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#戦国時代
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【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 98.徳川家康・八十六
徳川家康は、真田丸を指揮する、真田幸村を調略しようとした。 本多正純は、実弟で、前田家の家老である、本多政重に真田信尹と協力し、真田幸村を徳川軍に寝返らせる…
2023/12/05 00:04
戦国時代
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【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 97.徳川家康・八十五
12月3日、大坂城内において、南条元忠が、徳川軍に、内通していることが発覚した。 南条元忠は、城内で切腹させられたが、豊臣軍は、南条が引き続き、内応している…
2023/12/04 02:05
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 96.徳川家康・八十四
豊臣軍は、木津川口砦と共に木津川沿岸の守備のため、博労淵に砦を築き、薄田兼相が、守将として700の兵で、守備していたが、木津川口砦の陥落後に、そのままになっ…
2023/12/03 06:26
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 95.徳川家康・八十参
徳川家康は、その生涯において、数えきれない程の戦闘を指揮したが、常に、家康側は、少数の兵力で、大軍の敵に立ち向かったと言える。 今川氏真との戦い、武田信玄・…
2023/12/02 00:13
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 94.徳川家康・八十弐
歴史小説家の司馬遼太郎は、大阪の陣に興味が深いらしく、『城塞』及び、『戦雲の夢』を執筆している。 『戦雲の夢』は、司馬遼太郎の四作目の長編作品で、長宗我部盛…
2023/12/01 01:05
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 93.徳川家康・八十壱
毛利勝永は、羽柴秀吉の家臣、森吉成の息子である。 1587年(天正十五年)、豊臣秀吉は、九州平定を終えると、森吉成に、豊前国規矩郡、高羽郡の二軍郡六万石を与…
2023/11/29 05:57
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 92.徳川家康・八十
なお、長宗我部盛親は、当初、東軍に味方しようと決め、十市新左衛門・町三郎右衛門の二人を使者として、徳川家康に派遣しようとしたが、近江国水口で西軍に道を閉ざさ…
2023/11/28 00:03
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 91.徳川家康・七十九
関ケ原の戦いで、西軍が、敗北すると、西軍の真田昌幸、真田信繫の父子は、本来は、死罪のはずであった。 しかし、真田信幸及び、その舅の本多忠勝の取り成しがあった…
2023/11/27 02:03
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 90.徳川家康・七十八
真田幸村は、上田合戦にて、徳川家康を苦しめた、真田昌幸の次男、真田信繫とされる。 真田「幸村」は、大阪冬の陣の際に、突然、登場した、人物であるが、大阪の陣当…
2023/11/26 06:01
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 89.徳川家康・七十七
9月23日、片桐且元は、織田信雄より、薄田兼相等を討手とする、暗殺計画を知らされ、]屋敷の篭り守りを固めた。 片桐且元の殺害は、木村重成、渡辺糺、石川貞政、…
2023/11/25 00:05
徳川家康公に会いに…駿府城を攻めに…
NHK大河ドラマ『どうする家康』では、徳川家康は、息子・秀忠に征夷大将軍の位を譲り、「駿府の大御所」として大御所政治へ。家康が少年期と晩年を過ごした駿府にお出かけしてみてはいかがでしょうか。大河ドラマ館は、2024年1月28日(日)まで。
2023/11/24 19:22
時空を超える!戦国ワールドとホストのギャップ!
来年の私の手帳は、なんと”戦国手帳”! まるでタイムマシンで戦国時代に飛び込んだみたいな情報量。カレンダーには当時の出来事がドドーンと記されていて、まるで戦国時代の実況中継をしているみたい!
2023/11/24 16:23
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 88.徳川家康・七十六
方広寺鐘銘事件は、バカバカしい程の徳川家康の言い掛かりであるため、本項において、簡略化して説明する。 方広寺は、京の大仏と呼ばれ、豊臣秀吉が、発願し、建設さ…
2023/11/24 01:50
映画.com首 : 映画評論・批評
にほんブログ村にほんブログ村 私は間違ったことはしていない…石田三成が関ヶ原の戦いまでに多くの武将に見捨てられた根本原因 能吏としては完璧だが、人心を読み解く…
2023/11/23 15:19
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 87.徳川家康・七十五
豊臣家は、江戸の武家政権に対して、特別の地位を保持していた。 実質的には、徳川家の支配下には、編入されておらず、関ヶ原の戦い後に、西国に配置した、東軍の大名…
2023/11/22 06:23
桶狭間の戦いに参戦…
桶狭間の戦い(桶狭間古戦場伝説地-豊明市)1560年5月19日朝、今川義元は沓掛城を大高城に向け出立した。昼頃、佐々政次・千秋四郎隊が桶狭間村で今川軍の先頭に攻撃を仕掛け討ち死にした。その知らせと、鷲津・丸根の砦での勝利を聞いた義元は田楽
2023/11/21 10:27
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 86.徳川家康・七十四
しかし、板倉勝重は、公家衆五人、女官五人、女嬬二人を、蝦夷及び、伊豆新島等へと各々、配流するに留めた。 後陽成天皇にとっては、板倉勝重の処分は。手ぬるいため…
2023/11/21 00:14
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 85.徳川家康・七十参
1598年(慶長三年)、松平忠輝は、伊達政宗の娘、五郎姫と縁組を行った。 徳川家康は、豊臣秀吉の死の当時、秀吉の遺言に背いて、諸大名と縁組を行っていた。 石…
2023/11/20 00:58
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 84.徳川家康・七十弐
1609年(慶長十四年)、徳川家康は、オランダの使節団と会見した。 当時のオランダは、王国ではなく、オランダ総督を元首としていたが、使節は、国王を自称したと…
2023/11/19 05:44
〈中学受験〉信長・秀吉・家康を分かりやすい年表と地図で追う
天下統一を目指す信長・秀吉・家康がどこでどんな戦いをし世の中が変わっていったのか、分かりやすくまとめています。忘れがちな戦いの“場所”をチェックできる地図を見ながらしっかり覚えよう!
2023/11/18 17:22
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 83.徳川家康・七十壱
三年後の1605年(慶長十年)4月、徳川家康は、将軍職を辞すると共に、朝廷に対し、家康の三男で、嫡男の徳川秀忠への将軍宣下を行わせた。 実は、徳川家康の征夷…
2023/11/18 00:04
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 82.徳川家康・七十
同年3月12日、徳川家康は、伏見城から、二条城に移り、3月21日、衣冠束帯を纏い、行列を整えて御所に参内し、将軍拝賀の礼を行い、年頭の祝賀も述べた。 3月2…
2023/11/17 01:00
桶狭間の戦い1560年5月19日朝、今川義元は沓掛城を大高城に向け出立し、おけはざま山に本陣を置く。そこで、織田信長の奇襲を受ける。今川方の旗本約300が義元を守り応戦するも、おけはざま山の西の深田際まで追い詰められ、服部小平太と毛利新介
2023/11/13 21:24
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 81.徳川家康・六十九
常陸国の佐竹義宣は、石田三成と親交があったため、西軍への加担を決め、上杉景勝と密約を結び、上杉領内に入った、徳川家康の軍を挟撃する、方針を採っていた。 その…
2023/11/12 05:58
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 80.徳川家康・六十八
筆者の個人的見解では、石田三成の「独善」が存在しなければ、豊臣恩顧の諸大名達は、分裂することなく、結束して、豊臣政権を守ったと思われるため、徳川家康は、「天…
2023/11/11 00:03
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 79.徳川家康・六十七
豊臣秀吉は、織田信長と異なり、毛利家及び、上杉家と本領安堵を条件に、和睦して、臣下にすることに成功した。 更に、徳川家康が、臣下になったことで、他の諸大名達…
2023/11/10 00:42
にほんブログ村の「日本史」カテゴリから来て下さる皆さまへ
にほんブログ村の「日本史」カテゴリで、注目度でなら10位前後に入ることが時々あるので、今までに書いた歴史関連の記事で代表的なものを集めてみました。と言ってもほとんどNHKの歴史系番組の感想文なんですが……。
2023/11/07 09:09
前田利家公に会いに…荒子城・前田城を攻めに…
前田利家公像前田利家公初陣之像とまつ像 前田利家(1539?‐1599)加賀藩主・前田氏の祖。豊臣政権五大老の一人。荒子城主前田利春(利昌)の四男として生まれ、幼名は犬千代。1551年頃から織田信長に仕え、尾張統一戦の萱津の戦いや浮野の戦い
2023/11/06 21:20
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 78.徳川家康・六十六
上杉景勝への処分は、8月16日に言い渡された。 上杉景勝は、陸奥会津百二十万石から、出羽米沢三十万石へと減封され、11月28日には、米沢へと移動した。 即ち…
2023/11/05 07:44
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 77.徳川家康・六十五
島津家は、二年間という、粘り強い外交によって、減封されることはなく、本領安堵を得ることができたのである。 薩摩は、大坂から、離れている、地理的な利点は大きか…
2023/11/04 00:03
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 76.徳川家康・六十四
島津義弘は、関ヶ原の戦いにおいて、敵中突破を敢行したことは、既に述べた。 義弘は、堺より、立花宗茂と共に海路逃走し、鹿児島へと辿り着いた。 島津義弘は、桜島…
2023/11/03 01:10
桶狭間の戦い(今川方)に参戦…
沓掛城跡(今川義元最後の滞在地)沓掛城跡(本丸)沓掛城跡(二の丸)沓掛城跡(諏訪曲輪)1560年、駿河の今川義元は、尾張に攻め込み、沓掛城に入る。5月19日朝、沓掛城を大高城へ向けて出立した。その途中、桶狭間において、織田信長に攻撃され、
2023/10/31 22:27
徳川家康公に会いに…浜松城・二俣城を攻めに…
徳川家康公像若き日の徳川家康公像 徳川家康(1542‐1616)江戸幕府初代将軍。三河国を統一後、遠江国に進出し、岡崎城から浜松城に移る。29歳~45歳までの17年間を過ごし、浜松からは、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、高天神城の攻略、小牧・
2023/10/31 22:26
☆ドラマ☆大谷吉継☆俳優☆
2023/10/30 15:16
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 75.徳川家康・六十参
9月27日、徳川家康は、大坂城に入城して、豊臣秀頼に拝謁し、西の丸を取り戻すと、嫡子の徳川秀忠を二の丸に入れた。 しかし、10月2日、徳川家康は、黒田長政を…
2023/10/29 05:42
【4】三好之長書状写
【原文】三好之長書状写(『戦国遺文 三好氏編』4号、『大日本古文書石清水文書』所収辻村豊徳外四人所蔵文書) 池田遠江守殿御宿所八幡宮領摂州木代庄内朝川寺事、従先師仙室東堂譲被渡候処、彼霊文書記依申掠、
2023/10/28 22:02
『戦国遺文 三好氏編』参考2号 室町幕府奉行人連署奉書
【コメント】戦国時代のわりと初期、永正三年(1506)の史料です。「三好之長の命令だから」と言って、泥堂彦左衛門尉という武士が、石清水八幡宮の領知を押領しました。どうやら石清水八幡宮の側から室町幕府に訴えが
2023/10/28 16:23
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 74.徳川家康・六十弐
徳川家康は、毛利輝元退去後の大坂城西の丸へ入り、井伊直政・本多忠勝・榊原康政・本多正信・大久保忠隣・徳永寿昌の六名に徳川家康に味方した、諸大名の論功行賞の調…
2023/10/28 00:04
天下分け目の決戦場ツーリング(関ケ原古戦場)
猛暑の続いた今年の夏に、関ケ原古戦場までバイクで訪れ、現地に点在する戦場スポットを徒歩で巡ってきました。
2023/10/27 07:11
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 73.徳川家康・六十壱
石田三成が、逮捕された場所は、三成の領内であり、同地の農民が、処罰を覚悟の上で、匿っていた。 しかし、石田三成は、発覚したことを知ると自身、田中吉政の兵に対…
2023/10/27 01:04
『戦国遺文 三好氏編』3号 細川成之奉行人飯尾常連奉書
文明四年(1472)、応仁の乱のころの文書です。「犬神使い」は秩序を乱す者と見なされていたらしく、阿波守護の細川成之は奉行人・飯尾常連を通じて、「犬神使い」を捜索・処罰するように、阿波三郡の郡代・三好式部少
2023/10/25 17:30
『戦国遺文 三好氏編』2号 細川成之奉行人飯尾常連奉書写
【コメント】 文明元年(1469)、阿波守護・細川成之の奉行人・飯尾常連によって出された文書です。細川成之によって阿波国(徳島県)に賦課された段銭のうち三貫文を、南陽院殿(=淡路守護・細川成春)の使者に渡すよう
2023/10/24 12:00
日本三大山城 岩村城を攻めに…
日本三大山城・岩村城本丸の六段の石垣右:太鼓櫓、左:表御門岩村城は、標高717mに築かれた日本一高い地にある山城。高取城、備中松山城とともに、日本三大山城に数えられる。遠山氏→河尻秀隆→森長可→松平氏→丹羽氏が城主となる。その佇まいは、和製
2023/10/23 02:31
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 72.徳川家康・六十
9月16日には、伊勢亀山城が開城し、城主の岡本良勝は自刃を命じられた。 良勝の嫡男の岡本重義は、近江水口で自刃した。 東軍に加担するつもりであったが、西軍の…
2023/10/22 05:38
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 71.徳川家康・五十九
徳川家康は、関ヶ原の戦いが、東軍の大勝利で終わると、当日、首実検の後、大谷吉継の陣があった、山中村へ陣を移し、休養を取った。翌日の9月16日、 徳川家康は、…
2023/10/21 00:04
【参考1】阿波段銭条書写(『戦国遺文 三好氏編』参考1号)
【コメント】阿波国の段銭や年貢などに関して、おそらくは阿波国守護の細川氏から出された条々です。「故三好入道」は、一次史料で確認できる、最古の三好一族です。本文書の終わりから二条目に、「片穂常陸入道、逸
2023/10/20 19:42
【1】細川成之奉行人飯尾真覚奉書写(『戦国遺文 三好氏編』1号)
【1】細川成之奉行人飯尾真覚奉書写(『阿波国徴古雑抄』) 【コメント】『戦国遺文 三好氏編』の1号文書です。寛正六(1465)の文書で、応仁の乱以前のものです。宛所の三好式部少輔は、戦国時代の三好山城守康長(笑
2023/10/20 13:07
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 70.徳川家康・五十八
島津義弘は、撤退戦の際、捨て奸と言われる、数人の隊が、留まって、全滅するまで、敵の足止めをし、その部隊が、全滅すると、更に、新しい足止めの舞台隊を残すという…
2023/10/20 01:22
探検581 三法師その後の不可解人生
歴史に派手なデビューを見せたものの、その後については案外よく知られていない人物もいる。たとえば、「本能寺の変」(1582年)の後、織田家後継者を巡る関係者協議の折に登場した「三法師」もその一人だ。当初は、本能寺に倒れた織田信長(1534-1582年)の息子たちである次
2023/10/20 00:22
足利政氏書状(『戦国遺文 古河公方編』349号、92頁)
古河公方・足利政氏の書状を読んでみる。これは明応三年(1493)、伊勢宗瑞を相手にした合戦について書かれており、内容も面白い。政氏に従って戦った梁田河内守に宛てて、戦功をねぎらいながら、この合戦での自分の落
2023/10/18 08:41
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