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らしんばん航海日誌 ~探訪という名の歴史旅~ https://rashimban1.blog.fc2.com/

羅針盤ゼミナールの徒然ブログです。当塾の公式マスコットが歴史学の立場から解説を加え、訪問した神社・寺院・史跡などを紹介してまいります。塾の公式ブログですが塾の宣伝は少なめです。

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西住りほ
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2022/07/12

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  • 町田天満宮(東京都町田市)を訪問しました

    町田天満宮(→東京都町田市原町田1丁目)は、戦国時代の天正年間(→1573年~1593年)のうち小田原北条氏の統治下(→1590年まで)に創建され、江戸時代前期の1615(元和元)年にこの地の領主となった幕府の旗本三橋氏・武藤氏によって社殿が造営されたと伝わる神社です。江戸時代には寺領7石3斗の曹洞宗寺院、金森山 宗保院(→東京都町田市原町田1丁目)が別当寺として祭祀を司りました。明治維新後は菅原神社と称したようです。1872(明治5)年...

  • 金森杉山神社(東京都町田市)を訪問しました

    金森杉山神社(→東京都町田市金森7丁目)は、創建年代等の詳細は不明ですが、江戸時代前期の1683(天和3)年12月に幕府の旗本高木伊勢守夫妻(→妻は於亀)及びその一族が下屋敷内に社殿を再建したと社宝の棟札に記されています。再建には家臣や名主(→村長)の大貫助兵衛・囲曽甚五右衛門が費用の大半を工面したようです。江戸時代を通して金森村の村民が西田杉山神社(→東京都町田市金森6丁目)と隔年で神体を奉遷して祭礼を行ったようです...

  • 母智丘神社(東京都町田市)を訪問しました

    母智丘神社(もちおじんじゃ→東京都町田市原町田5丁目)は、『東京都神社名鑑』によると第一次世界大戦末期の1919(大正8)年に黒木昇・黒木ハナの両氏が宮崎県の石峰山山頂に鎮座する母智丘神社(→石岑稲荷明神とも、宮崎県都城市横市町)を自宅に勧請したが、「家屋鳴動し畏懼(いく→恐れおののくこと)の念に耐えず」社殿を創建したと記される神社です。家屋鳴動云々の真偽の程は定かではありませんが、個人によって建てられた神社とし...

  • 高ヶ坂熊野神社(東京都町田市)を訪問しました

    高ヶ坂熊野神社(→東京都町田市高ヶ坂2丁目)は、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災によって由緒等が散逸したため創建年代等の詳細は不明ですが、和歌山県の熊野三山神社の那智大社に地形がよく似ていて水源に奉斎し、裏山に滝があったようです。1843(天保14)年の古文書に御供米として毎年地頭より6斗の奉納があり、また除地分として600坪があったとあります。江戸時代の頃は図師村の図師山 大蔵院 釜田寺(→関東大震災で倒壊...

  • 高ヶ坂子育地蔵堂(東京都町田市)を訪問しました

    高ヶ坂子育地蔵堂(→東京都町田市高ヶ坂7丁目)は、1971(昭和46)年に南農協高ヶ坂支部倉庫が火災で焼失したため、当時荒廃していた子育地蔵堂の敷地を整理して倉庫と地蔵堂を建設したようです。その後、倉庫は不要となり賃貸倉庫として南農協高ヶ坂支部の運用に使用されていましたが地蔵堂が老朽化したため、1993(平成5)年に支部職員全員で子育地蔵講を設立して資金を積み立てて地蔵堂の新築再建することを決め、1999(平成11)年9月に...

  • 祥雲寺(東京都町田市)を訪問しました

    滝沢山 祥雲寺(→東京都町田市高ヶ坂7丁目)は、小田原北条氏の治世下にあった戦国時代の1526(大永6)年8月に、北条氏綱が武運長久と後北条氏の子孫繁栄のため僧の寥堂秀廓(りょうどうしゅうかく)を開山として招いて開基した曹洞宗寺院です。後北条氏の虎朱印が押された寺領寄進文書がありましたが、享保年間(→1716年~1736年、8代将軍徳川吉宗の治世)の火災で焼失したといいます。江戸時代には幕府より寺領15石を安堵されました。現...

  • 東雲寺(東京都町田市)を訪問しました

    龍谷山 成就院 東雲寺(→東京都町田市成瀬4丁目)は、小田原北条氏の治世下にあった戦国時代に小机衆に配属された成瀬城主中里氏が菩提寺として開基し、僧の龍谷が開基した龍谷山 成就院を前身とする曹洞宗寺院です。成瀬城が小机城の支城として築城されたことから、成就院も小机城代笠原信為(かさはらのぶため)が開基した臥龍山 雲松院(→神奈川県横浜市港北区小机町)を本寺(本山)としていました。1590(天正18)年の小田原合戦で北条...

  • 成瀬杉山神社(東京都町田市)を訪問しました

    成瀬杉山神社(→東京都町田市成瀬4丁目)は、『東京都神社名鑑』によると江戸時代前期の1668(寛文8)年11月吉日に幕府の代官福井清兵衛と成瀬村の領主であった井戸勝吉と酒井助右衛門が資金を出し合って再建したと伝わる神社です。内訳は福井が金二百疋、井戸が金三分、酒井が金一分と記されます。かつては恩田川沿いの水田の中にあったことから「田中の明神」と呼ばれ、現在地には1982(昭和57)年に移転したようです。江戸時代の頃は...

  • 平薬師堂(東京都町田市)を訪問しました

    平薬師堂(→東京都町田市上小山田町)は、創建年代の詳細は不明ですが、江戸時代に上小山田村の字(あざ)平の鎮守として崇敬されていた山王社の本地仏(→神仏習合の頃に神の本体とされた仏のこと)とされた約15cmの薬師如来像を、1868(明治元)年の神仏分離令発布後に分離して祀った堂宇です。現在の堂宇は近年に改築されたものと記されます。平薬師堂は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』多磨郡上小山田村...

  • 上小山田明神神社(東京都町田市)を訪問しました

    上小山田明神神社(→東京都町田市上小山田町)は、鎌倉時代前期の1223(貞応2)年に小山田荘の地頭であった小山田重義(→小山田有重の次男)によって創建された明神社を前身とする神社と伝わります。当初は伊勢国(→三重県)の五十鈴川の面影を残すという理由から上小山田郷の田中谷戸に創建され、江戸時代には上小山田村田中谷戸の鎮守であったと記されます。現在地には明治維新後の1875(明治8)年に遷座され、その際に村内にあった山王社...

  • 正山寺(東京都町田市)を訪問しました

    野中山 正山寺(→東京都町田市上小山田町)は、江戸時代前期の1615(慶長20)年5月1日に僧の祐玄が堺地区小山町下馬場に建立した浄土真宗寺院です。江戸時代の頃は本山・末寺の制により西本願寺(→京都府京都市下京区堀川通花屋町下る本願寺門前町)の末寺でしたが、貞享年間(→1684年~1687年)に東本願寺(→京都府京都市下京区烏丸通七条上ル常葉町)に派を変えたと記されます。現在はどの本山にも属さない単立寺院といいます。『町田市史...

  • 小山田神社(東京都町田市)を訪問しました

    小山田神社(→東京都町田市下小山田町)は、創建年代の詳細は不明ですが、江戸時代には下小山田村の鎮守で村民が祭祀を司ったと記されます。神仏習合の頃は内御前社(うちのおまえしゃ)という社号で、白幣の神体を祀っていたようです。境内には神仏習合の頃の名残りが展示されています。『町田市史』には1871(明治4)年4月に村民の若林三右衛門有信(わかばやしさんうえもんありのぶ)が破損が著しかった社殿を改築したと記されます。〖...

  • 大泉寺(東京都町田市)を訪問しました

    補陀山 水月院 大泉寺(→東京都町田市下小山田町)は、鎌倉時代初期の有力御家人の支流でこの地の領主となった小山田有重(おやまだありしげ→秩父重弘の子)の居館跡に創建された寺院です。実際は、室町時代前期に僧の無極が曹洞宗寺院として開山した寺院ですが、小山田有重を開基とし、その没年と考えられる1227(安貞元)年2月15日を開山日としています。寺号は小山田有重の法諡「大仙寺天桂椙公」からとったと記されます。現在は曹洞...

  • 小山田白山神社(東京都町田市)を訪問しました

    小山田白山神社(→東京都町田市下小山田町)は、創建年代の詳細は不明ですが、加賀国一の宮である白山比咩神社(→石川県白山市三宮町二)を勧請して創建されたと伝わります。江戸時代には下小山田村の鎮守社となり、真言宗単立寺院の大沢山 万蔵寺(→東京都町田市下小山田町)が別当寺として祭祀を司りました。神仏習合の頃は、神体が白幣で、約54cmの十一面観音立像が本地仏(→神仏習合いおいて神の本体にあたる仏のこと)であったと記さ...

  • 上根神社(東京都町田市)を訪問しました

    上根神社(かさねじんじゃ→東京都町田市下小山田町)は、補陀山 水月院 大泉寺(→東京都町田市下小山田町)の境内にあった鎮守五社を合祀して創建された神社です。大泉寺は室町時代前期に僧の無極が小山田有重の居館跡に創建した曹洞宗寺院です。鎮守五社は1660(万治3)年3月創建の宇都社と天王社、1682(天和2)年9月創建の山ノ端古金社、1719(享保4)年9月創建の南沢白山社、1850(嘉永3)年創建の山谷台住吉明神のことで、江戸時代に地主...

  • 千手院(東京都町田市)を訪問しました

    岩子山 千手院 普門寺(→東京都町田市小野路町)は、創建年代の詳細は不明ですが、鎌倉時代前期に小山田重義(→有力御家人小山田有重の次男、妻は梶原景時の娘)が創建したと伝わる真言宗豊山派寺院です。中世には戦乱で廃寺となりますが、安土桃山時代に僧の恵満が中興し、1591(天正19)年に、江戸入りをしていた徳川家康から境内観音堂に寺領12石を拝領しました。江戸時代には本山・末寺の制により岩船山 大智院 高勝寺(→東京都稲城市...

  • 綱島諏訪神社(神奈川県横浜市港北区)を訪問しました

    綱島諏訪神社(→神奈川県横浜市港北区綱島東2丁目)は、旧武田遺臣で、小田原北条氏滅亡後に徳川氏に仕え当地の領主となった近藤五郎右衛門正次らが、江戸時代初期の1605(慶長5)年頃に信濃国諏訪大社を勧請して創建したと伝わります。江戸時代には綱島明神社(→神奈川県横浜市綱島東2丁目)と並んで北綱島村と南綱島村の鎮守社となり、天台宗寺院の清林山 仏乗院 金蔵寺(→神奈川県横浜市港北区日吉本町2丁目)が別当寺として祭祀を司り...

  • 天照皇大神(神奈川県川崎市幸区)を訪問しました

    天照皇大神(あまてらすすめおおかみ、てんしょうこうたいしん→神奈川県川崎市幸区南加瀬1丁目)は、鎌倉時代末期の元弘年間(→1331年~1334年)に創建されたと伝わる神明社を前身とする神社で、室町時代には扇谷上杉氏(おうぎがやつうえすぎし)の家宰であった太田道灌(おおたどうかん)が参籠して瑞祥の夢見をしたとの社伝があります。戦国時代には南関東の大大名であった北条氏政(ほうじょううじまさ)が祈願所とするために八棟造の荘...

  • 大楽寺(神奈川県川崎市中原区)を訪問しました

    木月山 遍照院 大楽寺(→神奈川県川崎市中原区木月4丁目)は、創建年代等の詳細は不明ですが、江戸時代中期の1741(元文6)年3月23日に死去した智法という僧侶が中興開山したと記される真言宗智山派寺院です。江戸時代には本山・末寺の制により龍宿山 金剛院 西明寺(→神奈川県川崎市中原区小杉御殿町1丁目)の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。また、1909(明治42)年に木月住吉神社(→神奈川県川崎市中原区木月1丁目)に合祀された伊...

  • 木月住吉神社(神奈川県川崎市中原区)を訪問しました

    木月住吉神社(→神奈川県川崎市中原区木月1丁目)は、江戸時代までは矢倉明神社といい、明治維新後に矢倉神社と改めましたが、1909(明治42)年に国の一村一社政策を受けて木月村内にあった伊勢宮・八幡社・子之神社(ねのじんじゃ)・八雲神社・春日神社・天神社・白山神社・稲荷社・諏訪神社・神明神社の10社を矢倉神社に合祀し、住吉神社と改称しました。もともとの矢倉神社の創建年代等の詳細は不明ですが、村の記には1638(寛永15)年...

  • 市ノ坪神社(神奈川県川崎市中原区)を訪問しました

    市ノ坪神社(→神奈川県川崎市中原区市ノ坪)は、創建年代等の詳細は不明ですが、江戸時代の頃は太神宮の名称で市ノ坪村の鎮守であったと記されます。当時は神仏習合の時代なので真言宗智山派寺院の西光山 東福寺(→神奈川県川崎市中原区市ノ坪)が別当寺として祭祀を司っていました。『神奈川県神社誌』によると1916(大正5)年に第六天社を合祀し、1972(昭和46)年に社殿を改修した際に市ノ坪神社に改めたと記されます。〖祭神〗・大日塼...

  • 東福寺(神奈川県川崎市中原区)を訪問しました

    西光山 東福寺(→神奈川県川崎市中原区市ノ坪)は、創建年代の詳細は不明ですが、江戸時代には本山・末寺の制により龍宿山 金剛院 西明寺(→神奈川県川崎市中原区小杉御殿町1丁目)の末寺として幕藩体制の一翼を担っていた真言宗智山派寺院です。もとは観音堂があったようですが天保年間には無くなっていたと記されます。東福寺は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』橘樹郡市ノ坪村の条に次のように記され...

  • 御蔵稲荷神社(神奈川県川崎市中原区)を訪問しました

    御蔵稲荷神社(→神奈川県川崎市中原区小杉御殿町1丁目)は、江戸時代前期の1611(慶長16)年から1655(明暦元)年あるいは1660(万治3)年まで、歴代将軍(→徳川家康・秀忠・家光・家綱)が鷹狩後の休息地として利用した小杉御殿の御蔵屋敷跡地に建てられた神社です。「元禄国絵図」には、小杉御殿の敷地内には表御門、裏御門、御主殿、御殿番屋敷、御賄屋敷、御馬屋敷、御蔵、陣屋などが描かれていて、小杉御殿の廃止後、跡地に御主殿稲荷、...

  • 烏森神社(東京都港区)を訪問しました

    烏森神社(からすもりじんじゃ→東京都港区新橋2丁目)は、社伝によると平安時代の940(天慶3)年に平将門の乱が起きた際、平定に向かった下野掾(しもつけのじょう→下野国の国司の三等官)であった藤原秀郷(ふじわらのひでさと)が戦勝祈願のため武蔵国の稲荷神社を参詣したところ、烏の群がる所が霊地だと言う白狐の「霊夢」を見たことから、桜田郷の「烏の森」と呼ばれる烏が群集する松林に社殿を造営したということです。真偽の程は定...

  • 下沼部三社宮(神奈川県川崎市中原区)を訪問しました

    下沼部三社宮(→神奈川県川崎市中原区下沼部)は、江戸時代までは1つであった荏原郡下沼部村が1912(明治45)年4月1日に東京府と神奈川県に分かれたため、氏神を分霊して創建したと記される神社です。祭神は下沼部村の鎮守であった田園調布浅間神社(→東京都大田区田園調布1丁目)から勧請し、社殿は田園調布浅間神社に合祀され使用されなくなった旧赤城神社の社殿を流用し、その際に江戸時代より当地に鎮座していた稲荷堂を合祀したため...

  • 上丸子日枝神社(神奈川県川崎市中原区)を訪問しました

    上丸子日枝神社(→神奈川県川崎市中原区上丸子山王町)は、創建年代の詳細は不明ですが、神仏習合の頃は山王社と称しました。江戸時代前期の1642(寛永19)年8月17日に3代将軍徳川家光より神領20石(→御朱印)を拝領して別当寺であった日吉山 大楽院 神宮寺(→神奈川県川崎市中原区上丸子八幡町)から自立しているので、創建は小田原北条氏の治世下にあった戦国時代か、それ以前ということが分かります。社伝では平安時代の809(大同4)年に...

  • 大楽院(神奈川県川崎市中原区)を訪問しました

    日吉山 大楽院 神宮寺(→神奈川県川崎市中原区上丸子八幡町)は、創建年代の詳細は不明ですが江戸時代前期の1679(延宝7)年に死去した僧が中興開山したと記される真言宗豊山派寺院です。中興が江戸時代前期なのでそれよりかなり古い創建であることが分かります。江戸時代には本山・末寺の制により真言宗豊山派の総本山である豊山 神楽院 長谷寺(→奈良県桜井市初瀬)の末寺に属しました。また、江戸時代以前は近隣の山王社(→現在の上丸...

  • 京浜伏見稲荷神社(神奈川県川崎市中原区)を訪問しました

    京浜伏見稲荷神社(→神奈川県川崎市中原区新丸子東2丁目)は、戦災で壊滅的被害を受けた川崎地区の復興を願って1951(昭和26)年5月に京都伏見稲荷大社を勧請して創立された神社本庁に属さない単立神社です。境内には108体の狐像があることで知られ、地元の崇敬を受けています。拝殿は「江戸造り」という、霊峰として信仰される富士山の溶岩を土台に積む江戸時代に流行した建築様式です。高さ14mの鉄製大鳥居は1954(昭和29)年に建てら...

  • 今井神社(神奈川県川崎市中原区)を訪問しました

    今井神社(→神奈川県川崎市中原区今井上町)は、鎌倉時代初期に源頼朝が畠山重忠一族の小宮道康の霊を祀り創建したと伝わる神社です。記録には「小宮筑後守入道道康」とありますが、頼朝期には一般御家人が受領(ずりょう→国司、筑後守など)になることはなかっため誤りといえます。神仏習合の頃は山王社と称し、大乗寺(→現在は廃寺)が別当寺として祭祀を司ったようです。明治時代に日枝神社と改め、1910(明治43)年に国の一村一社政策...

  • 小野路小野神社(東京都町田市)を訪問しました

    小野神社(→東京都町田市小野路町)は、平安時代中期の天禄年間(→970年~973年)に、参議小野篁(おののたかむら)の7代子孫にあたる小野孝泰(おののたかやす)が武蔵守として赴任した際、小野篁の霊を祀ったことを起源とする神社と伝わります。室町時代前期の1403(応永10)年には、小野路郷の僧正珍が宮鐘を奉納したようですが、この鐘は山内上杉氏(やまのうちうえすぎし)と扇谷上杉氏(おうぎがやつうえすぎし)が争った長享の乱の際に山...

  • 小野路東光寺(東京都町田市)を訪問しました

    別所山 東光寺(→東京都町田市小野路)は、『町田市史』によると平安時代前期に俘囚(ふしゅう→朝廷に服属した蝦夷)の反乱の際に朝廷の命で東国を巡行した天台宗座主円仁(慈覚大師)が、東国各地に建立した東光寺の一つと伝わります。中世に衰退したようですが、江戸時代前期に僧の含室伝秀が曹洞宗寺院として開山し、江戸時代後期に大牛学道という僧が中興しました。江戸時代には本山・末寺の制により関戸寿福寺(→廃寺)の末寺であった...

  • 飯守神社(東京都町田市)を訪問しました

    飯守神社(→東京都町田市真光寺町)は、江戸時代前期の1650(慶安3)年に、幕府の旗本飯田次郎右衛門高家が金光山 観泉寺(→同)の住職俊誉を招いて創建したと伝わります。創建時は飯守明神といい観泉寺が別当寺として祭祀を司りました。1810(文化7)年10月に領主岡部蔵之助と漆戸兵三郎が観泉寺十三世英衛を招いて再建し、村持の社となりました。『東京都神社名鑑』によると、明治維新後の1871(明治4)年に飯守神社と改められ、1913(大正2...

  • 観泉寺(東京都町田市)を訪問しました

    金光山 観泉寺(→東京都町田市真光寺町)は、1615(慶長20)年の大坂夏の陣で戦死した幕府の旗本飯田右馬助昌有(いいだうまのすけまさあり)の菩提を弔うため、子の飯田次郎右衛門(いいだじろううえもん)が父昌有を開基、僧存祝を開山として創建したと伝わる曹洞宗寺院です。江戸時代には本山・末寺の制により補陀山 水月院 大泉寺(→東京都町田市下小山田町)の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。観泉寺は、江戸時代後期の1830(文政...

  • 西光院(神奈川県横浜市港北区)を訪問しました

    天文山 西光院 薬王寺(→神奈川県横浜市港北区日吉本町5丁目)は、創建年代は不明ですが江戸時代からある天台宗寺院です。開山・開基等の記録は火災で焼失したと記されています。江戸時代の頃は本山・末寺の制により清林山 仏乗院 金蔵寺(→神奈川県横浜市港北区日吉本町2丁目)の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。西光院は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』橘樹郡駒林村の条に次のように記されて...

  • 西量寺(神奈川県横浜市港北区)を訪問しました

    天捨山 西量寺(→神奈川県横浜市港北区日吉本町6丁目)は、創建年代の詳細は不明ですが室町時代の「永享十二年(→1440年)十月」の年号が彫られた道巌と妙心の逆修碑(→生前に自分の死後の仏事を済ませるために建立した板碑)と文明年間(→1469年~1486年)の年号が彫られた古碑があると伝わる天台宗寺院です。江戸時代の頃は西寮と呼ばれていたようです。西量寺は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』橘樹郡駒...

  • 真福寺(神奈川県横浜市港北区)を訪問しました

    下田山 真福寺(→神奈川県横浜市港北区下田町3丁目)は、杉窟悦という僧が開山、欄室関牛という僧が開基したと伝わる曹洞宗寺院です。かつては駒橋山という山号だったようです。江戸時代のは本山・末寺の制により雲松山 泉龍寺(→東京島狛江市元和泉1丁目)の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。江戸時代後期には、「相州一の沢弾誓上人の守仏」であった約18cmの子安延命地蔵が霊験ありとして広まり、毎年4月から7月にかけて江戸近...

  • 駒林神社(神奈川県横浜市港北区)を訪問しました

    駒林神社(→神奈川県横浜市港北区日吉本町2丁目)は、創建年代の詳細は不明ですが江戸時代には天神社として駒林村字中村の鎮守社であったと記されます。境内の八幡鳥居に「寛政八年(→1796年)九月、別当金蔵寺」とあるので、神仏習合の頃は天台宗寺院の清林山 仏乗院 金蔵寺(→神奈川県横浜市港北区日吉本町2丁目)が別当寺として祭祀を司っていたことが分かります。戦後、近くの八幡大神、熊野神社、妙義社を合祀し、町名にちなんで駒...

  • 下田神社(神奈川県横浜市港北区)を訪問しました

    下田神社(→神奈川県横浜市港北区下田町3丁目)は、創建年代の詳細は不明ですが真福寺文書には宝暦(→1751年~1764年)以前に創建された古社と記されています。江戸時代は熊野神社と呼ばれ駒ヶ橋村(→現在の下田町)の鎮守でした。1969(昭和44)年9月4日に土地開発計画に基づき三社合祀が行われ、下田町の旧村社「天照大神」と東部鎮守「熊野神社」及びその境外末社「天満天神社」を合祀し、下田神社に改められました。〖祭神〗・伊弉冉命...

  • 専念寺(神奈川県川崎市高津区)を訪問しました

    高林山 専念寺(→神奈川県川崎市高津区蟹ヶ谷)は、小田原北条氏の治世下にあった戦国時代に僧の祐覚が開基したと伝わる浄土真宗東本願寺派寺院です。祐覚は1569(永禄12)年4月18日に死去しているので創建はそれ以前となります。専念寺は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』橘樹郡蟹ヶ谷村の条に次のように記されています。******************************蟹ヶ谷村専念寺村の中央 字寺の下にあり、浄土真...

  • 金刀比羅神社・八阪神社(神奈川県横浜市緑区)を訪問しました

    金刀比羅神社・八阪神社(→神奈川県横浜市緑区長津田町)は、江戸時代中期の1738(元文3)年に橘樹郡中原村鞘ヶ谷の領主久保氏が讃岐国金刀比羅神社(→香川県仲多度郡琴平町)を勧請して創建したと伝わる神社で、八阪神社は明治維新後に京都八坂神社(→京都府京都市東山区祇園町北側)を勧請して合祀されたと伝わります。現在は近隣にある大石神社の管理下にあるようです。境内の「皇太子殿下御野立之跡」は、1921(大正10)年に皇太子裕仁親...

  • 中恩田明神社(神奈川県横浜市青葉区)を訪問しました

    中恩田明神社(→神奈川県横浜市青葉区恩田町)は、江戸時代前期の1659(万治2)年に田中作右エ門信友が創建し、1699(元禄12)年に子孫の田中伝兵エ信高が京都伏見稲荷神社(→京都府京都市伏見区深草藪之内町)を勧請して神明稲荷社と呼ばれたと伝わる神社です。江戸時代には高野山真言宗寺院の興栄山 信乗院 万福寺(→神奈川県横浜市青葉区田奈町)が別当寺として祭祀を司りました。中恩田明神社は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂され...

  • 恩田薬師堂(神奈川県横浜市青葉区)を訪問しました

    恩田薬師堂(→神奈川県横浜市青葉区恩田町)は、小田原北条氏の治世下にあった戦国時代に僧の印興が開山した高野山真言宗寺院・瑠璃山 医王寺の薬師堂です。医王寺は、明治時代初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で廃寺となり、現在は薬師堂のみが残りますが、江戸時代には摩尼山 延寿院 徳恩寺(→神奈川県横浜市青葉区恩田町)の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。本尊の薬師如来像は寺伝では行基作とありますが、真偽の程は定か...

  • 松岳院(神奈川県横浜市青葉区)を訪問しました

    大峰山 松岳院(→神奈川県横浜市青葉区奈良2丁目)は、この地の領主であった石丸定太郎の先祖である正覚院応誉身西が江戸時代前期に創建した曹洞宗寺院で、境内墓地には石丸定勝が建立したという先祖三代の供養塔が残されています。江戸時代には本山・末寺の制により高峯山 天寧寺(→東京都青梅市根ヶ布1丁目)の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。創建時は正覚院と称していたようですが、江戸時代の中頃に松岳院に改められたよう...

  • 盛円寺(神奈川県横浜市青葉区)を訪問しました

    能王山 盛円寺(じょうえんじ→神奈川県横浜市青葉区すみよし台)は、鎌倉時代に日蓮六老僧の一人であり日持上人(にちじしょうにん)が開山し、小田原北条氏の治世下にあった戦国時代の永正年間(→1504年~1520年)に日授上人が中興したと伝わる青葉区唯一の日蓮宗寺院です。江戸時代には本山・末寺の制により身延山 久遠寺(→日蓮宗総本山、山梨県南巨摩郡身延町身延)の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。かつては七面堂と鐘楼があ...

  • 法道寺(神奈川県横浜市青葉区)を訪問しました

    松林山 法道寺(→神奈川県横浜市青葉区荏田東4丁目)は、江戸時代前期に僧の石岑が開山したと伝わる曹洞宗寺院です。石岑は1655(明暦元)年10月22日に死去しているので創建はそれ以前であることが分かります。江戸時代には本山・末寺の制により青龍山 円福寺(→神奈川県川崎市高津区下作延7丁目)の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。天保(→1830年~1844年)は観音堂と鎌倉時代後期の正和四年(→1315年、北条高時政権)の年号が刻まれ...

  • 市ヶ尾竹下地蔵堂(神奈川県横浜市青葉区)を訪問しました

    市ヶ尾竹下地蔵堂(→神奈川県横浜市青葉区市ヶ尾町)は、大山詣の参拝客で大山街道が賑わった江戸時代中期に建立された地蔵堂で、地元では千日の托鉢によって建てられたという伝承から「千日堂」とも呼ばれます。江戸時代の頃は、市ヶ尾杉山神社(→神奈川県横浜市青葉区市ヶ尾町)の別当寺を務めた真言宗豊山派寺院の初割山 永寿院 東福寺(→神奈川県横浜市青葉区市ヶ尾町)が祭祀や貢納を管理しました。本尊は弘法大師(→真言宗の開祖空...

  • 大麻止乃豆乃天神社(東京都稲城市)を訪問しました

    大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのてんじんしゃ→東京都稲城市大丸)は、平安時代の927(延喜5)年に編纂された『延喜式神名帳』記載の「大麻止乃豆乃天神社」に比定される神社の1つです。江戸時代の頃は丸宮社や丸宮明神と呼ばれ、隣接する臨済宗建長寺派寺院の大慈山 円照寺(→東京都稲城市大丸)が別当寺として祭祀を司りました。〖主祭神〗・櫛真知命(くしまちのみこと) →太占(ふとまに→鹿の骨を焼いてそのひび割れで吉凶を占う)...

  • 円照寺(東京都稲城市)を訪問しました

    大慈山 円照寺(→東京都稲城市大丸)は、創建年代は不明ですが小田原北条氏の治世下にあった戦国時代の1587(天正15)年に僧の明哲西堂が中興したと伝わる臨済宗建長寺派寺院です。寺紋には建長寺派寺院で馴染み深い三鱗紋(北条鱗紋)が使われています。神仏習合の頃は仙谷山 寿福寺(→神奈川県川崎市多摩区菅仙谷1丁目)の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。現在の本堂は江戸時代中期の1770(安永7)年に改修されたものといいます。現...

  • 普門庵(東京都稲城市)を訪問しました

    万松山 普門庵(ばんしょうざん ふもんあん→東京都稲城市大丸)は、旗本朝倉正豊(あさくらまさとよ)が万松山 東海寺(→東京都品川区北品川3丁目)の別院として1680(延宝8)年に創建した臨済宗大徳寺派の小さな山寺(観音堂)です。江戸時代には本山・末寺の制により東海寺の塔頭浄栄院の末寺とされますが、地元民の信仰心によって無住の観音堂が維持されてきました。1975(昭和50)年から長らく廃寺になりますが、1989(平成元)年に復興を遂...

  • 連光寺春日神社(東京都多摩市)を訪問しました

    連光寺春日神社(→東京都多摩市連光寺1丁目)は、境内掲示によると、武蔵国多磨郡のうち吉富と連光寺を所領に加えられた源頼朝の御家人稲毛重成(いなげしげなり)が、1181(治承5)年4月頃に大和国春日大社の四社明神を勧請したと伝わる神社です。神仏習合の頃の神体は約25cmの「頭に青龍をいただき笏(しゃく)を持つ坐像だったようです。江戸時代には連光寺村の鎮守となり、1677(延宝5)年、1692(元禄5)年10月、1719(享保4)年9月、1867(...

  • 連光寺白山神社(東京都多摩市)を訪問しました

    連光寺白山神社(→東京都多摩市連光寺6丁目)は、江戸時代前期の1626(寛永3)年に当時の多磨郡柚木領蓮光寺村に創建された神社と伝わります。神仏習合の頃の神体は1680(延宝8)年に奉遷(→他の場所から移)されたようですが、何であったのかは定かではありません。幕末期の1857(安政4)年11月に社殿を改築したとあり、本殿の逗子は源忠行という宮大工棟梁の作と記されます。〖祭神〗・伊弉諾命(いざなぎのみこと)・伊弉冉命(いざなみの...

  • 宝蔵院(東京都稲城市)を訪問しました

    権現山 宝蔵院 宝尺寺(→東京都稲城市坂浜)は、小田原北条氏の治世下にあった戦国時代に北条家臣富永織部(とみながおりべ)が鬼門除に開基、権僧都院栄(ごんのそうずいんえい)が開山したと伝わる真言宗豊山派寺院です。権僧都院栄は1567(永禄10)年7月10日に没しているので、創建はそれ以前であることが分かります。江戸時代には本山・末寺の制により岩船山 大智院 高勝寺(→東京都稲城市坂浜)の末寺となりました。明治時代初期の1873(...

  • 平和の碑 探照灯基地跡(神奈川県川崎市麻生区)を訪問しました

    平和の碑 探照灯基地跡(→神奈川県川崎市麻生区古沢)は、太平洋戦争後期の1944(昭和19)年9月から終戦直後の1945(昭和20)年8月17日まで使用された旧日本軍の探照灯基地跡に設置された石碑です。石碑は1991(平成3)年に地元の有志によって建てられたもので、石碑の隣には幕末期の1853(嘉永6)年に建立された地神塔があります。探照灯は今でいうサーチライトのことで、サイパン島の陥落後、B⁻29(→アメリカ軍の戦略爆撃機)による空襲から...

  • 延命寺(神奈川県川崎市高津区)を訪問しました

    赤城山 妙覚院 延命寺(→神奈川県川崎市高津区上作延)は、安土桃山時代に村民某(→名前不詳)が先祖菩提のために小さな草庵を建立し、その法諡をとって妙覚院としたところから始まると伝わる天台宗寺院です。江戸時代前期の1615(元和元)年に、当時住職であった泉海が、上作延村にあった赤城神社の麓に移転して寺格を整備し、赤城神社の別当寺として祭祀を司ったと記されます。現在の山号寺号になったのは5代目住職の栄賢の時といい、...

  • 大明王院(神奈川県川崎市高津区)を訪問しました

    身代山 大明王院(→神奈川県川崎市高津区下作延4丁目)は、江戸幕府5代将軍徳川綱吉、その生母桂昌院(けいしょういん)、6代将軍徳川家宣(いえのぶ)の帰依を受け、徳川将軍家の菩提寺の1つである三縁山 広度院 増上寺(→東京都港区芝公園4丁目)の36代住職を務めた祐天上人(ゆうてんしょうにん)が諸国行脚の際に安置したと伝わる身代わり不動尊を、1904(明治37)年に喜衆上人が現在地に移して開山したと伝わる真言宗醍醐寺派の別格本山で...

  • 薬王庵(神奈川県川崎市宮前区)を訪問しました

    芥志山 薬王庵(→神奈川県川崎市宮前区平4丁目)は、江戸時代に代々平村の名主を務めた平左衛門家の山田平七が、1764(宝暦14)年4月15日、屋敷地に準西国稲毛三十三ヶ所の観音霊場として開基したと伝わります。平左衛門は、平安時代末期に京都から関東に逃れてきた「やむごとなき人」(やんごとなき人→高貴な人)で、当初は鎌倉鶴岡八幡宮近くの杉田という地に居住したため杉田藤太と名乗り、鎌倉時代に武家(→稲毛氏か)に仕えて平郷に所...

  • 犬蔵天神社・土橋観音堂(神奈川県川崎市宮前区)を訪問しました

    ①犬蔵天神社(→神奈川県川崎市宮前区犬蔵1丁目)は、江戸時代中期の1767(明和4)年に建立された石造の菅原道真像(天神像)を祀る小さな神社です。『新編武蔵風土記稿』橘樹郡下菅生村の条には記載されていません。社前には二十三夜塔・稲荷祠・馬頭観音・庚申塔が並び、地域の交流の拠点であったことが分かります。月待供養塔は、五穀豊穣や子孫繁栄を祈る二十三夜の月待行事を祈念したもので、浄土宗本尊(→阿弥陀如来)の脇侍としても...

  • 全龍寺(神奈川県川崎市中原区)を訪問しました

    福聚山 全龍寺(→神奈川県川崎市中原区下小田中5丁目)は、室町時代後期に創建された逆翁山 常泉寺という寺院を前身とする曹洞宗寺院です。本尊は室町時代に彫られた十一面観音坐像で、鑑定は川崎市教育委員会が行っています。当初の山号寺号は安土桃山時代の天正年間(→1573年~1592年)まで使われ、江戸時代の寛永年間(→1624年~1643年)に梵光和尚が福聚山 金龍寺と改称、さらに、1662(寛文2)年に本山であった乗国山 徳翁寺(→神奈川...

  • 妙延寺(神奈川県川崎市麻生区)を訪問しました

    万年山 妙延寺(→神奈川県川崎市麻生区多摩美1丁目)は、江戸時代前期の1620(元和6)年に祐玄という僧が日本橋浜町に開基し、1658(万治元)年に築地本願寺(→東京都中央区築地3丁目)の移転に従い築地に移転したと伝わる浄土真宗本願寺派寺院(→元築地58ヶ寺)です。現在地には1964(昭和39)年から約5年かけて移転したようです。妙延寺は『新編武蔵風土記稿』には記載がありませんが、東京都中央区が刊行した『中央区史』には次のように記さ...

  • 大戸神社(神奈川県川崎市中原区)を訪問しました

    大戸神社(おおとじんじゃ→神奈川県川崎市中原区下小田中1丁目)は、小田原北条氏の治世下であった戦国時代の永正年間(→1504年~1521年)に、北条氏の有力国衆であった世田谷吉良氏の被官内藤内匠之助(ないとうたくみのすけ)が戸隠明神(とがくしみょうじん→長野県長野市戸隠)を勧請して創建したと伝わる神社です。戦国時代、当地には世田谷吉良氏の所領がありました。神仏習合の頃は曹洞宗寺院の福聚山 金龍寺(現在は全龍寺→神奈川県...

  • 安楽寺(神奈川県川崎市中原区)を訪問しました

    向富山 安楽寺(→神奈川県川崎市中原区下小田中2丁目)は、小田原北条氏の統治下の天文年間(→戦国時代の1532年~1555年)の初年に甲斐国出身の高順という僧が、鎌倉時代の仏師湛慶(たんけい→運慶の子)が彫ったという阿弥陀如来像を本尊とする阿弥陀堂を建てのが起こりと記される曹洞宗寺院です。5代目住職の時に相模国徳翁寺の乾室巌隆を招いて寺格を整備しましたが、その後「住僧のうちよからぬ者」がやって来て本尊を失い、客殿など...

  • 善教寺(神奈川県川崎市中原区)を訪問しました

    井田山 善教寺(→神奈川県川崎市中原区井田1丁目)は、小田原北条氏の治世の戦国時代に創建されたと伝わる浄土宗寺院です。寺伝によると、戦国時代の井田郷にあった僧侶の庵から始まり、観音町という所にあった応龍院という観音堂が洪水で矢上村という所まで流され、その巽の方角(→東南)の山の麓に道全という禅門を招いて創庵したといいます。禅門というので創建当初は禅宗(→臨済宗または曹洞宗)だったのでしょう。その後、天台宗寺...

  • 井田三舞稲荷大明神(神奈川県川崎市中原区)を訪問しました

    井田三舞稲荷大明神(→神奈川県川崎市中原区井田三舞町)は、江戸時代後期に徳川家臣・旗本青山甚右衛門の屋敷稲荷として建立された神社です。社殿は欅の権現造(ごんげんづくり)で、龍の彫刻と青山家の家紋「丸に三つ割菊」が配されています。境内は約70坪あり、個人所有の稲荷神社としては区内屈指の広さといえます。現在の社殿は1986(昭和61)年に青山家と地元の有志らによって改修されました。青山甚右衛門は1873(明治7)年に明治政...

  • 井田神社(神奈川県川崎市中原区)を訪問しました

    井田神社(→神奈川県川崎市中原区井田中ノ町)は正式には天照皇大神宮といい、『武蔵国稲毛本庄検注目録』の中に「平治元年(→1159年)御検注定、井田郷鎮守神田三段」と書かれていることから平安時代に創建されたことが分かります。1159(平治元)年は平清盛が源義朝(みなもとのよしとも→源頼朝の父)を平治の乱で破った年でもあります。神仏習合の頃は太神宮といい、天台宗寺院の清林寺 仏乗院 金蔵寺(→神奈川県横浜市港北区日吉本町2丁...

  • 金蔵寺(神奈川県横浜市港北区)を訪問しました

    清林山 仏乗院 金蔵寺(こんぞうじ→神奈川県横浜市港北区日吉本町2丁目)は、平安時代前期の貞観年間(→859年~876年)に清和天皇の勅願により天台座主の円珍(智証大師)が創建したと伝わる天台宗寺院です。最盛期には「東三井寺」(ひがしみいでら→関東の三井寺園城寺)と称され、塔頭23寺を持つ大寺院だったと記されます。中世に火災で衰退したものの、江戸時代には本山・末寺の制により徳川将軍家の菩提寺の1つである東叡山 円頓院 寛...

  • 長円寺(神奈川県横浜市港北区)を訪問しました

    詠永山 長円寺(→神奈川県横浜市港北区高田西5丁目)は、江戸時代の初めに小長谷十郎左衛門の領地であった当地に創建された浄土宗寺院です。小長谷十郎左衛門は『伊豆国君沢郡内浦史料目録』の番所屋敷年貢免許覚書に名が記された旧小田原北条家臣の徳川家旗本です。長円寺はもとは詠月庵という草庵でしたが、1615(元和元)年10月5日に没した初代住職安蓮社尊誉が寺に改めたと記されています。江戸時代の頃は本山・末寺の制により松亀...

  • 塩谷寺(神奈川県横浜市港北区)を訪問しました

    薬王山 光明院 塩谷寺(→神奈川県横浜市港北区高田西4丁目)は、平安時代初期の851(仁寿元)年に文徳天皇の勅命を受け、天台座主の円仁(慈覚大師)が開山したと伝わる天台宗寺院です。寺伝によると、文徳天皇(在位851年~858年)が中宮の病や皇嗣問題に悩んでいた際、円仁が横浜高田の地に湧き出る「霊験あらたかな霊泉」を献上し、天皇がそれを使って儀式を行ったところ中宮の病が治り、惟仁親王(これひとしんのう)に注いだ時に雫が光...

  • 興禅寺(神奈川県横浜市港北区)を訪問しました

    円滝山 光明院 興禅寺(→神奈川県横浜市港北区高田町)は、平安時代の853(仁寿3)年に天台座主の円仁(慈覚大師)が自彫の十一面観音像と勝軍地蔵尊を安置して開山したと伝わる天台宗寺院です。南北朝時代には時の領主であった足利一族の桃井直常(もものいただつね)によって荒廃した伽藍が再建されたと伝わります。神仏習合の頃は興禅寺が別当寺として高田天満宮(→神奈川県横浜市港北区高田西3丁目)の祭祀を司りました。江戸時代には本...

  • 高田天満宮(神奈川県横浜市港北区)を訪問しました

    高田天満宮(→神奈川県横浜市港北区高田西3丁目)は、縁起によると鎌倉時代後期の1325(正中2)年5月25日の夜に申酉(→西)の方角より光物が現れて振動し梅の若木の下に小蛇が現れた奇端を「天神に観音の垂迹(すいじゃく)」とされ、新田義貞の鎌倉攻めに従軍し、南北朝時代にこの地の領主となった足利一門の桃井直常(もものいただつね)が「之を見聞し信心止みがたく遂に」社殿を建立したと記されます。神仏習合の頃は境内に天台宗寺院の...

  • 王禅寺(神奈川県川崎市麻生区)を訪問しました②

    星宿山 蓮華蔵院 王禅寺(→神奈川県川崎市麻生区王禅寺)は、平安時代の921(延喜21)年に高野山の無空上人によって創建されたと伝わる、鎌倉北条氏庶流の金沢北条氏(かねさわほうじょうし)と縁が深い真言宗豊山派寺院です。最盛期には禅宗・律宗・真言宗の兼学道場を兼ねて「(関)東の高野山」と呼ばれ、多くの末寺がありました。現在は宅地開発された小山の中でひっそりとたたずむ王禅寺ですが、「王禅寺」と名がつく地名が広域に残る...

    地域タグ:麻生区

  • 奈良町住吉神社(神奈川県横浜市青葉区)を訪問しました

    奈良町住吉神社(→神奈川県横浜市青葉区奈良町)は、江戸時代の1772(安永元)年に地頭石丸藤蔵の寄進を受け、奈良村の村民が欅材を持ち寄って創建し、村の鎮守として祀ったと伝わる神社です。江戸時代には高野山真言宗寺院の摩尼山延寿院徳恩寺(→神奈川県横浜市青葉区恩田町)が別当寺として祭祀を司りました。1921(大正10)年には神饌幣帛料供進神社(しんせんへいはくりょうきょうじんしゃ)となり、勅令に基づいて神奈川県知事から例祭...

  • 北条氏常盤亭跡(神奈川県鎌倉市)を訪問しました

    北条氏常盤亭跡(→神奈川県鎌倉市常盤)は、7代執権北条政村(→政村流北条氏の祖)、6代連署北条義政(→塩田北条氏の祖)、北条時茂(ときもち→常盤北条氏の祖)・北条時範(ときのり→時茂の子)、北条範貞(のりさだ→時範の子)らの邸宅跡です。東西約700m、南北300mに及ぶ敷地で、木の柵が設置された谷戸の一段高くなっているところは常盤亭跡の中でも中心的な場所であったといいます。ここを拠点にした北条一門を常盤北条氏といい、鎌倉末...

  • 佐助稲荷神社(神奈川県鎌倉市)を訪問しました

    佐助稲荷神社(→神奈川県鎌倉市佐助2丁目)は、鎌倉時代の建久年間(1190年~1199年)に鎌倉幕府を創設した源頼朝が有力御家人の畠山重忠に命じて創建したと伝わる神社です。佐助の地名は「佐殿(すけどの)頼朝を助けた」が由来といい、『新編鎌倉志』には南北朝時代の1359(延文4)年12月11日に、凶徒(→南朝勢力)退治の祈祷を佐助稲荷神社の別当三位僧都に命じた足利尊氏の古文書が、鶴岡等覚院(→現在は廃寺)にあると記されています。神...

  • 銭洗弁財天 宇賀福神社(神奈川県鎌倉市)を訪問しました

    銭洗弁財天 宇賀福神社(→神奈川県鎌倉市佐助2丁目)は、1185(文治元年)4月に、鎌倉幕府の初代将軍源頼朝が「霊夢」によるお告げに従い宇賀福神を祀ったことから始まる神社です。宇賀神は中世以降に信仰された財をもたらす福神で、仏教の弁財天と習合して宇賀弁財天とも呼ばれました。1257(正嘉元)年に5代執権北条時頼が霊水で銭を洗って一族の繁栄を願ったことから、北条一族の繁栄にあやかろうと銭洗いの風習が広まったと伝わりま...

  • 洲崎古戦場(神奈川県鎌倉市)を訪問しました

    洲崎古戦場(→神奈川県鎌倉市寺分1丁目)は、鎌倉時代末期の1333(元弘3)年5月18日に鎌倉を攻める新田義貞の軍勢に対して、鎌倉幕府16代執権の赤橋(北条)守時は防御を命じられた巨福呂坂(こぶくろざか)切通しから出撃し、化粧坂(けわいざか)切通しを攻める新田軍主力に対峙するため洲崎で果敢な突撃を繰り返したのち、自害したと伝わる古戦場です。『太平記』の記述によれば、新田方の総大将堀口貞満(ほりぐちさだみつ)が陣容を整え波...

  • 早雲寺(神奈川県足柄下郡箱根町)を訪問しました

    金湯山 早雲寺(→神奈川県足柄下郡箱根町湯本)は、戦国時代の1521(大永元)年に小田原北条氏の2代北条氏綱が初代伊勢宗瑞(→いわゆる北条早雲)の遺命に従い、龍宝山 大徳寺(→京都府京都市北区紫野大徳寺町)の83代住職以天宗清を招いて建立した臨済宗大徳寺派寺院です。建立時期については1531(享禄4)年以降であるとする説も有力です。戦国時代には小田原北条氏の菩提寺として「関東第一の名寺」と謳われ、1542(天文11)年には勅願寺(→...

  • 鵐の窟・頼朝船出の浜(神奈川県足柄下郡真鶴町)を訪問しました

    鵐の窟(しとどのいわや→神奈川県足柄下郡真鶴町真鶴)は、1180(治承4)年8月24日の石橋山合戦で平家方の大庭景親(おおばかげちか)に敗れた源頼朝が、身を潜めたものの平家方の梶原景時(かじわらかげとき)の計らいで見逃され難を逃れたという伝承をもつ史跡です。平安時代末期の鵐の窟は奥行きが130mほどあったようですが、1923(大正12)年9月1日の関東大震災による隆起により現在の奥行は11mほどです。窟の近くには「頼朝観音堂」が...

  • 真鶴貴船神社(神奈川県足柄下郡真鶴町)を訪問しました

    真鶴貴船神社(→神奈川県足柄下郡真鶴町)は、平安時代の889(寛平元)年に平井の翁という人が沖合から漂流してきた楼船の中から木像十体余りを発見し、貴ノ宮大明神として祀ったことが起源と伝わる神社です。1868(明治元)年に神仏分離令が発布され現在の社号となったようです。境内には1180(治承4)年の石橋山合戦に敗れた源頼朝が「しとどの窟」に身を潜める前に休息したと伝わる「頼朝の腰掛石」と伝わる岩が奉納されています。〖祭...

  • 高円寺(東京都杉並区)を訪問しました

    宿鳳山高円寺(→東京都杉並区高円寺南4丁目)は、小田原北条氏の統治下である戦国時代の1555(弘治元)年に、多宝山成願寺(→東京都中野区本町2丁目)の三代住職建室宗正が開基したと伝わる曹洞宗寺院です。現在の本尊は観音菩薩で、室町時代に作られた阿弥陀如来坐像も安置されています。かつてこの辺りには桃の木が多くあったことから桃園と呼ばれ、「桃堂の桃園観音」と呼ばれていたようです。高円寺は5代住職耕岳益道のときに、3代将...

  • 麻布氷川神社(東京都港区)を訪問しました

    麻布氷川神社(→東京都港区元麻布1丁目)は、社伝によると平安時代の938(天慶元)年に、清和源氏の源経基(みなもとのつねもと)が平将門の乱を平定するため東征した際に、武蔵国豊島郡谷盛浅布冠の松(→現在の麻布一本松の地)に創建したのが始まりと伝わります。ただし、源経基が武蔵介として現地に赴任して在地の検注(→荘園の土地調査)を行ったのは938(天慶元)年で、いわゆる平将門の乱は939(天慶2)年のことなので時系列に齟齬が見られ...

  • 赤坂氷川神社(東京都港区)を訪問しました

    赤坂氷川神社(→東京都港区赤坂6丁目)は、社伝によると平安時代の951(天暦5)年に東国を遊行していた蓮林僧正が一ツ木村(→現在の赤坂4丁目付近)で一夜を明かした際に見た「霊夢」により、この地に氷川明神の社殿を建てたのが始まりとされます。江戸時代中期の1716(享保元)年、紀州徳川家出身の徳川吉宗が8代将軍に就任すると、紀州藩の中屋敷が赤坂にあったことから、氷川明神の信仰が高まり、1719(享保14)年には、吉宗の命令を受け...

  • 虎ノ門金刀比羅宮(東京都港区)を訪問しました

    虎ノ門金刀比羅宮(→東京都港区虎ノ門1丁目)は、江戸時代前期の1660(万治3)年に讃岐丸亀藩主京極高和(きょうごくたかかず)が国元の象頭山に鎮座する金刀比羅宮(本宮)を藩邸のあった芝・三田の地に勧請し、1679(延宝7)年に京極高豊(きょうごくたかとよ)の代に藩邸が現在地に移転したため金刀比羅宮も移転したと記されます。江戸時代後期に金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)と改称しましたが、神仏分離令により1869(明治2)年に金刀...

  • 愛宕神社(東京都港区)を訪問しました

    愛宕神社(→東京都港区愛宕1丁目)は標高26mの愛宕山の山頂にあります。戦国時代の1582(天正10)小年に小田原北条氏が近江国信楽より勧請したのが始まりで、1603(慶長8)年に徳川家康によって防火の守り神とされました。1610(建長15)年には2代将軍徳川秀忠が社殿、末社、仁王門、坂下総門、別当所などを寄進したと伝わります。江戸時代を通して祭礼などには将軍家から金銭が下賜されるなど崇敬を受けました。1657(明暦3年)の明暦の大...

  • 小手指原古戦場碑(埼玉県所沢市)を訪問しました

    小手指原古戦場碑(こてさしがはらこせんじょうひ→埼玉県所沢市北野2丁目)は、鎌倉時代末期の1333(元弘3)年5月11日に新田義貞(にったよしさだ)率いる討幕軍と、桜田貞国(→得宗北条高時の叔父)率いる幕府軍との間で行われた小手指原合戦の古戦場跡です。5月8日に生品神社(→群馬県太田市新田市野井町)で挙兵した新田義貞に対し、鎌倉幕府は北条一門の桜田貞国を大将、上野守護代長崎孫四郎左衛門尉(ながさきまごしろうざえもんのじょ...

  • 生田杉山神社(神奈川県川崎市多摩区)を訪問しました

    生田杉山神社(→神奈川県川崎市多摩区西生田3丁目)は創建年代は不明ですが江戸時代には五段田村の鎮守として寄合などに使われていたと伝わります。『神奈川県神社誌』には江戸時代に御神体として祀られていた御神剣に「慶長十八年(→1613年)四月一日願主本多佐渡守が両代官、小林九良左エ門、岡本八郎右エ門をして之を再建せしむ」と刻まれていると記されています。神仏習合の頃は、真言宗豊山派寺院の万休山福聚院観音寺(→神奈川県...

  • 栗谷須賀神社(神奈川県川崎市多摩区)を訪問しました

    栗谷須賀神社(→神奈川県川崎市多摩区栗谷3丁目)は江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』に記載がないため、その頃は別当寺が衰退して荒廃していたと思われますが、『神奈川県神社誌』には安土桃山時代の創建という伝承と1840(天保11)年に社殿を改築したことが記されています。〖祭神〗・素戔嗚尊(すさのおのみこと)********************************『神奈川県神社誌』古人がこの栗谷の地を開拓して定住...

  • 明治大学平和教育登戸研究所資料館(神奈川県川崎市多摩区)を訪問しました

    明治大学平和教育登戸研究所資料館(→神奈川県川崎市多摩区東三田1丁目)は、明治大学生田キャンパス内にある大日本帝国陸軍の「第九陸軍技術研究所」(登戸研究所)に関する資料館です。登戸研究所は帝国陸軍が秘密戦のための兵器・資材を研究・開発するために設置した研究所で、その存在は一般国民には秘密にされていました。秘密戦とは防諜(→スパイ防止)、謀略(→破壊・攪乱活動、暗殺)、宣伝(→人心の誘導)の4つから成り立っていて、...

  • あざみ野神明社(神奈川県横浜市青葉区)を訪問しました

    あざみ野神明社(→神奈川県横浜市青葉区あざみ野1丁目)は、創建年代は不明ですが『神奈川県神社誌』に「往古より当地の鎮守として村人和合の中心となり、伝統ある神事を奉仕しつつ現在に至った。」と記されています。横浜市指定無形民俗文化財に指定されている牛込獅子舞が神事として奉納されるようです。〖祭神〗・大日孁尊(おおひるめのみこと) →天照大神(あまてらすおおみかみ)のことあざみ野神明社は、江戸時代後期の1830(文...

  • 鐵神社(神奈川県横浜市青葉区)を訪問しました

    鐵神社(くろがねじんじゃ→神奈川県横浜市青葉区鉄町)は、高校ラグビーの強豪校として知られる私立・桐蔭学園のバスターミナルに参道・狛犬・鳥居がある神社です。鐵神社は、琴平神社(→神奈川県川崎市麻生区王禅寺)が管理しているため、御朱印などは琴平神社でいただけます。「鐵」は「鉄」の旧字体です。「由緒・沿革」を記した案内板によると、戦国時代中期の天文年間(1532年~1555年)に創建され、当時は青木明神・杉山明神と称し...

  • 鉄火松跡(神奈川県川崎市麻生区)を訪問しました

    鉄火松跡(→神奈川県川崎市麻生区早野)は、一袖山 宗英寺(いっちゅうざん そうえいじ→神奈川県横浜市青葉区鉄町)より徒歩5分ほどの農道にある、中世の日本各地で行われた在地の裁判の1つである「鉄火の法」にまつわる石碑です。「鉄火の法」は、争う両者が神前で、火で熱した鉄斧・鉄鎌などを手に受けて、無事に掴みとった者や火傷の程度が軽い者を勝者とするものです。鉄斧・鉄鎌の代わりに焼いた石を握る「石焼の法」というものも...

  • 無量光寺(神奈川県相模原市南区)を訪問しました

    当麻山 無量光寺(→神奈川県相模原市南区当麻)は、鎌倉時代の1261(弘長元)年に「踊り念仏」を広めたことで知られる一遍(いっぺん)が開いた草庵を起源とする時宗(じしゅう)寺院です。一遍から遊行を引き継いだ真教(しんきょう)が老衰のためこの地に戻り、1304(嘉元2)年ここに堂宇を建立し、阿弥陀仏の別名である無量光仏から「無量光寺」と名付け、一遍の分骨を埋骨して念仏の根本道場としました。真教は1319(文保3)年1月に死去する...

  • 根小屋諏訪神社(神奈川県相模原市緑区)を訪問しました

    根小屋諏訪神社(ねこやすわじんじゃ→神奈川県相模原市緑区根小屋)は、鎌倉時代初期の1192(建久3)年に筑井城(つくいじょう)を築城した筑井太郎次郎義胤(つくいたとうじろうよしたね)が勧請したと伝わります。神仏習合の頃は井木山寿性院(→現在は廃寺)が別当寺を務めました。『津久井郡文化財神社編』によると、戦国時代には小田原北条氏の有力国衆であった津久井城主内藤景定(ないとうかげさだ)によって1527(大永7)年に50間4面の社...

  • 飯縄神社(神奈川県相模原市緑区)を訪問しました

    飯縄神社(いいづなじんじゃ→神奈川県相模原市緑区根古屋)は、小田原北条氏の有力国衆であった津久井内藤氏の居城津久井城の飯縄曲輪(いいづなくるわ)にある神社で、鎌倉時代の1197(建久8)年に前身の筑井城(つくいじょう)を築いた筑井太郎次郎義胤(つくいたろうじろうよしたね)が勧請したと伝わります。戦国時代には津久井城主内藤景定が城の守護神として社殿を改築したと伝わります。津久井城の山頂付近は西峰の本城曲輪・太鼓曲輪...

  • 津久井城(神奈川県相模原市緑区)を訪問しました

    津久井城(つくいじょう→神奈川県相模原市緑区根古屋)は、鎌倉時代初期に三浦氏の一族である筑井太郎次郎義胤(つくいたろうじろうよしたね→筑井為行とも)が築城したところから始まる根古屋式の山城で、津久井湖の南に聳える標高375ⅿの城山に築かれています。戦国時代には、小田原北条氏の有力国衆で「津久井衆」を率いた津久井内藤氏が城主を務め、対武田氏の最前線の城として重視されました。『勝山記』には、1525(大永5)年に甲斐...

  • 浅利明神(神奈川県愛甲郡)を訪問しました

    浅利明神(→神奈川県愛甲郡愛川町)は、戦国時代の1569(永禄12)年10月8日の三増合戦(三増峠の戦い)において戦死した武田方の重臣浅利信種(あさりのぶたね)を祀った神社です。江戸時代の1700(元禄13)年3月に曾雌常右衛門知義(そしつねえもんともよし)という武士が、主君の下総関宿藩主牧野備前守成春(まきのびぜんのかみなりはる)の命でこの地を検分した際に、自身にゆかりのある浅利信種がこの地で戦死したことを知り、「浅利墓所」...

  • 三増合戦史跡(神奈川県愛甲郡愛川町)を訪問しました

    三増合戦史跡(→神奈川県愛甲郡愛川町三増)は、戦国時代の1569(永禄12)年10月8日に、甲斐の武田信玄と小田原北条氏の別動隊との間で行われた「三増合戦(みませかっせん)」「三増峠の戦い(みませとおげのたたかい)」に関する史跡です。三増合戦場碑は昭和時代後期の1969(昭和44)年に建立され、その周辺には両軍の戦死者を埋葬したと伝わる首塚や胴塚や、戦死した武田家臣浅利信種(あさりのぶたね)を祀る浅利神社などがあります。〖三...

  • 小山田家住宅・矢沢家表門(長野県長野市松代町)を訪問しました

    小山田家住宅(→長野県長野市松代町)は、1849(嘉永2)年に建てられた木造2階建て、寄棟、銅板葺の数寄屋造(すきやづくり)の上級武家屋敷で、冠木門(かぶきもん)の西側に置かれた番所と母屋は2006(平成18)年に国登録有形文化財に指定されています。初代の小山田茂誠(おやまだしげまさ、1561年~1637)年は、甲斐都留郡の国衆小山田氏の一門筆頭で、父は1582(天正10)年3月の武田氏滅亡後に小田原北条氏を頼り、武蔵鉢形城(→埼玉県寄居町...

  • 松井須磨子の墓所(長野県長野市松代町)を訪問しました

    日本初の歌う女優として大正時代に一世を風靡した松井須磨子(まついすまこ)は、本名を小林正子といい、1886(明治19)年3月8日に長野県埴科郡清野村(→現在の長野県長野市松代町清野)で旧松代藩士小林藤太の五女(9人兄妹の末子)として生まれました。1909(明治42)年に坪内逍遥(つぼうちしょうよう)の文芸協会の第1期研究生となり、『ハムレット』のオフェリア役や『人形の家』の主人公ノラなど多くの舞台で活躍し、新劇界を代表する女...

  • 林正寺(長野県長野市松代町)を訪問しました

    真光山 林正寺(→長野県長野市松代町清野)は、鎌倉時代後期にこの地に配流され没した右大弁信広(うだいべんしんこう)の菩提を弔うために創建されたと伝わる浄土宗寺院です。戦後の1952(昭和27)年に旧松代藩主真田家の菩提寺である曹洞宗寺院・真田山 長國寺(→長野県長野市松代町松代)より2代藩主真田信政の御霊屋と表門が移築されたといいます。これらは江戸時代初期の霊廟建築として貴重であることから1966(昭和41)年に長野県の県...

  • 科野のムラ(長野県千曲市)を訪問しました

    科野のムラ(しなののむら→長野県千曲市屋代)は、長野県立歴史館の地下から発見された古墳時代のムラを復元したもので、発掘された茅葺の家・竪穴住居・高床倉庫・儀式場などの建物が復元されています。森将軍塚古墳の麓にあたる科野の里歴史公園の敷地内にあり、竪穴住居は囲炉裏に火がつき煙が噴き出していてリアルでした。水田や畑や池もあり、6月の第2日曜日に田植えの体験学習ができるようです。毎年11月には森将軍塚まつりが...

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らしんばん航海日誌 ~探訪という名の歴史旅~
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