気比の松原から神明社へ。神明社の付近では、渤海との貿易によってもたらされたとのではないかと思われる青磁器片が出土していることから、神明社から永建寺にかけての辺りに、松原客館があったのではないかとも推測されています。当社はもともと近隣島郷十一ヶ村の惣神であり寛文年間(1667)西今浜村に創立、明治七年東今浜村の島明神を合祀神明社と改称。明治九年村社に列せられ、更に明治四十三年鋳物師村の村社及び松中村の無格...
大河ドラマのゆかりの地の紹介、歴旅の記録をアップしています。今年のテーマは、「光る君へ」「どうする家康」京都の寺社巡り
琵琶湖に浮かぶ朱塗りの大鳥居の光景から、近江の厳島の異名を持つ滋賀県高島市鵜川の白鬚神社。「白鬚さん」、「明神さん」の名で広く親しまれ、延命長寿・長生きの神様として知られ、また、縁結び・子授け・開運招福・学業成就・交通安全・航海安全など、人の世のすべての「導きの神」でもあります。祭神は猿田彦命(さるたひこのみこと)国道を挟んだ向かいに社殿があります。社伝では、垂仁天皇(第11代)25年に倭姫命によって...
大津市の打出浜は、平安時代、貴族達の間で流行った石山詣をする際、逢坂の関を越え、舟で石山寺へ向かった出発の地とされています。『枕草子』にも「浜は、打出の浜」と記され、紫式部も父・藤原為時の越前赴任に伴い、ここから旅立ったといいます。その舟路で三尾崎を通ったとき「三尾の海に綱引く民のてまもなく立居につけて都恋しも」と詠み、その歌碑が白鬚神社(高島市)に建立されています。ここから見える三上山は、紫式部...
地域タグ:大津市
京阪電鉄/京津線「大谷」下車 徒歩3分のところにある「逢坂の関」は、逢坂山にあった関所で、東海道、東山道の京都への入り口にあたる要所として知られています。また、平安時代から蝉丸法師や清少納言など多くの歌人がこの関を歌った歌枕の地としても有名です。天禄元年(970年)には藤原道綱母が逢坂越を通った際に休息した事が『蜻蛉日記』に記されています。「逢坂」の地名を契機として別離や邂逅の感懐が詠まれることが多いが...
地域タグ:大津市
京都市伏見区に鎮座する伏見稲荷大社は、全国に約3万社ある稲荷神社の総本宮で、お稲荷さんと親しまれ、商売繁昌・家内安全のご利益があるとされ、一年を通してたくさんの参拝者で賑わいます。その歴史は平安遷都よりも古く、和銅4年(711)、秦中家忌寸(はたのなかつやのいみき)の遠祖秦公伊呂具(はたのきみいろぐ)が初めて社を創建したと伝わります。《山城国風土記》逸文によると伊呂具は富裕で,ある時,餅を的として弓を射...
地域タグ:桜井市
船岡山は、京都市北区紫野北舟岡町にある標高111.7m、面積2万5千坪の小山で、船岡山城の遺構が建勲神社、船岡山公園として整備され、京都市街が一望できます。桓武天皇が山頂から山城盆地を見渡して、遷都を決めたという伝承から「京都始まりの地」ともいわれています。また、朱雀大路の真北に位置しているところから、造都に際して船岡山は南北軸の測量基準点となったとの説、頂上付近には露頭した岩が見られるため造都以前から磐...
地域タグ:京都市
糺の森を通って河合神社へ。河合神社は、糺の森に鎮座する下鴨神社の摂社です。ご祭神の玉依姫命(たまよりひめのみこと)は女性の守護神、また美麗の神様として信仰があることから、女性の参拝者が多い神社です。手鏡形の絵馬に描かれた顔を自分の顔に見立ててメイクアップし、裏面に願い事を書いて奉納する「鏡絵馬」が人気を集めています。鏡絵馬と一緒に授与される「御供米(おくま)」は、神様にお供えされたお米で、ご飯と一...
地域タグ:京都市
下鴨神社のお参りを終えて、糺の森へ。糺の森は、古くは『源氏物語』や『枕草子』に謳われた下鴨神社の境内に広がる原生林で、ケヤキやエノキなどニレ科の落葉樹を中心に、約40種・4,700本の樹木が生育しています。『源氏物語』では、第12帖「須磨」に登場し、光源氏が都を離れて須磨に退去する際、「憂き世をば 今ぞ別るる とどまらむ 名をば糺すの神にまかせて」と詠んでいます。平安京が置かれた時代には約495万平方メートルの...
地域タグ:京都市
次に、境内の御手洗池の方に向かいます。御手洗池御手洗池は井上社ともいわれる御手洗社(みたらししゃ)の下にある井戸や御手洗池の下から湧き出る水などを水源とし、御手洗池などから湧き出した水は御手洗川になります。御手洗川は、土用になると池の周辺や川の底から清水が湧きでるところから鴨の七不思議にかぞえられ、湧きあがる水泡の姿を団子にかたどり、みたらし団子の発祥としました。また、土用の丑の日にこの池の清水に...
地域タグ:京都市
京都市左京区下鴨泉川町に鎮座する賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)は、賀茂別雷神社(上賀茂神社)とともに賀茂氏の氏神を祀る神社で、奈良時代以前から朝廷の崇敬を受けました。上賀茂社(賀茂別雷神社)に対して、通称下鴨神社といい、玉依姫(たまよりひめ)命とその父賀茂建角身(かもたけつのみ)命を祀っています。大同2年(807年)には最高位の正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭とされ、弘仁元年(810年)以降約400年にわたり...
地域タグ:京都市
葵祭は、京都三大祭の一つで、正式名称は賀茂祭(かもさい)といいます。賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の例祭で、毎年5月15日に行われます。下鴨神社上賀茂神社6世紀の中頃、欽明天皇の頃に凶作が続いたので、鴨の神の祟りを鎮めるため、4月吉日に鈴をつけた馬を走らせて、五穀豊穣を祈ったのが始まりと伝えられています。平安中期の貴族の間では、祭りといえば葵祭のことをさすほど有名で、その盛況ぶりは「源...
地域タグ:京都市
上京区葭屋町に、平安宮 検非違使庁址の碑があります。検非違使は、京都の治安維持を担当した役職で、犯罪者の取締りから疫病などによる遺体処理まで、さまざまな仕事を任せられていました。当時、検非違使庁の別当であった藤原実資は、花山院に矢を射かけた事件(長徳の変)で、藤原伊周の屋敷を捜索したことを自身の日記『小右記』に記しています。平安京 検非違使庁址 東を堀川小路(堀川通)、北を鷹司小路(下長者町通)、...
地域タグ:京都市
長谷寺から玉鬘神社へ。玉鬘神社(たまかずらじんじゃ)は、紫式部の『源氏物語』に登場する姫君・玉鬘をお祀りしています。玉鬘は源氏物語第22帖に登場する玉鬘は、頭中将と夕顔の間に生まれた娘。夕顔の亡き後、筑紫国に下向。美しく成長した後、筑紫から上京し、長谷寺に詣でた際、母・夕顔の侍女だった右近に再会したのをきっかけに光源氏の養女となります。源氏は夕顔を六条院の夏の町に住まわせて大切にし、やがて想いを寄せ...
地域タグ:桜井市
続いて奥の院へ陀羅尼堂長谷寺の塔頭寺院。正堂、礼堂を併せ菩提院と称します。歴代能化墓所真言宗豊山派の派祖と崇拝される専誉僧正をはじめとする長谷寺歴代の能化(住職)の墓所の中に、豊臣秀長の供養塔があります。豊臣秀長の供養塔大手鞠が綺麗に咲いていました。奥の院から本坊へ。和傘と牡丹が出迎えてくれます。閼伽井本坊本坊の境内には、皇族の名前を記したお手植えの松があります。天皇・皇后お手植えの松大講堂や書院な...
地域タグ:桜井市
長谷寺の諸堂を巡ります。愛染堂曽我地蔵大黒堂開山堂長谷寺開山・徳道上人と西国三十三所各霊場のご本尊をお祀りしています。御影堂本長谷寺長谷寺創建の地に建っています。天武天皇の勅願により、道明上人がここに精舎を造営したことから、今の本堂(今長谷寺)に対し本長谷寺と呼ばれています。朱鳥元年(686)、道明上人は天武天皇の御病気平癒のため『銅板法華説相図(千仏多宝仏塔)』を鋳造し、本尊としてお祀りされました。...
地域タグ:桜井市
登廊平安時代の長歴三年(1039)に春日大社の社司中臣信清が子の病気平癒の御礼に造ったもので、百八間、三九九段、上中下の三廊に分かれています。下、中廊は明治二十七年(1894)再建で、長谷型の灯籠が吊るされています。また、1~2月には冬牡丹、4月下旬~5月下旬に牡丹の花を鑑賞することができます。下登廊の途中には、長谷六坊の一つであった「清浄院」の跡地に、宗宝蔵(しゅうほうぞう)が建っています。宗宝蔵春と秋に長谷...
地域タグ:桜井市
仁王門から右の小道に向かうと、『源氏物語』二十二帖「玉鬘」ゆかりの二本の杉があります。幹の根元がくっついた杉の大木です。 謡曲「玉鬘」と二本の杉 謡曲「玉鬘」は源氏物語玉鬘ノ巻に拠ったもので、初瀬詣の旅僧の前に現れた玉鬘の霊が、僧を長谷寺の”二本の杉”の下に案内し、この杉の下で亡母の侍女右近とめぐりあった話を述べるという物語になっている。 玉鬘は、光源氏と契り生霊にとりつかれて死んだ夕顔の娘で、故あ...
地域タグ:桜井市
奈良県桜井市初瀬(はせ)にある真言宗豊山派の総本山の寺院・長谷寺初瀬山は牡丹の名所であり、4月下旬から5月上旬は150種類以上、7,000株といわれる牡丹が満開になり、当寺は古くから「花の御寺」と称されています。朱鳥元(686)年、僧道明上人が天武天皇のために銅板法華説相図(国宝)を西の岡に安置したことが始まりとされています。平安時代中期以降、観音霊場として貴族の信仰を集め、平安貴族の間で「初瀬詣」が人気となり、...
地域タグ:桜井市
長徳の変(ちょうとくのへん)とは、長徳元年(995年)4月10日の藤原道隆の死後、弟の藤原道長が内覧の宣旨を得た後に起きた政変で、花山院闘乱事件(かざんいんとうらんじけん)ともいわれています。長徳2年(996年)正月16日、太政大臣藤原為光の四女に通う花山法皇を、自分の思い人の為光三女が目当てと誤解した藤原伊周が、隆家と謀って道すがら待ち伏せ、彼らの従者が放った矢が法皇の袖を突き通した一件に発端するといわれてい...
地域タグ:京都市
最後は、石清水八幡宮の摂社の高良神社に参拝しました。吉田兼好の「徒然草」には、仁和寺の法師が八幡宮参詣に来た折り、間違って高良神社に参詣したエピソードが記されています。徒然草第52段仁和寺(にんなじ)にある法師、年寄るまで、石淸水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩(かち)よりまうでけり。極樂寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。さて、かたへの人にあひて、「年比...
地域タグ:八幡市
石清水八幡宮の山上からケーブルで降りて、山麓の下院を散策しました。表参道には、八幡宮の門前名物・走井餅(はしりいもち)のお店があります。元々は、大津で江戸時代に創業した店で、大津の走井という名水を使い、餅や餡を作ったそうです。それが、大津名物となり、歌川広重の錦絵「東海道五十三次」にも茶店として登場しました。明治の終わりには、京都の八幡にも支店を出し、八幡名物となったそうです。こし餡をお餅で包んだ...
地域タグ:八幡市
京都市東山区粟田口鍛冶町にある粟田神社は、平安時代、清和天皇の時代の貞観18年(876)、素戔嗚尊を氏神として創建されたと伝わります。石段下の道は旧東海道・東山道であり、この辺りは京の七口(京都の七つの出入口)の一つである粟田口であり、京都を行き来する旅人は旅の安全を祈願し、旅立ち守護の神として崇敬されました。『源氏物語』第16帖「関屋」では、石山寺に向かう光源氏は、粟田山(粟田口)を越えて、関(逢坂の関)に...
地域タグ:京都市
17日の山鉾巡行の後は、夕方から神幸祭が行われます。八坂神社に奉安される3基の神輿が午後6時に南楼門をし出発し、石段下で3基揃い踏みの「差し上げ」を行い、それぞれの氏子区域のコースを巡行します。午後8時から9時の間にそれぞれ四条新京極の「御旅所」に奉安され、24日の還幸祭まで留まります。御旅所初めての祇園祭でしたが、組立から神幸祭までじっくり見学することができ、貴重な思い出となりました。にほんブログ...
地域タグ:京都市
※2011年に見学した祇園祭の山鉾巡行の続きです。北観音山(きたかんのんやま)楊柳観音像(ようりゅうかんのんぞう)と韋駄天像(いだてんぞう)を祀る曳山で、後祭りの山鉾巡行の先頭を行き、「上り観音山」と言われます。元は昇山でしたが、後に曳山へと改められました。その名残として真木には松の木が立てられ、山鉾巡行時には、山の後ろに柳の大枝を差しています。橋弁慶山(はしべんけいやま)ご神体人形は、弁慶と牛若丸。...
地域タグ:京都市
※2011年に見学した祇園祭の山鉾巡行の続きです。鶏鉾(にわとりぼこ)中国の史話「諌鼓(れんこ)」より取材した鉾。昔、堯(ぎょう)の時代に天下がよく治まり、政治に不満がある時に叩かせる訴訟用の太鼓(諌鼓)に鶏が巣を作ったという故事によります。伯牙山(はくがやま)「琴破山(ことわりやま)」ともいわれます。ご神体は、知音(ちいん)の語源でもある琴の名手・伯牙が、友人鐘子期の死を聞いて、琴の弦を断ち再び琴を...
地域タグ:京都市
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気比の松原から神明社へ。神明社の付近では、渤海との貿易によってもたらされたとのではないかと思われる青磁器片が出土していることから、神明社から永建寺にかけての辺りに、松原客館があったのではないかとも推測されています。当社はもともと近隣島郷十一ヶ村の惣神であり寛文年間(1667)西今浜村に創立、明治七年東今浜村の島明神を合祀神明社と改称。明治九年村社に列せられ、更に明治四十三年鋳物師村の村社及び松中村の無格...
松原客館(まつばらきゃっかん)は、平安時代前期の9世紀頃に、渤海の使節団(渤海使)を迎えるために越前国に設置されたと考えられる迎賓・宿泊施設。使節団が上京するまでの間、一時的にとどめ置かれ、食料や衣服などが支給されていたとみられています。松原客館の場所は、福井県敦賀市の気比神宮付近や来迎寺・永建寺付近一帯(現在の松島町付近)、西福寺、櫛川遺跡など7カ所が推定されていますが、存在した時期や場所など謎が...
琵琶湖に浮かぶ朱塗りの大鳥居の光景から、近江の厳島の異名を持つ滋賀県高島市鵜川の白鬚神社。「白鬚さん」、「明神さん」の名で広く親しまれ、延命長寿・長生きの神様として知られ、また、縁結び・子授け・開運招福・学業成就・交通安全・航海安全など、人の世のすべての「導きの神」でもあります。祭神は猿田彦命(さるたひこのみこと)国道を挟んだ向かいに社殿があります。社伝では、垂仁天皇(第11代)25年に倭姫命によって...
大津市の打出浜は、平安時代、貴族達の間で流行った石山詣をする際、逢坂の関を越え、舟で石山寺へ向かった出発の地とされています。『枕草子』にも「浜は、打出の浜」と記され、紫式部も父・藤原為時の越前赴任に伴い、ここから旅立ったといいます。その舟路で三尾崎を通ったとき「三尾の海に綱引く民のてまもなく立居につけて都恋しも」と詠み、その歌碑が白鬚神社(高島市)に建立されています。ここから見える三上山は、紫式部...
京阪電鉄/京津線「大谷」下車 徒歩3分のところにある「逢坂の関」は、逢坂山にあった関所で、東海道、東山道の京都への入り口にあたる要所として知られています。また、平安時代から蝉丸法師や清少納言など多くの歌人がこの関を歌った歌枕の地としても有名です。天禄元年(970年)には藤原道綱母が逢坂越を通った際に休息した事が『蜻蛉日記』に記されています。「逢坂」の地名を契機として別離や邂逅の感懐が詠まれることが多いが...
奈良の長谷寺、玉鬘神社を参拝した後、玉鬘神社の向かい側にある素戔嗚神社を訪ねてみました。社伝によると天暦年間(947~957年)に與喜山に菅原道真を祀った際、與喜山は天照大神が降臨した地なので、弟神の素戔雄の霊も鎮めなければならないとのことで、この地に社殿をかまえたと言われています。その後、祇園信仰の高まりから明治維新までは宮寺を置き、牛頭天王を祀り、「ごってらさん」の俗称で呼ばれ親しまれていました。境...
京都市伏見区に鎮座する伏見稲荷大社は、全国に約3万社ある稲荷神社の総本宮で、お稲荷さんと親しまれ、商売繁昌・家内安全のご利益があるとされ、一年を通してたくさんの参拝者で賑わいます。その歴史は平安遷都よりも古く、和銅4年(711)、秦中家忌寸(はたのなかつやのいみき)の遠祖秦公伊呂具(はたのきみいろぐ)が初めて社を創建したと伝わります。《山城国風土記》逸文によると伊呂具は富裕で,ある時,餅を的として弓を射...
船岡山は、京都市北区紫野北舟岡町にある標高111.7m、面積2万5千坪の小山で、船岡山城の遺構が建勲神社、船岡山公園として整備され、京都市街が一望できます。桓武天皇が山頂から山城盆地を見渡して、遷都を決めたという伝承から「京都始まりの地」ともいわれています。また、朱雀大路の真北に位置しているところから、造都に際して船岡山は南北軸の測量基準点となったとの説、頂上付近には露頭した岩が見られるため造都以前から磐...
糺の森を通って河合神社へ。河合神社は、糺の森に鎮座する下鴨神社の摂社です。ご祭神の玉依姫命(たまよりひめのみこと)は女性の守護神、また美麗の神様として信仰があることから、女性の参拝者が多い神社です。手鏡形の絵馬に描かれた顔を自分の顔に見立ててメイクアップし、裏面に願い事を書いて奉納する「鏡絵馬」が人気を集めています。鏡絵馬と一緒に授与される「御供米(おくま)」は、神様にお供えされたお米で、ご飯と一...
下鴨神社のお参りを終えて、糺の森へ。糺の森は、古くは『源氏物語』や『枕草子』に謳われた下鴨神社の境内に広がる原生林で、ケヤキやエノキなどニレ科の落葉樹を中心に、約40種・4,700本の樹木が生育しています。『源氏物語』では、第12帖「須磨」に登場し、光源氏が都を離れて須磨に退去する際、「憂き世をば 今ぞ別るる とどまらむ 名をば糺すの神にまかせて」と詠んでいます。平安京が置かれた時代には約495万平方メートルの...
次に、境内の御手洗池の方に向かいます。御手洗池御手洗池は井上社ともいわれる御手洗社(みたらししゃ)の下にある井戸や御手洗池の下から湧き出る水などを水源とし、御手洗池などから湧き出した水は御手洗川になります。御手洗川は、土用になると池の周辺や川の底から清水が湧きでるところから鴨の七不思議にかぞえられ、湧きあがる水泡の姿を団子にかたどり、みたらし団子の発祥としました。また、土用の丑の日にこの池の清水に...
京都市左京区下鴨泉川町に鎮座する賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)は、賀茂別雷神社(上賀茂神社)とともに賀茂氏の氏神を祀る神社で、奈良時代以前から朝廷の崇敬を受けました。上賀茂社(賀茂別雷神社)に対して、通称下鴨神社といい、玉依姫(たまよりひめ)命とその父賀茂建角身(かもたけつのみ)命を祀っています。大同2年(807年)には最高位の正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭とされ、弘仁元年(810年)以降約400年にわたり...
葵祭は、京都三大祭の一つで、正式名称は賀茂祭(かもさい)といいます。賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の例祭で、毎年5月15日に行われます。下鴨神社上賀茂神社6世紀の中頃、欽明天皇の頃に凶作が続いたので、鴨の神の祟りを鎮めるため、4月吉日に鈴をつけた馬を走らせて、五穀豊穣を祈ったのが始まりと伝えられています。平安中期の貴族の間では、祭りといえば葵祭のことをさすほど有名で、その盛況ぶりは「源...
上京区葭屋町に、平安宮 検非違使庁址の碑があります。検非違使は、京都の治安維持を担当した役職で、犯罪者の取締りから疫病などによる遺体処理まで、さまざまな仕事を任せられていました。当時、検非違使庁の別当であった藤原実資は、花山院に矢を射かけた事件(長徳の変)で、藤原伊周の屋敷を捜索したことを自身の日記『小右記』に記しています。平安京 検非違使庁址 東を堀川小路(堀川通)、北を鷹司小路(下長者町通)、...
長谷寺から玉鬘神社へ。玉鬘神社(たまかずらじんじゃ)は、紫式部の『源氏物語』に登場する姫君・玉鬘をお祀りしています。玉鬘は源氏物語第22帖に登場する玉鬘は、頭中将と夕顔の間に生まれた娘。夕顔の亡き後、筑紫国に下向。美しく成長した後、筑紫から上京し、長谷寺に詣でた際、母・夕顔の侍女だった右近に再会したのをきっかけに光源氏の養女となります。源氏は夕顔を六条院の夏の町に住まわせて大切にし、やがて想いを寄せ...
続いて奥の院へ陀羅尼堂長谷寺の塔頭寺院。正堂、礼堂を併せ菩提院と称します。歴代能化墓所真言宗豊山派の派祖と崇拝される専誉僧正をはじめとする長谷寺歴代の能化(住職)の墓所の中に、豊臣秀長の供養塔があります。豊臣秀長の供養塔大手鞠が綺麗に咲いていました。奥の院から本坊へ。和傘と牡丹が出迎えてくれます。閼伽井本坊本坊の境内には、皇族の名前を記したお手植えの松があります。天皇・皇后お手植えの松大講堂や書院な...
長谷寺の諸堂を巡ります。愛染堂曽我地蔵大黒堂開山堂長谷寺開山・徳道上人と西国三十三所各霊場のご本尊をお祀りしています。御影堂本長谷寺長谷寺創建の地に建っています。天武天皇の勅願により、道明上人がここに精舎を造営したことから、今の本堂(今長谷寺)に対し本長谷寺と呼ばれています。朱鳥元年(686)、道明上人は天武天皇の御病気平癒のため『銅板法華説相図(千仏多宝仏塔)』を鋳造し、本尊としてお祀りされました。...
仁王門から本堂までの399段の長い登廊を上りきり、やっと長谷寺の本堂に到着。小初瀬山の斜面に建つ国宝の本堂は、慶安3年(1650)、徳川家光により造営された大殿堂。10mを越す本尊を安置する正堂(しょうどう)、相の間、本尊を参拝する礼堂(らいどう)から成る巨大な建築で、前面は京都の清水寺本堂と同じく懸造になっています。ご本尊は、右手に錫杖、左手に水瓶を持って方形の大磐石という台座に立つ長谷寺式十一面観世音菩薩...
登廊平安時代の長歴三年(1039)に春日大社の社司中臣信清が子の病気平癒の御礼に造ったもので、百八間、三九九段、上中下の三廊に分かれています。下、中廊は明治二十七年(1894)再建で、長谷型の灯籠が吊るされています。また、1~2月には冬牡丹、4月下旬~5月下旬に牡丹の花を鑑賞することができます。下登廊の途中には、長谷六坊の一つであった「清浄院」の跡地に、宗宝蔵(しゅうほうぞう)が建っています。宗宝蔵春と秋に長谷...
仁王門から右の小道に向かうと、『源氏物語』二十二帖「玉鬘」ゆかりの二本の杉があります。幹の根元がくっついた杉の大木です。 謡曲「玉鬘」と二本の杉 謡曲「玉鬘」は源氏物語玉鬘ノ巻に拠ったもので、初瀬詣の旅僧の前に現れた玉鬘の霊が、僧を長谷寺の”二本の杉”の下に案内し、この杉の下で亡母の侍女右近とめぐりあった話を述べるという物語になっている。 玉鬘は、光源氏と契り生霊にとりつかれて死んだ夕顔の娘で、故あ...
では、「長篠城址史跡保存館」の中に入ってみましょう。ここでも松潤家康公がお出迎え!長篠城址史跡保存館は、「長篠城」の城跡にあり、「長篠の戦い」に関する資料を保存・展示しています。信玄遺言状(馬場信房末裔所蔵写し)1573年4月、武田信玄は、三河野田城を包囲中の陣中で病床に伏し、いったん甲府へ帰陣する途中の信濃伊那谷の駒場で53歳をもって病死した。甲陽軍鑑』によれば、信玄は遺言で「自身の死を3年の間は秘匿し...
今年の3月の長篠・設楽原の戦いの史跡巡りをして来ました。長篠城駅を降りて、早速見つけたのが、この武田勝頼ゆかりの「さかさ桑」この看板の裏側にあります。さかさ桑長篠の戦いで大敗し、敗走する武田勝頼らはこの部落の農家で食事をとった際、桑の枝を折って、箸にして使い、使った桑の枝を、その前の畑に刺して、再び北へ落ち延びて行きました。その後勝頼らが差した桑の枝は逆さに芽を出して成長したといいます。これは勝頼...
仁王門本堂の真南、寺全体の正面に位置している仁王門は、昭和62年(1987)清山和尚代に建立されました。さて、龍潭寺の本堂に入ってみましょう。庫裡 丈六の釈迦牟尼仏 丈六の釈迦牟尼仏 この仏さまは遠州地方第一の大仏さま、丈六仏です。丈六とは一丈六尺(5米)の寸法をいいますが、お座りですから三米ほどの高さです。 静かに己の心を深く見つめておられる、座禅のお姿の仏さまです。 この仏さまのお体には黒い...
後醍醐天皇の皇子・宗良親王の菩提寺である龍潭寺は、古くは地蔵寺といい、天平5年(733)に行基によって開創されたと伝わっています。井伊家は藤原鎌足の後裔とされ、藤原共資公(元祖共保公の父)の時、遠江国守として遠州村櫛に下り、共保公より井伊谷の地に移り、約五百年間にわたり、井伊谷の庄を治めました。保元の乱では源義朝に、鎌倉時代には源頼朝に仕え、南北朝時代では御醍醐天皇皇子・宗良親王を迎え北朝と戦いました...
井伊谷城は、標高約115m、丘陵に築かれた井伊氏の城館です。井伊氏の本拠地は、井伊谷城とその山麓にあった居館に加え、最終的な詰め城である三岳城で構成されていました。現在は城山公園として整備されており、土塁などの遺構が見学できます。井伊谷城跡(城山公園)井伊氏は、平安時代の在庁官人からはじまり、中世には国人領主として、浜松市北区一帯(引佐、細江、都田)などを治めました。南北朝の動乱期(1336~1392)には、...
大河ドラマ「おんな城主直虎」の舞台にもなった奥浜名湖の北にある浜松市北区引佐町井伊谷。 井伊谷は、かつて井伊家が治めた土地です。 井伊といえば、家康幕下の名将・直政や幕末の大老・井伊直弼を輩出した家として知られています。 遠州の名刹・龍潭寺門前の田んぼの一角にあるのが「井伊共保出生の井戸」です。 広い通りから、一本入りますが、白壁の塀を目印にすれば、見つかります。共保公とは、平安時代から戦国時代までの...
諏訪原城(すわはらじょう)は、遠江国榛原郡金谷(現在の静岡県島田市金谷)の標高212mから220mの台地にあった戦国時代の山城です。天正元年(1573)、武田勝頼は、遠江侵攻の拠点とするため、家臣の馬場美濃守信春に命じて、牧ノ原台地に築城しました。城内に諏訪大明神を祀ったことから諏訪原城と名が付いたと言われています。駿遠の国境に位置し、掛川の高天神城攻略の陣城として、攻略後は兵站基地としての役割を担いました。天...
武田軍の突然の撤退は、徳川家康に武田信玄死去の疑念を抱かせ、その生死を確認するため、武田領である駿河国の岡部に侵攻・放火し、三河国では長篠城を攻めるなどしたところ、武田軍の抵抗がほとんどなかったことから信玄の死を確信。家康は、武田氏に与していた奥三河の山家三方衆(作手城の奥平氏、長篠城の菅沼氏、田峰城の菅沼氏)の一角である奥平貞能・貞昌親子を調略。浜松秋葉神社境内の山家三方衆屋敷跡奪回した長篠城に...
長浜の浅井歴史民俗資料館は、浅井三代の歴史と浅井三姉妹の波乱の人生を、ゆかりある武具や資料、人形ジオラマなどで展示されています。お江誕生人形ジオラマ 小谷城落城人形ジオラマ 実宰院人形ジオラマ小谷城址ジオラマまた、江戸時代後期から明治時代における浅井の庄屋・養蚕農家・鍛冶屋なども再現されています。この資料館の背後に見える大依山は、元亀元年(1570)6月28に日の姉川合戦にのぞむ浅井・朝倉軍が合戦に前に一...
小谷城跡から小谷寺へと自転車を進めて行きました。小谷寺は、小谷山の麓にあり、浅井家の祈願寺としてお市の方や浅井三姉妹もたびたび詣でたと伝わります。小谷落城の際、本尊以外は焼失してしまいましたが、後に長浜城主となった豊臣秀吉により再建されました。如意輪観音像や両界曼荼羅双幅は長浜市指定文化財となっています。 小谷寺は、今から約1280年前、聖武天皇の神亀5年(728)、加賀白山の開祖・泰澄上人が、白山から伊吹...
長浜の実宰院は、浅井長政の姉にあたる阿久姫が昌安見久尼と称して出家した庵でしたが、小谷山実宰院と改称され、宗派も曹洞宗に改宗し、現在に至っています。小谷城落城の際、長政は姉である見久尼に浅井三姉妹と母お市の方を匿ってもらうよう依頼し、三姉妹とお市の方はともに城を脱出し、実宰院にて匿われたとされています。実宰院と昌安見久尼の由来本寺は、鎌倉以前の創建といわれ、実才庵と称し天台宗であったが、その後、小...
中村家住宅から舞阪駅に向かう途中で通りかかった天神社中村家の氏神で、元々中村家の敷地内にありましたが、現在は中村家住宅の北西に移されています。中村家住宅「天神社跡地」明治13年より昭和33年まで鎮座弘化2年(1854)津山藩8代藩主 松平齋民(なりたみ)公が再建したもの。現在は中村家住宅の北西に移されている。釘隠しは津山藩 上屋敷 鍜治橋屋敷のものを使用した。こちらは、松平秀康(結城秀康)をお祀りしている神社で...
浜松市雄踏町に中村家住宅という重要文化財があります。天正2年(1574年)2月8日、徳川家康の次男(幼名・於義丸、後の結城秀康)がこの中村家で生まれ、庭には、秀康の胞衣塚が残されています。母親は家康の側室・お万の方で、出産時の胞衣をこの胞衣塚に埋めたといいます。中村家住宅のパンフレットによると、中村家の初代・中村正範(まさのり)は、源範頼の末裔の武士で、大和国広瀬郡中村郷に住んだ。1481年に14代正實(まさ...
長浜市にある曹洞宗の徳勝寺は、小谷城主・浅井氏の菩提寺で、元は応永年間(1394年~1428年)東浅井郡上山田村にあったの医王寺という寺でした。永正15年(1518)小谷城主であった浅井亮政が城下の清水谷に移し、浅井家の菩提寺としました。小谷城落城により、浅井氏が滅亡し、かわって湖北を治めることになった豊臣秀吉が、居城を小谷から長浜に移した際に、文禄4年(1595)、当寺も長浜城内に移築され、亮政の法号に因んで、「徳勝...
武田軍との戦いで、徳川家康は本多重次を呼んで、長期戦になった場合の兵糧について相談すると、米を十分に貯蔵しているとの返事が返ってきました。それに喜んだ家康は、米蔵の位置に重次の屋敷を作ることを許し、それが後の浜松城の作左曲輪になったといいます。 作左曲輪 「一筆啓上火の用心お仙泣かすな馬肥やせ」 と長篠の陣中より妻にあてた手紙で有名になった本多作左衛門重次(1529~1596)が住んでいたところです。重...
浜松市中区住吉の元亀霊神社は、明治の敬神崇祖の念の強い篤志家であった住吉の故岡野丑太郎氏は、自宅の近くにある小塚に、元亀三年の三方ヶ原の戦いで散華した多くの将兵が、眠っていることを知り、自分の土地を提供して住吉町の鎮護として、昭和5年に元亀霊神を建てたそうです。この地域には、数多くの小塚があったといい、大正時代の開拓事業により失われていきましたが、その過程で、小塚から小札が掘り出されたことから、三...
浜松市中区広沢の宗源院は、山号を宝蔵山(ほうぞうさん)といい、西来院と同様に曹洞宗普済寺十三派の在天派に属し、華蔵義曇(けぞうぎどん)の法弟在天弘雲和尚が応永23年(1416年)に開創しました。ご本尊は、虚空蔵菩薩・釈迦牟尼佛・普賢菩薩です。室町時代後期には、今川氏の庇護をうけ、今川義元自身が開基としての役割を果たし、堂塔伽藍の再建を行っています。そうした関係を裏付ける史料として、当寺には今川義元...
浜松市中区中沢町に位置する常楽寺。天平六年(734年)の開山で、高野山真言宗の古刹です。本尊は阿弥陀如来。 本堂往時は七堂伽藍が建ち並び一世を風靡したといいますが、戦火で建物、記録が消失し、詳細は不明。 十三佛堂こちらには、三方ヶ原の合戦において、徳川家康と阿弥陀如来像についての興味深い話が伝わっています。 中澤山 常楽寺当山は、遠州信貴山別院である。往時は七堂伽藍が建ち並び一世を風靡したという。惜しむ...
浜松には、徳川家康と武田信玄との三方原合戦ゆかりのお菓子があります。イラストが面白いでしょう?御菓子司「あおい」の小豆餅と銭取です。「あおい」の小豆餅と銭取の由来によると「三方原合戦の折り、空腹に耐えかねた家康は道端の茶店に飛び込み、老婆が売っていた小豆餅をほおばりました。その時、後方に敵兵の気配を感じ、家康は銭も払わず逃げ出しました。何も知らない老婆は、「お侍さ~ん。銭を下され~銭を!」と二キロ...
浜松市西区庄内町の宿蘆寺この山門は、大河ドラマ「おんな城主直虎」の中で龍潭寺の山門として登場した宿蘆寺の参道に続く山門です。幼少期の直虎のおとわが、龍潭寺へ走って行く場面や、昊天と傑山が出家したおとわを待ち構え、山門くぐろうとするおとわを傑山が投げる場面などに登場しましたね。山門に掲げられている「藤谷山(とうこくざん)」の額は、徳川光圀(水戸黄門)の師匠である東皐心越(とうこんしんねつ)禅師の書。...