以下の一節について、学んでみたい。謂ゆる諸仏とは釈迦牟尼仏なり、釈迦牟尼仏是れ即心是仏なり、過去現在未来の諸仏、共に仏と成る時は必ず釈迦牟尼仏と成るなり、是れ即心是仏なり、即心是仏というは誰というぞと審細に参究すべし、正に仏恩を報ずるにてあらん。『修証義』「第五章行持報恩」そこで、ここで諸仏が皆、釈迦牟尼仏になるというご教示を元にした一節だが、問題は釈迦牟尼仏が即心是仏だとしたことである。つまり、この流れからすれば、最終的に即心是仏が問われるわけで、以下のような解釈も出ることとなる。十方三世一切諸仏の本体で有る釈迦牟尼仏と云ふは外には無い即心是仏じや、即心と云ふは我々お互ひの心のまヽと云ふことじや、我々お互ひの心のまヽの外に釈迦牟尼仏も無ければ三世諸仏も無い〈中略〉仏に成ると云ふのは其本体の釈迦牟尼仏に成...『修証義』と「即心是仏」の話