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以下の一節を見ていきたいと思う。人に接待して我仏法を開演せんとするには、二説あることを知るべし、一を善友説と名け、二を威儀説と名く、苟も此二種を離れて説くに於ては、智弁舎利子・布留那の如くなるを、亦た名けて不浄説法といふ、福田行誡上人『説法清規』江戸時代末期から明治期初期にかけて、浄土宗の近代化を推進した福田行誡上人(1809?~1888)の教えである。そこで、説法のあり方に2種類があって、それを外れると「不浄説法」というと指摘されている。今回はこの「不浄説法」に注目してみたいのだが、『法苑珠林』巻23で『仏蔵経』から引用して、以下のように示されている。復た次に舎利弗よ、不浄説法とは、如来の随宜の意趣を知らず、自た善解せずして、人の為に説く、是の人、現世に五つの過失を得る。何等をか五と為すや。一には説法の...「不浄説法」の話