先日、或る記事を書いていたときに、或る一文を読んでいて思うところがあった。悉是吾子は、子也全機現の道理なり。『正法眼蔵』「三界唯心」巻これは、『妙法蓮華経』「譬喩品第三」の一節を、道元禅師が提唱されたものだが、本来の「悉く是れ吾が子なり」を、「子也全機現」としている。ここでいう「悉」とは、ただの「ことごとく」という意味ではなくて、その内容は、「機(仏法の働き)」が全てに及び、それが現れていることをいう。つまり、「悉」が「全機現」に言い換えられていることになる。その上で、「悉」について、余りに有名な一節がある。悉有の言は、衆生なり、群有なり。すなはち悉有は仏性なり、悉有の一悉を衆生といふ。正当恁麼時は、衆生の内外すなはち仏性の悉有なり。単伝する皮肉骨髄のみにあらず、汝得吾皮肉骨髄なるがゆえに。しるべし、いま...「悉」と「全機現」について