普賢山 妙海寺(→神奈川県川崎市中原区木月4丁目)は、戦国時代の1534(天文3)年に木月村の村民鳥海讃岐が開基、僧の仏性院日正が開山したと伝わる日蓮宗寺院です。鎌倉時代初期の1187(文治3)年に源義宗という人物が創建した薬師寺という草庵を鳥海讃岐が一寺としたと伝わります。境内には南北朝時代の「貞和六年」(北朝年号→1350年)と彫られた板碑があるようです。江戸時代には後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の中宮となった徳川和子...
羅針盤ゼミナールの徒然ブログです。当塾の公式マスコットが歴史学の立場から解説を加え、訪問した神社・寺院・史跡などを紹介してまいります。塾の公式ブログですが塾の宣伝は少なめです。
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小手指原古戦場碑(こてさしがはらこせんじょうひ→埼玉県所沢市北野2丁目)は、鎌倉時代末期の1333(元弘3)年5月11日に新田義貞(にったよしさだ)率いる討幕軍と、桜田貞国(→得宗北条高時の叔父)率いる幕府軍との間で行われた小手指原合戦の古戦場跡です。5月8日に生品神社(→群馬県太田市新田市野井町)で挙兵した新田義貞に対し、鎌倉幕府は北条一門の桜田貞国を大将、上野守護代長崎孫四郎左衛門尉(ながさきまごしろうざえもんのじょ...
生田杉山神社(→神奈川県川崎市多摩区西生田3丁目)は創建年代は不明ですが江戸時代には五段田村の鎮守として寄合などに使われていたと伝わります。『神奈川県神社誌』には江戸時代に御神体として祀られていた御神剣に「慶長十八年(→1613年)四月一日願主本多佐渡守が両代官、小林九良左エ門、岡本八郎右エ門をして之を再建せしむ」と刻まれていると記されています。神仏習合の頃は、真言宗豊山派寺院の万休山福聚院観音寺(→神奈川県...
栗谷須賀神社(→神奈川県川崎市多摩区栗谷3丁目)は江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』に記載がないため、その頃は別当寺が衰退して荒廃していたと思われますが、『神奈川県神社誌』には安土桃山時代の創建という伝承と1840(天保11)年に社殿を改築したことが記されています。〖祭神〗・素戔嗚尊(すさのおのみこと)********************************『神奈川県神社誌』古人がこの栗谷の地を開拓して定住...
明治大学平和教育登戸研究所資料館(神奈川県川崎市多摩区)を訪問しました
明治大学平和教育登戸研究所資料館(→神奈川県川崎市多摩区東三田1丁目)は、明治大学生田キャンパス内にある大日本帝国陸軍の「第九陸軍技術研究所」(登戸研究所)に関する資料館です。登戸研究所は帝国陸軍が秘密戦のための兵器・資材を研究・開発するために設置した研究所で、その存在は一般国民には秘密にされていました。秘密戦とは防諜(→スパイ防止)、謀略(→破壊・攪乱活動、暗殺)、宣伝(→人心の誘導)の4つから成り立っていて、...
あざみ野神明社(→神奈川県横浜市青葉区あざみ野1丁目)は、創建年代は不明ですが『神奈川県神社誌』に「往古より当地の鎮守として村人和合の中心となり、伝統ある神事を奉仕しつつ現在に至った。」と記されています。横浜市指定無形民俗文化財に指定されている牛込獅子舞が神事として奉納されるようです。〖祭神〗・大日孁尊(おおひるめのみこと) →天照大神(あまてらすおおみかみ)のことあざみ野神明社は、江戸時代後期の1830(文...
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普賢山 妙海寺(→神奈川県川崎市中原区木月4丁目)は、戦国時代の1534(天文3)年に木月村の村民鳥海讃岐が開基、僧の仏性院日正が開山したと伝わる日蓮宗寺院です。鎌倉時代初期の1187(文治3)年に源義宗という人物が創建した薬師寺という草庵を鳥海讃岐が一寺としたと伝わります。境内には南北朝時代の「貞和六年」(北朝年号→1350年)と彫られた板碑があるようです。江戸時代には後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の中宮となった徳川和子...
横浜赤レンガ倉庫(→神奈川県横浜市中区新港1丁目)は、現在は公園を備えた赤レンガパークとして1年中何かしらのイベントが行われているみなとみらい地区の代表的な文化・商業・観光施設ですが、もともとは、開国以来、国内最大の貿易港となり取り扱い貨物の急増に対応するため、1899(明治32)年に東洋初の接岸式埠頭として新港埠頭の建設が始まり、その一環として作られた保税倉庫(→外国から運び込まれた輸入手続きが済んでいない物...
横浜市開港記念会館(→神奈川県横浜市中区本町1丁目)は、横浜市開港50周年を記念して市民の寄付金によって第一次世界大戦中の1917(大正6)年6月30日に竣工した「ジャックの塔」の愛称で知られる国の重要文化財です。赤レンガに花崗岩(かこうがん)をとり混ぜた辰野式フリークラシック様式(→東京駅丸の内駅舎など赤レンガに白い石材を配した華やかな西洋建築)で、通りに面した3つの隅部に時計塔・角塔・八角塔を配し、ドームを架けた建...
横浜税関本関(→神奈川県横浜市中区海岸通1丁目)は、先代が1923(大正12)年9月1日の関東大震災で倒壊焼失したため、復興事業の一環で1934(昭和9)年に再建されました。竣工当時は横浜市で最も高い建造物で、イスラム寺院(→モスク)風の塔や連続アーチなど優美でエキゾチックな雰囲気から「クイーンの塔」の愛称で親しまれている横浜市認定歴史建造物です。横浜税関資料展示室「クイーンのひろば」では横浜港と横浜税関の歴史、貿易の最...
神奈川県庁舎(→神奈川県横浜市中区日本大通1丁目)は、横浜港近くの日本大通りに面して建ち、「キングの塔」の愛称で親しまれている国指定重要文化財です。先代が1923(大正12)年9月1日の関東大震災で大被害を受けたため鉄骨鉄筋コンクリート構造が採用され、1928(昭和3)年10月31日に竣工しました。昭和初期に大流行したライト様式(→旧帝国ホテルなどを設計した近代建築の巨匠フランク・ロイド・ライトの手による建築様式で、茶色の...
鵜野森日枝神社(→神奈川県相模原市南区鵜野森2丁目)は、創建年代の詳細は不明ですが、中世の頃より鵜野森郷の鎮守四社(→山王社・神明社・鹿島社・八幡社)として祀られており、江戸時代中期の1725(享保10)年に社殿を再建した棟札があるようです。明治維新後の1871(明治4)年に山王社を日枝大神と改称し、さらに1873(明治6)年に日枝神社と改称して村社となりました。国の一村一社政策を受けて1922(大正11)年には神明社・鹿島社・八幡...
方運山 青柳寺(→神奈川県相模原市南区上鶴間本町3丁目)は、室町時代中期の1499(明応8)年に日朝が創建した清龍寺という小庵を前身とする日蓮宗寺院です。1583(天正11)年に、室町幕府15代将軍足利義昭(あしかがよしあき)のもとを離れ小田原北条氏の家臣となった渋谷越後守義重が、日蓮宗僧侶日題が開山に迎えて青柳寺を開基したと記されます。江戸時代には本山・末寺の制により鎌倉の妙巌山 本覚寺(→神奈川県鎌倉市小町1丁目)の末寺...
上鶴間鹿島神社(→神奈川県相模原市南区上鶴間本町3丁目)は、鎌倉時代初期の建久年間(→1190年~1199年)に鎌倉幕府の初代将軍源頼朝が鶴舞の里(→鶴間)に鶴舞神社(→現在の上鶴間浅間神社)を創建した頃に境川付近の下森に創建した神社が前身と伝わる神社です。江戸時代後期の1801(享和元)年8月に現在地に遷座したという文書(→「鎮守鹿島明神社遷座願」)が残されています。遷座後は隣接する方運山 青柳寺が鹿島社と境内社の天神社(→現在...
町田天満宮(→東京都町田市原町田1丁目)は、戦国時代の天正年間(→1573年~1593年)のうち小田原北条氏の統治下(→1590年まで)に創建され、江戸時代前期の1615(元和元)年にこの地の領主となった幕府の旗本三橋氏・武藤氏によって社殿が造営されたと伝わる神社です。江戸時代には寺領7石3斗の曹洞宗寺院、金森山 宗保院(→東京都町田市原町田1丁目)が別当寺として祭祀を司りました。明治維新後は菅原神社と称したようです。1872(明治5)年...
金森杉山神社(→東京都町田市金森7丁目)は、創建年代等の詳細は不明ですが、江戸時代前期の1683(天和3)年12月に幕府の旗本高木伊勢守夫妻(→妻は於亀)及びその一族が下屋敷内に社殿を再建したと社宝の棟札に記されています。再建には家臣や名主(→村長)の大貫助兵衛・囲曽甚五右衛門が費用の大半を工面したようです。江戸時代を通して金森村の村民が西田杉山神社(→東京都町田市金森6丁目)と隔年で神体を奉遷して祭礼を行ったようです...
母智丘神社(もちおじんじゃ→東京都町田市原町田5丁目)は、『東京都神社名鑑』によると第一次世界大戦末期の1919(大正8)年に黒木昇・黒木ハナの両氏が宮崎県の石峰山山頂に鎮座する母智丘神社(→石岑稲荷明神とも、宮崎県都城市横市町)を自宅に勧請したが、「家屋鳴動し畏懼(いく→恐れおののくこと)の念に耐えず」社殿を創建したと記される神社です。家屋鳴動云々の真偽の程は定かではありませんが、個人によって建てられた神社とし...
高ヶ坂熊野神社(→東京都町田市高ヶ坂2丁目)は、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災によって由緒等が散逸したため創建年代等の詳細は不明ですが、和歌山県の熊野三山神社の那智大社に地形がよく似ていて水源に奉斎し、裏山に滝があったようです。1843(天保14)年の古文書に御供米として毎年地頭より6斗の奉納があり、また除地分として600坪があったとあります。江戸時代の頃は図師村の図師山 大蔵院 釜田寺(→関東大震災で倒壊...
高ヶ坂子育地蔵堂(→東京都町田市高ヶ坂7丁目)は、1971(昭和46)年に南農協高ヶ坂支部倉庫が火災で焼失したため、当時荒廃していた子育地蔵堂の敷地を整理して倉庫と地蔵堂を建設したようです。その後、倉庫は不要となり賃貸倉庫として南農協高ヶ坂支部の運用に使用されていましたが地蔵堂が老朽化したため、1993(平成5)年に支部職員全員で子育地蔵講を設立して資金を積み立てて地蔵堂の新築再建することを決め、1999(平成11)年9月に...
滝沢山 祥雲寺(→東京都町田市高ヶ坂7丁目)は、小田原北条氏の治世下にあった戦国時代の1526(大永6)年8月に、北条氏綱が武運長久と後北条氏の子孫繁栄のため僧の寥堂秀廓(りょうどうしゅうかく)を開山として招いて開基した曹洞宗寺院です。後北条氏の虎朱印が押された寺領寄進文書がありましたが、享保年間(→1716年~1736年、8代将軍徳川吉宗の治世)の火災で焼失したといいます。江戸時代には幕府より寺領15石を安堵されました。現...
龍谷山 成就院 東雲寺(→東京都町田市成瀬4丁目)は、小田原北条氏の治世下にあった戦国時代に小机衆に配属された成瀬城主中里氏が菩提寺として開基し、僧の龍谷が開基した龍谷山 成就院を前身とする曹洞宗寺院です。成瀬城が小机城の支城として築城されたことから、成就院も小机城代笠原信為(かさはらのぶため)が開基した臥龍山 雲松院(→神奈川県横浜市港北区小机町)を本寺(本山)としていました。1590(天正18)年の小田原合戦で北条...
成瀬杉山神社(→東京都町田市成瀬4丁目)は、『東京都神社名鑑』によると江戸時代前期の1668(寛文8)年11月吉日に幕府の代官福井清兵衛と成瀬村の領主であった井戸勝吉と酒井助右衛門が資金を出し合って再建したと伝わる神社です。内訳は福井が金二百疋、井戸が金三分、酒井が金一分と記されます。かつては恩田川沿いの水田の中にあったことから「田中の明神」と呼ばれ、現在地には1982(昭和57)年に移転したようです。江戸時代の頃は...
平薬師堂(→東京都町田市上小山田町)は、創建年代の詳細は不明ですが、江戸時代に上小山田村の字(あざ)平の鎮守として崇敬されていた山王社の本地仏(→神仏習合の頃に神の本体とされた仏のこと)とされた約15cmの薬師如来像を、1868(明治元)年の神仏分離令発布後に分離して祀った堂宇です。現在の堂宇は近年に改築されたものと記されます。平薬師堂は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』多磨郡上小山田村...
上小山田明神神社(→東京都町田市上小山田町)は、鎌倉時代前期の1223(貞応2)年に小山田荘の地頭であった小山田重義(→小山田有重の次男)によって創建された明神社を前身とする神社と伝わります。当初は伊勢国(→三重県)の五十鈴川の面影を残すという理由から上小山田郷の田中谷戸に創建され、江戸時代には上小山田村田中谷戸の鎮守であったと記されます。現在地には明治維新後の1875(明治8)年に遷座され、その際に村内にあった山王社...
野中山 正山寺(→東京都町田市上小山田町)は、江戸時代前期の1615(慶長20)年5月1日に僧の祐玄が堺地区小山町下馬場に建立した浄土真宗寺院です。江戸時代の頃は本山・末寺の制により西本願寺(→京都府京都市下京区堀川通花屋町下る本願寺門前町)の末寺でしたが、貞享年間(→1684年~1687年)に東本願寺(→京都府京都市下京区烏丸通七条上ル常葉町)に派を変えたと記されます。現在はどの本山にも属さない単立寺院といいます。『町田市史...
小山田神社(→東京都町田市下小山田町)は、創建年代の詳細は不明ですが、江戸時代には下小山田村の鎮守で村民が祭祀を司ったと記されます。神仏習合の頃は内御前社(うちのおまえしゃ)という社号で、白幣の神体を祀っていたようです。境内には神仏習合の頃の名残りが展示されています。『町田市史』には1871(明治4)年4月に村民の若林三右衛門有信(わかばやしさんうえもんありのぶ)が破損が著しかった社殿を改築したと記されます。〖...
当麻山 無量光寺(→神奈川県相模原市南区当麻)は、鎌倉時代の1261(弘長元)年に「踊り念仏」を広めたことで知られる一遍(いっぺん)が開いた草庵を起源とする時宗(じしゅう)寺院です。一遍から遊行を引き継いだ真教(しんきょう)が老衰のためこの地に戻り、1304(嘉元2)年ここに堂宇を建立し、阿弥陀仏の別名である無量光仏から「無量光寺」と名付け、一遍の分骨を埋骨して念仏の根本道場としました。真教は1319(文保3)年1月に死去する...
根小屋諏訪神社(ねこやすわじんじゃ→神奈川県相模原市緑区根小屋)は、鎌倉時代初期の1192(建久3)年に筑井城(つくいじょう)を築城した筑井太郎次郎義胤(つくいたとうじろうよしたね)が勧請したと伝わります。神仏習合の頃は井木山寿性院(→現在は廃寺)が別当寺を務めました。『津久井郡文化財神社編』によると、戦国時代には小田原北条氏の有力国衆であった津久井城主内藤景定(ないとうかげさだ)によって1527(大永7)年に50間4面の社...
飯縄神社(いいづなじんじゃ→神奈川県相模原市緑区根古屋)は、小田原北条氏の有力国衆であった津久井内藤氏の居城津久井城の飯縄曲輪(いいづなくるわ)にある神社で、鎌倉時代の1197(建久8)年に前身の筑井城(つくいじょう)を築いた筑井太郎次郎義胤(つくいたろうじろうよしたね)が勧請したと伝わります。戦国時代には津久井城主内藤景定が城の守護神として社殿を改築したと伝わります。津久井城の山頂付近は西峰の本城曲輪・太鼓曲輪...
津久井城(つくいじょう→神奈川県相模原市緑区根古屋)は、鎌倉時代初期に三浦氏の一族である筑井太郎次郎義胤(つくいたろうじろうよしたね→筑井為行とも)が築城したところから始まる根古屋式の山城で、津久井湖の南に聳える標高375ⅿの城山に築かれています。戦国時代には、小田原北条氏の有力国衆で「津久井衆」を率いた津久井内藤氏が城主を務め、対武田氏の最前線の城として重視されました。『勝山記』には、1525(大永5)年に甲斐...
浅利明神(→神奈川県愛甲郡愛川町)は、戦国時代の1569(永禄12)年10月8日の三増合戦(三増峠の戦い)において戦死した武田方の重臣浅利信種(あさりのぶたね)を祀った神社です。江戸時代の1700(元禄13)年3月に曾雌常右衛門知義(そしつねえもんともよし)という武士が、主君の下総関宿藩主牧野備前守成春(まきのびぜんのかみなりはる)の命でこの地を検分した際に、自身にゆかりのある浅利信種がこの地で戦死したことを知り、「浅利墓所」...
三増合戦史跡(→神奈川県愛甲郡愛川町三増)は、戦国時代の1569(永禄12)年10月8日に、甲斐の武田信玄と小田原北条氏の別動隊との間で行われた「三増合戦(みませかっせん)」「三増峠の戦い(みませとおげのたたかい)」に関する史跡です。三増合戦場碑は昭和時代後期の1969(昭和44)年に建立され、その周辺には両軍の戦死者を埋葬したと伝わる首塚や胴塚や、戦死した武田家臣浅利信種(あさりのぶたね)を祀る浅利神社などがあります。〖三...