私が曹洞宗の坐禅を根本とした仏道修行を始めてから、お寺での生活を通して気が付いた事、学んだ事、坐禅を通して見い出した事、また、本を読んだり、インターネットを見たり、話を聞く等して知り得た事等を、私なりの解釈でご紹介して参ります。
落ち込みにくい人とは、嬉しい事、幸せな事、楽しい事に対して、大袈裟な程に、素直に心から、全力で喜べる人
心配するな、大丈夫、なんとかなる。(臨済宗大徳寺派、りんざいしゅうだいとくじは 一休宗純、いっきゅうそうじゅん)この言葉は、一休さんという愛称でもよく知られている、室町時代の禅僧、一休宗純禅師が、自身が亡くなる前に弟子達に遺した手紙に書かれていた、たった一言だけの言葉です。一休禅師は、八十七歳で亡くなりましたが、亡くなる前に、弟子達に、このように言い残し、手紙を差し出したのだそうです。「今後、お寺...
空腹で、お腹が「グー」と鳴った時、それは、身も心も大いに喜べる、大変有り難い至高の時。
江戸幕府の三代将軍、徳川家光公の時代、沢庵宗彭(たくあんそうほう)という、将軍家、諸大名、一般庶民にも、広く名前の知られた、大変立派な高僧としても有名な、臨済宗の和尚さんがおられました。徳川家光公は、この沢庵和尚と出会い、一目見るや否や、我が心の師匠として帰依し、大変に尊敬し、その教えをよく聞いていたのだそうです。ある時、家光公は、沢庵和尚の元に訪れ、「近頃、余は、何を食べても美味しいと感じられな...
我欲を捨て去り、煩悩を滅し、悩み、苦しみの世界から脱する為の方法、その王道こそが、坐禅。
徒(いたずら)に百歳(ひゃくさい)生(い)けらんは、恨(うら)むべき日月(じつげつ)なり悲(かな)しむべき形骸(けいがい)なり設(たと)い百歳(ひゃくさい)の日月(じつげつ)は声色(しょうしき)の奴卑(ぬび)と馳走(ちそう)すとも其中(そのなか)一日(いちにち)の行持(ぎょうじ)を行取(ぎょうしゅ)せば一生(いっしょう)の百歳(ひゃくさい)を行取(ぎょうしゅ)するのみに非(あら)ず百歳(ひゃくさい...
坐禅はする程に、続ける程に、自分自身の命、縁により繋がっているあらゆる存在の尊さ、恩恵が、色濃く感じられていく。
生(しょう)を明(あき)らめ死(し)を明(あきら)らむるは仏家(ぶっけ)一大事(いちだいじ)の因縁(いんねん)なり生死(しょうじ)の中(なか)に仏(ほとけ)あれば生死(しょうじ)なし但(ただ)生死(しょうじ)即(すなわ)ち涅槃(ねはん)と心得(こころえ)て生死(しょうじ)として厭(いと)うべきもなく涅槃(ねはん)として欣(ねご)うべきもなし是時(このとき)初(はじ)めて生死(しょうじ)を離(はな)...
全ての存在に慈しみの心を持ち、愛せる人は、全ての存在から慈しみの心を持たれ、愛される人。
無事是貴人(ぶじこれきにん)(臨済録 臨済禅師)この言葉の中の「無事」とは、大変な事、困った事が取り立てて起こらず、平穏無事に、普段と変わりない、平凡な日常が過ごせている、という意味ではありません。日々、自己を律して、仏道修行に猛進し、励もうとする心も、時に、煩悩に打ち負かされ、自己を律する事無く、怠慢な日々を過ごそうとする心も、そのような、善きも悪しきも、何かを求める心を完全に手離して、ありのま...
ありとあらゆる生きとし生けるものの幸せを願う事、それは、自分自身の幸せを願う事。
衆生(しゅじょう)を利益(りやく)すというは四枚(しまい)の般若(はんにゃ)あり一者(ひとつには)布施(ふせ)、二者(ふたつには)愛語(あいご)、三者(みつには)利行(りぎょう)、四者(よつには)同事(どうじ)是(こ)れ即(すなわ)ち薩埵(さった)の行願(ぎょうがん)なり(修証義、しゅしょうぎ 道元禅師、どうげんぜんじ)世の人々を幸せにするには、四通りの尊い仏の教えがあります。一つ目は、布施(ふせ...
原始仏教から現代仏教に至るまで、代々実践され、受け継がれてきた、心を整える「止観(しかん)」。
諸行無常(しょぎょうむじょう)、諸法無我(しょほうむが)、一切皆苦(いっさいかいく)、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)前述の言葉は、お釈迦様が説かれた仏教の教えの中でも、特に重要な4つの基本理念として、「四法印(しほういん)」と言われています。仏教においては、特に大切にされている教えであり、仏教の教えの根本でもある教えとされています。「諸行無常」とは、全ては常無し、全ては変化し続ける、という事で、こ...
為せば成る、為さねば成らぬ、何事も、成らぬは、己が為さぬなりけり。
一心欲見仏(いっしんよっけんぶつ)、不自惜身命(ふじしゃくしんみょう)、自我及衆僧(じがぎゅうしゅそう)、倶出霊鷲山(ぐしゅつりょうじゅせん) (妙法蓮華経如来寿量品偈、みょうほうれんげきょうにょらいじゅりょうほんげ) ただ一心に、仏を見たいと願い、真実を見定めたいと強く念じながら、心を一つにして、集中して、没頭して、仏の道をひたすらに信じ切る事。 そのような心で、身命を惜しまず、捧げ尽くす気...
欲の少ない人は、多くを求めたいと思う心が無く、名誉や利益にも執着せず、悩み、苦しみが生じない、仏の世界を生きる人。
多欲(たよく)の人(ひと)は利(り)を求(もと)むること多(おお)きがゆえに、苦悩(くのう)もまた多(おお)し。 少欲(しょうよく)の人(ひと)は無求無欲(むくむよく)なればすなわちこの患(うれい)なし。 ただちに少欲(しょうよく)すらなおまさに修習(しゅじゅう)すべし。 (仏垂般涅槃略説教誡経、ぶっしはつねはんりゃくせっきょうかいきょう) 今から2,568年前、旧暦の紀元前486年2月15日は、お釈迦様の...
一人の人が、ほんの一時でも坐禅をする無限の功徳は、全宇宙の諸仏が共に力を合わせても、推し量る事はできない。
それ、修証(しゅしょう)はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道(げどう)の見(けん)なり。 仏法(ぶっぽう)には、修証(しゅしょう)これ一等(いっとう)なり。 いまも証上(しょうじょう)の修(しゅ)なるゆゑに、初心(しょしん)の辨道(べんどう)すなはち本証(ほんしょう)の全体(ぜんたい)なり。 かるがゆゑに、修行(しゅぎょう)の用心(ようじん)をさづくるにも、修(しゅ)のほかに証(しょう)をまつ...
いついかなる時も、目の前に現れた、ありとあらゆる出来事は、自分を磨く為の修行であり、本当の宝に気付く為の因縁。
從門入者不是家珍。 門(もん)より入(い)る者(もの)是(こ)れ家珍(かちん)に非(あら)ず。 (碧巌録、へきがんろく 雪竇重顕禅師、せっちょうじゅうけんぜんじ) この言葉は、唐(中国)の時代を生きた雪峰義存(せっぽうぎぞん)禅師が、巌頭全奯(がんとうぜんかつ)禅師と共に、行脚していた時の逸話と言われています。雪峰義存禅師は、「三登九至(さんとうきゅうし)」又は「三登投子九至洞山(さんとうとうすき...
自分に与えられた仕事は、今、できる時に、精一杯の力で取り組む。それが禅の教えであり、仏の生き方。
他不是吾、更待何時。 他(た)は是(こ)れ吾(わ)れにあらず、更(さら)に何(いず)れの時(とき)にか待(ま)たん。 (典座教訓、てんぞきょうくん 道元禅師) これは、道元禅師様が、禅の本場である宋(中国)に渡り、修行生活を送られていた頃のお話しです。 それは、ある夏の暑い日の事でした。 道元禅師様が昼食を終えられ、自分の部屋に戻ろうと、廊下を歩いていました。 すると、仏殿(仏像を安置している建物...
たった一人の少しの坐禅でも、その行いの功徳、因縁は、 全世界、全空間へ伝播し、それが人類を救う事になる。
仏道(ぶつどう)をならふといふは、自己(じこ)をならふなり。 自己(じこ)をならふといふは、自己(じこ)をわするるなり。 自己(じこ)をわするるといふは、万法(ばんぽう)に証(しょう)せらるるなり。 万法(ばんぽう)に証(しょう)せらるるといふは、自己(じこ)の身心(しんじん)および他己(たこ)の身心(しんじん)をして脱落(だつらく)せしむるなり。(正法眼蔵、しょうぼうげんぞう 現成公案、げんじょ...
愛語こそ、財が無くとも誰もができる布施であり、縁ある人々、周囲の人々を幸せにして、 自分も幸せになる方法。
愛語(あいご)というは、衆生(しゅじょう)を見(み)るに、先(ま)ず慈愛(じあい)の心(こころ)を発(おこ)し、顧愛(こあい)の言語(ごんご)を施(ほどこ)すなり。 慈念衆生(じねんしゅじょう)、猶如赤子(ゆうにょしゃくし)の懐(おも)いを貯(たくわ)えて、言語(ごんご)するは愛語(あいご)なり。 徳(とく)あるは讃(ほむ)むべし、徳(とく)なきは憐(あわれ)むべし。 (修証義 道元禅師) このお...
周囲を支える人は、周囲から支えられ、周囲を喜ばせる人は、周囲から喜ばれ、周囲を愛する人は、周囲から愛される。
紀元前の古代中国では、秦の始皇帝によって中国全土が統一される以前の時代を、春秋戦国時代と呼び、斉、楚、秦、燕、韓、魏、趙という7つの国が存在し、激しい争いを繰り広げていました。そのうちの斉の国の君主である威王と、魏の国の君主である惠王とが、相互親善を目的に、狩猟をしていました。その時に、魏の惠王が、斉の威王に問いかけます。 「ところで威王、あなたは、どのような宝をお持ちですか。」 斉の威王は、 「...
男女のご縁、因縁においても、身口意(行動、言葉、心)の行いが原因となり、それに応じた結果を引き寄せる。
このお話しは、唐の時代の中国で、元和12年、第14代憲宗皇帝の時で、今からおよそ1,200年前の出来事として、言い伝えられている昔話です。唐(中国)のとある町に、信仰心が薄く、神仏を一切信じない人達ばかりが住んでいる町がありました。 その町に、毎朝、一人の美しい女性がたくさんの魚を入れた籠を手にして現われ、魚を売り歩いていました。その土地の青年達は、競い合ってその女性に近づき、籠の中の魚は、いつも、あっと...
食事の偏りが多くある人程、偏った心身が形成され、心身の不健康、不調、ひいては病気を招く。
五観の偈(ごかんのげ) 一(ひと)つには功(こう)の多少(たしょう)を計(はか)り彼(か)の来処(らいしょ)を量(はか)る。 二(ふた)つには己(おの)れが徳行(とくぎょう)の全欠(ぜっけつ)を計(はか)って供(く)に応(おう)ず。 三(み)つには心(しん)を防(ふせ)ぎ過(とが)を離(はな)るるは貧等(とんとう)を宗(しゅう)とす。 四(よ)つには正(まさ)に良薬(りょうやく)を事(こと)とする...
真の安心、安楽という心の平安、幸福は、手に入れるものではなく、心からそのように感じる事。
同じ寺院で長い間修行を積んだ二人の僧侶がいて、二人は親友でした。 二人は、二、三ヶ月のうちに相次いでこの世を去りましたが、一方は極楽浄土に生まれ変わり、もう一方は虫となって糞の中に生まれました。極楽浄土に生まれた方は、ありとあらゆる無上の喜びを味わい、至福の時間を過ごしていました。けれど彼は、「友はいったいどこへ行ったのだろう。」と考えはじめました。そこで極楽浄土をくまなく探しましたが、友は見付か...
人間として生まれる事は、一億円の宝くじに百万回連続して当たる確率と同様の、天文学的な奇跡の確率。
ある時、お釈迦様が、阿難陀(あなんだ)という弟子に、 「そなたは人間に生まれた事を、どのように思っているか。」と尋ねられました。 「大変喜んでおります。」 阿難陀様がそう答えると、お釈迦様が、重ねて尋ねられました。 「では、どれくらい喜んでいるか。」 阿難陀様は答えに窮します。すると、お釈迦様は、一つの例え話をされます。 「果てしなく広がる海の底に、目の見えない亀がいる。」 「その亀は、百年に一度...
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光陰(こういん)は矢(や)よりも迅(すみや)かなり、 身命(しんめい)は露(つゆ)よりも脆(もろ)し 何(いず)れの善巧方便(ぜんぎょうほうべん)ありてか、過(す)ぎにし一日(いちにち)を復(ふたた)び還(かえ)し得(え)たる (修証義 道元禅師) 「光陰矢の如し(こういんやのごとし)」という言葉もありますが、これは、光陰(月日)が過ぎ去る事は、まるで飛ぶ矢のように、あっと言う間で速い、という意味...
坐禅の実施こそが、この宇宙に自分自身の全てを捧げ尽くす、最高、最上の善行。
大凡(おおよそ)因果(いんが)の道理(どうり)、歴然(れきねん)として私(わたくし)なし 造悪(ぞうあく)の者(もの)は堕(お)ち、修善(しゅぜん)の者(もの)は陞(のぼ)る 毫釐(ごうり)も忒(たが)わざるなり (修証義 道元禅師) 「修証義」とは、曹洞宗の開祖、道元禅師様が、宋(中国)での修行を終えられ、日本に帰国してから晩年までの約20年間を費やして書き残された、「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう...
成功とは、親のご恩、徳分、ご加護があって初めて成し得るもので、自分一人だけの力では無い。
「箸とらば、親と先祖の恩を知れ、我一力で、食ふと思ふな」 (家運とお墓 運の直る話 大阪聖徳風会) お墓と言えば、 「なんだか怖い。」「幽霊がいそう。」「恐ろしい。」 といったマイナスのイメージがあるかもしれませんが、中には、「ほっとする。」「安心する。」「落ち着く。」 といったプラスの印象で捉えている方もおられますね。 お墓は、ご先祖様や故人様をお祀りしている、仏様のお住まいであり、仏様そのもの...
たとえ無茶苦茶な坐禅でも、コツコツ継続すれば、自分自身の人生観、宇宙観、哲学が出来上がる。
正しい坐禅の実行によって、深く深く集中力を練り上げ、真実の命、今ここ、に成り切っていくには、坐禅の正しい作法、姿勢が大変重要になってきます。それでも、発心寺27世住職 原田祖岳老大師様は、「たとえ無茶苦茶な坐禅であっても、熱心な坐禅の実行をコツコツと継続すれば、自分自身の人生観、宇宙観、哲学が出来上がる。」「坐禅の効果は無形で分かりにくいが、坐禅を始める前と継続後とでは、精神上、人格上の変化、効果が...
「掃除とは人生を整える事、自分の為に心地よく清めるのです。」
威儀即仏法(いいぎそくぶっぽう)、作法是宗旨(さほうこれしゅうし) (正法眼蔵、しょうぼうげんぞう 道元禅師) 威儀(身なり、姿、恰好、姿勢)を整え、正す事が、仏道を行じる事であり、修行であり、仏様のお教えそのものであり、歩むべき道である。 作法(立ち振る舞い、所作、礼儀、態度)を整え、正す事が、仏道の実践、仏様の体現そのものであり、宗旨(曹洞宗の教えの根本)であり、私達曹洞宗においては、一日の全...
煩悩への執着を手放せば、この世界のあらゆる悩みや苦しみから解放される。
色即是空(しきそくぜくう)、空即是色(くうそくぜしき) (摩訶般若波羅蜜多心経、まかはんにゃはらみったしんぎょう)この世界の全ての色(物質的なもの、存在)は、全てが空である。 この世界の全ての色(物質的なもの、存在)には、本性、本質、実体、永劫不変に変化しない、終わらない、普遍的なものは何一つ無い。しかし、空であり、本性、本質、実体、永劫不変に変化しない、終わらない、普遍的なものは何一つ無いが、様...
不幸、災難、悲劇、困難な状況、ショッキングな事も、美しく大きな花を咲かせる必要不可欠な事。
死ねば浮かぶ。 逆境に立って、全ての欲(欲望)とこだわり(執着)を捨てた時、人は思わぬ力を発揮できる。 (インスタントラーメン発明王 安藤百福著) この言葉は、日清食品の創業者であり、「チキンラーメン」「カップヌードル」といったインスタントラーメンの開発者、安藤百福さんのお言葉です。今の令和の時代では、決して想像もつかないような戦前戦後の激動の時代において、何度となく理不尽で大変な目に遭われますが...
父と母のご恩程、海より深く、山より高く、広大無辺で、果てしないご恩は無い
父に慈恩あり、母に悲恩あり (父母恩重経) 父は、我が子の喜びを自分自身の事として共に喜び、母は、我が子の悲しみ、苦しみを、自分自身の事として共に悲しみ、苦しみます。父母の両親は、そんな海のように広く深い、優しい心、思いやりの心、慈しみの心を持って、我が子を産み育てています。私達は、父から受けた強くたくましい慈恩と、母から受けた温かくやわらかい悲恩を受けて、その両親の情愛を心でしっかりと受け止めた...
あるがままを受け止めて行く事ができれば、海の如く広大無辺の福が集まる。
具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故応頂礼 (妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈) 観音様(観世音菩薩様)は、一切の功徳を具えておられ、衆生(私達を含む、あらゆる生きとし生けるもの)に対して、常に常に、とても優しく思いやりの深い、慈悲の眼を向けておられます。その福徳は、どこまでも広く深い海のように、無量、無辺で広大である。 それ故に、私達は観音様を心から敬い、礼拝すべきなのです。 前述のお経の一文は...
今までとは違う見方や考え方が得られると、もっと自由に、楽しく、幸せに、生きやすくなる。
好雪片片不落別處 好雪(こうせつ)片々(へんぺん)、別処(べっしょ)に落(お)ちず (碧巌録、へきがんろく 雪竇重顕禅師、せっちょうじゅうけんぜんじ) この言葉は、宋(中国)の時代の仏教書物「碧巌録(へきがんろく)」の中の一文です。 「碧巌録」は、禅宗の様々な名言集、語録集、公案(禅問答)集で、日本の禅文化にも大きな影響を与えた、最高峰の禅の教科書と言われています。「日日是好日」「喫茶去」といった...
ネガティブ思考はネガティブな出来事を呼び、ポジティブ思考はポジティブな出来事を引き寄せる。
今(いま)の世(よ)に因果(いんが)を知(し)らず、業報(ごっぽう)を明(あき)らめず、三世(さんぜ)を知(し)らず、善悪(ぜんあく)を弁(わき)まえざる、邪見(じゃけん)の党侶(ともがら)には郡(ぐん)すべからず。大凡(おおよそ)因果(いんが)の道理(どうり)歴然(れきねん)として私(わたくし)なし。 (修証義 道元禅師) 今現在の、この世の中、この世界においては、今までの自分自身の身口意(行動と言葉と心)...
曹洞宗の坐禅の極意、ただひたすらに座る「只管打坐(しかんたざ)」
「いわゆる坐禅(ざぜん)とは習禅(しゅうぜん)にはあらず。唯(ただ)これ安楽(あんらく)の法門(ほうもん)なり」 (普勧坐禅儀 道元禅師) この言葉は、小浜市の発心寺30世住職 原田雪溪老師が、摂心会(一週間の座禅修行)の提唱でよく説明されていた道元禅師様のお言葉です。 「坐禅とは、将来の為に習う、もしくは、修するものではなく、今にもっともっと成り切り、今だけにクローズアップしていくもの。」なのだそ...
人生で一番大切な事は、自分を愛する事、幸せにする事、自分らしく生きる事。
「人生で一番大切な事は、自分を愛する事」 (世界でいちばん自分を愛して 中野裕弓著) この言葉は、「愛のコーヒーカップ理論」を提唱されている、中野裕弓さんの本に書かれていた言葉です。私はある時に坐禅をして、まさに同じように、 「人生で一番大事な事は、自分を幸せにする事。」 そのように、大きな気付きを得ました。「そうだ。そうだ。まさにこれだ。これしか無い。ついに分かった。大発見だ。」と気が付いてから...
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