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とりあえず、以下の一節をご覧いただきたい。知るべし、諸法はわが諸法なり。われはすなはち諸法のわれなり、われと諸法と唯是れ水波のわかるなり。水波のわれは即ち三宝の正体なり。三宝はすなはち我らが全体なるを知らば、応ぜざる三宝あらず。そのよく三宝の正体をしるを帰依の道理とす。帰依に別路あらず、たゞわが正体にかへるときを正帰依とす。我を知らず只だ帰依の名のみ思ふは、正帰依にあらず。正帰依なるとき、われこれわれにあらず。我にあらざれば彼れにあらず。かれとわれと二もまたなし。このなしといふを、われとしかりとして三宝たつ帰依たつ。たてばいまの三宝あり。帰依ありてひとしく無上甚深微妙法なり。帰依の第一義は、別の容儀にあらず、五体投地して一心頂礼するなり。一心礼恭は、能礼所礼性空寂なり。性の空寂なる、必ず自心他心体無二なり...三宝帰依の一様相
阿含部ではあるものの『護国経』という名前だったので、大乗経典の『金光明経』のような、「護国経典」なのか?と思いきや、「護国尊者」という人についての話であった。なお、「護国尊者」だが、これはあくまでも意訳で、音写だと「頼吒波羅」となる。この人の名前で検索しても、ほぼ同じ内容の経典がある。また、翻訳の問題は、「訳して曰わく、頼吒は国、波羅は護なり」(『翻梵語』巻6「雑人名第三十」)とある通りである。それにしても、この『護国経』の末尾に気になる一節があるので、見ておきたい。爾の時、倶盧大王、尊者の伽陀を説くを聞き已りて、歓喜信受して、復た白して言わく、「護国尊者、能善く出離す、是の故に、我れ今、尊者に帰依す」。護国告げて言わく、「大王、我に帰依すること勿れ、我れの帰依する所、是れ仏世尊及び法、僧衆なり。王、当に...『仏説護国経』に見る三宝帰依について