メインカテゴリーを選択しなおす
日蓮宗も江戸時代の慧明院日燈(1642~1717)が著した『草山清規』を始め、法式の整備が進み、その到達点の1つが北尾日大(1877~1946)著の『日蓮宗法要式』(平楽寺書店・大正10年)であったらしい。なお、北尾は近代戦前期に至るまでを主たる活動期とし、戯曲の制作など多方面に功績を残した。今回は、その『日蓮宗法要式』に見える「盂蘭盆会」を採り上げてみたい。まず、式次(差定)は以下の通りである。一讃歎二奉請三願文四礼拝五懺悔六読経七祖訓八唱題九宝塔偈一〇回向一一三帰式後講演『日蓮宗法要式』142頁さて、拙僧の関心日蓮聖人は『盂蘭盆経』を「爾前経」に配した可能性が高く、『法華経』の教理によって乗り越えを図っている。そうなると、そもそも盂蘭盆会自体が日蓮宗でどう扱われるのかが気になる。そこで、上記内容に『法...大正期日蓮宗に於ける「盂蘭盆会」について
先日、或る文章を読んでいたら、或る「滑稽さ」について指摘していたので、参照してみたい。「平家にあらずんば人にあらず」と言ったのは平忠盛とされるが、この意味は"平家じゃなければ人じゃない"。すなわち平家以外の人間たちへの見下し(あるいは平家のみが正義という思い込み)であるが、もうひとつ極めて偏った価値観とそれを信じきる人間のおかしみが含まれているように感じる。今に置き換えて、どれ程の名家があったとしても"その家以外の人は人じゃない"というのは排他的を超えて、滑稽ですらある。中江有里氏「広大な荒野の前に立つ―石母田正『平家物語』」、岩波書店『図書』2014年9月号、12頁この滑稽さは極端で且つ、理由の分からない排他性から生み出されたものである。もう、その当事者以外には分からない排他性、それが滑稽なのである。し...仏教界に見える滑稽さ
「忍辱鎧(にんにくがい)」とも呼ばれる仏具がある。明治時代の真言宗の学僧・権田雷斧上人には『忍辱鎧訓』(森江蔵版・明治12年)という文献がある。それではこの「忍辱鎧」とは何か?濁劫悪世の中には多くの諸の恐怖あらん悪鬼其の身に入って我を罵詈毀辱せん我等仏を敬信して当に忍辱鎧を著るべし是の経を説かんが為の故に此の諸の難事を忍ばん『妙法蓮華経』「勧持品第十三」上記一節は、要するに世間が悪い時期には、仏教徒に多くの恐怖がもたらされるので、我等は仏を信じ、「忍辱鎧」を著るべきだというのである。そうなると、「身に着ける」仏具であることが分かるのだが、更に以下の一節などはどうか?○如幻三昧経に云わく、無垢衣、又た忍辱鎧と名づく。『釈氏要覧』巻上「別名」項ここで「忍辱鎧」という名称が出て来る。典拠となっている文献を見てみ...「忍辱鎧」について