メインカテゴリーを選択しなおす
江戸時代に、『釈迦八相物語』という文献が開版されている。古い版は寛文6年(1666)だという。更に、本書を改編した『釈迦如来一代記』という文献もあり、そちらは元禄6年(1693)ともされる。なお、各地の図書館の収蔵数を調べてみると、どちらも一定量の所蔵が確認されるので、江戸時代、かなり出回ったものかとも思われる。それで、タイトルの通り、これらの文献の評価を見ていきたいと思うのだが、例えば水谷不倒『近世列伝躰小説史(上・下巻)』(春陽堂・1897年)や、栗島山之助『文壇の三偉人』(三国書房・1900年)などでは、基本、中国の文献を翻訳して、仮名文にしたものという評価で採り上げられていた。・・・つまり、典拠があるということだ。そこで、色々と見てみたが、明治期に『校訂釈迦八相物語』(仏教書院・1915年)を刊行...明治期に於ける『釈迦八相物語』への評価について
ここ数日、釈尊の説法期間についての話をしたが、それに関連して、禅宗で使う、或る表現に注目してみたい。保寧勇和尚示衆して、釈迦老子、四十九年の説法、曽て一字も道著せず。『虚堂和尚語録』巻5「頌古」これは、かなり説明的に示されているのだが、更に略して、「四十九年不説一句(或いは一字)」とのみ表記することもある。仏、力めて四十九年不説一句を問うに如かず。『景徳伝灯録』巻16以上のように、禅宗では不立文字という主張がなされるに至るが、その中で釈尊が成道されてからというもの、一字一句をも説かなかった、という話になっていくのである。とはいえ、これは禅宗だけのオリジナルというわけでもなく、更に言えば、どうも典拠があるらしい。且つ、世尊、涅槃会上に於いて曰わく、我が四十九年の説法、未だ曾て一字をも説かず。即ち首楞厳中に亦...禅宗に於ける「四十九年不説一句」について