能ヶ谷神社(→東京都町田市能ヶ谷6丁目)は、江戸時代前期の正保年間(→1644年~1647年)に東照宮として創建された村民持(もち)の神社を母体とし、江戸時代後期には十六所神社といいました。幕末期の1854(安政元)年4月に再建され、1877(明治10)年6月に村社に列せられたと記されます。1914(大正3)年11月に近隣の表谷神社・天照大神・神明社・住吉神社を合祀して社号を能ヶ谷神社に改めました。現在の社殿は戦前の1931(昭和6)年4月に造営...
羅針盤ゼミナールの徒然ブログです。当塾の公式マスコットが歴史学の立場から解説を加え、訪問した神社・寺院・史跡などを紹介してまいります。塾の公式ブログですが塾の宣伝は少なめです。
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万年山 妙延寺(→神奈川県川崎市麻生区多摩美1丁目)は、江戸時代前期の1620(元和6)年に祐玄という僧が日本橋浜町に開基し、1658(万治元)年に築地本願寺(→東京都中央区築地3丁目)の移転に従い築地に移転したと伝わる浄土真宗本願寺派寺院(→元築地58ヶ寺)です。現在地には1964(昭和39)年から約5年かけて移転したようです。妙延寺は『新編武蔵風土記稿』には記載がありませんが、東京都中央区が刊行した『中央区史』には次のように記さ...
大戸神社(おおとじんじゃ→神奈川県川崎市中原区下小田中1丁目)は、小田原北条氏の治世下であった戦国時代の永正年間(→1504年~1521年)に、北条氏の有力国衆であった世田谷吉良氏の被官内藤内匠之助(ないとうたくみのすけ)が戸隠明神(とがくしみょうじん→長野県長野市戸隠)を勧請して創建したと伝わる神社です。戦国時代、当地には世田谷吉良氏の所領がありました。神仏習合の頃は曹洞宗寺院の福聚山 金龍寺(現在は全龍寺→神奈川県...
向富山 安楽寺(→神奈川県川崎市中原区下小田中2丁目)は、小田原北条氏の統治下の天文年間(→戦国時代の1532年~1555年)の初年に甲斐国出身の高順という僧が、鎌倉時代の仏師湛慶(たんけい→運慶の子)が彫ったという阿弥陀如来像を本尊とする阿弥陀堂を建てのが起こりと記される曹洞宗寺院です。5代目住職の時に相模国徳翁寺の乾室巌隆を招いて寺格を整備しましたが、その後「住僧のうちよからぬ者」がやって来て本尊を失い、客殿など...
井田山 善教寺(→神奈川県川崎市中原区井田1丁目)は、小田原北条氏の治世の戦国時代に創建されたと伝わる浄土宗寺院です。寺伝によると、戦国時代の井田郷にあった僧侶の庵から始まり、観音町という所にあった応龍院という観音堂が洪水で矢上村という所まで流され、その巽の方角(→東南)の山の麓に道全という禅門を招いて創庵したといいます。禅門というので創建当初は禅宗(→臨済宗または曹洞宗)だったのでしょう。その後、天台宗寺...
井田三舞稲荷大明神(→神奈川県川崎市中原区井田三舞町)は、江戸時代後期に徳川家臣・旗本青山甚右衛門の屋敷稲荷として建立された神社です。社殿は欅の権現造(ごんげんづくり)で、龍の彫刻と青山家の家紋「丸に三つ割菊」が配されています。境内は約70坪あり、個人所有の稲荷神社としては区内屈指の広さといえます。現在の社殿は1986(昭和61)年に青山家と地元の有志らによって改修されました。青山甚右衛門は1873(明治7)年に明治政...
井田神社(→神奈川県川崎市中原区井田中ノ町)は正式には天照皇大神宮といい、『武蔵国稲毛本庄検注目録』の中に「平治元年(→1159年)御検注定、井田郷鎮守神田三段」と書かれていることから平安時代に創建されたことが分かります。1159(平治元)年は平清盛が源義朝(みなもとのよしとも→源頼朝の父)を平治の乱で破った年でもあります。神仏習合の頃は太神宮といい、天台宗寺院の清林寺 仏乗院 金蔵寺(→神奈川県横浜市港北区日吉本町2丁...
清林山 仏乗院 金蔵寺(こんぞうじ→神奈川県横浜市港北区日吉本町2丁目)は、平安時代前期の貞観年間(→859年~876年)に清和天皇の勅願により天台座主の円珍(智証大師)が創建したと伝わる天台宗寺院です。最盛期には「東三井寺」(ひがしみいでら→関東の三井寺園城寺)と称され、塔頭23寺を持つ大寺院だったと記されます。中世に火災で衰退したものの、江戸時代には本山・末寺の制により徳川将軍家の菩提寺の1つである東叡山 円頓院 寛...
詠永山 長円寺(→神奈川県横浜市港北区高田西5丁目)は、江戸時代の初めに小長谷十郎左衛門の領地であった当地に創建された浄土宗寺院です。小長谷十郎左衛門は『伊豆国君沢郡内浦史料目録』の番所屋敷年貢免許覚書に名が記された旧小田原北条家臣の徳川家旗本です。長円寺はもとは詠月庵という草庵でしたが、1615(元和元)年10月5日に没した初代住職安蓮社尊誉が寺に改めたと記されています。江戸時代の頃は本山・末寺の制により松亀...
薬王山 光明院 塩谷寺(→神奈川県横浜市港北区高田西4丁目)は、平安時代初期の851(仁寿元)年に文徳天皇の勅命を受け、天台座主の円仁(慈覚大師)が開山したと伝わる天台宗寺院です。寺伝によると、文徳天皇(在位851年~858年)が中宮の病や皇嗣問題に悩んでいた際、円仁が横浜高田の地に湧き出る「霊験あらたかな霊泉」を献上し、天皇がそれを使って儀式を行ったところ中宮の病が治り、惟仁親王(これひとしんのう)に注いだ時に雫が光...
円滝山 光明院 興禅寺(→神奈川県横浜市港北区高田町)は、平安時代の853(仁寿3)年に天台座主の円仁(慈覚大師)が自彫の十一面観音像と勝軍地蔵尊を安置して開山したと伝わる天台宗寺院です。南北朝時代には時の領主であった足利一族の桃井直常(もものいただつね)によって荒廃した伽藍が再建されたと伝わります。神仏習合の頃は興禅寺が別当寺として高田天満宮(→神奈川県横浜市港北区高田西3丁目)の祭祀を司りました。江戸時代には本...
高田天満宮(→神奈川県横浜市港北区高田西3丁目)は、縁起によると鎌倉時代後期の1325(正中2)年5月25日の夜に申酉(→西)の方角より光物が現れて振動し梅の若木の下に小蛇が現れた奇端を「天神に観音の垂迹(すいじゃく)」とされ、新田義貞の鎌倉攻めに従軍し、南北朝時代にこの地の領主となった足利一門の桃井直常(もものいただつね)が「之を見聞し信心止みがたく遂に」社殿を建立したと記されます。神仏習合の頃は境内に天台宗寺院の...
星宿山 蓮華蔵院 王禅寺(→神奈川県川崎市麻生区王禅寺)は、平安時代の921(延喜21)年に高野山の無空上人によって創建されたと伝わる、鎌倉北条氏庶流の金沢北条氏(かねさわほうじょうし)と縁が深い真言宗豊山派寺院です。最盛期には禅宗・律宗・真言宗の兼学道場を兼ねて「(関)東の高野山」と呼ばれ、多くの末寺がありました。現在は宅地開発された小山の中でひっそりとたたずむ王禅寺ですが、「王禅寺」と名がつく地名が広域に残る...
地域タグ:麻生区
奈良町住吉神社(→神奈川県横浜市青葉区奈良町)は、江戸時代の1772(安永元)年に地頭石丸藤蔵の寄進を受け、奈良村の村民が欅材を持ち寄って創建し、村の鎮守として祀ったと伝わる神社です。江戸時代には高野山真言宗寺院の摩尼山延寿院徳恩寺(→神奈川県横浜市青葉区恩田町)が別当寺として祭祀を司りました。1921(大正10)年には神饌幣帛料供進神社(しんせんへいはくりょうきょうじんしゃ)となり、勅令に基づいて神奈川県知事から例祭...
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能ヶ谷神社(→東京都町田市能ヶ谷6丁目)は、江戸時代前期の正保年間(→1644年~1647年)に東照宮として創建された村民持(もち)の神社を母体とし、江戸時代後期には十六所神社といいました。幕末期の1854(安政元)年4月に再建され、1877(明治10)年6月に村社に列せられたと記されます。1914(大正3)年11月に近隣の表谷神社・天照大神・神明社・住吉神社を合祀して社号を能ヶ谷神社に改めました。現在の社殿は戦前の1931(昭和6)年4月に造営...
長滝山 多聞院 妙延寺(→東京都町田市森野2丁目)は、室町時代前期にこの地の領主であった渋谷重宗(しぶやしげむね)が長栄山 大国院 池上本門寺(→東京都大田区池上1丁目)の4代住職日山の弟子である日顕を開山に招いて創建した日蓮宗寺院です。日顕は1429(正長2)年7月23日に死去したので創建はそれ以前であることが分かります。江戸時代には本山・末寺の制により前述の池上本門寺の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。また、江戸...
森野住吉神社(→東京都町田市森野5丁目)は、江戸時代前期の1640(寛永17)年9月にこの地の領主であった幕府旗本須藤家の3代須藤太郎左衛門盛忠(すどうたろうざえもんもりただ)が、祖先の菩提と武運長久のため名主の渋谷由右衛門尉重忠(しぶやゆえもんのじょうしげただ→旧北条家臣、帰農)および氏子により摂津国住吉郡の住吉大社を勧請して創建したと社宝の棟札に記されます。1710(宝永7)年12月に5代須藤権之助盛連(すどうごんのすけも...
西田杉山神社(→東京都町田市金森6丁目)は、江戸時代前期の1683(天和3)年12月に幕臣高木伊勢守の館の鬼門の守護神として創建したと伝わる神社で、社殿・参道ともに高木伊勢守の館(→神奈川県大和市下鶴間)の方角を向いてます。1793(寛政5)年12月と1936(昭和11)年に社殿が再建されました。境内には5mほどの神木の大公孫樹があります。〖祭神〗・日本武尊(やまとたけるのみこと)西田杉山神社は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂...
金神神社(こんじんじんじゃ→神奈川県川崎市麻生区白鳥4丁目)は、創建年代等の詳細は不明ですが、1873(明治6)年に富士講(→富士山信仰)を束ねて設立された富士一山講社を起源とする扶桑教の神社です。扶桑教はかつての教派神道13派(→明治時代以降、政府によって公認された神道系の宗教団体)の一つとして知られます。境内社には笑顔が印象的な江戸期の一木彫り日本一の大黒天が祀られています。〖祭神〗・天祖参神・金山比古命(かな...
日吉神社(→神奈川県横浜市港北区日吉3丁目)は、創建年代の詳細は不明ですが、往古から武蔵国橘樹(たちばな)郡矢上村の総鎮守として同村北方の俗称「お伊勢原」と呼ぶ丘上にあり神明社と称しました。江戸時代には曹洞宗寺院の谷上山 保福寺(→神奈川県横浜市港北区日吉4丁目)が別当寺を務めましたが、祭祀は平村の神職小泉信濃が来て行ったと記されます。旧社殿は田沼意次(たぬまおきつぐ)が老中首座にあった1785(天明5)年の修造と伝...
普賢山 妙海寺(→神奈川県川崎市中原区木月4丁目)は、戦国時代の1534(天文3)年に木月村の村民鳥海讃岐が開基、僧の仏性院日正が開山したと伝わる日蓮宗寺院です。鎌倉時代初期の1187(文治3)年に源義宗という人物が創建した薬師寺という草庵を鳥海讃岐が一寺としたと伝わります。境内には南北朝時代の「貞和六年」(北朝年号→1350年)と彫られた板碑があるようです。江戸時代には後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の中宮となった徳川和子...
横浜赤レンガ倉庫(→神奈川県横浜市中区新港1丁目)は、現在は公園を備えた赤レンガパークとして1年中何かしらのイベントが行われているみなとみらい地区の代表的な文化・商業・観光施設ですが、もともとは、開国以来、国内最大の貿易港となり取り扱い貨物の急増に対応するため、1899(明治32)年に東洋初の接岸式埠頭として新港埠頭の建設が始まり、その一環として作られた保税倉庫(→外国から運び込まれた輸入手続きが済んでいない物...
横浜市開港記念会館(→神奈川県横浜市中区本町1丁目)は、横浜市開港50周年を記念して市民の寄付金によって第一次世界大戦中の1917(大正6)年6月30日に竣工した「ジャックの塔」の愛称で知られる国の重要文化財です。赤レンガに花崗岩(かこうがん)をとり混ぜた辰野式フリークラシック様式(→東京駅丸の内駅舎など赤レンガに白い石材を配した華やかな西洋建築)で、通りに面した3つの隅部に時計塔・角塔・八角塔を配し、ドームを架けた建...
横浜税関本関(→神奈川県横浜市中区海岸通1丁目)は、先代が1923(大正12)年9月1日の関東大震災で倒壊焼失したため、復興事業の一環で1934(昭和9)年に再建されました。竣工当時は横浜市で最も高い建造物で、イスラム寺院(→モスク)風の塔や連続アーチなど優美でエキゾチックな雰囲気から「クイーンの塔」の愛称で親しまれている横浜市認定歴史建造物です。横浜税関資料展示室「クイーンのひろば」では横浜港と横浜税関の歴史、貿易の最...
神奈川県庁舎(→神奈川県横浜市中区日本大通1丁目)は、横浜港近くの日本大通りに面して建ち、「キングの塔」の愛称で親しまれている国指定重要文化財です。先代が1923(大正12)年9月1日の関東大震災で大被害を受けたため鉄骨鉄筋コンクリート構造が採用され、1928(昭和3)年10月31日に竣工しました。昭和初期に大流行したライト様式(→旧帝国ホテルなどを設計した近代建築の巨匠フランク・ロイド・ライトの手による建築様式で、茶色の...
鵜野森日枝神社(→神奈川県相模原市南区鵜野森2丁目)は、創建年代の詳細は不明ですが、中世の頃より鵜野森郷の鎮守四社(→山王社・神明社・鹿島社・八幡社)として祀られており、江戸時代中期の1725(享保10)年に社殿を再建した棟札があるようです。明治維新後の1871(明治4)年に山王社を日枝大神と改称し、さらに1873(明治6)年に日枝神社と改称して村社となりました。国の一村一社政策を受けて1922(大正11)年には神明社・鹿島社・八幡...
方運山 青柳寺(→神奈川県相模原市南区上鶴間本町3丁目)は、室町時代中期の1499(明応8)年に日朝が創建した清龍寺という小庵を前身とする日蓮宗寺院です。1583(天正11)年に、室町幕府15代将軍足利義昭(あしかがよしあき)のもとを離れ小田原北条氏の家臣となった渋谷越後守義重が、日蓮宗僧侶日題が開山に迎えて青柳寺を開基したと記されます。江戸時代には本山・末寺の制により鎌倉の妙巌山 本覚寺(→神奈川県鎌倉市小町1丁目)の末寺...
上鶴間鹿島神社(→神奈川県相模原市南区上鶴間本町3丁目)は、鎌倉時代初期の建久年間(→1190年~1199年)に鎌倉幕府の初代将軍源頼朝が鶴舞の里(→鶴間)に鶴舞神社(→現在の上鶴間浅間神社)を創建した頃に境川付近の下森に創建した神社が前身と伝わる神社です。江戸時代後期の1801(享和元)年8月に現在地に遷座したという文書(→「鎮守鹿島明神社遷座願」)が残されています。遷座後は隣接する方運山 青柳寺が鹿島社と境内社の天神社(→現在...
町田天満宮(→東京都町田市原町田1丁目)は、戦国時代の天正年間(→1573年~1593年)のうち小田原北条氏の統治下(→1590年まで)に創建され、江戸時代前期の1615(元和元)年にこの地の領主となった幕府の旗本三橋氏・武藤氏によって社殿が造営されたと伝わる神社です。江戸時代には寺領7石3斗の曹洞宗寺院、金森山 宗保院(→東京都町田市原町田1丁目)が別当寺として祭祀を司りました。明治維新後は菅原神社と称したようです。1872(明治5)年...
金森杉山神社(→東京都町田市金森7丁目)は、創建年代等の詳細は不明ですが、江戸時代前期の1683(天和3)年12月に幕府の旗本高木伊勢守夫妻(→妻は於亀)及びその一族が下屋敷内に社殿を再建したと社宝の棟札に記されています。再建には家臣や名主(→村長)の大貫助兵衛・囲曽甚五右衛門が費用の大半を工面したようです。江戸時代を通して金森村の村民が西田杉山神社(→東京都町田市金森6丁目)と隔年で神体を奉遷して祭礼を行ったようです...
母智丘神社(もちおじんじゃ→東京都町田市原町田5丁目)は、『東京都神社名鑑』によると第一次世界大戦末期の1919(大正8)年に黒木昇・黒木ハナの両氏が宮崎県の石峰山山頂に鎮座する母智丘神社(→石岑稲荷明神とも、宮崎県都城市横市町)を自宅に勧請したが、「家屋鳴動し畏懼(いく→恐れおののくこと)の念に耐えず」社殿を創建したと記される神社です。家屋鳴動云々の真偽の程は定かではありませんが、個人によって建てられた神社とし...
高ヶ坂熊野神社(→東京都町田市高ヶ坂2丁目)は、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災によって由緒等が散逸したため創建年代等の詳細は不明ですが、和歌山県の熊野三山神社の那智大社に地形がよく似ていて水源に奉斎し、裏山に滝があったようです。1843(天保14)年の古文書に御供米として毎年地頭より6斗の奉納があり、また除地分として600坪があったとあります。江戸時代の頃は図師村の図師山 大蔵院 釜田寺(→関東大震災で倒壊...
高ヶ坂子育地蔵堂(→東京都町田市高ヶ坂7丁目)は、1971(昭和46)年に南農協高ヶ坂支部倉庫が火災で焼失したため、当時荒廃していた子育地蔵堂の敷地を整理して倉庫と地蔵堂を建設したようです。その後、倉庫は不要となり賃貸倉庫として南農協高ヶ坂支部の運用に使用されていましたが地蔵堂が老朽化したため、1993(平成5)年に支部職員全員で子育地蔵講を設立して資金を積み立てて地蔵堂の新築再建することを決め、1999(平成11)年9月に...
滝沢山 祥雲寺(→東京都町田市高ヶ坂7丁目)は、小田原北条氏の治世下にあった戦国時代の1526(大永6)年8月に、北条氏綱が武運長久と後北条氏の子孫繁栄のため僧の寥堂秀廓(りょうどうしゅうかく)を開山として招いて開基した曹洞宗寺院です。後北条氏の虎朱印が押された寺領寄進文書がありましたが、享保年間(→1716年~1736年、8代将軍徳川吉宗の治世)の火災で焼失したといいます。江戸時代には幕府より寺領15石を安堵されました。現...
当麻山 無量光寺(→神奈川県相模原市南区当麻)は、鎌倉時代の1261(弘長元)年に「踊り念仏」を広めたことで知られる一遍(いっぺん)が開いた草庵を起源とする時宗(じしゅう)寺院です。一遍から遊行を引き継いだ真教(しんきょう)が老衰のためこの地に戻り、1304(嘉元2)年ここに堂宇を建立し、阿弥陀仏の別名である無量光仏から「無量光寺」と名付け、一遍の分骨を埋骨して念仏の根本道場としました。真教は1319(文保3)年1月に死去する...
根小屋諏訪神社(ねこやすわじんじゃ→神奈川県相模原市緑区根小屋)は、鎌倉時代初期の1192(建久3)年に筑井城(つくいじょう)を築城した筑井太郎次郎義胤(つくいたとうじろうよしたね)が勧請したと伝わります。神仏習合の頃は井木山寿性院(→現在は廃寺)が別当寺を務めました。『津久井郡文化財神社編』によると、戦国時代には小田原北条氏の有力国衆であった津久井城主内藤景定(ないとうかげさだ)によって1527(大永7)年に50間4面の社...
飯縄神社(いいづなじんじゃ→神奈川県相模原市緑区根古屋)は、小田原北条氏の有力国衆であった津久井内藤氏の居城津久井城の飯縄曲輪(いいづなくるわ)にある神社で、鎌倉時代の1197(建久8)年に前身の筑井城(つくいじょう)を築いた筑井太郎次郎義胤(つくいたろうじろうよしたね)が勧請したと伝わります。戦国時代には津久井城主内藤景定が城の守護神として社殿を改築したと伝わります。津久井城の山頂付近は西峰の本城曲輪・太鼓曲輪...
津久井城(つくいじょう→神奈川県相模原市緑区根古屋)は、鎌倉時代初期に三浦氏の一族である筑井太郎次郎義胤(つくいたろうじろうよしたね→筑井為行とも)が築城したところから始まる根古屋式の山城で、津久井湖の南に聳える標高375ⅿの城山に築かれています。戦国時代には、小田原北条氏の有力国衆で「津久井衆」を率いた津久井内藤氏が城主を務め、対武田氏の最前線の城として重視されました。『勝山記』には、1525(大永5)年に甲斐...
浅利明神(→神奈川県愛甲郡愛川町)は、戦国時代の1569(永禄12)年10月8日の三増合戦(三増峠の戦い)において戦死した武田方の重臣浅利信種(あさりのぶたね)を祀った神社です。江戸時代の1700(元禄13)年3月に曾雌常右衛門知義(そしつねえもんともよし)という武士が、主君の下総関宿藩主牧野備前守成春(まきのびぜんのかみなりはる)の命でこの地を検分した際に、自身にゆかりのある浅利信種がこの地で戦死したことを知り、「浅利墓所」...
三増合戦史跡(→神奈川県愛甲郡愛川町三増)は、戦国時代の1569(永禄12)年10月8日に、甲斐の武田信玄と小田原北条氏の別動隊との間で行われた「三増合戦(みませかっせん)」「三増峠の戦い(みませとおげのたたかい)」に関する史跡です。三増合戦場碑は昭和時代後期の1969(昭和44)年に建立され、その周辺には両軍の戦死者を埋葬したと伝わる首塚や胴塚や、戦死した武田家臣浅利信種(あさりのぶたね)を祀る浅利神社などがあります。〖三...