文芸を中心に、エッセイやおすすめ本、絵画、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌など多様な記事を載せたブログです。by:関戸都志正
若年期より、名著と呼ばれる古典を読み耽り、クラシック音楽を聞き漁り、齢を重ね、人々に良書を読み、クラシック音楽を聴いてもらえないかと心付き、書き始めたブログです。by:関戸都志正 現代詩で入賞経験あり。「詩人」「同時代」など「詩人」は「詩を書く人」に改作。
ふり仰ぐ鷹かカラスか知らねども五六羽舞える高き空かな 感興の湧かぬ秋かな曇り空
バスを待つ夕暮れ時の秋深し 紅葉や北から順に降りて来し
欧米では、環境保護団体を名乗る人々が、名画と言われる作品に、トマトジュースを掛けたりして、碌でもないことになっているようである。 彼等が主張しているのは、主に、地球温暖化に抗議するためということだが、異邦の出来事ながら、その論理のつぎはぎだらけの俗っぽさと幼稚さには、呆れ返...
旋回す人に追われし鳥の群ムクドリならんヒヨドリならん おのずから亡き父思ふ秋なりき あのときの銀杏並木は無くなりぬ
鷺十羽憂えるごとく秋の川 一木に二百はありぬ人の柿
渡り鳥青き山脈越えてけり 曼珠沙華跡形もなく切り取られ どこまでも高き空へと白き鳥
モーツァルトの音楽は、およそ、どのような形容詞も跳ね返してしまうというのが、その最大の特徴ではないかと、わたしは思っている。中国の古典中の古典、「論語」と同じように。 小林秀雄がアンリ・ゲオンから引用した、「疾走する悲しみ」は名高いが、わたしには、これは特に、ト短調40番シ...
百個ほど柿の成りたる人の庭 見晴るかす山の上には雁の群れ 世界中駅の広場はハト群れる <無季>
ある野党議員は、まるで、企業の内部留保が諸悪の根源のような論を、成しているが、この企業が蓄えて置いた内部留保がなければ、以前、リストラによって嵐が吹き荒れたときのように、諸外国も含めて、経済に嵐が吹き荒れている、現在、日本の企業は早くから、立ち直れなくなって、大量の失業者を...
ありふれた風景なれど秋来たり 西日差し夏の名残りの雲懸かる 残光はオレンジ色の秋日暮れ
秋の朝道行く人の清げなる 何事ぞするどく鳴ける秋雀 秋雀警告するがごとく鳴きその日一日厄日となりぬ
あるときのこと、こうした人が居た。 10人くらいの人数で、片付けた仕事が終わり、帰る段になって、それぞれの人が、車で来ている人に、分乗させてもらい、主要な駅がある場所まで、連れて行ってもらうということになった。夜の9時半くらいになっていた。3車連らなって走っていたのだが、そ...
彼岸花見る影もなく道の傍 曼珠沙華茎そのままに枯れ果てぬ 暗き情恨みに妬みひがみつらみ知らぬふりして我は生きたり
散らかりてなほあまりある庭紅葉 ※庭紅葉はわたしの造語です。 秋の池無数の円を描く雨
紅葉はまだ始まらず白き雨 むつかしや人おのずから差異ありてはたそれぞれの人生ならん 男には女のありて女には男ありて人生渡る
秋風の枝いっせいに揺らす山 秋の空不思議な雲の懸かりけり
覚えてし昭和元禄なることば文化経済ピークを成せり 鳥の声繁くすれども影見えず秋の朝なる東岡崎
おもへらく人生如何に過ごせども死ぬまで分からぬ後生なるかな 知る知らぬ分かる分からぬあれやこれ無知の知言へば知は力とも
飛行機の雲引く空や秋進む わが履歴厳しき昭和いつか過ぎ普段の平成穏しき令和
山霞み遠くはさらに白き山 単純な算数のざばる昨今や定数是正法律厳罰 国政は何故にかくまで単純な算数などにしてやられ居る
満々と清き水満つ秋の池 昔よりかしましき論ありけれど忠臣蔵は今なほ新し
エッセイ きれぎれ草 100 <似非宗教、精神性、大谷翔平>
人間は、人間以上の存在にも、また、人間より遙かに下のものにも、成り得る、マカ不思議な生き物である。 ○ 共産主義思想とは、科学的思考とやらを標榜し、革命をご本尊とする似非宗教に他ならない。 ○ この似非宗教の厄介なところは、日本に入って来ると、言わば、日...
ハクセキレイ踊るごとくにちょこまかと 夕暮れの黒き池には秋の雨
地下を出で夕日しみ入る帰り道 鈴鹿下ろし伊吹おろしはありけれど尾張の夏は暑さきびしき
秋なれば白くけぶれる雨の町 愛知県平らな山が西ひがし盆地ならねど暑くて寒し
一日にて秋となりぬる夕べかな ホームには人溢れては消えにけり毎度見れども何やらをかし
くっきりと山肌見ゆる秋の朝 滔々と湧き出づるものはなけれども一日にひとつ出で来ものなり
欧米人は、大型の動物種に対しては、少なからぬ情愛を感じていると言われているが、じっさい、これは、表面上のことだけのように思われてならない。 昔は、鯨油を燃料として重宝し、鯨をどれほど乱獲していたか分からぬほどなのに、今となって、鯨を愛すとし、日本の鯨を食す文化に、文句をつけ...
それぞれにスマホを覗く秋のバス 膝の痛みウソのようにも消えた朝気が付いたるは夜のことなり
※以前の文章から、ずいぶん、時が経ってしまったが、思考を止めていたわけではない。あ る程度、まとまったかんがえとなったと思えたので、ここに記述したい。 ここで、わたしの最初の直感に立ち帰って、隠居と見巧者とを、何とか繋ぐ論を、展開できないかと探りたい思いに駆られている。 そ...
たとえば、画家は自分の描いた絵を見せて、感動なりしてもらうことが、可能だが、作曲家となると、自分の真価を発揮した音楽を聴いて貰うとなると、自身で演奏可能なような、ピアノソナタなどは措くとして、どうしても、演奏家という人種が不可欠になる。 それで、ヘタに演奏されたりでもしたら...
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