鶏足山 養運寺(→東京都町田市本町田)は、鎌倉時代中期の文永年間(→1264年~1275年、8代執権北条時宗が最高権力者の治世)に天台宗寺院として創建された、現在は浄土宗寺院です。小田原北条氏の統治下にあった戦国時代の1567(永禄10)年2月に僧の誓誉によって浄土宗に改宗されました。江戸時代には幕府より寺領三石を拝領し、本山・末寺の制により宝樹山 極楽寺(→東京都八王子市大横町7丁目)の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。...
羅針盤ゼミナールの徒然ブログです。当塾の公式マスコットが歴史学の立場から解説を加え、訪問した神社・寺院・史跡などを紹介してまいります。塾の公式ブログですが塾の宣伝は少なめです。
質問やコメントはご自由にお書きください。
城護山 明王院 円光寺(→神奈川県鎌倉市植木)は、戦国時代に玉縄城主北条氏時(→北条早雲こと伊勢宗瑞の子)が祈願寺として開基、僧の澄範が開山した真言宗大覚寺派寺院です。当時は玉縄城内の南側にあり、円光寺曲輪(くるわ)などの名を残しています。澄範は1559(永禄2)年12月19日に死去しているため、創建はそれ以前であることが分かります。北条氏時は、1526(大永6)年に安房国の里見義豊(さとみよしとよ)・里見実堯(さとみさねたか)...
渡内日枝神社(→神奈川県藤沢市渡内3丁目)は、平安時代前期の923(延長元)年に「相模国の賊を討伐せよ」という醍醐天皇(だいごてんのう)の勅命を受け相模国鎌倉郡村岡に下向した平良文(たいらのよしふみ→下総千葉氏の祖で村岡五郎と称した)が、屋敷地裏山の宮山に大山咋神(おおやまくいのかみ)を勧請して鎮神として祀ったことから始まります。千葉神社(→千葉県千葉市中央区院内1丁目)の碑文によると、平将門の乱(→939年~941年)で、...
蓮教山 法善寺(→神奈川県藤沢市弥勒寺2丁目)は、鎌倉時代中期の1265(文永2)年に得宗(→北条氏家督)の北条時宗が開基した永谷山法泉寺(臨済宗)を母体とする寺院です。室町時代に荒廃したようですが、戦国時代の1508(永正8)年に鎌倉妙本寺8代住職の日調が日蓮宗に改宗したといいます。永禄年間(→1558年~1570年)に再び廃寺となりますが、江戸時代前期の1657(明暦3)年に蓮教日善が再興し、自身の法号を採って蓮教山 法善寺に改めたよう...
柄沢神社(→神奈川県藤沢市柄沢)は、創建年代の詳細は不明ですが、神仏習合の頃は孝安天皇(→実在の可能性が極めて低い6代天皇)を祀る「第六天社」と呼ばれ、鎌倉時代前期の1193(建久4)年には入間野・那須野での巻狩(まきがり→狩りを兼ねた軍事演習)へ向かう途中に源頼朝が参拝したことで信仰が広まったと伝わります。境内には神仏習合の頃の名残りと思われる鐘楼と梵鐘があり、柄沢村が江戸時代中期の1724(享保9)年に下野烏山藩(し...
柄沢山 宗休庵 隆昌院(りゅうしょういん→神奈川県藤沢市柄沢)は、江戸時代前期の1703(元禄16)年に僧の日心が開山した日蓮宗寺院です。日心は赤穂事件(あこうじけん→いわゆる忠臣蔵)で知られる赤穂藩主浅野内匠頭長矩(あさの たくみのかみ ながのり)の家臣奥田孫太郎の末子と伝わります。1702(元禄15)年12月14日(→当時の数え方だと15日)早朝に吉良邸に討ち入り吉良義央(きらよしひさ)を殺害した赤穂浪士は、幕府の命により、1703(元...
功徳山 早雲禅寺 天嶽院(てんがくいん→神奈川県藤沢市渡内1丁目)は、真言宗の古寺「不動院」から始まる曹洞宗寺院で、1180(治承4)年に源頼朝が鎌倉入りする途中で立ち寄り、不動明王に大願成就の祈願をしたという伝承が残ります。戦国時代初期の1495(明応4)年、小田原城を奪取して相模平定を目指す伊勢宗瑞(いせそうずい→いわゆる北条早雲)によって伽藍の一寺が創建され、僧の虎堂玄白を迎えて曹洞宗の禅寺として開山したといいま...
無量山 慈眼寺(→神奈川県藤沢市渡内)は、小田原北条氏の2代北条氏綱(ほうじょううじつな)の信頼を受けて一門に迎えられた北条綱成(ほうじょうつなしげ→玉縄城主)が、僧の韓嶺を開山に迎え、天文年間(→1532年~1555年)に開基したと伝わる曹洞宗寺院です。この場所は、平将門の乱(→939年~941年)の平定にも参加した村岡五郎こと平良文(たいらのよしふみ→下総千葉氏の祖)の邸宅跡にあるといいます。江戸時代には本山・末寺の制により...
東耀山 弥勒寺(みろくじ→神奈川県藤沢市弥勒寺)は、鎌倉時代前期の1226(長禄2)年に3代執権北条泰時が創建した臨済宗寺院の法泉寺を前身とする寺院です。法泉寺は1333(元弘3)年5月18日~22日の鎌倉合戦(→鎌倉幕府滅亡時の市街戦)で新田・足利軍の兵火により堂宇が焼失しましたが、本尊の弥勒菩薩像は「弥勒出現の井」と呼ばれる洞窟に疎開させ無事であったようです。南北朝時代の貞和年間(→1345年~1350年)に堂宇が再建されますが、...
大悲山 光明寺(→神奈川県川崎市高津区二子1丁目)は、戦国時代の1571(元亀2)年に僧の専造坊が二子塚に創建した天台宗寺院を前身とする浄土真宗大谷派寺院です。『川崎市史』の光明寺縁起によると、甲斐武田氏の有力国衆で、武田氏滅亡ののち織田信忠(→織田信長の嫡男)によって滅ぼされた郡内小山田氏の一族小山田宗光(おやまだむねみつ)が専浄と称し庵を結んだと記されます。武田氏や小山田氏の一族・遺臣がこの辺りに移住するのは1...
二子神社(ふたこじんじゃ→神奈川県川崎市高津区二子1丁目)は、江戸時代前期の1641(寛永18)年に、甲斐武田氏(→1582年3月11日滅亡)の有力国衆であった郡内小山田氏(→1582年3月24日滅亡)の一族で、この地で帰農した小山田兵部(おやまだひょうぶ→名前は不明)が創建したと伝わる神社です。1590(天正18)年7月に小田原北条氏が滅亡し、徳川家康が関東入封を果たすと甲斐武田氏の一族や旧臣は徳川氏に取りたてられたり、あるいは帰農して名...
指月橋(しげつきょう→神奈川県川崎市多摩区菅仙谷2丁目)は、源義経(→源頼朝の異母弟)主従が通ったという伝承をもつ多摩川水系の旧三沢川にかかる橋です。江戸時代後期の天保年間(→1830年~1844年)に編纂された『江戸名所図会』には寿福寺十景の1つとして紹介されています。近くには義経と弁慶が大般若経を奉納したと伝わる仙谷山 寿福寺(→神奈川県川崎市多摩区菅仙谷1丁目)があります。江戸時代の天明期(→老中田沼意次の頃)を代表...
二枚橋(→神奈川県川崎市麻生区高石3丁目)は、源義経が作り直したという伝承をもつ多摩川水系の五反田川にかかる橋です。川崎市に残る義経伝説をつなげてみると、義経主従は1180(治承4)年9月に藤原秀衡(ふじわらのひでひら)から与えられた軍勢を率いて奥州平泉(→岩手県西磐井郡平泉町)を発ち、鎌倉街道を南下して仙石山 寿福寺(→神奈川県川崎市多摩区菅仙谷1丁目)で戦勝祈願をし、五反田川を越える際に軍勢が通れるように橋を補強(→...
大鋸諏訪神社(→神奈川県藤沢市大鋸3丁目)は、藤沢山 無量光院 清浄光寺(時宗総本山→神奈川県藤沢市西富1丁目)を開山した遊行四世呑海(→俣野景平の兄弟)が、鎌倉時代後期の1325(正中2)年秋に尾張国津島より勧請し、藤沢山の守護神として祀った神社です。以来、清浄光寺が別当寺として祭祀を司り、1868(明治元)年の神仏分離令後も祭事などで清浄光寺との繋がりは続いているようです。当初は境内地に創建されましたが、江戸時代前期の...
遊行寺(ゆぎょうじ)の名で知られる藤沢山 無量光院 清浄光寺(→神奈川県藤沢市西富1丁目)は鎌倉時代後期の1324(正中元)年に創建された時宗総本山です。境内には松平氏(徳川氏)の始祖とされる得川有親(とくがわありちか)の守り本尊を祀る宇賀神社や、真徳寺・真浄院・長生院(ちょうしょういん)という塔頭寺院(たっちゅうじいん→大寺院にある小寺院)があります。室町時代前期の1438(永享10)年8月~翌年2月の永享の乱において、得川有...
遊行寺(ゆぎょうじ)の名で知られる藤沢山 無量光院 清浄光寺(しょうじょうこうじ→神奈川県藤沢市西富1丁目)は、鎌倉時代後期の1324(正中元)年に鎌倉郡俣野の領主であった俣野景平(またのかげひら)が開基、時宗開祖一遍の遊行を相承した遊行四世の呑海(どんかい→俣野景平の兄弟)が開山した時宗総本山です。1324(正中元)年は14代執権北条高時政権で、周辺には得宗被官(→北条氏嫡流の家来、御内人とも)の所領が点在し、境内には1333(...
八王山 摂取院 常光山(→神奈川県藤沢市本町4丁目)は、戦国時代後期の1572(元亀3)年に本山である天照山 蓮華院 光明寺(→神奈川県鎌倉市材木座6丁目)の27代住職明蓮社光誉(西隠)が自身の隠居所として創建した浄土宗寺院です。本尊は阿弥陀三尊立像で、中尊は像高99cm・全高204cmあり、脇侍2体は江戸時代に彫られたものです。中尊は仏師安阿弥の作で源頼朝の持仏と伝わりますが、実際には南北朝時代に彫られたもので鎌倉扇ガ谷にあっ...
法谷山 瑞祥院 永勝寺(→神奈川県藤沢市本町4丁目)は、鎌倉時代前期の1232(貞永元)年に浄土真宗の開祖親鸞(しんらん)の真弟(→仏法上の後継者)である誓海が開基となり鎌倉常盤村に創建した常盤道場を前身とする浄土真宗本願寺派(西本願寺派)寺院です。常盤村には当時の執権北条泰時(→3代執権)の異母弟・政村(→のちの7代執権)の別邸(→常盤亭)があり、周辺には多くの寺社が建立されました。1333(元弘3)年5月18日~22日の鎌倉合戦(→鎌...
白玉山 般若院 荘厳寺(しょうごんじ→神奈川県藤沢市本町4丁目)は、鎌倉時代初期の1184(寿永4・元暦元)年に僧の覚憲が開山、1235(嘉禎元)年に覚盛が中興した高野山真言宗寺院です。江戸時代には三島山 感応院 瑞光寺(→神奈川県藤沢市大鋸2丁目)の末寺として幕藩体制の一翼を担いますが、元文年間(→1736年~1741年)に火災で焼失したため、1747(延享4)年に別当寺として祭祀を司っていた白旗神社(→神奈川県藤沢市藤沢2丁目)の隣に再建...
藤沢御殿の堀跡(→神奈川県藤沢市藤沢2丁目)は、現在の藤沢市民病院と藤沢公民館の間にあった藤沢御殿(→徳川将軍家の宿泊所)とその堀跡です。小田原北条氏が滅亡し、徳川家康が関東入封を果たした1590(天正18)8月1日以降、家康は領国支配の拠点、休憩・宿泊所として御殿や御茶屋を設置しました。御殿は、江戸に至る街道沿いの府中・小杉・神奈川・鎌倉・藤沢・中原・大磯・箱根・元箱根に作られました。藤沢御殿は神奈川御殿と同時...
正宗稲荷大明神(→神奈川県藤沢市藤沢1丁目)は、隣接する長藤山 妙善寺(→神奈川県藤沢市藤沢1丁目)に稲荷社で、創建は鎌倉時代にまで遡ることができます。平安時代の高僧円仁が802(延暦21)年に彫刻したと伝わる仏像が、鎌倉時代後期に日蓮宗信者となった刀工五郎正宗により鎌倉に持ち込まれ、職業の守護神として崇敬されたと記されます。神仏習合の頃は神(→垂迹=仮の姿)は仏(→本地=本来の姿)と同じものとされていました。これを本...
長藤山 妙善寺(→神奈川県藤沢市藤沢1丁目)は、鎌倉時代中期の1271(文永8)年10月に配流先の佐渡に赴く日蓮(→実際には守護北条宣時の館への「預かり」)が、この地にあった真言宗寺院で休息をとったことから、日蓮の直弟子である日山が住職の長藤にせまり改宗させたと伝わる日蓮宗寺院です。妙善寺はその後、比企妙本寺(→神奈川県鎌倉市大町1丁目)と池上本門寺(→東京都大田区池上1丁目)の両貫主の隠居地となりますが、南北朝時代には...
白旗神社(→神奈川県藤沢市藤沢2丁目)は、創建年代の詳細は不明ですが、相模国一宮の寒川神社(→神奈川県高座郡寒川町宮山)を勧請して平安時代中期までに創建されており、鎌倉時代の1198(建久9)年に白玉山 般若院 荘厳寺(→神奈川県藤沢市本町4丁目)の住職覚憲が別当となり、以後1868(明治元)年の神仏分離令まで同寺が別当寺として祭祀を司りました。鎌倉幕府の公式史書である『吾妻鏡』には、源頼朝(→頼経の異母兄)の追及を受けた藤...
伝義経首洗井戸(→神奈川県藤沢市藤沢2丁目)は、源頼朝の追及を受けた藤原泰衡(ふじわらのやすひら→奥州藤原氏4代目)に攻められ、1189(文治5)年閏4月30日、衣川館(→岩手県西磐井郡平泉町高館)で自害した源義経(→頼朝の異母弟)の首級を多と洗ったと伝わる井戸及び供養塔です。義経主従の首級は6月13日に鎌倉腰越で和田義盛・(→侍所別当)・梶原景時(→侍所所司)らによって首実検(→本人確認)が行われています。民間伝承では首実検ののち...
山田神社(→神奈川県横浜市都筑区南山田町)は、室町時代中期の1445(文安5)年に創建したと伝わる妙見社を前身とする神社で、明治時代後期の1910(明治43)年、国の一村一社政策を受けて近郷の諏訪社、神明社、稲荷十社、八幡社、熱田社、熊野社、第六天社など21社を合祀し、山田神社と改称されました。合祀された1つの諏訪神社は平安時代前期の860(貞観2)年の創建と伝わる古社で、本殿横には別当寺(神宮寺)の名残りと推察される鐘楼と...
妙見山 不動院 長泉寺(→神奈川県横浜市都筑区北山田7丁目)は、創建の詳細は不明ですが、江戸時代中期の延享年間(→1744年~1747年)に死去した僧の覚推が中興開基したと記される真言宗豊山派寺院です。もとは西不動谷(→神奈川県横浜市都筑区南山田2丁目)にありましたが、江戸時代中期に現在地に移転し、この地の領主河野通有(こうのみちあり→八王子千人同心の1家)から二段五畝の畑を寄進されました。長泉寺は、江戸時代には本山・末...
茅ヶ崎城址公園(→神奈川県横浜市都筑区茅ヶ崎東2丁目)は、港北ニュータウン遺跡群として保存されている中世城郭の1つで、戦国時代には小田原北条氏の家臣座間氏(→知行地50貫)が城代もしくは城番を務め、小机城(→神奈川県横浜市港北区小机町)を中心とする小机衆の支城として機能しました。北条氏の軍役は7貫で1人の動員が義務付けられていたため、50貫の座間氏は、本人+7人の家来を率いて参陣したことになります。茅ヶ崎城は、比高...
功臣山 報国寺(→神奈川県鎌倉市浄明寺2丁目)は、鎌倉幕府滅亡後に北条氏の旧領を拝領した足利尊氏が、1334(建武元)年に、祖父の足利家時を開基とし、僧の天岸彗広を開山に迎えて創建した臨済宗建長寺派寺院です。ただし、足利家時は1284(弘安7)年に死去しているため、建武の新政期にこの地を治めていた宅間上杉重兼が実際の開基だと推察されます。天岸彗広は、鎌倉五山第2位の円覚寺(→神奈川県鎌倉市山ノ内)を開山した無学祖元に師...
大蔵山 杉本寺(すぎもとでら→神奈川県鎌倉市二階堂)は、奈良時代中期の734(天平6)年に光明皇后(→聖武天皇の后)の発願により藤原房前(ふささき→藤原氏北家の祖)が開基、僧の行基(→東大寺の廬舎那大仏造立に貢献)が開山したと伝わる天台宗寺院で、鎌倉最古の寺として知られています。本尊は三体の十一面観音像で、それぞれ734(天平6)年に行基が、851(仁寿元)年に円仁(→慈覚大師)が、986(寛和2)年に源信(→『往生要集』を著した恵心僧...
鎌倉宮(→神奈川県鎌倉市二階堂)は、後醍醐天皇の皇子である護良親王(もりよししんのう)を祭神とする、1869(明治2)年6月に明治天皇の命で創建された旧官幣中社です。護良親王は、元弘の乱(→鎌倉幕府討幕戦)の功績から建武の新政で征夷大将軍に任じられましたが、父の後醍醐と不和になり、1334(建武元)年冬に鎌倉の足利直義(ただよし→尊氏の実弟)の元に幽閉され、1335(建武2)年7月の中先代の乱に際し、直義の命を受けた淵辺義博(ふち...
荏柄天神社(→神奈川県鎌倉市二階堂)は、平安時代後期の1104(長治安元)年に天神を敬う里人が創建したと伝わる天満宮で、源頼朝が鎌倉幕府を開いた際は、大蔵御所(→神奈川県鎌倉市雪ノ下3丁目)の鬼門守護として崇められたといいます。神仏習合の頃は京都の東寺の末寺・一乗院(→廃寺)が別当寺として祭祀を司りました。『吾妻鏡』には、1202(建仁2)年9月11日に2代将軍源頼家が菅原道真三百年忌を行い、奉幣使として政所別当大江広元を...
叡昌山 妙隆寺(→神奈川県鎌倉市小町2丁目)は、南北朝時代の1385(至徳2)年に、日蓮宗に帰依した千葉胤貞が、先祖の追福供養のため氏寺の正中山 法華経寺(→千葉県市川市中山2丁目)の住職日英を招いて開山した日蓮宗寺院です。鎌倉府管国の守護は鎌倉府に出仕するため鎌倉に屋敷があり(→在倉制という)、この場所には胤貞の屋敷がありました。胤貞は肥前国小城郡と下総国千田荘・八幡荘を相続しましたが、父・宗胤が実弟の胤宗に奪われ...
「ブログリーダー」を活用して、西住りほさんをフォローしませんか?
鶏足山 養運寺(→東京都町田市本町田)は、鎌倉時代中期の文永年間(→1264年~1275年、8代執権北条時宗が最高権力者の治世)に天台宗寺院として創建された、現在は浄土宗寺院です。小田原北条氏の統治下にあった戦国時代の1567(永禄10)年2月に僧の誓誉によって浄土宗に改宗されました。江戸時代には幕府より寺領三石を拝領し、本山・末寺の制により宝樹山 極楽寺(→東京都八王子市大横町7丁目)の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。...
金井八幡神社(→東京都町田市金井町)は、創建年代等の詳細は不明ですが、江戸時代には広福寺(→現在は廃寺)が別当寺として祭祀を司りました。江戸時代中期の1726(享保11)年10月に仏師佐野木丞が御神像(→神仏習合の頃の神体、約15cm)を作り奉納、1751(寛延4)年7月に石段を建立、1828(文政11)年に仏師田村幸左衛門が神体の神像に彩色を施したと伝わります。また、この年に社殿が再建されたようです。現在の社殿は太平洋戦争が始まる194...
能ヶ谷神社(→東京都町田市能ヶ谷6丁目)は、江戸時代前期の正保年間(→1644年~1647年)に東照宮として創建された村民持(もち)の神社を母体とし、江戸時代後期には十六所神社といいました。幕末期の1854(安政元)年4月に再建され、1877(明治10)年6月に村社に列せられたと記されます。1914(大正3)年11月に近隣の表谷神社・天照大神・神明社・住吉神社を合祀して社号を能ヶ谷神社に改めました。現在の社殿は戦前の1931(昭和6)年4月に造営...
長滝山 多聞院 妙延寺(→東京都町田市森野2丁目)は、室町時代前期にこの地の領主であった渋谷重宗(しぶやしげむね)が長栄山 大国院 池上本門寺(→東京都大田区池上1丁目)の4代住職日山の弟子である日顕を開山に招いて創建した日蓮宗寺院です。日顕は1429(正長2)年7月23日に死去したので創建はそれ以前であることが分かります。江戸時代には本山・末寺の制により前述の池上本門寺の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。また、江戸...
森野住吉神社(→東京都町田市森野5丁目)は、江戸時代前期の1640(寛永17)年9月にこの地の領主であった幕府旗本須藤家の3代須藤太郎左衛門盛忠(すどうたろうざえもんもりただ)が、祖先の菩提と武運長久のため名主の渋谷由右衛門尉重忠(しぶやゆえもんのじょうしげただ→旧北条家臣、帰農)および氏子により摂津国住吉郡の住吉大社を勧請して創建したと社宝の棟札に記されます。1710(宝永7)年12月に5代須藤権之助盛連(すどうごんのすけも...
西田杉山神社(→東京都町田市金森6丁目)は、江戸時代前期の1683(天和3)年12月に幕臣高木伊勢守の館の鬼門の守護神として創建したと伝わる神社で、社殿・参道ともに高木伊勢守の館(→神奈川県大和市下鶴間)の方角を向いてます。1793(寛政5)年12月と1936(昭和11)年に社殿が再建されました。境内には5mほどの神木の大公孫樹があります。〖祭神〗・日本武尊(やまとたけるのみこと)西田杉山神社は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂...
金神神社(こんじんじんじゃ→神奈川県川崎市麻生区白鳥4丁目)は、創建年代等の詳細は不明ですが、1873(明治6)年に富士講(→富士山信仰)を束ねて設立された富士一山講社を起源とする扶桑教の神社です。扶桑教はかつての教派神道13派(→明治時代以降、政府によって公認された神道系の宗教団体)の一つとして知られます。境内社には笑顔が印象的な江戸期の一木彫り日本一の大黒天が祀られています。〖祭神〗・天祖参神・金山比古命(かな...
日吉神社(→神奈川県横浜市港北区日吉3丁目)は、創建年代の詳細は不明ですが、往古から武蔵国橘樹(たちばな)郡矢上村の総鎮守として同村北方の俗称「お伊勢原」と呼ぶ丘上にあり神明社と称しました。江戸時代には曹洞宗寺院の谷上山 保福寺(→神奈川県横浜市港北区日吉4丁目)が別当寺を務めましたが、祭祀は平村の神職小泉信濃が来て行ったと記されます。旧社殿は田沼意次(たぬまおきつぐ)が老中首座にあった1785(天明5)年の修造と伝...
普賢山 妙海寺(→神奈川県川崎市中原区木月4丁目)は、戦国時代の1534(天文3)年に木月村の村民鳥海讃岐が開基、僧の仏性院日正が開山したと伝わる日蓮宗寺院です。鎌倉時代初期の1187(文治3)年に源義宗という人物が創建した薬師寺という草庵を鳥海讃岐が一寺としたと伝わります。境内には南北朝時代の「貞和六年」(北朝年号→1350年)と彫られた板碑があるようです。江戸時代には後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の中宮となった徳川和子...
横浜赤レンガ倉庫(→神奈川県横浜市中区新港1丁目)は、現在は公園を備えた赤レンガパークとして1年中何かしらのイベントが行われているみなとみらい地区の代表的な文化・商業・観光施設ですが、もともとは、開国以来、国内最大の貿易港となり取り扱い貨物の急増に対応するため、1899(明治32)年に東洋初の接岸式埠頭として新港埠頭の建設が始まり、その一環として作られた保税倉庫(→外国から運び込まれた輸入手続きが済んでいない物...
横浜市開港記念会館(→神奈川県横浜市中区本町1丁目)は、横浜市開港50周年を記念して市民の寄付金によって第一次世界大戦中の1917(大正6)年6月30日に竣工した「ジャックの塔」の愛称で知られる国の重要文化財です。赤レンガに花崗岩(かこうがん)をとり混ぜた辰野式フリークラシック様式(→東京駅丸の内駅舎など赤レンガに白い石材を配した華やかな西洋建築)で、通りに面した3つの隅部に時計塔・角塔・八角塔を配し、ドームを架けた建...
横浜税関本関(→神奈川県横浜市中区海岸通1丁目)は、先代が1923(大正12)年9月1日の関東大震災で倒壊焼失したため、復興事業の一環で1934(昭和9)年に再建されました。竣工当時は横浜市で最も高い建造物で、イスラム寺院(→モスク)風の塔や連続アーチなど優美でエキゾチックな雰囲気から「クイーンの塔」の愛称で親しまれている横浜市認定歴史建造物です。横浜税関資料展示室「クイーンのひろば」では横浜港と横浜税関の歴史、貿易の最...
神奈川県庁舎(→神奈川県横浜市中区日本大通1丁目)は、横浜港近くの日本大通りに面して建ち、「キングの塔」の愛称で親しまれている国指定重要文化財です。先代が1923(大正12)年9月1日の関東大震災で大被害を受けたため鉄骨鉄筋コンクリート構造が採用され、1928(昭和3)年10月31日に竣工しました。昭和初期に大流行したライト様式(→旧帝国ホテルなどを設計した近代建築の巨匠フランク・ロイド・ライトの手による建築様式で、茶色の...
鵜野森日枝神社(→神奈川県相模原市南区鵜野森2丁目)は、創建年代の詳細は不明ですが、中世の頃より鵜野森郷の鎮守四社(→山王社・神明社・鹿島社・八幡社)として祀られており、江戸時代中期の1725(享保10)年に社殿を再建した棟札があるようです。明治維新後の1871(明治4)年に山王社を日枝大神と改称し、さらに1873(明治6)年に日枝神社と改称して村社となりました。国の一村一社政策を受けて1922(大正11)年には神明社・鹿島社・八幡...
方運山 青柳寺(→神奈川県相模原市南区上鶴間本町3丁目)は、室町時代中期の1499(明応8)年に日朝が創建した清龍寺という小庵を前身とする日蓮宗寺院です。1583(天正11)年に、室町幕府15代将軍足利義昭(あしかがよしあき)のもとを離れ小田原北条氏の家臣となった渋谷越後守義重が、日蓮宗僧侶日題が開山に迎えて青柳寺を開基したと記されます。江戸時代には本山・末寺の制により鎌倉の妙巌山 本覚寺(→神奈川県鎌倉市小町1丁目)の末寺...
上鶴間鹿島神社(→神奈川県相模原市南区上鶴間本町3丁目)は、鎌倉時代初期の建久年間(→1190年~1199年)に鎌倉幕府の初代将軍源頼朝が鶴舞の里(→鶴間)に鶴舞神社(→現在の上鶴間浅間神社)を創建した頃に境川付近の下森に創建した神社が前身と伝わる神社です。江戸時代後期の1801(享和元)年8月に現在地に遷座したという文書(→「鎮守鹿島明神社遷座願」)が残されています。遷座後は隣接する方運山 青柳寺が鹿島社と境内社の天神社(→現在...
町田天満宮(→東京都町田市原町田1丁目)は、戦国時代の天正年間(→1573年~1593年)のうち小田原北条氏の統治下(→1590年まで)に創建され、江戸時代前期の1615(元和元)年にこの地の領主となった幕府の旗本三橋氏・武藤氏によって社殿が造営されたと伝わる神社です。江戸時代には寺領7石3斗の曹洞宗寺院、金森山 宗保院(→東京都町田市原町田1丁目)が別当寺として祭祀を司りました。明治維新後は菅原神社と称したようです。1872(明治5)年...
金森杉山神社(→東京都町田市金森7丁目)は、創建年代等の詳細は不明ですが、江戸時代前期の1683(天和3)年12月に幕府の旗本高木伊勢守夫妻(→妻は於亀)及びその一族が下屋敷内に社殿を再建したと社宝の棟札に記されています。再建には家臣や名主(→村長)の大貫助兵衛・囲曽甚五右衛門が費用の大半を工面したようです。江戸時代を通して金森村の村民が西田杉山神社(→東京都町田市金森6丁目)と隔年で神体を奉遷して祭礼を行ったようです...
母智丘神社(もちおじんじゃ→東京都町田市原町田5丁目)は、『東京都神社名鑑』によると第一次世界大戦末期の1919(大正8)年に黒木昇・黒木ハナの両氏が宮崎県の石峰山山頂に鎮座する母智丘神社(→石岑稲荷明神とも、宮崎県都城市横市町)を自宅に勧請したが、「家屋鳴動し畏懼(いく→恐れおののくこと)の念に耐えず」社殿を創建したと記される神社です。家屋鳴動云々の真偽の程は定かではありませんが、個人によって建てられた神社とし...
高ヶ坂熊野神社(→東京都町田市高ヶ坂2丁目)は、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災によって由緒等が散逸したため創建年代等の詳細は不明ですが、和歌山県の熊野三山神社の那智大社に地形がよく似ていて水源に奉斎し、裏山に滝があったようです。1843(天保14)年の古文書に御供米として毎年地頭より6斗の奉納があり、また除地分として600坪があったとあります。江戸時代の頃は図師村の図師山 大蔵院 釜田寺(→関東大震災で倒壊...
当麻山 無量光寺(→神奈川県相模原市南区当麻)は、鎌倉時代の1261(弘長元)年に「踊り念仏」を広めたことで知られる一遍(いっぺん)が開いた草庵を起源とする時宗(じしゅう)寺院です。一遍から遊行を引き継いだ真教(しんきょう)が老衰のためこの地に戻り、1304(嘉元2)年ここに堂宇を建立し、阿弥陀仏の別名である無量光仏から「無量光寺」と名付け、一遍の分骨を埋骨して念仏の根本道場としました。真教は1319(文保3)年1月に死去する...
根小屋諏訪神社(ねこやすわじんじゃ→神奈川県相模原市緑区根小屋)は、鎌倉時代初期の1192(建久3)年に筑井城(つくいじょう)を築城した筑井太郎次郎義胤(つくいたとうじろうよしたね)が勧請したと伝わります。神仏習合の頃は井木山寿性院(→現在は廃寺)が別当寺を務めました。『津久井郡文化財神社編』によると、戦国時代には小田原北条氏の有力国衆であった津久井城主内藤景定(ないとうかげさだ)によって1527(大永7)年に50間4面の社...
飯縄神社(いいづなじんじゃ→神奈川県相模原市緑区根古屋)は、小田原北条氏の有力国衆であった津久井内藤氏の居城津久井城の飯縄曲輪(いいづなくるわ)にある神社で、鎌倉時代の1197(建久8)年に前身の筑井城(つくいじょう)を築いた筑井太郎次郎義胤(つくいたろうじろうよしたね)が勧請したと伝わります。戦国時代には津久井城主内藤景定が城の守護神として社殿を改築したと伝わります。津久井城の山頂付近は西峰の本城曲輪・太鼓曲輪...
津久井城(つくいじょう→神奈川県相模原市緑区根古屋)は、鎌倉時代初期に三浦氏の一族である筑井太郎次郎義胤(つくいたろうじろうよしたね→筑井為行とも)が築城したところから始まる根古屋式の山城で、津久井湖の南に聳える標高375ⅿの城山に築かれています。戦国時代には、小田原北条氏の有力国衆で「津久井衆」を率いた津久井内藤氏が城主を務め、対武田氏の最前線の城として重視されました。『勝山記』には、1525(大永5)年に甲斐...
浅利明神(→神奈川県愛甲郡愛川町)は、戦国時代の1569(永禄12)年10月8日の三増合戦(三増峠の戦い)において戦死した武田方の重臣浅利信種(あさりのぶたね)を祀った神社です。江戸時代の1700(元禄13)年3月に曾雌常右衛門知義(そしつねえもんともよし)という武士が、主君の下総関宿藩主牧野備前守成春(まきのびぜんのかみなりはる)の命でこの地を検分した際に、自身にゆかりのある浅利信種がこの地で戦死したことを知り、「浅利墓所」...
三増合戦史跡(→神奈川県愛甲郡愛川町三増)は、戦国時代の1569(永禄12)年10月8日に、甲斐の武田信玄と小田原北条氏の別動隊との間で行われた「三増合戦(みませかっせん)」「三増峠の戦い(みませとおげのたたかい)」に関する史跡です。三増合戦場碑は昭和時代後期の1969(昭和44)年に建立され、その周辺には両軍の戦死者を埋葬したと伝わる首塚や胴塚や、戦死した武田家臣浅利信種(あさりのぶたね)を祀る浅利神社などがあります。〖三...