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ドイツ宗教改革の発端にもなったとされるマルティン・ルターの『九十五箇条の提題』の日本語訳を学んでいく連載記事である。連載66回目である。なお、英訳された『九十五箇条の提題』を、当方で日本語訳して掲載することとした。16〔66〕贖宥状の宝は、今、彼らが人の富を漁る網である。訳は当方一方で、ルターの時代は、贖宥状が福音に代わって使われるようになった。結局、宗教といっても「新商品開発」の性格を有するのである。【参考文献】・WorksofMartinLuther:AdolphSpaeth,L.D.Reed,HenryEysterJacobs,etAl.,Trans.&Eds.(Philadelphia:A.J.HolmanCompany,1915),Vol.1,pp.29-38・マルティン・ルター著/深井智朗氏訳...マルティン・ルター『九十五箇条の提題』を学ぶ・66
ドイツ宗教改革の発端にもなったとされるマルティン・ルターの『九十五箇条の提題』の日本語訳を学んでいく連載記事である。連載65回目である。なお、英訳された『九十五箇条の提題』を、当方で日本語訳して掲載することとした。15〔65〕したがって、福音という宝は、以前は富裕層を漁るのによく使われていた網である。訳は当方福音を宝としたのは、それを元に富裕層への布教に使い、勧誘することだったとしている。しかし、これは宗教の本質なのかもしれない。【参考文献】・WorksofMartinLuther:AdolphSpaeth,L.D.Reed,HenryEysterJacobs,etAl.,Trans.&Eds.(Philadelphia:A.J.HolmanCompany,1915),Vol.1,pp.29-38・マルテ...マルティン・ルター『九十五箇条の提題』を学ぶ・65
ドイツ宗教改革の発端にもなったとされるマルティン・ルターの『九十五箇条の提題』の日本語訳を学んでいく連載記事である。連載51回目である。なお、英訳された『九十五箇条の提題』を、当方で日本語訳して掲載することとした。1〔51〕キリスト教徒は、たとえサン・ピエトロ教会を売ることになったとしても、特定の恩赦の行商人がお金をだまし取っている人々の、非常に多くの者のために、ローマ教皇が自分のお金を寄付することが望みとなり、教皇にとっての義務だと教えられるべきである。訳は当方要するに、贖宥状を売って、教会や教皇の金銭収入を目指しているのを批判し、かえってカトリック教会の総本山たるサン・ピエトロ教会や、ローマ教皇は、自らの財産を全て処分してでも、贖宥状で騙された人のために、寄付をすべきであり、それが義務だと述べたのであ...マルティン・ルター『九十五箇条の提題』を学ぶ・51
ドイツ宗教改革の発端にもなったとされるマルティン・ルターの『九十五箇条の提題』の日本語訳を学んでいく連載記事である。連載47回目である。なお、英訳された『九十五箇条の提題』を、当方で日本語訳して掲載することとした。22〔47〕キリスト教徒は、贖宥を買うのは自由意志の問題であり、律法の問題ではないことを教えられるべきである。訳は当方ここ数回の記事同様に、贖宥状に対するルターの評価を論じた箇所である。そこで、ルターは贖宥状の購入は、自由意識の問題であって、神やキリストが律法のようにして定めたことでは無いとしているのである。つまり、購入の意義は宗教的理由では無く、気分的問題だと批判することにより、キリスト教徒にとっての贖宥状の位置付けを明示したことになるといえる。【参考文献】・WorksofMartinLuth...マルティン・ルター『九十五箇条の提題』を学ぶ・47
ドイツ宗教改革の発端にもなったとされるマルティン・ルターの『九十五箇条の提題』の日本語訳を学んでいく連載記事である。連載46回目である。なお、英訳された『九十五箇条の提題』を、当方で日本語訳して掲載することとした。21〔46〕キリスト教徒は、(財産を)必要以上に持っていない限り、自分の家族のために必要なものは控え、決して恩赦のために浪費してはいけないと教えられるべきである。訳は当方こちらも、前回の記事同様に、贖宥状を購入することへの戒めとなる一節である。要するに、贖宥状の購入のための金額は、決して少なくなかったので、裕福な資産家でもなければ、自分の家族のためのものを切り詰めてでもお金を集め、そして購入されなくてはならなかったようだが、それをルターは、一言「浪費」と断じたのである。【参考文献】・Workso...マルティン・ルター『九十五箇条の提題』を学ぶ・46
ドイツ宗教改革の発端にもなったとされるマルティン・ルターの『九十五箇条の提題』の日本語訳を学んでいく連載記事である。連載39回目である。なお、英訳された『九十五箇条の提題』を、当方で日本語訳して掲載することとした。14〔39〕大変に鋭い神学者であっても、人々に豊かな贖宥(の効果)と、真の悔い改め(の必要性)を、同時に称賛することは非常に困難である。訳は当方要するに、これはルターによって誤りだと認識されている「贖宥」の効果と、本来人々が行うべき「真の悔い改め」が、両立されないことを示した一節だといえる。人々は、より楽な方で良いと願う限り、「贖宥」になびくであろうし、また、神学者も経済的な収入に繋がるのであれば、同意をするであろう。だが、ルターとしては、人々に「真の悔い改め」をして欲しいわけだから、それを説か...マルティン・ルター『九十五箇条の提題』を学ぶ・39
ドイツ宗教改革の発端にもなったとされるマルティン・ルターの『九十五箇条の提題』の日本語訳を学んでいく連載記事である。連載38回目である。なお、英訳された『九十五箇条の提題』を、当方で日本語訳して掲載することとした。13〔38〕とはいえ、教皇によって与えられる赦しと、それへの参加は、決して軽蔑してはならない。何故ならば、これまで私が述べたように、それらは神の赦しの宣言だからである。訳は当方ここ数回の記事で、ルターはローマ教皇の赦しの範囲や効果などを批判的に述べてきたが、しかしローマ教皇の権能について、軽蔑できないことを指摘している。理由について、教皇の赦しは、神の許しの宣言だからだとしている。ここで、少しここ数回読んできた印象を述べると、ルターは「神の代理人」とされるローマ教皇の位置付けを、正確に人間界に置...マルティン・ルター『九十五箇条の提題』を学ぶ・38