古来から、物事を習う時に、その師が有名でなければならないという人がいる。もちろん、華道や茶道といった、世俗的な価値観が色濃く反映するような芸術の世界や、指導教授の業績や人脈などが影響する学問の世界であれば、それは重要なのかもしれない。しかしながら、そのような世俗的な価値観とは一線を画するべき仏教を学ぶ時にはどうか?相手は有名な師匠や先生でなければならないのだろうか?今回は、その辺のことを問題にしてみようと思う。曹洞宗で近頃、嗣法を終えた人を思うに、三物は本師から伝授したが、未だ伝戒は得ておらず、再び他の尊宿に就いて、伝戒を求める者が多い。これは、各自が帯びている三物がいかなる物かを知らないからなのだ。別の日に、いたずらに授かる日には、三物の中から本師の血脈だけを捨てて、儀規の戒脈を出して、公然と、修行僧達...師は偉大でなければならないか?