井田三舞稲荷大明神(→神奈川県川崎市中原区井田三舞町)は、江戸時代後期に徳川家臣・旗本青山甚右衛門の屋敷稲荷として建立された神社です。社殿は欅の権現造(ごんげんづくり)で、龍の彫刻と青山家の家紋「丸に三つ割菊」が配されています。境内は約70坪あり、個人所有の稲荷神社としては区内屈指の広さといえます。現在の社殿は1986(昭和61)年に青山家と地元の有志らによって改修されました。青山甚右衛門は1873(明治7)年に明治政...
羅針盤ゼミナールの徒然ブログです。当塾の公式マスコットが歴史学の立場から解説を加え、訪問した神社・寺院・史跡などを紹介してまいります。塾の公式ブログですが塾の宣伝は少なめです。
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小手指原古戦場碑(こてさしがはらこせんじょうひ→埼玉県所沢市北野2丁目)は、鎌倉時代末期の1333(元弘3)年5月11日に新田義貞(にったよしさだ)率いる討幕軍と、桜田貞国(→得宗北条高時の叔父)率いる幕府軍との間で行われた小手指原合戦の古戦場跡です。5月8日に生品神社(→群馬県太田市新田市野井町)で挙兵した新田義貞に対し、鎌倉幕府は北条一門の桜田貞国を大将、上野守護代長崎孫四郎左衛門尉(ながさきまごしろうざえもんのじょ...
生田杉山神社(→神奈川県川崎市多摩区西生田3丁目)は創建年代は不明ですが江戸時代には五段田村の鎮守として寄合などに使われていたと伝わります。『神奈川県神社誌』には江戸時代に御神体として祀られていた御神剣に「慶長十八年(→1613年)四月一日願主本多佐渡守が両代官、小林九良左エ門、岡本八郎右エ門をして之を再建せしむ」と刻まれていると記されています。神仏習合の頃は、真言宗豊山派寺院の万休山福聚院観音寺(→神奈川県...
栗谷須賀神社(→神奈川県川崎市多摩区栗谷3丁目)は江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』に記載がないため、その頃は別当寺が衰退して荒廃していたと思われますが、『神奈川県神社誌』には安土桃山時代の創建という伝承と1840(天保11)年に社殿を改築したことが記されています。〖祭神〗・素戔嗚尊(すさのおのみこと)********************************『神奈川県神社誌』古人がこの栗谷の地を開拓して定住...
明治大学平和教育登戸研究所資料館(神奈川県川崎市多摩区)を訪問しました
明治大学平和教育登戸研究所資料館(→神奈川県川崎市多摩区東三田1丁目)は、明治大学生田キャンパス内にある大日本帝国陸軍の「第九陸軍技術研究所」(登戸研究所)に関する資料館です。登戸研究所は帝国陸軍が秘密戦のための兵器・資材を研究・開発するために設置した研究所で、その存在は一般国民には秘密にされていました。秘密戦とは防諜(→スパイ防止)、謀略(→破壊・攪乱活動、暗殺)、宣伝(→人心の誘導)の4つから成り立っていて、...
あざみ野神明社(→神奈川県横浜市青葉区あざみ野1丁目)は、創建年代は不明ですが『神奈川県神社誌』に「往古より当地の鎮守として村人和合の中心となり、伝統ある神事を奉仕しつつ現在に至った。」と記されています。横浜市指定無形民俗文化財に指定されている牛込獅子舞が神事として奉納されるようです。〖祭神〗・大日孁尊(おおひるめのみこと) →天照大神(あまてらすおおみかみ)のことあざみ野神明社は、江戸時代後期の1830(文...
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井田三舞稲荷大明神(→神奈川県川崎市中原区井田三舞町)は、江戸時代後期に徳川家臣・旗本青山甚右衛門の屋敷稲荷として建立された神社です。社殿は欅の権現造(ごんげんづくり)で、龍の彫刻と青山家の家紋「丸に三つ割菊」が配されています。境内は約70坪あり、個人所有の稲荷神社としては区内屈指の広さといえます。現在の社殿は1986(昭和61)年に青山家と地元の有志らによって改修されました。青山甚右衛門は1873(明治7)年に明治政...
井田神社(→神奈川県川崎市中原区井田中ノ町)は正式には天照皇大神宮といい、『武蔵国稲毛本庄検注目録』の中に「平治元年(→1159年)御検注定、井田郷鎮守神田三段」と書かれていることから平安時代に創建されたことが分かります。1159(平治元)年は平清盛が源義朝(みなもとのよしとも→源頼朝の父)を平治の乱で破った年でもあります。神仏習合の頃は太神宮といい、天台宗寺院の清林寺 仏乗院 金蔵寺(→神奈川県横浜市港北区日吉本町2丁...
清林山 仏乗院 金蔵寺(こんぞうじ→神奈川県横浜市港北区日吉本町2丁目)は、平安時代前期の貞観年間(→859年~876年)に清和天皇の勅願により天台座主の円珍(智証大師)が創建したと伝わる天台宗寺院です。最盛期には「東三井寺」(ひがしみいでら→関東の三井寺園城寺)と称され、塔頭23寺を持つ大寺院だったと記されます。中世に火災で衰退したものの、江戸時代には本山・末寺の制により徳川将軍家の菩提寺の1つである東叡山 円頓院 寛...
詠永山 長円寺(→神奈川県横浜市港北区高田西5丁目)は、江戸時代の初めに小長谷十郎左衛門の領地であった当地に創建された浄土宗寺院です。小長谷十郎左衛門は『伊豆国君沢郡内浦史料目録』の番所屋敷年貢免許覚書に名が記された旧小田原北条家臣の徳川家旗本です。長円寺はもとは詠月庵という草庵でしたが、1615(元和元)年10月5日に没した初代住職安蓮社尊誉が寺に改めたと記されています。江戸時代の頃は本山・末寺の制により松亀...
薬王山 光明院 塩谷寺(→神奈川県横浜市港北区高田西4丁目)は、平安時代初期の851(仁寿元)年に文徳天皇の勅命を受け、天台座主の円仁(慈覚大師)が開山したと伝わる天台宗寺院です。寺伝によると、文徳天皇(在位851年~858年)が中宮の病や皇嗣問題に悩んでいた際、円仁が横浜高田の地に湧き出る「霊験あらたかな霊泉」を献上し、天皇がそれを使って儀式を行ったところ中宮の病が治り、惟仁親王(これひとしんのう)に注いだ時に雫が光...
円滝山 光明院 興禅寺(→神奈川県横浜市港北区高田町)は、平安時代の853(仁寿3)年に天台座主の円仁(慈覚大師)が自彫の十一面観音像と勝軍地蔵尊を安置して開山したと伝わる天台宗寺院です。南北朝時代には時の領主であった足利一族の桃井直常(もものいただつね)によって荒廃した伽藍が再建されたと伝わります。神仏習合の頃は興禅寺が別当寺として高田天満宮(→神奈川県横浜市港北区高田西3丁目)の祭祀を司りました。江戸時代には本...
高田天満宮(→神奈川県横浜市港北区高田西3丁目)は、縁起によると鎌倉時代後期の1325(正中2)年5月25日の夜に申酉(→西)の方角より光物が現れて振動し梅の若木の下に小蛇が現れた奇端を「天神に観音の垂迹(すいじゃく)」とされ、新田義貞の鎌倉攻めに従軍し、南北朝時代にこの地の領主となった足利一門の桃井直常(もものいただつね)が「之を見聞し信心止みがたく遂に」社殿を建立したと記されます。神仏習合の頃は境内に天台宗寺院の...
星宿山 蓮華蔵院 王禅寺(→神奈川県川崎市麻生区王禅寺)は、平安時代の921(延喜21)年に高野山の無空上人によって創建されたと伝わる、鎌倉北条氏庶流の金沢北条氏(かねさわほうじょうし)と縁が深い真言宗豊山派寺院です。最盛期には禅宗・律宗・真言宗の兼学道場を兼ねて「(関)東の高野山」と呼ばれ、多くの末寺がありました。現在は宅地開発された小山の中でひっそりとたたずむ王禅寺ですが、「王禅寺」と名がつく地名が広域に残る...
奈良町住吉神社(→神奈川県横浜市青葉区奈良町)は、江戸時代の1772(安永元)年に地頭石丸藤蔵の寄進を受け、奈良村の村民が欅材を持ち寄って創建し、村の鎮守として祀ったと伝わる神社です。江戸時代には高野山真言宗寺院の摩尼山延寿院徳恩寺(→神奈川県横浜市青葉区恩田町)が別当寺として祭祀を司りました。1921(大正10)年には神饌幣帛料供進神社(しんせんへいはくりょうきょうじんしゃ)となり、勅令に基づいて神奈川県知事から例祭...
北条氏常盤亭跡(→神奈川県鎌倉市常盤)は、7代執権北条政村(→政村流北条氏の祖)、6代連署北条義政(→塩田北条氏の祖)、北条時茂(ときもち→常盤北条氏の祖)・北条時範(ときのり→時茂の子)、北条範貞(のりさだ→時範の子)らの邸宅跡です。東西約700m、南北300mに及ぶ敷地で、木の柵が設置された谷戸の一段高くなっているところは常盤亭跡の中でも中心的な場所であったといいます。ここを拠点にした北条一門を常盤北条氏といい、鎌倉末...
佐助稲荷神社(→神奈川県鎌倉市佐助2丁目)は、鎌倉時代の建久年間(1190年~1199年)に鎌倉幕府を創設した源頼朝が有力御家人の畠山重忠に命じて創建したと伝わる神社です。佐助の地名は「佐殿(すけどの)頼朝を助けた」が由来といい、『新編鎌倉志』には南北朝時代の1359(延文4)年12月11日に、凶徒(→南朝勢力)退治の祈祷を佐助稲荷神社の別当三位僧都に命じた足利尊氏の古文書が、鶴岡等覚院(→現在は廃寺)にあると記されています。神...
銭洗弁財天 宇賀福神社(→神奈川県鎌倉市佐助2丁目)は、1185(文治元年)4月に、鎌倉幕府の初代将軍源頼朝が「霊夢」によるお告げに従い宇賀福神を祀ったことから始まる神社です。宇賀神は中世以降に信仰された財をもたらす福神で、仏教の弁財天と習合して宇賀弁財天とも呼ばれました。1257(正嘉元)年に5代執権北条時頼が霊水で銭を洗って一族の繁栄を願ったことから、北条一族の繁栄にあやかろうと銭洗いの風習が広まったと伝わりま...
洲崎古戦場(→神奈川県鎌倉市寺分1丁目)は、鎌倉時代末期の1333(元弘3)年5月18日に鎌倉を攻める新田義貞の軍勢に対して、鎌倉幕府16代執権の赤橋(北条)守時は防御を命じられた巨福呂坂(こぶくろざか)切通しから出撃し、化粧坂(けわいざか)切通しを攻める新田軍主力に対峙するため洲崎で果敢な突撃を繰り返したのち、自害したと伝わる古戦場です。『太平記』の記述によれば、新田方の総大将堀口貞満(ほりぐちさだみつ)が陣容を整え波...
金湯山 早雲寺(→神奈川県足柄下郡箱根町湯本)は、戦国時代の1521(大永元)年に小田原北条氏の2代北条氏綱が初代伊勢宗瑞(→いわゆる北条早雲)の遺命に従い、龍宝山 大徳寺(→京都府京都市北区紫野大徳寺町)の83代住職以天宗清を招いて建立した臨済宗大徳寺派寺院です。建立時期については1531(享禄4)年以降であるとする説も有力です。戦国時代には小田原北条氏の菩提寺として「関東第一の名寺」と謳われ、1542(天文11)年には勅願寺(→...
鵐の窟(しとどのいわや→神奈川県足柄下郡真鶴町真鶴)は、1180(治承4)年8月24日の石橋山合戦で平家方の大庭景親(おおばかげちか)に敗れた源頼朝が、身を潜めたものの平家方の梶原景時(かじわらかげとき)の計らいで見逃され難を逃れたという伝承をもつ史跡です。平安時代末期の鵐の窟は奥行きが130mほどあったようですが、1923(大正12)年9月1日の関東大震災による隆起により現在の奥行は11mほどです。窟の近くには「頼朝観音堂」が...
真鶴貴船神社(→神奈川県足柄下郡真鶴町)は、平安時代の889(寛平元)年に平井の翁という人が沖合から漂流してきた楼船の中から木像十体余りを発見し、貴ノ宮大明神として祀ったことが起源と伝わる神社です。1868(明治元)年に神仏分離令が発布され現在の社号となったようです。境内には1180(治承4)年の石橋山合戦に敗れた源頼朝が「しとどの窟」に身を潜める前に休息したと伝わる「頼朝の腰掛石」と伝わる岩が奉納されています。〖祭...
宿鳳山高円寺(→東京都杉並区高円寺南4丁目)は、小田原北条氏の統治下である戦国時代の1555(弘治元)年に、多宝山成願寺(→東京都中野区本町2丁目)の三代住職建室宗正が開基したと伝わる曹洞宗寺院です。現在の本尊は観音菩薩で、室町時代に作られた阿弥陀如来坐像も安置されています。かつてこの辺りには桃の木が多くあったことから桃園と呼ばれ、「桃堂の桃園観音」と呼ばれていたようです。高円寺は5代住職耕岳益道のときに、3代将...
麻布氷川神社(→東京都港区元麻布1丁目)は、社伝によると平安時代の938(天慶元)年に、清和源氏の源経基(みなもとのつねもと)が平将門の乱を平定するため東征した際に、武蔵国豊島郡谷盛浅布冠の松(→現在の麻布一本松の地)に創建したのが始まりと伝わります。ただし、源経基が武蔵介として現地に赴任して在地の検注(→荘園の土地調査)を行ったのは938(天慶元)年で、いわゆる平将門の乱は939(天慶2)年のことなので時系列に齟齬が見られ...
赤坂氷川神社(→東京都港区赤坂6丁目)は、社伝によると平安時代の951(天暦5)年に東国を遊行していた蓮林僧正が一ツ木村(→現在の赤坂4丁目付近)で一夜を明かした際に見た「霊夢」により、この地に氷川明神の社殿を建てたのが始まりとされます。江戸時代中期の1716(享保元)年、紀州徳川家出身の徳川吉宗が8代将軍に就任すると、紀州藩の中屋敷が赤坂にあったことから、氷川明神の信仰が高まり、1719(享保14)年には、吉宗の命令を受け...
虎ノ門金刀比羅宮(→東京都港区虎ノ門1丁目)は、江戸時代前期の1660(万治3)年に讃岐丸亀藩主京極高和(きょうごくたかかず)が国元の象頭山に鎮座する金刀比羅宮(本宮)を藩邸のあった芝・三田の地に勧請し、1679(延宝7)年に京極高豊(きょうごくたかとよ)の代に藩邸が現在地に移転したため金刀比羅宮も移転したと記されます。江戸時代後期に金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)と改称しましたが、神仏分離令により1869(明治2)年に金刀...
科野のムラ(しなののむら→長野県千曲市屋代)は、長野県立歴史館の地下から発見された古墳時代のムラを復元したもので、発掘された茅葺の家・竪穴住居・高床倉庫・儀式場などの建物が復元されています。森将軍塚古墳の麓にあたる科野の里歴史公園の敷地内にあり、竪穴住居は囲炉裏に火がつき煙が噴き出していてリアルでした。水田や畑や池もあり、6月の第2日曜日に田植えの体験学習ができるようです。毎年11月には森将軍塚まつりが...
長野県立歴史館(→長野県千曲市屋代)は、森将軍塚古墳館とともに科野(しなの)の里歴史公園にあり、長野県内の考古資料や歴史史料などの展示によって原始から現代までの信濃(→長野県)の歴史を紹介する博物館で、1994(平成6)年11月に開館しました。常設展示室は「信濃の風土と人びとのくらし」をテーマに原始から近現代までを5つの時代に区分し、各時代を象徴する実大環境復元(→鎌倉時代の善光寺門前や江戸時代前期の中農農家、近代製...
千曲市森将軍塚古墳館(→長野県千曲市大字屋代)は、古墳時代前期に「科野(しなの)のクニ」を治めていた王(首長)の墓と考えられる森将軍塚古墳の資料を中心に、千曲市内の遺跡から発掘された考古資料などを所蔵・保管・展示している資料館です。2階の展示室には、森将軍塚古墳の後円部と竪穴式石室を再現し、周りには土器・埴輪・副葬品などをはじめ、長野県内の古墳・埋葬品や発掘調査のパネルなど、テーマごとに展示スペースが設け...
森将軍塚古墳(→長野県千曲市大字森字大穴山)は、古墳時代前期(→4世紀中頃)に造られた長野県最大規模の前方後円墳で、古墳時代の「科野(しなの)のクニ」を治めていた王(首長)の墓と考えられ、全長は約100ⅿあります。古墳館の裏山の標高490ⅿの山頂には、発掘調査をもとに復元された森将軍塚古墳があり、古墳までは遊歩道が設けられ歩いて往復40分ほど、専用バスで往復10分ほどで行くことができます。山頂からは戸隠山や飯綱山が見え...
松操山 典厩寺(しょうぞうざん てんきゅうじ→長野県長野市篠ノ井杵淵)は、武田信玄と上杉謙信(→当時は上杉政虎)が5度にわたって争った川中島合戦のうち、最大の激戦となった1561(永禄4)年の第四次川中島合戦(八幡原合戦)で討死した、武田信玄の実弟・武田典厩信繁(たけだ てんきゅう のぶしげ)を埋葬した瑠璃光山 鶴巣寺(るりこうざん かくそうじ)を前身とする曹洞宗寺院です。江戸時代前期の1654(承応3)年に初代松代藩主真田信之(...
川中島古戦場八幡社(→長野県長野市小島田)は、戦国時代に武田信玄と上杉謙信が争った5回の川中島合戦のうち最も著名な1561(永禄4)年9月10日の第四次川中島合戦の舞台となった八幡原(はちまんぱら)古戦場跡に建立された神社です。八幡原(はちまんぱら)の由来は、平安時代中期の1094(嘉保元)年8月に信濃国に配流された村上顕清(むらかみあききよ)が八幡神を祀った事によります。現在の社殿は1941(昭和16)年に長野県上田市の生島足島...
真田邸(→長野県長野市松代町松代)は、幕末期の1864(元治元)年に、松代藩9代藩主真田幸教(さなだゆきのり)が義母の貞松院の住まいとして松代城の城外御殿として建設したもので、当時は「新御殿」と呼ばれました。江戸時代、大名の妻子は生涯江戸住まいを義務付けられていましたが、1862(文久2)年に行われた文久の改革(→薩摩藩の島津久光が孝明天皇の勅使大原重徳(おおはらしげとみ)を奉じて江戸に参府し、14代将軍徳川家茂に実施さ...
松代城(まつしろじょう→長野県長野市松代町)は、戦国時代に甲斐の武田晴信(武田信玄)と越後の長尾景虎(上杉謙信)が北信濃の覇権を競った川中島合戦において、武田方の拠点として1560(永禄3)年に山本勘助(山本菅助)が築いたと伝わる海津城を前身とする平城です。武田時代には屋代氏・香坂氏・春日氏といった主に川中島4郡(→埴科郡・更級郡・高井郡・水内郡)の国衆が城代を務めました。江戸時代前期の1622(元和8)年に上田藩主の真田...
象山神社(ぞうざんじんじゃ→長野県長野市松代町)は、幕末の松代藩士で兵学・朱子学・洋学者の佐久間象山(さくましょうざん)を祭神として祀る神社で、1864(元治元)年7月11日に京都で暗殺された象山の、殉難50年祭が1913(大正2)年に行われたことを機に、松代町出身の大審院長(→現在の最高裁長官)横田秀雄(よこたひでお)を中心に全国の教育関係者の尽力で神社建立が計画され、1938(昭和13)年11月3日に象山神社(県社)が建立されました...
山寺常山邸(→長野県長野市松代町松代)は、儒学者鎌原桐山(かまはらとうざん)・洋学者佐久間象山(さくましょうざん)とともに「松代の三山」と称えられた松代藩士山寺常山(やまでらじょうざん)の邸宅跡です。山寺常山は、8代藩主・老中真田幸貫(さなだゆきつら→8代将軍徳川吉宗の曾孫)の信望が厚く藩政に尽力し、藩の寺社奉行・郡奉行を務めたのち藩士に兵学を教授した人物として知られます。常山は、明治時代になり真田家が東京に移...
象山 恵明禅寺(→長野県長野市松代町西条)は、江戸時代前期の1677(延宝5)年に松代藩3代藩主・真田幸道が開基、明国から来日した黄檗宗2世木庵性瑫(もくあんしょうとう)が開山した黄檗宗(→臨済宗黄檗派)寺院です。一般的には恵明寺と呼ばれ、江戸時代には京都府宇治市にある黄檗山 万福寺の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。1825(文政8)年に火災に遭い、山門のみ火災を免れ今に至ると伝わります。境内には真田幸道の正室豊姫(→...
皓月山 大英寺(→長野県長野市松代町)は、江戸時代前期の1622(元和8)年に初代松代藩主真田信之が、妻の小松姫(稲姫→徳川家康養女、本多忠勝の娘)の菩提を弔うために創建した浄土宗寺院です。1620(元和6)年2月24日に死去した小松姫は上田の常福寺(→現在の芳泉寺)に祀られましたが、1622(元和8)年に信之が松代に移封されたため、小松姫の御霊屋も大英寺に移されました。山号は小松姫の戒名「大蓮院殿英誉皓月大禅定尼」から採ってい...
金刀比羅神社(ことひらじんじゃ→長野県長野市松代町豊栄字宮崎)は、創建年代等の詳細は不明ですが、長野県神社庁長野支部に属する宗教法人登録がされている神社です。長野支部によると江戸時代中期にはすでに「金刀比羅社」「金刀比羅大権現」として宮座の活動が確認できるそうです。北前船の寄港地である日本海側の各港には金刀比羅神社が多く見られますが、長野市内では千曲川やその支流沿いに多く見られます。水運の発達と同時...
旧松代藩鐘楼(→長野県長野市松代町松代)は、初代松代藩主真田信之が1624(寛永元)年に火の見櫓とともに設置したのが始まりで、その後3度の火災で焼け落ち、現在の鐘楼は火の見櫓と別棟にした1801(享和元)年に再建されたものが母体となっています。2012(平成24)年に修復が施され、長野市の指定文化財(建造物)になりました。時計が広まっていなかった江戸時代、各藩では昼夜の別なく一刻(→約2時間)ごとに大鐘を突く決まりがあり、藩士...
松代駅(まつしろえき→長野県長野市松代町松代)は、1922(大正11)年6月10日~2012(平成24)4月1日まで使われていた長野電鉄屋代線(旧長野電鉄河東線)の廃駅です。屋代線は、屋代駅(→長野県千曲市)から松代駅を通り須坂駅(→長野県須坂市)とを結び、沿線で栄えた繊維産業を支える物流の大動脈を担う歴史ある鉄道路線でした。中でも松代駅は、戦時中に松代大本営建設のための貨物輸送に利用されたことでも知られています。松代駅は島式1...
麻生山 東林寺(→神奈川県川崎市麻生区麻生6丁目)は、江戸時代の1681(天和元)年に本山の夏蒐山 修廣寺(→神奈川県川崎市麻生区片平2丁目)の4代住職が、上麻生村の領主であった三井十左衛門吉直の直轄地に隠居寺として創建したと伝わる曹洞宗寺院です。境内の大いちょうは、川崎市選定の「まちの樹50選」に数えられます。東林寺は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』都筑郡上麻生村の条に次のように記さ...
麻生山 寿光院 浄慶寺(→神奈川県川崎市麻生区上麻生6丁目)は、安土桃山時代の1584(天正12)年に北条氏遺臣で徳川氏旗本となった三井左衛門尉(→法名寿光院清誉浄慶居士)が開基し、僧の証蓮社誠誉順阿長応が開山したと伝わる浄土宗寺院です。創建時の山号・院号は滝沢山 春林院であったといいます。境内には神仏習合の名残りで秋葉大権現(秋葉神社)があり、一対の狛犬は徳川将軍家の菩提寺の一つである無量山 小石川伝通院(→東京都文...
妙香山 常安寺(→神奈川県川崎市麻生区上麻生7丁目)は、戦国時代にこの地の地侍小嶋佐渡守高治(→法名光照院常安)が開基、妻(→法名彗性院妙香日芳)が日鏡を招いて開山したと伝わる日蓮宗寺院です。寺伝には1515(永正12)年7月の創建で、1544(天文13)年2月に再建したと記されます。1597(慶長2)年に江戸入りを果たした徳川家康から番神堂領6石を安堵されました。江戸時代には本山・末寺の制により長興山 妙本寺(→神奈川県鎌倉市大町1丁...
月読神社(つきよみじんじゃ→神奈川県川崎市麻生区上麻生)は、戦国時代の1534(天文3)年に麻生郷の地侍小島佐渡守が五穀豊穣を祈願して皇大神宮の別宮(→月読宮)を居所(→亀井城)に勧請したのが始まりと伝わる旧麻生郷の鎮守社です。『神奈川県神社庁史』には江戸時代の1708(宝永5)年に社殿が再建と記されています。明治時代後期の1906(明治39)年に国の一村一社政策を受け、近隣の白山神社(山口谷)・熊野神社(上麻生)・日吉神社(下麻生...
真宗三輪山 浄徳寺(→東京都町田市三輪町)は、現住職の高橋章香氏が1999(平成11)年に創建された鶴見川に面した静かな住宅地に位置する一軒家のようなたたずまいの浄土真宗仏光寺派寺院です。「お寺は心の休憩所」をキャッチフレーズとし、檀家制度や寄附や奉仕などの制約がない、今の時代に対応した寺院であることを公表しています。本山は仏光派本山の仏光寺(→京都府京都市下京区新開町)で、仏光寺は鎌倉時代前期の1212(建暦2)年に...