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昨日は、抜管後の小児科外来に行ってきました。抜管後の小児外科は、昨年夏に卒業しましたが ↓ ↓ ↓小児科は、抜管後半年に1回くらいの頻度で約2年間くらい経過を診ていきますと小児科の先生がおっしゃってくださいまし
「人生の最後の最後に苦しい思いをさせられたけれど、それは私のことを思ってのことだね、ありがとう」などと言って、この世を去った人がいるでしょうか?これは医師であり小説家の久坂部羊氏が延命治療について語った言葉である。私の父は亡くなってもうすぐ14年になる、亡くなる半年前に入院してた病院で医師から言われた言葉は今でも忘れない「何もしないと明日まで持ちません」延命治療の選択を迫られた、考える時間を与えてくれない、母と弟は賛成だった。もし治療中止を希望すれば見殺しにしたと後悔に苛まれると思った、結局延命治療をお願いした、気管切開をして人口呼吸器につながれ、手にはミントがはめられた状態、それが父を苦しめることになった、チューブだらけで生かされてる状態、喀痰の吸引、床ずれ、あらゆる痛みとの闘いは半年間で終わったけど今...楽な老い方、苦しむ老い方
大阪旅行⑦、前回の続き。 息子と大阪二人旅①記事はこちら <初めてブログを訪問される方はこちらをご覧ください> はじめに・私の人生を導いてくれた天使のような息子 京阪線の京橋駅から一駅、 天満橋で降りて、 乗り場まで川沿いを歩きます。 ニコニコ笑顔でかわいい息子です 早めについて しばらく待ち、 いよいよ水陸両用バスが到着。 大きくて立派な乗り物です。 なんとこの便の乗客は 私と息子の二人だけ まさに貸切状態 前日と前々日は台風の影響で運休。 この日は9月に入り 夏休みも終わった平日でもあり、 たまたまお客さんがいなかったようです。 どこでも自由に座っていいのですが、 川に入るときの水しぶき …
昨日は娘の小児外科の定期診察の日で大学病院に行ってきました。気管切開していたとき、カニューレ交換のため月一で小児外科を受診していました。毎回、カニューレ交換のときは、号泣でしたが小児外科の先生が新しい先生に変わった途端
先月、ミニオンの映画観に行くよーと書きましたが ↓ ↓ ↓さっそく映画『怪盗グルーのミニオン超変身 』を観てきました!ボブ、会えたねー!!娘、夫、私の3人で観てきました^^娘が気管切開していたときに
マイペースな更新頻度でいつまで続くんだ沖縄旅行記〜って感じですが^^;沖縄旅行記も今回で最後になりますのでよろしければお付き合いくださいませ。美ら海水族館の後は、フクギ並木に行こうとしましたが、フクギ並木周辺の駐車場がどこも
週刊東洋経済の特集「親の看取り方」で親を看取った600人の声が掲載されていた、その中で76歳の実父を亡くした息子さんの体験が興味深いものだった。心臓病を患い通院していたものの認知症の母を在宅で介護しながら元気で暮らしていた、しかし75歳のとき脳の血栓が見つかり、カテール治療をしたが入退院の繰り返し、76歳の時に悪化、生前父は「延命治療とかしてくれるな、頼むな」と言ったにもかかわらず亡くなるまでの2ヵ月間ずっと苦しんでた。薬や治療方法を変えて、さまざまな措置を施した、しかし父は自分で点滴を抜こうとするので手を拘束された、「医師の提示する治療を拒否するなんて考えもしなかった」という息子さんの言葉、私の父が晩年、延命治療(気管切開)したときと重なるものがあった、「もし何もしなければお父さんは明朝まで持ちません」...親を看取った子供の本音
人間は寿命が尽きた時に死ぬのが昔の医学の原則だった、今は寿命がつきても人工的に生かす医学に変わってきた、それでも死ぬときはどんな人も孤独である。そこは貧富の差もなければ社会的地位もない、ひとりで生まれてひとりで苦しみ、そしてひとりで死んでいく、みんな孤独である、高齢になると先は長くない、だからいつ死んでもいいという心境で私はいるけれど周囲を見渡すとそうでもない。私の父は病院に搬送された時「まだ死にたくない」悲痛な叫びだった、86歳だったが生きることに執着していた父、母も私も弟も父には生きていて欲しかった、延命治療を選択、気管切開して生きることに一縷の望みを託したが力尽きて半年後に息を引取った、老いるということは醜くく、つらく孤独で悲しい面も背負うものだと痛感したものだ。老いるということは
娘は、喉頭軟化症という気管の病気のため、生後22日で気管切開の手術を受けました。昨年、気切孔閉鎖の手術を受けるまでの9年間医療ケアが必要な気管切開児(気切っ子)でした。気管切開をすると、気切孔から大量の水が入ってしまっ
先日、小4娘の個人面談がありました。高3息子の三者面談には私が行ったので、娘の個人面談は、夫にお願いしました。個人面談が始まり、開口一番に担任の先生から「すごく明るくてポジティブで、私は、◯◯◯さん大好きです!」と
Happy Birthday 10歳!! 気切孔閉鎖術後、初めてのお誕生日を迎えました。
先日、娘10歳の誕生日を迎えました!昨年のお誕生日は、抜管して気切孔に絆創膏を貼っていましたが、昨年8月に気切孔閉鎖術の手術が無事に終わり、今年の誕生日は、気切孔の傷口もすっかり綺麗になりました。10歳、おめでとうー
人間は寿命が尽きた時に死ぬのが昔の医学の原則だった、今は寿命がつきても人工的に生かす医学に変わってきた、それでも死ぬときはどんな人も孤独である。そこは貧富の差もなければ社会的地位もない、ひとりで生まれてひとりで苦しみ、そしてひとりで死んでいく、みんな孤独である、高齢になると先は長くない、だからいつ死んでもいいという心境で私はいるけれど周囲を見渡すとそうでもない。私の父は病院に搬送された時「まだ死にたくない」悲痛な叫びだった、86歳だったが生きることに執着していた父、母も私も弟も父には生きていて欲しかった、延命治療を選択、気管切開して生きることに一縷の望みを託したが力尽きて半年後に息を引取った、老いるということは醜くく、つらく孤独で悲しい面も背負うものだと痛感したものだ。父の悲痛な叫び「まだ死にたくない」
今日は、気切孔閉鎖術の術後半年の診察に行ってきました。昨年8月の気切孔閉鎖術のときはこちらから ↓ ↓ ↓傷口もすっかり良くなって娘が大好きな小児外科の先生と雑談をして今日の診察は終了しました。 術後は、少し体調を
「人生の最後の最後に苦しい思いをさせられたけれど、それは私のことを思ってのことだね、ありがとう」などと言って、この世を去った人がいるでしょうか?これは医師であり小説家の久坂部羊氏が延命治療について語った言葉である。 私の父は亡くなってもうすぐ13年になる、亡くなる半年前に入院してた病院で医師から言われた言葉は今でも忘れない「何もしないと明日まで持ちません」延命治療の選択を迫られた、考える時間を与えてくれない、母と弟は賛成だった。 もし治療中止を希望すれば見殺しにしたと後悔に苛まれると思った、結局延命治療をお願いした、気管切開をして人口呼吸器につながれ、手にはミントがはめられた状態、それが父を苦しめることになった、チューブだらけで生かされてる状態、喀痰の吸引、床ずれ、あらゆる痛みとの闘いは半年間で終わったけ...楽な老い方、苦しむ老い方
その日はなんだか久しぶりにゆっくりと休めた気がします。 病院から電話がくる心配がなくなり、すぐそこに娘がいる。もちろん、良い結末ではありませんが。 そこから数…
一番可愛くて大切な娘を失った私たち。 全てが娘中心だった生活から、娘がいなくなりました。生活の仕方を忘れるとはこういうことを言うのでしょうか。 娘が産まれるま…
家族三人でゆっくり過ごした後、一旦待合室に通されました。 娘の体にはまだ点滴や気管カニューレ、鼻のチューブなどが残っています。それを取り除いたり、ベッド周囲を…
娘の状態が悪化してから亡くなるまで数時間は経過していました。 何も考えずにずっと娘につきっきりであったため、待合室で待機している時にふとあることに気が付きます…
看護師さんに呼ばれ個室に戻ると、医療機器が全てなくなり、娘が小さなベッドにポツンと横たわっていました。部屋の中の不要な物も全て片付けられています。 さっきまで…
当時、まだ元気だった私の祖母がいました。 私は祖母が大好きで、祖母も出産した私のことをとても気にかけてくれていました。私は毎日病院へ通っていたため、少し遠方に…
娘が個室に入ってから、家でも色々考えてぼーっとすることがありました。 娘が頑張っているのに、私には何も出来ません。 何か今できることはあるだろうか、と考えます…
その日、いつも通り私は娘の面会に向かいました。 ベッドの上でスヤスヤ眠っている娘。とても可愛らしい。 なんだかとても穏やかな様子でした。 しばらくすると主治医…
娘との穏やかな時間が流れていきます。 翌日から夫は有給を連続でとる予定でいました。「明日からは毎日パパも来るよ〜」と娘にも話しかけていました。 赤ちゃんなので…
先生が険しい顔をしながらしばらく処置にあたっていました。 しかし、ある時からさらに状態が悪くなるのを感じました。 どんなに処置をしても酸素濃度が上がって来ませ…
相変わらず、面会に通う日々。 娘は、少し状態が良くなったと思ったら、またすぐ悪くなって、と不安定な様子を繰り返します。 やはり泣くと呼吸が苦しくなり、そのまま…
娘のケアを練習していく中で、当然お風呂の入れ方も練習します。 これがまぁ大変でした。 気管切開部を濡らさないようにしないといけないし、人工呼吸器の管が引っ張ら…
娘が入院中、連休がありました。 去年までは2人でどこか旅行に行っていたと思います。 今年はそういう訳にはいきません。 娘が入院しているから旅行に行きたいのを我…
私は毎日病院へ通う日々が続きました。夫は休日は一緒に病院へ行き、平日は面会時間に間に合えば面会に来ます。 ある日、一緒に面会していると、娘が少しぐずり始めまし…
関係者に迷惑がかからないよう、フェイクを入れている部分がありますのでご了承ください。 ある日、娘の面会に向かう途中のエレベーターの中でのこと。ふと目の前の若い…
友人に病名を伝えた時のことが、今でも少し心に引っかかっています。 隠しておきたい訳でもありませんが、あえて言う必要はあったのかな、と。 友人の「知りたい」と言…
ある日、1人の友人に会った時、娘の病名を聞かれました。 それまで他の友人には聞かれたことがなく、聞かれるとも思っていなかったので、一瞬答えに困りました。 別に…
友人に会い、楽しい一時を過ごす私。 友人の可愛い赤ちゃんにもとても癒されました。 娘も元気だったらこんな感じなのか〜とか考えていました。 そこで話の流れで娘の…
義姉に会ったあの日、久しぶりに夫・両親・病院スタッフ以外の人と喋ってとても楽しい気持ちになれました。 それから頻繁ではないものの、少しずつ友人と会う機会を作り…
ある日いつものように面会に行くと、昨日までは無かったはずの複数の点滴や、鼻の管の先に機械が繋がれていることがありました。 穏やかな時間は長く続かないものです。…
娘は入院中、状態が悪化したり少し落ち着いたりを繰り返していました。 落ち着いている間は、私にとっても束の間の穏やかな時間。 娘の写真を撮ったり、手を握ったり、…
産後からしばらく経ったある日、ようやく義両親が面会にきてくれる日程が整いました。 病院の規則により大勢で一度に面会できないので、その時間に合わせて私は帰宅し、…
苦しい時に究極の選択⁉︎やっぱり人間は「もう一口」欲しい生き物らしい
80,90になって息が苦しいと訴えた時「苦しさを止めるのは気管切開しかない」と言われて断れるだろうか…老人医療の医師の話す「多くの人はお茶碗一杯(余命年単位)まではいらないけどもう一口(数日あわよくば数ヶ月の余命)は欲しいと思うようだ」という話…わ、わかる気がする
夫が義両親に重要な話をしていないと気づいても、私にはどうすることもできませんでした。 今では直接連絡して気軽に話したり出来ますが、この時はまだそこまでの関係…
義姉からの報告で、夫が家族に重要な話をしていないことに気づいた私。 そこである一つのことを思い出しました。 それは娘が産まれてから義両親が一度も面会に来ていな…
義姉から話を聞いた私は、なんとも悲しい気持ちになりました。 病気の娘、1年以内に亡くなってしまう娘、決して普通の子と同じようには生きられない娘、、、 ですが、…
母が面会に来た時、久しぶりに夫や病院関係者以外の人と直接話したことに気が付きました。 ここから少しずつ、本当に少しの人たちだけですが、面会時間以外の時間で軽く…
訪問介護でヘルパーさんが多く家に来すぎた為、だいぶ減らしてもらいました1日に4回とか多すぎでしょう・・・・・ 減らしてもらったら心穏やかに過ごせるようになっ…
「可愛い、可愛い」と、面会中ずっと言い続ける母。 とても嬉しい気持ちになりました。私の気持ちも少し晴れていくようでした。 そこで私はふと気づきます。 こんなふ…
娘の状態が少しだけ落ち着いたある日、初めて私の母が面会に来ました。 娘にとってはおばあちゃんです。 私は病院に着く前に予め今の娘の状態を説明しました。人工呼吸…
私は悩んだ挙句、気管切開をすることにしました。 どちらにしろ避けては通れない道。これを乗り越えれば、残された娘の時間が少しでも楽になるかもしれない。 当日は夫…
娘に気管切開をするかどうか、かなり悩みました。 今は口から気管に向かって長い管が入っていて、そこに人工呼吸器が繋がっています。娘にとっても苦しい処置ではありま…
出産後、初めての手術を終えた時からずっと装着している人工呼吸器。 ある日、主治医の先生から「少し呼吸が安定しているようなので明日の午前中に一度外して様子を見て…
在宅介護へ向けての準備を着々と進めました。 この頃、周りに相談できる人が誰もいなくてすごく不安でした・・・だって友達も介護の経験なんてないし、職場の子で1…
在宅介護に向けてのわたしの研修は週に2回くらいのペースで行いました そこまで難しい手技は今のところないかなぁという感想でしたが、やっぱり気管切開が面倒臭い…