鶏足山 養運寺(→東京都町田市本町田)は、鎌倉時代中期の文永年間(→1264年~1275年、8代執権北条時宗が最高権力者の治世)に天台宗寺院として創建された、現在は浄土宗寺院です。小田原北条氏の統治下にあった戦国時代の1567(永禄10)年2月に僧の誓誉によって浄土宗に改宗されました。江戸時代には幕府より寺領三石を拝領し、本山・末寺の制により宝樹山 極楽寺(→東京都八王子市大横町7丁目)の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。...
羅針盤ゼミナールの徒然ブログです。当塾の公式マスコットが歴史学の立場から解説を加え、訪問した神社・寺院・史跡などを紹介してまいります。塾の公式ブログですが塾の宣伝は少なめです。
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亀甲山 本覚院 専念寺(→神奈川県横浜市港北区新羽町)は、安土桃山時代末期の1601(慶長6)年に新羽村の村民良太郎の先祖清太郎が開基し、僧の耕公が開山したと伝わる浄土宗寺院です。清太郎は、小田原北条氏の旧臣で1590(天正18)年の北条氏滅亡とともに帰農した村の有力者と比定されています。江戸時代の専念寺は、本山・末寺の制により近隣の浄土宗寺院の中本字格である松亀山 本覚院 泉谷寺(→神奈川県横浜市港北区小机町)の末寺と...
平等山 星谷院 善教寺(→神奈川県横浜市港北区新羽町)は、戦国時代前期の1492(明応9)年に死去した僧の慈海が池辺村星谷(→神奈川県横浜市都筑区池辺町)に開基した瑠璃光山の山号を称した天台宗寺院が寺の起こりと伝わります。その後現在地に移転し、江戸時代前期の1612(慶長17)年に浄土真宗に改宗して西本願寺派に属しました。浄土真宗改宗時に山号と院号を平等山星谷院に改めたようです。寺の縁起には、戦国時代には小田原北条氏4代...
補陀洛山 安養院 西方寺(→神奈川県横浜市港北区新羽町)は鎌倉時代初期の1190(建久5)年に、東大寺別当の勝賢僧正が現在の霊鷲山 感応院 極楽寺(→神奈川県鎌倉市極楽寺1丁目)の場所に開山した真言宗単立寺院です。1219(承久元)年に北条重時(→北条義時の3男)が極楽寺を中興開基すると西方寺堂宇は極楽寺境内に移されたようです。極楽寺・西方寺は1333(元弘3)年5月の鎌倉幕府(北条氏)滅亡後も鎌倉公方足利氏及び関東管領上杉氏に保護さ...
新羽杉山神社(→神奈川県横浜市港北区新羽町)は平安時代の延喜式神明帳に記載されている「武蔵国都筑郡杉山神社」に比定される神社の1つで、創建の詳細は不明ながら、この辺りが「上古根古屋の庄荷場の郷」と呼ばれる水郷だった景行天皇(古墳時代前期→12代天皇)の時代に、日本武尊(やまたとたけるのみこと)がこの地方を通過し、彼が死去したのち、村民がその遺徳を偲んで祠を建てたことが始まりとされます。江戸時代には補陀洛山 安...
幡森山 龍雲寺(→神奈川県横浜市都筑区東方町)は安土桃山時代後期に養蓮社順誉という僧よって開山された浄土宗寺院です。本堂の創建自体は戦国時代中期の1550(弘治元)年にされたようです。江戸時代には本山・末寺の制により松亀山 本覚院 泉谷寺(→神奈川県横浜市港北区小机町)の末寺でした。1今はありませんが、神仏習合の江戸時代までは境内に八幡社があったと記されています。龍雲寺は江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『...
東方天満宮(→神奈川県横浜市都筑区)は、創建年代は不明ですがもとは字天神山(→神奈川県横浜市泉区字天神山)にあった社(やしろ)を安土桃山時代に現在地に移したと記されています。神仏習合の江戸時代には天神社と呼ばれ、高野山真言宗の高貴山 福聚院 正覚寺(→神奈川県横浜市都筑区池辺町)が別当寺として祭祀を司っていました。明治時代末期の一村一社政策を受け、1909(明治42)年に近隣の八幡社・神明社・愛宕社・御嶽社・稲荷社と...
ごはん塚(→神奈川県横浜市緑区鴨居7丁目)は、鎌倉時代前期の1205(元久2)年6月22日の畠山重忠の乱(二俣川合戦)で討死した鎌倉幕府草創期の御家人で「板東武士の鑑」と評された畠山重忠の郎党に関する史跡です。二俣川合戦で畠山重忠が幕府軍(北条軍)の愛甲季隆の放った矢によって討死すると、畠山氏の郎党や下人の何人かは戦場を離脱しましたが、幕府軍による残党狩りにより鴨居(→神奈川県横浜市緑区)で討ち取られた者がいたようで...
駕籠塚(かごづか→神奈川県横浜市旭区鶴ヶ峰本町2丁目)は、1205(元久2)年6月22日の畠山重忠の乱(二俣川合戦)で討死した鎌倉幕府草創期の功臣・畠山重忠の内室・菊の前(→足立遠元の娘)の墓所と伝わる史跡です。二俣川合戦の報を聞いた菊の前は駕籠(かご)に乗り二俣川の陣に駆けつけますが、すでに合戦は終わっており、幕府軍(北条軍)の愛甲季隆が放った矢により重忠が討死したことを知った菊の前は自害したといいます。「駕籠塚」の...
東隆山 薬王寺(→神奈川県横浜市旭区鶴ヶ峰本町2丁目)は1205(元久元)年6月22日の畠山重忠の乱(二俣川合戦)で討死した鎌倉幕府草創期の御家人で「板東武士の鑑」と評された畠山重忠とその郎党130名余を埋葬したと伝わる「六ツ塚」が境内に残る曹洞宗寺院です。僧の北潭が開基し、創建時は東光山と称していたようです。毎年6月22日には境内の「重忠公霊堂」で滅亡した畠山重忠主従の供養が行われます。畠山重忠の乱(NHK大河ドラマ「...
畠山重忠公首塚・畠山重忠公遺烈碑(神奈川県横浜市旭区)を訪問しました
畠山重忠公首塚(→神奈川県横浜市旭区鶴ヶ峰1丁目)は1205(元久2)年6月22日の畠山重忠の乱(二俣川合戦)で討死した鎌倉時代前期の御家人畠山重忠(はたけやましげただ)の首が葬られたと伝わる史跡です。以前は南を向いていたようですが、現在は極楽浄土の方角とされる西向きに建っています。畠山重忠公遺烈碑及び畠山地蔵尊(→神奈川県横浜市旭区万騎が原)は明治時代中期の1892(明治25)年に有志57人によって建立された畠山重忠の供養碑...
首洗い井戸・鎧の渡し・さかさ矢竹(神奈川県横浜市旭区)を訪問しました
首洗い井戸・鎧の渡し・さかさ矢竹(→神奈川県横浜市旭区)は」、鎌倉時代前期の1205(元久2)年6月22日の畠山重忠の乱(二俣川合戦)で討死した鎌倉幕府草創期の忠臣で「板東(ばんどう)武士の鑑(かがみ)」と評された畠山重忠にまつわる史跡です。畠山重忠の乱(NHK大河ドラマ「鎌倉殿と13人」/画像提供:NHK)「さかさ矢竹」は畠山重忠が地面に矢を2本刺したところ後日そこから竹が生えたという伝説が残る場所で、「首洗い井戸」は討ち...
畠山重忠古戦場跡(→神奈川県横浜市旭区鶴ヶ峰本町)は、鎌倉時代前期の1205(元久2)年6月22日の畠山重忠の乱(二俣川合戦)で討死した鎌倉幕府草創期の功臣・畠山重忠(はたけやましげただ)にまつわる史跡で、周辺には畠山重忠(二俣川合戦)にまつわる史跡が点在します。中には「さかさ矢竹」や「すずり石水跡」のような後世の創作と思われる史跡もありますが、「板東(ばんどう)武士の鑑(かがみ)」と評された畠山重忠を偲ぶ先人達の想い...
日耀山 源東院 西光寺(→神奈川県横浜市都筑区東方町)は安土桃山時代に僧の円誉が開山したと伝わる浄土宗寺院です。江戸時代の本山・末寺の制では松亀山 本覚院 泉谷寺(→神奈川県横浜市港北区小机町)の末寺でありました。なお、源東院のある都筑郡東方村は、江戸時代は徳川将軍家の菩提寺の1つである増上寺の寺領でした。源東院の寺紋も俗に「徳川四天王」で知られる本多氏の家紋「丸に立ち葵紋(→本多葵)」を使用していますので、徳...
澤水山 清龍院 真照寺(→神奈川県横浜市都筑区折本町)は戦国時代中期に中興開基された浄土真宗大谷派寺院です。創建時は真言宗寺院だったようですが、中興の際に浄土真宗に改宗したようです。江戸時代前期の1649(慶安2)年には江戸幕府(→3代将軍徳川家光の時代)から寺領を拝領されています。真照寺は江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』都筑郡折本村の条に次のように記されています。********************...
久松山 長福寺(→神奈川県横浜市都筑区仲町台4丁目)は、戦国時代中期に僧の自山応大が開山した曹洞宗寺院です。長福寺は平安時代前期に平将門が創建したと伝わる熊野社の別当を勤めていたことから、江戸時代には江戸幕府(→3代将軍徳川家光の時代)から熊野社領として社領5石余を拝領しています。戦国時代には小田原北条氏の家臣である師岡山城守が伽藍を修復しようとしたものの果たせなかったようです。長福寺は江戸時代後期の1830(...
雲長山 西光寺(→神奈川県川崎市麻生区黒川)は室町時代中期に西庵雲長が開基、修廣寺住職の孤岩伊俊が開山した曹洞宗寺院です。江戸時代には本山・末寺の制により夏蒐山 修廣寺(→神奈川県川崎市麻生区片平2丁目)の末寺でした。本尊は釈迦如来像ですが、創建当時は観音菩薩が本尊だったようです。そのためか、境内には大きな石の観音像が建っています。江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』都筑郡黒川村の...
汁守神社(→神奈川県川崎市麻生区黒川1丁目)は創建年代は不詳ながら神仏習合時代には不動尊を本地仏(→神の本体)として祀る汁守神明社として崇敬されていました。江戸時代には金剛寺が別当寺として祭祀を司っていたようです。国の一村一社政策により1914(大正3)年に近隣の日枝神社などが合祀され、神饌幣帛料供進神社(しんせんへいはくりょうきょうしんしゃ→勅令に基づき例祭に神奈川県知事から金銭が贈られる神社)に指定されました...
麻生不動院(→神奈川県川崎市麻生区下麻生1丁目)は正式には明王山 不動院 般若坊といい、室町時代前期の応永年間(1394年~1428年)に第4代鎌倉公方足利持氏(もちうじ)の庇護により創建されたと伝わる真言宗豊山派寺院です。本山・末寺の制により江戸時代後期の1849(嘉永2)年に「東の高野山」の異名を持つ星宿山 蓮華蔵院 王禅寺(→神奈川県川崎市麻生区王禅寺)の末寺となりました。明治時代末期から毎年1月28日に境内で「だるま...
光明山 徳水院 大善寺(→神奈川県横浜市都筑区南山田2丁目)は江戸時代前期に本誉善達によって創建された浄土宗寺院です。江戸時代には徳川将軍家の菩提寺の1つである三縁山 広度院 増上寺(→東京都港区芝公園4丁目)の末寺でした。『新編武蔵風土記稿』には室町時代の「永享」の年号が入った古碑があると記されていますので、大善寺が創建される以前にも寺院があったことが窺えます。寺紋には下総千葉氏の戦国期の家紋である「三日月...
鵜目山 観音院 清林寺(→神奈川県横浜市都筑区大棚町)は、江戸時代前期の1692(元禄5)年に僧の清閑によって創建された浄土宗寺院です。江戸時代には九品山 唯在念仏院 浄真寺(→東京都世田谷区奥沢7丁目)の末寺だったようです。清林寺所蔵の木造菩薩立像は横浜市指定有形文化財であり、寄木造(よせぎづくり)の技法は平安時代中期に平等院鳳凰堂(→京都府宇治市)の本尊阿弥陀如来像を彫った仏師定朝の流れを汲む特色を示しています。今...
大杉山 龍福寺(→神奈川県横浜市都筑区大棚町)は安土桃山時代中期の1587(天正15)年に僧の宝宗(→宝相坊とも)が開基した真言宗豊山派寺院です。創建時の宗派は新義真言宗で、「関東の高野山」の異名を持つ星宿山 蓮華蔵院 王禅寺(→神奈川県川崎市麻生区王禅寺)の末寺でした。もともとの本堂は江戸時代中期の1762(宝暦12)年の火災で焼失し、2年後の1764(明和元)年11月に住職の日栄によって再建されています。以来、1923(大正12)年9月1...
大棚山 得蔵院 東善寺(→神奈川県横浜市都筑区中川7丁目)は浄土真宗本願寺派(西本願寺)寺院で、創建時は武蔵国橘樹郡小机領の臥龍山 雲松院 神太寺の末寺の曹洞宗寺院でしたが、戦国時代中期に僧の浄念が浄土真宗寺院に改め現在に至ります。以前ご紹介した浄土真宗本願寺派の弘願山 長徳寺(→神奈川県横浜市都筑区牛久保3丁目)は創建時の寺号を浄念寺といいますが、ここの改宗開基浄念と関係あるのかは不明です。東善寺は江戸時...
青蓮山 福聚院 慈眼寺(→神奈川県横浜市都筑区中川7丁目)は戦国時代後期の1571(元亀2)年に僧の浄海が開山した真言宗豊山派寺院で、創建時は大徳寺といいました。戦国時代中期の永禄年間(→1558年~1570年)に火災に遭い、現在地に移ったようです。江戸時代には星宿山 蓮華蔵院 王禅寺(→神奈川県川崎市麻生区王禅寺)の末寺でした。慈眼寺は江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』都筑郡大棚村の条に次のように...
大棚杉山神社(→神奈川県横浜市都筑区中川6丁目)は創建年代は不詳ですが、別当寺(→神仏習合の時代に神社の祭祀を司った寺院)の大杉山 龍福寺(→神奈川県横浜市都筑区大棚町)の近くにあった社殿を昭和時代後期の1983(昭和58)年の土地区画整理事業にともない現在地へ移されました。『神奈川県神社誌』によると、この場所にはもとは吾妻山吾妻社という神社があり、明治時代後期の一村一社政策により八幡社・神明社・吾妻社の3社が合祀さ...
弘願山 長徳寺(→神奈川県横浜市都筑区牛久保3丁目)は戦国時代に一向宗の僧・浄源によって開山された浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院です。創建時の寺号は浄念寺といい東本願寺に属していました。安土桃山時代の検地帳には常仙寺とも書かれていたようです。本尊は阿弥陀如来立像で、盂蘭盆会(→お盆)の8月15日夜には横笛法要が行われ、横笛の調べと読経はさぞ幽玄な雰囲気を醸し出すことでしょう。長徳寺は江戸時代後期の1830(文政...
茅ヶ崎杉山神社(→神奈川県横浜市都筑区茅ヶ崎中央)は延喜式神名帳に記載された式内社(→武蔵国都築郡杉山社)と比定される神社の1つで、明治時代末期の1910(明治43)年に国の一村一社政策により村内の神明社・天王社が合祀されました。境内社に稲荷神社があります。〖主祭神〗・五十猛命(いそのたけるのみこと)〖合祀祭神〗・神明社→天照大神(あまてらすおおみかみ)・天王社→素戔嗚命(すさのおのみこと)・稲荷社→稲倉魂命(いな...
渋沢山 龍泉院 心行寺(→神奈川県横浜市都筑区荏田東4丁目)は、江戸時代前期に僧の相誉によって創建された浄土宗寺院です。江戸時代の都筑郡荏田村は2代将軍徳川秀忠の御台所・崇源院(→浅井長政3女)の化粧料(→女性が嫁ぐ際に取り交わされた土地)で、彼女の死後は菩提寺の三縁山 広度院 増上寺(→東京都港区芝公園4丁目)の寺領となり、心行寺はその末寺となった由縁で、本堂には徳川将軍家の位牌が安置されているといいます。増上寺の...
お社杉山神社(勝田杉山神社とも→神奈川県横浜市都筑区勝田町)は創建年代等は不詳ですが室町時代前期の応永年間(→1394年~1428年)に作られた鰐口が掛けられており、室町時代には前身となる社(やしろ)が建てられていたことが分かります。江戸時代後期の1838(天保9)年8月に社殿を造営し、1846(弘化3)年9月に鳥居を建立しました。明治時代初期の1873(明治6)年に勝田村の村社となり、1911(明治44)年に国の一村一社政策により村内にあっ...
長窪山 総泰院 正覚寺(→神奈川県横浜市都筑区茅ヶ崎東3丁目)は、寺伝によると安土桃山時代後期の1593(文禄2)年に快栄上人(かいえいしょうにん)によって中興された天台宗寺院です。1590(天正18)年、豊臣秀吉による小田原合戦で小田原北条氏は滅亡しますが、その時に秀吉による禁制(→兵の狼藉を禁止する命令書)が「総泰院同観音堂」に出されていますので、小田原合戦以前に創建されていたことが分かります。江戸時代には日吉不動尊の...
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鶏足山 養運寺(→東京都町田市本町田)は、鎌倉時代中期の文永年間(→1264年~1275年、8代執権北条時宗が最高権力者の治世)に天台宗寺院として創建された、現在は浄土宗寺院です。小田原北条氏の統治下にあった戦国時代の1567(永禄10)年2月に僧の誓誉によって浄土宗に改宗されました。江戸時代には幕府より寺領三石を拝領し、本山・末寺の制により宝樹山 極楽寺(→東京都八王子市大横町7丁目)の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。...
金井八幡神社(→東京都町田市金井町)は、創建年代等の詳細は不明ですが、江戸時代には広福寺(→現在は廃寺)が別当寺として祭祀を司りました。江戸時代中期の1726(享保11)年10月に仏師佐野木丞が御神像(→神仏習合の頃の神体、約15cm)を作り奉納、1751(寛延4)年7月に石段を建立、1828(文政11)年に仏師田村幸左衛門が神体の神像に彩色を施したと伝わります。また、この年に社殿が再建されたようです。現在の社殿は太平洋戦争が始まる194...
能ヶ谷神社(→東京都町田市能ヶ谷6丁目)は、江戸時代前期の正保年間(→1644年~1647年)に東照宮として創建された村民持(もち)の神社を母体とし、江戸時代後期には十六所神社といいました。幕末期の1854(安政元)年4月に再建され、1877(明治10)年6月に村社に列せられたと記されます。1914(大正3)年11月に近隣の表谷神社・天照大神・神明社・住吉神社を合祀して社号を能ヶ谷神社に改めました。現在の社殿は戦前の1931(昭和6)年4月に造営...
長滝山 多聞院 妙延寺(→東京都町田市森野2丁目)は、室町時代前期にこの地の領主であった渋谷重宗(しぶやしげむね)が長栄山 大国院 池上本門寺(→東京都大田区池上1丁目)の4代住職日山の弟子である日顕を開山に招いて創建した日蓮宗寺院です。日顕は1429(正長2)年7月23日に死去したので創建はそれ以前であることが分かります。江戸時代には本山・末寺の制により前述の池上本門寺の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。また、江戸...
森野住吉神社(→東京都町田市森野5丁目)は、江戸時代前期の1640(寛永17)年9月にこの地の領主であった幕府旗本須藤家の3代須藤太郎左衛門盛忠(すどうたろうざえもんもりただ)が、祖先の菩提と武運長久のため名主の渋谷由右衛門尉重忠(しぶやゆえもんのじょうしげただ→旧北条家臣、帰農)および氏子により摂津国住吉郡の住吉大社を勧請して創建したと社宝の棟札に記されます。1710(宝永7)年12月に5代須藤権之助盛連(すどうごんのすけも...
西田杉山神社(→東京都町田市金森6丁目)は、江戸時代前期の1683(天和3)年12月に幕臣高木伊勢守の館の鬼門の守護神として創建したと伝わる神社で、社殿・参道ともに高木伊勢守の館(→神奈川県大和市下鶴間)の方角を向いてます。1793(寛政5)年12月と1936(昭和11)年に社殿が再建されました。境内には5mほどの神木の大公孫樹があります。〖祭神〗・日本武尊(やまとたけるのみこと)西田杉山神社は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂...
金神神社(こんじんじんじゃ→神奈川県川崎市麻生区白鳥4丁目)は、創建年代等の詳細は不明ですが、1873(明治6)年に富士講(→富士山信仰)を束ねて設立された富士一山講社を起源とする扶桑教の神社です。扶桑教はかつての教派神道13派(→明治時代以降、政府によって公認された神道系の宗教団体)の一つとして知られます。境内社には笑顔が印象的な江戸期の一木彫り日本一の大黒天が祀られています。〖祭神〗・天祖参神・金山比古命(かな...
日吉神社(→神奈川県横浜市港北区日吉3丁目)は、創建年代の詳細は不明ですが、往古から武蔵国橘樹(たちばな)郡矢上村の総鎮守として同村北方の俗称「お伊勢原」と呼ぶ丘上にあり神明社と称しました。江戸時代には曹洞宗寺院の谷上山 保福寺(→神奈川県横浜市港北区日吉4丁目)が別当寺を務めましたが、祭祀は平村の神職小泉信濃が来て行ったと記されます。旧社殿は田沼意次(たぬまおきつぐ)が老中首座にあった1785(天明5)年の修造と伝...
普賢山 妙海寺(→神奈川県川崎市中原区木月4丁目)は、戦国時代の1534(天文3)年に木月村の村民鳥海讃岐が開基、僧の仏性院日正が開山したと伝わる日蓮宗寺院です。鎌倉時代初期の1187(文治3)年に源義宗という人物が創建した薬師寺という草庵を鳥海讃岐が一寺としたと伝わります。境内には南北朝時代の「貞和六年」(北朝年号→1350年)と彫られた板碑があるようです。江戸時代には後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の中宮となった徳川和子...
横浜赤レンガ倉庫(→神奈川県横浜市中区新港1丁目)は、現在は公園を備えた赤レンガパークとして1年中何かしらのイベントが行われているみなとみらい地区の代表的な文化・商業・観光施設ですが、もともとは、開国以来、国内最大の貿易港となり取り扱い貨物の急増に対応するため、1899(明治32)年に東洋初の接岸式埠頭として新港埠頭の建設が始まり、その一環として作られた保税倉庫(→外国から運び込まれた輸入手続きが済んでいない物...
横浜市開港記念会館(→神奈川県横浜市中区本町1丁目)は、横浜市開港50周年を記念して市民の寄付金によって第一次世界大戦中の1917(大正6)年6月30日に竣工した「ジャックの塔」の愛称で知られる国の重要文化財です。赤レンガに花崗岩(かこうがん)をとり混ぜた辰野式フリークラシック様式(→東京駅丸の内駅舎など赤レンガに白い石材を配した華やかな西洋建築)で、通りに面した3つの隅部に時計塔・角塔・八角塔を配し、ドームを架けた建...
横浜税関本関(→神奈川県横浜市中区海岸通1丁目)は、先代が1923(大正12)年9月1日の関東大震災で倒壊焼失したため、復興事業の一環で1934(昭和9)年に再建されました。竣工当時は横浜市で最も高い建造物で、イスラム寺院(→モスク)風の塔や連続アーチなど優美でエキゾチックな雰囲気から「クイーンの塔」の愛称で親しまれている横浜市認定歴史建造物です。横浜税関資料展示室「クイーンのひろば」では横浜港と横浜税関の歴史、貿易の最...
神奈川県庁舎(→神奈川県横浜市中区日本大通1丁目)は、横浜港近くの日本大通りに面して建ち、「キングの塔」の愛称で親しまれている国指定重要文化財です。先代が1923(大正12)年9月1日の関東大震災で大被害を受けたため鉄骨鉄筋コンクリート構造が採用され、1928(昭和3)年10月31日に竣工しました。昭和初期に大流行したライト様式(→旧帝国ホテルなどを設計した近代建築の巨匠フランク・ロイド・ライトの手による建築様式で、茶色の...
鵜野森日枝神社(→神奈川県相模原市南区鵜野森2丁目)は、創建年代の詳細は不明ですが、中世の頃より鵜野森郷の鎮守四社(→山王社・神明社・鹿島社・八幡社)として祀られており、江戸時代中期の1725(享保10)年に社殿を再建した棟札があるようです。明治維新後の1871(明治4)年に山王社を日枝大神と改称し、さらに1873(明治6)年に日枝神社と改称して村社となりました。国の一村一社政策を受けて1922(大正11)年には神明社・鹿島社・八幡...
方運山 青柳寺(→神奈川県相模原市南区上鶴間本町3丁目)は、室町時代中期の1499(明応8)年に日朝が創建した清龍寺という小庵を前身とする日蓮宗寺院です。1583(天正11)年に、室町幕府15代将軍足利義昭(あしかがよしあき)のもとを離れ小田原北条氏の家臣となった渋谷越後守義重が、日蓮宗僧侶日題が開山に迎えて青柳寺を開基したと記されます。江戸時代には本山・末寺の制により鎌倉の妙巌山 本覚寺(→神奈川県鎌倉市小町1丁目)の末寺...
上鶴間鹿島神社(→神奈川県相模原市南区上鶴間本町3丁目)は、鎌倉時代初期の建久年間(→1190年~1199年)に鎌倉幕府の初代将軍源頼朝が鶴舞の里(→鶴間)に鶴舞神社(→現在の上鶴間浅間神社)を創建した頃に境川付近の下森に創建した神社が前身と伝わる神社です。江戸時代後期の1801(享和元)年8月に現在地に遷座したという文書(→「鎮守鹿島明神社遷座願」)が残されています。遷座後は隣接する方運山 青柳寺が鹿島社と境内社の天神社(→現在...
町田天満宮(→東京都町田市原町田1丁目)は、戦国時代の天正年間(→1573年~1593年)のうち小田原北条氏の統治下(→1590年まで)に創建され、江戸時代前期の1615(元和元)年にこの地の領主となった幕府の旗本三橋氏・武藤氏によって社殿が造営されたと伝わる神社です。江戸時代には寺領7石3斗の曹洞宗寺院、金森山 宗保院(→東京都町田市原町田1丁目)が別当寺として祭祀を司りました。明治維新後は菅原神社と称したようです。1872(明治5)年...
金森杉山神社(→東京都町田市金森7丁目)は、創建年代等の詳細は不明ですが、江戸時代前期の1683(天和3)年12月に幕府の旗本高木伊勢守夫妻(→妻は於亀)及びその一族が下屋敷内に社殿を再建したと社宝の棟札に記されています。再建には家臣や名主(→村長)の大貫助兵衛・囲曽甚五右衛門が費用の大半を工面したようです。江戸時代を通して金森村の村民が西田杉山神社(→東京都町田市金森6丁目)と隔年で神体を奉遷して祭礼を行ったようです...
母智丘神社(もちおじんじゃ→東京都町田市原町田5丁目)は、『東京都神社名鑑』によると第一次世界大戦末期の1919(大正8)年に黒木昇・黒木ハナの両氏が宮崎県の石峰山山頂に鎮座する母智丘神社(→石岑稲荷明神とも、宮崎県都城市横市町)を自宅に勧請したが、「家屋鳴動し畏懼(いく→恐れおののくこと)の念に耐えず」社殿を創建したと記される神社です。家屋鳴動云々の真偽の程は定かではありませんが、個人によって建てられた神社とし...
高ヶ坂熊野神社(→東京都町田市高ヶ坂2丁目)は、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災によって由緒等が散逸したため創建年代等の詳細は不明ですが、和歌山県の熊野三山神社の那智大社に地形がよく似ていて水源に奉斎し、裏山に滝があったようです。1843(天保14)年の古文書に御供米として毎年地頭より6斗の奉納があり、また除地分として600坪があったとあります。江戸時代の頃は図師村の図師山 大蔵院 釜田寺(→関東大震災で倒壊...
当麻山 無量光寺(→神奈川県相模原市南区当麻)は、鎌倉時代の1261(弘長元)年に「踊り念仏」を広めたことで知られる一遍(いっぺん)が開いた草庵を起源とする時宗(じしゅう)寺院です。一遍から遊行を引き継いだ真教(しんきょう)が老衰のためこの地に戻り、1304(嘉元2)年ここに堂宇を建立し、阿弥陀仏の別名である無量光仏から「無量光寺」と名付け、一遍の分骨を埋骨して念仏の根本道場としました。真教は1319(文保3)年1月に死去する...
根小屋諏訪神社(ねこやすわじんじゃ→神奈川県相模原市緑区根小屋)は、鎌倉時代初期の1192(建久3)年に筑井城(つくいじょう)を築城した筑井太郎次郎義胤(つくいたとうじろうよしたね)が勧請したと伝わります。神仏習合の頃は井木山寿性院(→現在は廃寺)が別当寺を務めました。『津久井郡文化財神社編』によると、戦国時代には小田原北条氏の有力国衆であった津久井城主内藤景定(ないとうかげさだ)によって1527(大永7)年に50間4面の社...
飯縄神社(いいづなじんじゃ→神奈川県相模原市緑区根古屋)は、小田原北条氏の有力国衆であった津久井内藤氏の居城津久井城の飯縄曲輪(いいづなくるわ)にある神社で、鎌倉時代の1197(建久8)年に前身の筑井城(つくいじょう)を築いた筑井太郎次郎義胤(つくいたろうじろうよしたね)が勧請したと伝わります。戦国時代には津久井城主内藤景定が城の守護神として社殿を改築したと伝わります。津久井城の山頂付近は西峰の本城曲輪・太鼓曲輪...
津久井城(つくいじょう→神奈川県相模原市緑区根古屋)は、鎌倉時代初期に三浦氏の一族である筑井太郎次郎義胤(つくいたろうじろうよしたね→筑井為行とも)が築城したところから始まる根古屋式の山城で、津久井湖の南に聳える標高375ⅿの城山に築かれています。戦国時代には、小田原北条氏の有力国衆で「津久井衆」を率いた津久井内藤氏が城主を務め、対武田氏の最前線の城として重視されました。『勝山記』には、1525(大永5)年に甲斐...
浅利明神(→神奈川県愛甲郡愛川町)は、戦国時代の1569(永禄12)年10月8日の三増合戦(三増峠の戦い)において戦死した武田方の重臣浅利信種(あさりのぶたね)を祀った神社です。江戸時代の1700(元禄13)年3月に曾雌常右衛門知義(そしつねえもんともよし)という武士が、主君の下総関宿藩主牧野備前守成春(まきのびぜんのかみなりはる)の命でこの地を検分した際に、自身にゆかりのある浅利信種がこの地で戦死したことを知り、「浅利墓所」...
三増合戦史跡(→神奈川県愛甲郡愛川町三増)は、戦国時代の1569(永禄12)年10月8日に、甲斐の武田信玄と小田原北条氏の別動隊との間で行われた「三増合戦(みませかっせん)」「三増峠の戦い(みませとおげのたたかい)」に関する史跡です。三増合戦場碑は昭和時代後期の1969(昭和44)年に建立され、その周辺には両軍の戦死者を埋葬したと伝わる首塚や胴塚や、戦死した武田家臣浅利信種(あさりのぶたね)を祀る浅利神社などがあります。〖三...