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前回までの記事などを受けつつ、江戸時代末期の国学者・平田篤胤(1776~1843)の『出定笑語』を読んでいたら、釈尊の親族で、その弟子になった者達について言及していたので、確認しておきたい。特に、篤胤は「難陀尊者」に関心を持っているようなので、見ておきたい。さて此時釈迦がその親族どもを弟子に致したる神変、又無理やくたひに出家させたる者多き中に、いとも憐むべきは釈迦が迦毘羅衛国の尼拘類と云にいて城内に入り乞食おしてあるいた所が、其弟の難陀と云が有り、此は彼摩訶波闍婆提が生んだ子でござる。年もいつかう若くして高ひ処から見ると釈迦が乞食するを見下て来て云には、仏は刹帝利の王胤として有ながら自ら鉢を持ち乞食をすることやあると恥しめて、其鉢へ飲食をいれてやつたでござる。釈迦は還てもはやかれを比丘来にしてやらんと云心...釈尊の弟子の話③(拝啓平田篤胤先生39)
前回までの記事などを受けつつ、江戸時代末期の国学者・平田篤胤(1776~1843)の『出定笑語』を読んでいたら、釈尊の親族で、その弟子になった者達について言及していたので、確認しておきたい。特に、篤胤は「提婆達多」に関心を持っているようなので、見ておきたい。其つぎお調達といふ、是がいわゆる提婆達多でござる。これがとかく釈迦のすることが気に入らぬと云て、生がい争つた男でござる。尤もさやうに始終の宜しかるまじき訳は、釈迦が彼瞿夷と云女を迎へる時に、調達も夫に心をかけていたなれども釈迦にとられたるから、始終夫が根と成て中わるかつたと見へるでござる。とふとふ争ひが募り是は釈迦の神通で焼殺されたでござる。『平田先生講説出定笑語(外三篇)』72頁さて、この「瞿夷」という女性だが、釈尊の妻の一人だったとされる。瞿夷は、...釈尊の弟子の話②(拝啓平田篤胤先生38)
前回までの記事などを受けつつ、江戸時代末期の国学者・平田篤胤(1776~1843)の『出定笑語』を読んでいたら、釈尊の親族で、その弟子になった者達について言及していたので、確認しておきたい。さて此とき浄飯王は国中のすぐれたる者百五人を撰み沙門となし、又迦葉らが有状を見る所が至て形が陋げに見へて、釈迦が夫らを従へておつては尊げにみへぬとて、我親族の内からうるわしき者を撰み釈迦の弟子につけたとも有でござる。『平田先生講説出定笑語(外三篇)』72頁これはまず、釈尊にとって最初の弟子となった五比丘についての話題かと思いきや、そうではなかったようだ。釈尊の実父である浄飯王が沙門として選んだのは「105人」だったとあるのだが、典拠は良く分からない。ただ、近いのかな?と思われる文脈としては、以下の一節を見出した。仏、初...釈尊の親族の弟子の話①(拝啓平田篤胤先生37)