分ほど、専用バスで往復10分ほどで行くことができます。山頂からは戸隠山や飯綱山が見え...
松操山 典厩寺(しょうぞうざん てんきゅうじ→長野県長野市篠ノ井杵淵)は、武田信玄と上杉謙信(→当時は上杉政虎)が5度にわたって争った川中島合戦のうち、最大の激戦となった1561(永禄4)年の第四次川中島合戦(八幡原合戦)で討死した、武田信玄の実弟・武田典厩信繁(たけだ てんきゅう のぶしげ)を埋葬した瑠璃光山 鶴巣寺(るりこうざん かくそうじ)を前身とする曹洞宗寺院です。江戸時代前期の1654(承応3)年に初代松代藩主真田信之(...
川中島古戦場八幡社(→長野県長野市小島田)は、戦国時代に武田信玄と上杉謙信が争った5回の川中島合戦のうち最も著名な1561(永禄4)年9月10日の第四次川中島合戦の舞台となった八幡原(はちまんぱら)古戦場跡に建立された神社です。八幡原(はちまんぱら)の由来は、平安時代中期の1094(嘉保元)年8月に信濃国に配流された村上顕清(むらかみあききよ)が八幡神を祀った事によります。現在の社殿は1941(昭和16)年に長野県上田市の生島足島...
真田邸(→長野県長野市松代町松代)は、幕末期の1864(元治元)年に、松代藩9代藩主真田幸教(さなだゆきのり)が義母の貞松院の住まいとして松代城の城外御殿として建設したもので、当時は「新御殿」と呼ばれました。江戸時代、大名の妻子は生涯江戸住まいを義務付けられていましたが、1862(文久2)年に行われた文久の改革(→薩摩藩の島津久光が孝明天皇の勅使大原重徳(おおはらしげとみ)を奉じて江戸に参府し、14代将軍徳川家茂に実施さ...
松代城(まつしろじょう→長野県長野市松代町)は、戦国時代に甲斐の武田晴信(武田信玄)と越後の長尾景虎(上杉謙信)が北信濃の覇権を競った川中島合戦において、武田方の拠点として1560(永禄3)年に山本勘助(山本菅助)が築いたと伝わる海津城を前身とする平城です。武田時代には屋代氏・香坂氏・春日氏といった主に川中島4郡(→埴科郡・更級郡・高井郡・水内郡)の国衆が城代を務めました。江戸時代前期の1622(元和8)年に上田藩主の真田...
象山神社(ぞうざんじんじゃ→長野県長野市松代町)は、幕末の松代藩士で兵学・朱子学・洋学者の佐久間象山(さくましょうざん)を祭神として祀る神社で、1864(元治元)年7月11日に京都で暗殺された象山の、殉難50年祭が1913(大正2)年に行われたことを機に、松代町出身の大審院長(→現在の最高裁長官)横田秀雄(よこたひでお)を中心に全国の教育関係者の尽力で神社建立が計画され、1938(昭和13)年11月3日に象山神社(県社)が建立されました...
山寺常山邸(→長野県長野市松代町松代)は、儒学者鎌原桐山(かまはらとうざん)・洋学者佐久間象山(さくましょうざん)とともに「松代の三山」と称えられた松代藩士山寺常山(やまでらじょうざん)の邸宅跡です。山寺常山は、8代藩主・老中真田幸貫(さなだゆきつら→8代将軍徳川吉宗の曾孫)の信望が厚く藩政に尽力し、藩の寺社奉行・郡奉行を務めたのち藩士に兵学を教授した人物として知られます。常山は、明治時代になり真田家が東京に移...
象山 恵明禅寺(→長野県長野市松代町西条)は、江戸時代前期の1677(延宝5)年に松代藩3代藩主・真田幸道が開基、明国から来日した黄檗宗2世木庵性瑫(もくあんしょうとう)が開山した黄檗宗(→臨済宗黄檗派)寺院です。一般的には恵明寺と呼ばれ、江戸時代には京都府宇治市にある黄檗山 万福寺の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。1825(文政8)年に火災に遭い、山門のみ火災を免れ今に至ると伝わります。境内には真田幸道の正室豊姫(→...
皓月山 大英寺(→長野県長野市松代町)は、江戸時代前期の1622(元和8)年に初代松代藩主真田信之が、妻の小松姫(稲姫→徳川家康養女、本多忠勝の娘)の菩提を弔うために創建した浄土宗寺院です。1620(元和6)年2月24日に死去した小松姫は上田の常福寺(→現在の芳泉寺)に祀られましたが、1622(元和8)年に信之が松代に移封されたため、小松姫の御霊屋も大英寺に移されました。山号は小松姫の戒名「大蓮院殿英誉皓月大禅定尼」から採ってい...
金刀比羅神社(ことひらじんじゃ→長野県長野市松代町豊栄字宮崎)は、創建年代等の詳細は不明ですが、長野県神社庁長野支部に属する宗教法人登録がされている神社です。長野支部によると江戸時代中期にはすでに「金刀比羅社」「金刀比羅大権現」として宮座の活動が確認できるそうです。北前船の寄港地である日本海側の各港には金刀比羅神社が多く見られますが、長野市内では千曲川やその支流沿いに多く見られます。水運の発達と同時...
旧松代藩鐘楼(→長野県長野市松代町松代)は、初代松代藩主真田信之が1624(寛永元)年に火の見櫓とともに設置したのが始まりで、その後3度の火災で焼け落ち、現在の鐘楼は火の見櫓と別棟にした1801(享和元)年に再建されたものが母体となっています。2012(平成24)年に修復が施され、長野市の指定文化財(建造物)になりました。時計が広まっていなかった江戸時代、各藩では昼夜の別なく一刻(→約2時間)ごとに大鐘を突く決まりがあり、藩士...
松代駅(まつしろえき→長野県長野市松代町松代)は、1922(大正11)年6月10日~2012(平成24)4月1日まで使われていた長野電鉄屋代線(旧長野電鉄河東線)の廃駅です。屋代線は、屋代駅(→長野県千曲市)から松代駅を通り須坂駅(→長野県須坂市)とを結び、沿線で栄えた繊維産業を支える物流の大動脈を担う歴史ある鉄道路線でした。中でも松代駅は、戦時中に松代大本営建設のための貨物輸送に利用されたことでも知られています。松代駅は島式1...
麻生山 東林寺(→神奈川県川崎市麻生区麻生6丁目)は、江戸時代の1681(天和元)年に本山の夏蒐山 修廣寺(→神奈川県川崎市麻生区片平2丁目)の4代住職が、上麻生村の領主であった三井十左衛門吉直の直轄地に隠居寺として創建したと伝わる曹洞宗寺院です。境内の大いちょうは、川崎市選定の「まちの樹50選」に数えられます。東林寺は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』都筑郡上麻生村の条に次のように記さ...
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三増合戦史跡(→神奈川県愛甲郡愛川町三増)は、戦国時代の1569(永禄12)年10月8日に、甲斐の武田信玄と小田原北条氏の別動隊との間で行われた「三増合戦(みませかっせん)」「三増峠の戦い(みませとおげのたたかい)」に関する史跡です。三増合戦場碑は昭和時代後期の1969(昭和44)年に建立され、その周辺には両軍の戦死者を埋葬したと伝わる首塚や胴塚や、戦死した武田家臣浅利信種(あさりのぶたね)を祀る浅利神社などがあります。〖三...
小山田家住宅(→長野県長野市松代町)は、1849(嘉永2)年に建てられた木造2階建て、寄棟、銅板葺の数寄屋造(すきやづくり)の上級武家屋敷で、冠木門(かぶきもん)の西側に置かれた番所と母屋は2006(平成18)年に国登録有形文化財に指定されています。初代の小山田茂誠(おやまだしげまさ、1561年~1637)年は、甲斐都留郡の国衆小山田氏の一門筆頭で、父は1582(天正10)年3月の武田氏滅亡後に小田原北条氏を頼り、武蔵鉢形城(→埼玉県寄居町...
日本初の歌う女優として大正時代に一世を風靡した松井須磨子(まついすまこ)は、本名を小林正子といい、1886(明治19)年3月8日に長野県埴科郡清野村(→現在の長野県長野市松代町清野)で旧松代藩士小林藤太の五女(9人兄妹の末子)として生まれました。1909(明治42)年に坪内逍遥(つぼうちしょうよう)の文芸協会の第1期研究生となり、『ハムレット』のオフェリア役や『人形の家』の主人公ノラなど多くの舞台で活躍し、新劇界を代表する女...
真光山 林正寺(→長野県長野市松代町清野)は、鎌倉時代後期にこの地に配流され没した右大弁信広(うだいべんしんこう)の菩提を弔うために創建されたと伝わる浄土宗寺院です。戦後の1952(昭和27)年に旧松代藩主真田家の菩提寺である曹洞宗寺院・真田山 長國寺(→長野県長野市松代町松代)より2代藩主真田信政の御霊屋と表門が移築されたといいます。これらは江戸時代初期の霊廟建築として貴重であることから1966(昭和41)年に長野県の県...
科野のムラ(しなののむら→長野県千曲市屋代)は、長野県立歴史館の地下から発見された古墳時代のムラを復元したもので、発掘された茅葺の家・竪穴住居・高床倉庫・儀式場などの建物が復元されています。森将軍塚古墳の麓にあたる科野の里歴史公園の敷地内にあり、竪穴住居は囲炉裏に火がつき煙が噴き出していてリアルでした。水田や畑や池もあり、6月の第2日曜日に田植えの体験学習ができるようです。毎年11月には森将軍塚まつりが...
長野県立歴史館(→長野県千曲市屋代)は、森将軍塚古墳館とともに科野(しなの)の里歴史公園にあり、長野県内の考古資料や歴史史料などの展示によって原始から現代までの信濃(→長野県)の歴史を紹介する博物館で、1994(平成6)年11月に開館しました。常設展示室は「信濃の風土と人びとのくらし」をテーマに原始から近現代までを5つの時代に区分し、各時代を象徴する実大環境復元(→鎌倉時代の善光寺門前や江戸時代前期の中農農家、近代製...
千曲市森将軍塚古墳館(→長野県千曲市大字屋代)は、古墳時代前期に「科野(しなの)のクニ」を治めていた王(首長)の墓と考えられる森将軍塚古墳の資料を中心に、千曲市内の遺跡から発掘された考古資料などを所蔵・保管・展示している資料館です。2階の展示室には、森将軍塚古墳の後円部と竪穴式石室を再現し、周りには土器・埴輪・副葬品などをはじめ、長野県内の古墳・埋葬品や発掘調査のパネルなど、テーマごとに展示スペースが設け...
森将軍塚古墳(→長野県千曲市大字森字大穴山)は、古墳時代前期(→4世紀中頃)に造られた長野県最大規模の前方後円墳で、古墳時代の「科野(しなの)のクニ」を治めていた王(首長)の墓と考えられ、全長は約100ⅿあります。古墳館の裏山の標高490ⅿの山頂には、発掘調査をもとに復元された森将軍塚古墳があり、古墳までは遊歩道が設けられ歩いて往復40分ほど、専用バスで往復10分ほどで行くことができます。山頂からは戸隠山や飯綱山が見え...
松操山 典厩寺(しょうぞうざん てんきゅうじ→長野県長野市篠ノ井杵淵)は、武田信玄と上杉謙信(→当時は上杉政虎)が5度にわたって争った川中島合戦のうち、最大の激戦となった1561(永禄4)年の第四次川中島合戦(八幡原合戦)で討死した、武田信玄の実弟・武田典厩信繁(たけだ てんきゅう のぶしげ)を埋葬した瑠璃光山 鶴巣寺(るりこうざん かくそうじ)を前身とする曹洞宗寺院です。江戸時代前期の1654(承応3)年に初代松代藩主真田信之(...
川中島古戦場八幡社(→長野県長野市小島田)は、戦国時代に武田信玄と上杉謙信が争った5回の川中島合戦のうち最も著名な1561(永禄4)年9月10日の第四次川中島合戦の舞台となった八幡原(はちまんぱら)古戦場跡に建立された神社です。八幡原(はちまんぱら)の由来は、平安時代中期の1094(嘉保元)年8月に信濃国に配流された村上顕清(むらかみあききよ)が八幡神を祀った事によります。現在の社殿は1941(昭和16)年に長野県上田市の生島足島...
真田邸(→長野県長野市松代町松代)は、幕末期の1864(元治元)年に、松代藩9代藩主真田幸教(さなだゆきのり)が義母の貞松院の住まいとして松代城の城外御殿として建設したもので、当時は「新御殿」と呼ばれました。江戸時代、大名の妻子は生涯江戸住まいを義務付けられていましたが、1862(文久2)年に行われた文久の改革(→薩摩藩の島津久光が孝明天皇の勅使大原重徳(おおはらしげとみ)を奉じて江戸に参府し、14代将軍徳川家茂に実施さ...
松代城(まつしろじょう→長野県長野市松代町)は、戦国時代に甲斐の武田晴信(武田信玄)と越後の長尾景虎(上杉謙信)が北信濃の覇権を競った川中島合戦において、武田方の拠点として1560(永禄3)年に山本勘助(山本菅助)が築いたと伝わる海津城を前身とする平城です。武田時代には屋代氏・香坂氏・春日氏といった主に川中島4郡(→埴科郡・更級郡・高井郡・水内郡)の国衆が城代を務めました。江戸時代前期の1622(元和8)年に上田藩主の真田...
象山神社(ぞうざんじんじゃ→長野県長野市松代町)は、幕末の松代藩士で兵学・朱子学・洋学者の佐久間象山(さくましょうざん)を祭神として祀る神社で、1864(元治元)年7月11日に京都で暗殺された象山の、殉難50年祭が1913(大正2)年に行われたことを機に、松代町出身の大審院長(→現在の最高裁長官)横田秀雄(よこたひでお)を中心に全国の教育関係者の尽力で神社建立が計画され、1938(昭和13)年11月3日に象山神社(県社)が建立されました...
山寺常山邸(→長野県長野市松代町松代)は、儒学者鎌原桐山(かまはらとうざん)・洋学者佐久間象山(さくましょうざん)とともに「松代の三山」と称えられた松代藩士山寺常山(やまでらじょうざん)の邸宅跡です。山寺常山は、8代藩主・老中真田幸貫(さなだゆきつら→8代将軍徳川吉宗の曾孫)の信望が厚く藩政に尽力し、藩の寺社奉行・郡奉行を務めたのち藩士に兵学を教授した人物として知られます。常山は、明治時代になり真田家が東京に移...
象山 恵明禅寺(→長野県長野市松代町西条)は、江戸時代前期の1677(延宝5)年に松代藩3代藩主・真田幸道が開基、明国から来日した黄檗宗2世木庵性瑫(もくあんしょうとう)が開山した黄檗宗(→臨済宗黄檗派)寺院です。一般的には恵明寺と呼ばれ、江戸時代には京都府宇治市にある黄檗山 万福寺の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。1825(文政8)年に火災に遭い、山門のみ火災を免れ今に至ると伝わります。境内には真田幸道の正室豊姫(→...
皓月山 大英寺(→長野県長野市松代町)は、江戸時代前期の1622(元和8)年に初代松代藩主真田信之が、妻の小松姫(稲姫→徳川家康養女、本多忠勝の娘)の菩提を弔うために創建した浄土宗寺院です。1620(元和6)年2月24日に死去した小松姫は上田の常福寺(→現在の芳泉寺)に祀られましたが、1622(元和8)年に信之が松代に移封されたため、小松姫の御霊屋も大英寺に移されました。山号は小松姫の戒名「大蓮院殿英誉皓月大禅定尼」から採ってい...
金刀比羅神社(ことひらじんじゃ→長野県長野市松代町豊栄字宮崎)は、創建年代等の詳細は不明ですが、長野県神社庁長野支部に属する宗教法人登録がされている神社です。長野支部によると江戸時代中期にはすでに「金刀比羅社」「金刀比羅大権現」として宮座の活動が確認できるそうです。北前船の寄港地である日本海側の各港には金刀比羅神社が多く見られますが、長野市内では千曲川やその支流沿いに多く見られます。水運の発達と同時...
旧松代藩鐘楼(→長野県長野市松代町松代)は、初代松代藩主真田信之が1624(寛永元)年に火の見櫓とともに設置したのが始まりで、その後3度の火災で焼け落ち、現在の鐘楼は火の見櫓と別棟にした1801(享和元)年に再建されたものが母体となっています。2012(平成24)年に修復が施され、長野市の指定文化財(建造物)になりました。時計が広まっていなかった江戸時代、各藩では昼夜の別なく一刻(→約2時間)ごとに大鐘を突く決まりがあり、藩士...
松代駅(まつしろえき→長野県長野市松代町松代)は、1922(大正11)年6月10日~2012(平成24)4月1日まで使われていた長野電鉄屋代線(旧長野電鉄河東線)の廃駅です。屋代線は、屋代駅(→長野県千曲市)から松代駅を通り須坂駅(→長野県須坂市)とを結び、沿線で栄えた繊維産業を支える物流の大動脈を担う歴史ある鉄道路線でした。中でも松代駅は、戦時中に松代大本営建設のための貨物輸送に利用されたことでも知られています。松代駅は島式1...
麻生山 東林寺(→神奈川県川崎市麻生区麻生6丁目)は、江戸時代の1681(天和元)年に本山の夏蒐山 修廣寺(→神奈川県川崎市麻生区片平2丁目)の4代住職が、上麻生村の領主であった三井十左衛門吉直の直轄地に隠居寺として創建したと伝わる曹洞宗寺院です。境内の大いちょうは、川崎市選定の「まちの樹50選」に数えられます。東林寺は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』都筑郡上麻生村の条に次のように記さ...
関門山 地蔵院 延命寺(→東京都多摩市関戸5丁目)は、鎌倉時代に鎌倉街道を往来する人たちの安全を祈願した地蔵尊を祀った堂宇からはじまる時宗寺院です。江戸時代の1702(元禄15)年に、藤沢山 無量光院 清浄光寺(→神奈川県藤沢市西富1丁目)の23代住職で、遊行48世(→一遍から数えて48代目の遊行上人)の賦国が、自身の隠退の地とするため延命寺を開山したと伝わります。ただし、賦国は延命寺に入らず1711(正徳元)年に音響山 伝相院 善...
関戸合戦は、鎌倉時代末期の1333(元弘3)年5月16日に、霞ノ関(→東京都多摩市関戸)で行われた新田義貞率いる討幕軍と、北条泰家(→北条高時の同母弟)率いる鎌倉幕府軍との間で行われた戦いです。古戦場の近くにはこの戦いで討死した幕府軍の無縁仏を埋葬した「北条軍無名戦士の墓」(→東京都多摩区関戸5丁目)があります。さて、『太平記』に記された内容が現実の出来事かを確かめるには、同時代の史料を確認する方法が一番です。1333(...
関戸合戦は、鎌倉時代末期の1333(元弘3)年5月16日に、霞ノ関(→東京都多摩市関戸)で行われた新田義貞(にったよしさだ)率いる討幕軍と、北条泰家(ほうじょうやすいえ→高時の同母弟)率いる幕府軍との間で行われた戦いです。5月15日~16日には多摩川を挟んだ対岸で分倍河原合戦(ぶばいがわらかっせん)が行われ、幕府軍は敗れています。南北朝時代の軍記物の『太平記』によると、新田義貞に多摩川を越えられた北条泰家は、関所のある霞...
諏訪山 明王院 円能寺(→神奈川県川崎市高津区諏訪3丁目)は創建の詳細は不詳ですが、中世の頃に龍宿山 金剛院 西明寺(→神奈川県川崎市中原区小杉御殿町1丁目)の門徒が創建したと伝わる真言宗智山派寺院です。戦国時代には住職不在で、堂宇が大破していたようですが、慶長年間(→1596年~1615年)に良識という僧が定住し、中興したと記されます。本山・末寺の制により江戸時代前期の1668(寛文8)年に西明寺の末寺となり、隣接する諏訪神...
大栄山 東樹院 多聞寺(→神奈川県川崎市中原区宮内1丁目)は、創建の詳細は不明ですが、天正年間(安土桃山時代→1573年~1592年)に小田原北条氏の家臣石井源左衛門が中興開基したと伝わる真言宗智山派寺院です。石井氏は北条氏滅亡後も当地に残り帰農したようです。もともとは多摩川寄りにあったようですが洪水の被害を受け、現在地に移転したと記されます。江戸時代には龍宿山 金剛院 西明寺(→神奈川県川崎市中原区小杉御殿町1丁目)...
関蝉丸神社(せきせみまるじんじゃ→神奈川県川崎市中原区上小田中1丁目)は、甲斐武田氏(→1582年3月11日滅亡)の家臣原虎胤(はらとらたね)の末流の原勝久(はらかつひさ)が、1605(慶長10)年に当地を開墾する際に近江国逢坂の関蝉丸神社下社(→滋賀県大津市逢坂1丁目)を勧請して創建したと伝わります。逢坂山に住んでいた蝉丸は、『小倉百人一首』に「これやこの行くも帰るもわかれては 知るも知らぬも逢坂の関」という和歌が収録されて...
白王山 正福寺(→神奈川県川崎市高津区北見方2丁目)は開基者は不明ですが、江戸時代前期に僧の快雅が開山したと伝わる真言宗智山派寺院です。江戸時代の頃は龍宿山 金剛院 西明寺(→神奈川県川崎市中原区小杉御殿町1丁目)の末寺として幕藩体制の一翼を担う一方、白髭神社(しらひげじんじゃ→神奈川県川崎市高津区北見方2丁目)の別当寺として祭祀を司りました。この頃は白髭神社の神体は正福寺に安置されていたと記されます。宝物の中...
白髭神社(しらひげじんじゃ→神奈川県川崎市高津区北見方2丁目)は、創建の詳細は不明ですが、江戸時代前期の1610(慶長15)年に北見方村の鎮守(→北見方総社)として伊勢猿田彦神社(→三重県伊勢市宇治浦田2丁目)を勧請して建てられたと伝わります。北見方にあるので「北見方白髭神社」とも呼ばれます。江戸時代には真言宗智山派寺院の白王山 正福寺(→神奈川県川崎市高津区北見方2丁目)が別当寺として祭祀を司りましたが、たびたび多摩川...
高津諏訪神社(→神奈川県川崎市高津区諏訪3丁目)は、徳川氏の旗本となった諏訪頼久(すわよりひさ→中世諏訪は「諏方」と書いた)が慶長年間(→1596年~1615年)に諏訪大社(→長野県諏訪市中洲宮・茅野市宮川・諏方郡下諏訪町)を勧請して創建したと伝わります。ただし、諏訪頼久は信濃諏訪藩の2代藩主諏訪忠恒(すわただつね)の三男として1644(寛永21)年生まれなので慶長年間には生まれていないことになります。頼久は1654(承応3)年11月に4...
中野島稲荷神社(→神奈川県川崎市多摩区中之島1丁目)は、『神奈川県神社誌』によると安土桃山時代後期~江戸時代前期にあたる慶長年間(→1596年~1615年)に伏見稲荷大社(→京都府京都市伏見区深草藪之内町)より勧請したといいます。社伝では江戸時代中期に田中丘隅(たなかきゅうぐ)が新田開発を行った際に二ヶ領用水の堤防鎮護のために勧請したと伝わります。当時は河除稲荷(かわよけいなり)や河守稲荷(かわもりいなり)と呼ばれていた...
大庭神社(おおばじんじゃ→神奈川県藤沢市稲荷)は、平安時代の927(延長5)年に作成された『延喜式神名帳』(えんぎしきじんみょうちょう→朝廷より官社に指定された全国の神社一覧)に「高座郡大庭神社」と記載された相模国の式内社13社の1つと比定されます。ただし、江戸時代以前の記録は失われており、創建の詳細は不明です。境内には神仏習合の名残りとして、江戸時代中期の1716(享保2)年に鋳造されたと記される洪鐘(おおかね→梵鐘)...
稲荷山 成就院(→神奈川県藤沢市大庭)は、南北朝時代に守護大名の山名時氏(→足利尊氏の母上杉清子の従兄弟)、或いはその子山名師義(やまなもろよし)が創建したと伝わる高野山真言宗寺院です。山名時氏は足利尊氏に従い室町幕府創設に尽力しましたが、尊氏・直義(ただよし→尊氏の同母弟)兄弟が争った観応の擾乱(→1350年~1352年)では足利直義方につき、直義死後は南朝に帰順して幕府軍を破っています。しかし、1363(正平18/貞治2)年...
善行神社(ぜんぎょうじんじゃ→神奈川県藤沢市善行2丁目)は、善行内にあった八坂神社と稲荷神社(善行稲荷)という別々の2社を1997(平成9)年に合祀して創建した神社で、源義経を祀る白旗神社(→神奈川県藤沢市藤沢2丁目)の兼務社となります。境内には神仏習合の名残りも見られ、社殿の横にある薬師堂は江戸時代に別当寺を務めた起雲山 全龍寺(廃寺→神奈川県藤沢市善行1丁目)から移されたものと伝わります。薬師堂の左側の塀に沿っ...
皇大神宮(こうだいじんぐう→神奈川県藤沢市鵠沼神明2丁目)は、勧請年代は不明ながら、平安時代前期の832(天長9)年、平安時代中期の1055(天喜3)年、鎌倉時代後期の1322(元亨2)年、安土桃山時代の1585(天正13)年、昭和時代末期の1985(昭和60)年に社殿の造営記録が残る古社です。社殿によると、平安時代中期の天喜年間(→1053年~1058年)には、後三年合戦に赴く源義家(みなもとのよしいえ)が戦勝祈願を行い、平安時代末期の1184(寿永3)...
善光山 天竜院 法照寺(→神奈川県藤沢市鵠沼神明2丁目)は、浄土宗総本山知恩院の直末として、江戸時代中期の享保年間(→1716年~1736年)に創建されたと伝わる浄土宗寺院です。ただし、開山の直為は1717(享保2)年に死去しているため、享保元年(→1716年)か享保2年(→1717年)の創建ということになります。一説には1661(寛文元)年に僧の龍保が創建したとも言われており、この場合は1704(宝永元)年に僧の欣誉が中興したという『藤沢ーわが...
密厳山 普遍院 普門寺(→神奈川県藤沢市本鵠沼5丁目)は、三島山 感応院 瑞光寺(→神奈川県藤沢市大鋸2丁目)の末寺として戦国時代の1528(享禄元)年に僧の良元によって平塚に創建され、江戸時代前期の1617(元和3)年に現在地に移転したと伝わる高野山真言宗寺院です。1673(延宝元)年~1676(延宝4)年の期間に僧の善龍によって中興されたと記されます。境内は、1872(明治5)年から1913(大正2)年まで、現在の藤沢市立鵠沼小学校の前身である...
鵠沼山 清光院 万福寺(→神奈川県藤沢市鵠沼神明3丁目)は鵠沼最古の寺院で、鎌倉時代中期の1245(寛元3)年に、親鸞(しんらん)の直弟子で関東六老僧の1人のである源海が開山・創建した浄土真宗大谷派(→東本願寺)寺院です。『新編相模風土記稿』には「寛元三年(→1245年)僧源海創建す、俗姓は安藤駿河守隆光、武州(→武蔵国)荒木住人なり」と記されていますが、「駿河守」というのは誤伝となります。当時の駿河守は伊具北条有時(→義時の...
金堀山 空乗寺(→神奈川県藤沢市鵠沼神明3丁目)は、江戸時代前期に僧の了受が創建した浄土真宗高田派寺院です。『新編相模風土記稿』には「永禄年中(→1558年~1570年)僧了受創建す」と記載されていますが、了受は1677(延宝5)年に死去しているため、107年以上前の永禄年中に創建することは不可能であり、誤伝であると思われます。一方で、空乗寺は1649(慶安2)年8月2日に、地頭大橋重政から寄進された9石の土地を寺領として幕府(→3代...
引地山 養命寺(→神奈川県藤沢市城南4丁目)は、戦国時代の1570(元亀元)年に、本山である蟠龍山 宗賢院(→神奈川県藤沢市大庭)の3代住職・暁堂が開山したと伝わる曹洞宗寺院です。本尊の木造薬師如来坐像(→国指定重要文化財)は、源頼朝に仕えた御家人大庭景義(おおばかげよし)の守護仏と伝わり、鎌倉時代前期の1197(建久8)年の銘があり、前身となる寺院の存在を示唆します。養命寺は、その後衰退したようですが、江戸時代中期の延享年...
立正山 光妙寺(→神奈川県藤沢市藤沢4丁目)は、江戸時代中期の1756(宝暦6)年に僧の日暁が創建した日蓮宗寺院で、もとは駿河国富士郡にあった妙境山 円恵寺(えんねじ→静岡県富士宮市大久保字内久禰)の外境仏堂「光妙庵」として建立されました。円恵寺は、戦国時代の1565(永禄8)年3月18日に真言宗寺院として創建された草庵が始まりで、1581(天正9)年4月に安居山 東漸寺(→静岡県富士宮市安居山)の8代住職日教によって日蓮宗寺院に改宗...