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ドイツ宗教改革の発端にもなったとされるマルティン・ルターの『九十五箇条の提題』の日本語訳を学んでいく連載記事である。連載55回目である。なお、英訳された『九十五箇条の提題』を、当方で日本語訳して掲載することとした。5〔55〕教皇の意向としては、非常に小さなものである赦免が1つの鐘、1つの行列、1つの儀式で祝われるのであれば、非常に大きなものである福音は、100の鐘、100の行列、100の儀式で宣べ伝えられるべきだということなのだろう。訳は当方赦免と福音について、祝い方の違いがあるということである。しかし、福音が起きた時には、これくらいの祝い方で良いのかな?という感じがしている。【参考文献】・WorksofMartinLuther:AdolphSpaeth,L.D.Reed,HenryEysterJacob...マルティン・ルター『九十五箇条の提題』を学ぶ・55
ドイツ宗教改革の発端にもなったとされるマルティン・ルターの『九十五箇条の提題』の日本語訳を学んでいく連載記事である。連載54回目である。なお、英訳された『九十五箇条の提題』を、当方で日本語訳して掲載することとした。4〔54〕同じ説教の中で、この御言葉よりも赦しに、同じかそれ以上の時間が費やされるとき、神の御言葉は傷つけられている。訳は当方要するに、説教の内容が偏っていることへの批判で、特に「贖宥状」に関する「赦し」についての説教が長かった場合、それは本来の神の教えを伝えることを邪魔していることになると指摘されている。神の御言葉を傷つけるという表現、中々に厳しい。【参考文献】・WorksofMartinLuther:AdolphSpaeth,L.D.Reed,HenryEysterJacobs,etAl.,...マルティン・ルター『九十五箇条の提題』を学ぶ・54
ドイツ宗教改革の発端にもなったとされるマルティン・ルターの『九十五箇条の提題』の日本語訳を学んでいく連載記事である。連載53回目である。なお、英訳された『九十五箇条の提題』を、当方で日本語訳して掲載することとした。3〔53〕彼らはキリストと教皇の敵であり、ある教会では神の言葉を完全に沈黙させ、他の教会では赦免を説くように命じている。訳は当方実際は、当時のローマ教皇自身も、神の言葉を自分自身の都合に合わせて読み替えたり、『贖宥状』による赦免を説いていたようなので、「敵」という表現もどこまで当てはまるのかが問われるが、どちらにしても、どのようにすれば、正しく罪への償いがなされるべきなのか、検討されるべきだといえよう。【参考文献】・WorksofMartinLuther:AdolphSpaeth,L.D.Ree...マルティン・ルター『九十五箇条の提題』を学ぶ・53
ドイツ宗教改革の発端にもなったとされるマルティン・ルターの『九十五箇条の提題』の日本語訳を学んでいく連載記事である。連載51回目である。なお、英訳された『九十五箇条の提題』を、当方で日本語訳して掲載することとした。1〔51〕キリスト教徒は、たとえサン・ピエトロ教会を売ることになったとしても、特定の恩赦の行商人がお金をだまし取っている人々の、非常に多くの者のために、ローマ教皇が自分のお金を寄付することが望みとなり、教皇にとっての義務だと教えられるべきである。訳は当方要するに、贖宥状を売って、教会や教皇の金銭収入を目指しているのを批判し、かえってカトリック教会の総本山たるサン・ピエトロ教会や、ローマ教皇は、自らの財産を全て処分してでも、贖宥状で騙された人のために、寄付をすべきであり、それが義務だと述べたのであ...マルティン・ルター『九十五箇条の提題』を学ぶ・51
ドイツ宗教改革の発端にもなったとされるマルティン・ルターの『九十五箇条の提題』の日本語訳を学んでいく連載記事である。連載50回目である。なお、英訳された『九十五箇条の提題』を、当方で日本語訳して掲載することとした。25〔50〕キリスト教徒は、教皇が贖宥について説教する者たちの要求を知っているなら、サン・ピエトロ大寺院が、羊の皮と肉と骨で建てられるよりも、むしろ灰になることを望んでいる、と教えられるべきである。訳は当方結局、贖宥についての要求とは、金銭の獲得であると言えよう。つまり、真実の救済では無く、金銭の獲得であるから、信者としては、その総本山のような大教会が、どれほどにみすぼらしい状態で建てられるくらいなら、そもそもが無くなってしまった方が良いという話になりそうである。【参考文献】・マルティン・ルター...マルティン・ルター『九十五箇条の提題』を学ぶ・50
ドイツ宗教改革の発端にもなったとされるマルティン・ルターの『九十五箇条の提題』の日本語訳を学んでいく連載記事である。連載49回目である。なお、英訳された『九十五箇条の提題』を、当方で日本語訳して掲載することとした。24〔49〕キリスト教徒は、教皇の恩赦へ、たとえ信頼を置いていなくても、効果は有益だと教えられるべきである。しかし、それによって神への畏れを失うのなら、それは全くもって有害である。訳は当方贖宥状による救済(恩赦)は、その当時のローマ教皇の権威を高めるものであったが、ルターは、それによって神の権威が減少することを批判していたということである。しかし、実際には神への畏れを忘れること無く、自分自身の罪を償うにしても、それは神を相手に願うべきであって、現実界のローマ教皇相手ではないのである。教皇はあくま...マルティン・ルター『九十五箇条の提題』を学ぶ・49
ドイツ宗教改革の発端にもなったとされるマルティン・ルターの『九十五箇条の提題』の日本語訳を学んでいく連載記事である。連載46回目である。なお、英訳された『九十五箇条の提題』を、当方で日本語訳して掲載することとした。21〔46〕キリスト教徒は、(財産を)必要以上に持っていない限り、自分の家族のために必要なものは控え、決して恩赦のために浪費してはいけないと教えられるべきである。訳は当方こちらも、前回の記事同様に、贖宥状を購入することへの戒めとなる一節である。要するに、贖宥状の購入のための金額は、決して少なくなかったので、裕福な資産家でもなければ、自分の家族のためのものを切り詰めてでもお金を集め、そして購入されなくてはならなかったようだが、それをルターは、一言「浪費」と断じたのである。【参考文献】・Workso...マルティン・ルター『九十五箇条の提題』を学ぶ・46
ドイツ宗教改革の発端にもなったとされるマルティン・ルターの『九十五箇条の提題』の日本語訳を学んでいく連載記事である。連載42回目である。なお、英訳された『九十五箇条の提題』を、当方で日本語訳して掲載することとした。17〔42〕キリスト教徒は、教皇が、恩赦を買う(贖宥)ことと、慈悲の行為とを比較するつもりがないことを、教えられるべきである。訳は当方この記事では、贖宥と、慈悲の業とが、比較されることでは無いことを知るべきだという。この場合の、「慈悲の業」とは何を意味しているのだろうか?それは、イエスによる罪の購いを指すという。いわば、イエスがゴルゴダの丘で処刑された一事をもって、「慈悲の業」としているようである。つまり、イエスによる慈悲の業と、贖宥状との機能とは、比較できることでは無いと示しているのである。【...マルティン・ルター『九十五箇条の提題』を学ぶ・42
ドイツ宗教改革の発端にもなったとされるマルティン・ルターの『九十五箇条の提題』の日本語訳を学んでいく連載記事である。連載41回目である。なお、英訳された『九十五箇条の提題』を、当方で日本語訳して掲載することとした。16〔41〕使徒による恩赦は、主の良い愛のわざよりも好ましいと、人々が誤って考えないように、慎重に(言葉を選んで)説教されるべきである。訳は当方この辺も、神や救世主、と被造物である人である使徒との違いを強調する内容だと言えようか。しかし、往々にして、人の前に立つ者は、説教の結果、自分に向けて尊崇を集めたくなるものである。上記内容は、それを否定したものであろう。説教者の無私なる立場を求めたのである。【参考文献】・WorksofMartinLuther:AdolphSpaeth,L.D.Reed,H...マルティン・ルター『九十五箇条の提題』を学ぶ・41
ドイツ宗教改革の発端にもなったとされるマルティン・ルターの『九十五箇条の提題』の日本語訳を学んでいく連載記事である。連載40回目である。なお、英訳された『九十五箇条の提題』を、当方で日本語訳して掲載することとした。15〔40〕真の悔恨は罰を求め、それを愛するが、自由な贖宥は罰を緩和し、罰を憎ませるか、少なくとも(罰を憎む)機会を与えるのみである。訳は当方まず、自らの罪の悔恨とは、神に対して行われるものであるから、そうなると当然罰が与えられるべきだという考えになる。それが、上記一節の前半部分の意図である。ところが、『贖宥状』で、罰を緩和していくと、一時的にはそれで、何らかのプレッシャーから逃れることにはなるのかもしれないが、一方で、自分自身を省みたり、罪に向き合うわけではないから、結果として罰のみを避けよう...マルティン・ルター『九十五箇条の提題』を学ぶ・40
ドイツ宗教改革の発端にもなったとされるマルティン・ルターの『九十五箇条の提題』の日本語訳を学んでいく連載記事である。連載37回目である。なお、英訳された『九十五箇条の提題』を、当方で日本語訳して掲載することとした。12〔37〕すべての真のキリスト教徒は、生きているか死んでいるかに関わらず、キリストと教会のすべての祝福に与る。そして、これは贖宥状がなくても、神によってその者に与えられる。訳は当方問題は、「真のキリスト教徒」という定義になるが、これは、前項に見る通り、真に悔い改めた者を指す。よって、そのような者は、本人の生死に関わらず、必ずキリストと教会からの全ての祝福に与ることが出来るという。しかも、それは贖宥状が無くても、神から与えられているという。つまりは、ここまで来ると、神に対する真の悔い改めを行い、...マルティン・ルター『九十五箇条の提題』を学ぶ・37