私が曹洞宗の坐禅を根本とした仏道修行を始めてから、お寺での生活を通して気が付いた事、学んだ事、坐禅を通して見い出した事、また、本を読んだり、インターネットを見たり、話を聞く等して知り得た事等を、私なりの解釈でご紹介して参ります。
為せば成る、為さねば成らぬ、何事も、成らぬは、己が為さぬなりけり。
一心欲見仏(いっしんよっけんぶつ)、不自惜身命(ふじしゃくしんみょう)、自我及衆僧(じがぎゅうしゅそう)、倶出霊鷲山(ぐしゅつりょうじゅせん) (妙法蓮華経如来寿量品偈、みょうほうれんげきょうにょらいじゅりょうほんげ) ただ一心に、仏を見たいと願い、真実を見定めたいと強く念じながら、心を一つにして、集中して、没頭して、仏の道をひたすらに信じ切る事。 そのような心で、身命を惜しまず、捧げ尽くす気...
欲の少ない人は、多くを求めたいと思う心が無く、名誉や利益にも執着せず、悩み、苦しみが生じない、仏の世界を生きる人。
多欲(たよく)の人(ひと)は利(り)を求(もと)むること多(おお)きがゆえに、苦悩(くのう)もまた多(おお)し。 少欲(しょうよく)の人(ひと)は無求無欲(むくむよく)なればすなわちこの患(うれい)なし。 ただちに少欲(しょうよく)すらなおまさに修習(しゅじゅう)すべし。 (仏垂般涅槃略説教誡経、ぶっしはつねはんりゃくせっきょうかいきょう) 今から2,568年前、旧暦の紀元前486年2月15日は、お釈迦様の...
一人の人が、ほんの一時でも坐禅をする無限の功徳は、全宇宙の諸仏が共に力を合わせても、推し量る事はできない。
それ、修証(しゅしょう)はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道(げどう)の見(けん)なり。 仏法(ぶっぽう)には、修証(しゅしょう)これ一等(いっとう)なり。 いまも証上(しょうじょう)の修(しゅ)なるゆゑに、初心(しょしん)の辨道(べんどう)すなはち本証(ほんしょう)の全体(ぜんたい)なり。 かるがゆゑに、修行(しゅぎょう)の用心(ようじん)をさづくるにも、修(しゅ)のほかに証(しょう)をまつ...
いついかなる時も、目の前に現れた、ありとあらゆる出来事は、自分を磨く為の修行であり、本当の宝に気付く為の因縁。
從門入者不是家珍。 門(もん)より入(い)る者(もの)是(こ)れ家珍(かちん)に非(あら)ず。 (碧巌録、へきがんろく 雪竇重顕禅師、せっちょうじゅうけんぜんじ) この言葉は、唐(中国)の時代を生きた雪峰義存(せっぽうぎぞん)禅師が、巌頭全奯(がんとうぜんかつ)禅師と共に、行脚していた時の逸話と言われています。雪峰義存禅師は、「三登九至(さんとうきゅうし)」又は「三登投子九至洞山(さんとうとうすき...
自分に与えられた仕事は、今、できる時に、精一杯の力で取り組む。それが禅の教えであり、仏の生き方。
他不是吾、更待何時。 他(た)は是(こ)れ吾(わ)れにあらず、更(さら)に何(いず)れの時(とき)にか待(ま)たん。 (典座教訓、てんぞきょうくん 道元禅師) これは、道元禅師様が、禅の本場である宋(中国)に渡り、修行生活を送られていた頃のお話しです。 それは、ある夏の暑い日の事でした。 道元禅師様が昼食を終えられ、自分の部屋に戻ろうと、廊下を歩いていました。 すると、仏殿(仏像を安置している建物...
たった一人の少しの坐禅でも、その行いの功徳、因縁は、 全世界、全空間へ伝播し、それが人類を救う事になる。
仏道(ぶつどう)をならふといふは、自己(じこ)をならふなり。 自己(じこ)をならふといふは、自己(じこ)をわするるなり。 自己(じこ)をわするるといふは、万法(ばんぽう)に証(しょう)せらるるなり。 万法(ばんぽう)に証(しょう)せらるるといふは、自己(じこ)の身心(しんじん)および他己(たこ)の身心(しんじん)をして脱落(だつらく)せしむるなり。(正法眼蔵、しょうぼうげんぞう 現成公案、げんじょ...
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