こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。 本日は雨、ここのところ、やらなければと思っている仕事があまりにも多く、自分のなかで順位をつけて向かっているところです。 言葉は雨に打たれ再生する。 そんなことを考えながら過去のことをフと思い出したりします。 1990年頃だったように記憶していますが、『軽井沢心理学散歩』を執筆された安西二郎氏の千ヶ滝にあるセカンドハウスに尋ねたときのことです。 『軽井沢心理学散歩』のような書籍はいままでなかったと思います。内容はとても斬新的なものでした。軽井沢のことなどいろいろなことを話しましたが、そのなかでも、「何か考えるときは英語で考える。英語で書きとめる。」というこ…
こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。 気候が安定しないでここのところ軽井沢では寒い日が続いております。 六月になろうとしているのにいつまでも暖房器具が離せません。 昨年はもう少し暖かだったように感じています。 先日、ガソリン価格が国の補助金により多少、下がったということで群馬県まで給油に行ってきました。ガソリン価格はレギュラー1ℓあたり店頭価格174円で軽井沢近辺では低いところでもまだ183円、10円ほどの差がありました。 さて、以降は先日の続きです。 メタファーとしての神話 『日本書紀』には、百十年(景行天皇四十年)のときの出来事として次の物語がみられる。 「これはちっぽけな海だ。立って跳…
こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。 いまの時期、アカシヤの花で世界は満ちています。 近くに行けば、花の匂いが心地よくわたくしたちを迎えてくれます。 まるで花のダイアにでも出会ったような気持ちになります。 まるで空気がアカシヤの香りのシャワーを浴びているようです。 でも、今年は平年より二週間くらい開花が遅れています。 そして近くの知り合いから毎年いただくのがこのアカシヤの花です。 割と知らていないのですが、この花は珍味として少しだけ口に運ぶことができるのです。 パウンドケーキ、酢のもの、天ぷら、、、 (花粉症などのアレルギーのある方は控えた方のがよいと思います。また、たくさん食するものでもあ…
こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。 昨日は風も暖かく、気持ちのよいほでしたが、今日は霧雨になってしまい、気温も上がらず寒い日となりました。 実はストーブを焚いてしまいました。∧∧ ようやく藤の花も咲きましたが、寒いので昨年と比べほぼ10日ほど咲くのが遅れているようです。 今年の夏はなつらしいでしょうか? お知らせ*** 「軽井沢学叢書Ⅰ」がようやく発行になりました。わたくしも二本の記事を執筆しております。興味のある方は軽井沢書店に置いてありますのでよろしくお願いします。
こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。 ゴールデンウークも過ぎて交通量もかなり減りました。そこで近くの風景の美しいところへと八ッ場ダムに行ってきました。 まさに絶景です。ダムの水の色はターコイズブルーときにはエメラルドブルーに輝いています。この辺の方はそれを八ッ場ブルーと呼んでいます。もともと我妻川の水の色がこのような色で、ダムの水の色は太陽やいろいろな条件でブルー色が変わるようです。 左の丸い山は丸岩と呼ばれています。 絶景に思わず言葉を失う。我を失う。記憶ははるか古代にまで遡るような意識に落ちてしまいます。
こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。 ゴールデンウィークというのにわたくしはどこにも行かず、家での生活を満喫しました。 (どこに行っても混んでいて、ガソリンは高いし、物価も高い。年金暮らしなのでガマンの生活です。これが本当のところ!です。) 家にいて普段、読まなかった本を広げる。詩作品を書く。庭の手入れをするーするといままで気がつかなかった植物が目を出していることに気づきます。なんという幸せでしょうか。普通に暮らせていくことにこそ幸せがあるのです。 今日は、前回の続きです。 巻二十には防人の詠った作品が収録されている。収録には大伴家持があたった。この 歌は七五五年二月二十三日(天平勝宝七歳乙…
こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。 今回は万葉集について記事を投稿します。これは『軽井沢学叢書Ⅰ』のために書き下ろしたものですが、いつ発行されるのか判らず、このブログでいち早く皆様にお届けします。 万葉集は日本の最古の歌集として存在している。歌の詠まれた時代は七世紀前半から八世紀半ばで貴族や読み人知らず、防人などの歌がそこには収められている。今、わたしたちが見ることのできる二十巻の万葉集の成立年代は八世紀後期という説が有力である。 六六三年(天智二年)、大和の国は白(はく)村江(すきのえ)の戦いで唐、新羅に敗れ、その結果、唐が日本に攻めてくるのではないかという懸念から壱岐や対馬、筑紫といっ…
こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。 先日のみょうぎ桜の里の写真ですが、桜の木の下方に緑の輪が映っていることが判りました。 よく見ると、輪のなかに羽根を広げた美しい何かが映っています。 そこを通ったときは幸せな気持ちを感じていました。みなさんも笑顔が絶えませんでしたので決してなにかの悪いものではないと思います。もしかしたら桜の妖精がわたくしたちを祝福して、その存在を示してくださったのかもしれません。 このプログを読んでくださっている皆さまにも春の幸せをお分けします。 ありがとう! 桜の妖精
今週のお題「初任給」 こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。 初任給というお題です。 ほぼ45年前、昭和55年でしたか。役所に入庁して、初めて給与をいただいた額ははっきり覚えていますが、九万円弱でした。 民間では14万円くらいで、ずいぶん少なかったように思います。 何かいろいろほしいものがありましたが、とても買えず、少々貯金をしてがまんの生活でした。一つ贅沢をしたのはパーカーの万年筆を買ったことです。 ところが、いつでも民間の給与には追い付かず、その後もがまんの生活をしていたように記憶しております。 両親に何か記念にプレゼントでとも思いましたが、それも思うようにいきませんでした。 今ではそれほ…
こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。 みょうぎ桜の里、満開です。 山間地ですのでツツジの花も満開でした。 しばらくここには訪れていませんでしたが、今年はちょっと寄ってみるか程度の気持ちで桜をめでてきました。 駐車場も満車で、停車するのにはたいへんです。(どこも同じですネ。) 上から眺める里はあっかんです。 花も春の陽の光を浴びて気持ちよさそうです。
こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。 A・C・ショー司祭は明治十五年に軽井沢を訪れました。昭和十一年八月七日の北信毎日新聞の記事からこれが判ります。 ショー司祭の子息など特定の方々が初めて軽井沢を訪れたのは明治十八年とか明治十九年ということがいままで言われてきましたが、この新聞記事によりそれが明治十五年ということが明確になりました。新聞というメディアだから客観性があることは疑いの余地はありません。 ショー司祭の軽井沢を訪れた年代については明治十八年、十九年とまちまちでした。この北信毎日新聞でも同面の東信地区の記事では明治十八年となっています。この千葉県からの記事はショー司祭の書簡からそれらを…
こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。 先日、北軽井沢に行ってきました。まだまだ寒い気候で浅間山には残雪があり、軽井沢方面からみた景色とは違い、趣きがあります。 浅間山は活火山で685(天武天皇14)年の噴火(?)に始まり、天明三年の大噴火では大きな被害を出したことは知られています。 この大噴火では一週間に渡り、軽井沢で地震が続いたとのことです。 わたくしも浅間山の噴火を目撃しています。噴火音の後、山頂からマグマが流れ出たことを鮮明に覚えています。 浅間山には小学生低学年のとき、何回か登山をしたことも記憶に残っています。今では登る元気はありませんが。。。 頂上でみた空はやけに暗かったと思います…
こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。 陽の光というものは世界に大きな影響を与えるようです。 わたくしの体調も冬より良好で、自然の木々も目覚めて美しく希望に溢れているように感じます。 軽井沢はコブシの花が満開です。 昨年より大きく開花しています。コブシの花が良く咲くのはその年のお米など豊作と言われています。 道中、安中市でガソリンを一リットルあたり173円で給油して灯油を120円で買ってきました。 ところどころでお店に寄り、タラの芽などを手に入れました。 一年に一度、四月にわが家の春御膳をいただきます。 タラの芽の天ぷらと日本セリの味噌漬け、セリのお吸い物です。もう六十歳代後半ですのでそれほど…
こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。 とても春らしい気候になりました。 寒い軽井沢も気持ちの良い青空です。 レンギョウ 浅間山は残雪があるものの高原は美しい光の世界に向かっています。 風を感じて、光を感じてすべてが解き放されていくでしょう。 花はそれぞれの色で喜びを表しているように思います。 美しい光に包まれて春という天使たちと言葉をつなげたいと思います。
地域タグ:軽井沢町
こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。 いよいよ他地域では本格的に春の到来です。いいですネ。 今回は高崎市の観音山に行ってきました。 気温は到着したときは15℃で、20℃まで上がりました。 観音さまの足跡を追いかけて、桜を見ながら目的の地点まで行きました。 途中では暖かな風に包まれ、風に流れる花びらと遊んで、なぜか観音さまの柔らかな髪を感じてとても落ち着いた気分でした。 軽井沢にも早く春が来ると嬉しいですネ。 きっとみなさんも待っていると思います。
こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。 道の駅 みょうぎ、桜の花は満開でした。軽井沢はまだまだ寒い冬というのに、暖かい地域はうらやましいです。 愛犬のサクラもうれしそうでした。暖かさに、桜の美しさに。 早くこいこい、花のやさしさ、暖かさ! 寒い軽井沢の山国にも。。。 せめて気候だけでも東京と同じくらいになりませんか? 合併できませんか? そうすればガソリン価格も安くなるはずです。 今日は近くのGSで1リットル170円でいれてきました。 軽井沢のGSの店頭価格は1リットル191円です。 驚きです。
こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。 今日は榛名梅林に行ってきました。 気温は25℃、暖かくて最高です。そんななか榛名の梅林は白梅、関東一の梅林ということで、愛犬サクラとともに梅の花見です。 香りは春の神さまの心地よい香水のような感じでした。 頭のなかも春でいっぱいになりました。 サクラはなぜかくしゃみをしています。。。
こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。 暖かくなってきました。 松井田町にあるろうばいの里に行ってきました。 12,000本のろうばい。 黄色い世界のなかで甘い香りが心地よく漂っています。 ヤマユリの香りに似ていますか? 頭のなかは春爛漫です。
こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。 今日は今までと気温が違い、暖かくなりましたので梅の花を見に行ってきました。 群馬県安中市の秋間梅林です。日曜日だったせいか混雑していて、駐車場まで時間がかかってしまいましたが、梅の花の匂いも心地よく最高でした。 昨年もいま頃梅の花を見に行っています。 ワンちゃんも嬉しかったようです。(ブログでワタクシは初登場です。)
こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。 今回は前回の続きです。 さらに信濃の国を流れる千曲川の上田市付近には信濃国分寺・国文尼寺があった。国分寺と国衙(こくが)(国司が地方政務を行った役所)は密接な関係にあり、国司が国分寺の造営の管理をしていたので信濃国分寺の近くには国衙(七世紀後半造)があったことになる。この信濃国分寺近くの千曲川の畔には河原があり、その辺り(上田市から千曲市)がこの歌の舞台になっているところだと思う。歌のなかの「君」はかなりの身分の高いお方と思われると同時に歌はよみ人しらずであるが、歌の作者も身分が比較的高い女性で国衙や国分寺に関係の深い人物である可能性が非常に高いと考えら…
こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。 今回は昨日の「旅人」8号で発表した作品の一部を公開します。 碓氷峠を中心に軽井沢地方をみたとき、そこは高地であったため四世紀の県遺跡が示すようにそこで長く住居を構える人々はいなかったと思われる。次に考える万葉集の歌は信濃国分寺(現在の上田市)近辺の歌であるが、川辺の美しい歌として防人の歌(四四〇七番)のような土の匂いが漂う歌の対極に位置するものとして掲げたい。 信濃なる筑摩の川のさざれ石も君し踏みてば玉と拾はむ (巻第十四 歌番 三四〇〇) 大意「信濃の千曲川の川原の小石も、あなたがお踏みになったのだから、宝石として拾いましょう。」 佐佐木幸綱著 『万葉…
こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。 ようやくいままで発行してきた「旅人」の8号を昨日、発行することができました。一年近く休んでいましたが、その間に『明治期、日本の避暑地』の発刊をすることができました。 「旅人」は長野県立図書館、上田市立図書館、小諸市立図書館、佐久市立図書館などに送付していますので、興味のある方はどうぞ閲覧してください。内容については今回は万葉集の上田地域や碓氷越えをした防人の歌を取りあげています。そこに必ず毎回、詩を載せております。わたくしは詩人ですからそれが基本になっております。 この「旅人」はコピーで作成した、少し昔なら手作りの雑誌というものです。このような雑誌を迷惑…
こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。 小著『明治期、日本の避暑地』(龍鳳書房)の発刊から約半年ほど経ちました。そのなかで今一つはっきりしなかった事項について考えてきました。 「Gleanings From Japan」 Walter G. Dickson ( William Blackwood and Sons) 1889年のなかでは「山の湯」というものがでてきましたが、これについては資料が乏しくはっきりしたことが判らなかったのですが、最近、書斎を整理していましら『日本に於ける集落の高距限度』小牧實繁著(地理論集別冊)昭和七年という冊子が見つかり、そこから山の湯が鹿沢温泉のことを指していると…
こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。 紅葉も終わり、すっかり早冬といったところです。 寒いから炬燵を出し、ファンヒーターを出しています。 軽井沢はこれからとても寒くなりますので辛いです。 寒くなる折に廊下で転倒してしまい、ケガをしてしまいました。本当に一瞬のことでしたので自分がどんなふうに転倒したかは判りません。 転んでケガをする歳ではまだありませんが、運悪く、治るまで50日かかると医者から言われました。 いまは何とかPSに向かっています。原稿も進ませなければならないときに何ということでしょうか。(絶対に間に合わせます。) 今度は万葉の歌について碓氷にまつわるものを書いております。4-5頁く…
こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。 今日はわたくしの家のリホームについてです。 本当に昭和レトロそのものの家をできるだけ自分でリホームしようと思い、苦戦しております。 まずはペンキ塗り、雨戸から家の壁など自分でペイントしました。しかし、なんとムラができてしまい難しいこと。良く塗ったと思っても色が均一にならず、どうしても濃淡ができてしまいます。これはどうしても直すことができませんでした。でも塗ってあればいいかな? 次にドアです。 レトロですから昔のVレールが使われていて、これを探し出すのが一苦労でした。 近くのホームセンターなどで探しましたがありません。ほとんどのところで探しましたが、ありま…
こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。 明治十四年にはアーネスト・サトウ卿の『中部・北部日本旅行案内』が発行されていて多くの外国人はこれを参考にしています。ショー司祭についてもこれを参考にして軽井沢高原を訪れたことが考えられます。A・C・ショー司祭がこれを参考にしていたことは、いままで日本についての参考になる書籍がなく、外国人は待ちに待ったものでした。これは多くの外国人の日本旅行のときの頼りになるテキストとなりました。 これに先駆け、キーリング(Wallace Edward Lloyd Keeling)の「Tourists Guide」が前年に出版されています。キーリングは英国の英学教師で御雇…
こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。 明治時代の別荘(サマーコテイジ)は当時、使われなくなった旅籠などの建物を再利用しています。その建物がどのくらいあるか、なた、使用していない土地がどれくらいあるかで別荘の建築数が異なってくるでしょう。 A・C・ショー司祭が旧軽井沢の大塚山に建物を建てたのは大かたの説では明治二十一年ですが、これに誤りはないと思います。しかし、軽井沢の別荘第一号ということになるとショー司祭家族が使われなくなった家を手に入れ夏を過ごした明治十八・十九年説と大塚山に新たに家を建てた明治二十一年という説があります。これについては夏を過ごすという生活形態ができた年とするか建物を移築し…
こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。 お彼岸に入り、お墓参りに行ってきました。わたくしの先祖は南佐久にある自成寺という江戸時代から続くお寺におります。 そこがわたくしの魂の故郷ということになります。 雨の上がった午後にお寺に着き、お参りを済ませました。 なかなか忙しいので行ける時間を見つけるのもたいへんですが、これは現生に生きているものの努めと思っております。 お彼岸の連休ですので東京など遠くからお見えになる方も多いようです。 ここに接する道を山を越えてゆくと秩父に行きます。 秩父までは交通標識が八十数キロとあります。遠いです。 途中、休憩できるところがあるかどうか判りませんが、一度は山を越…
こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。 軽井沢の避暑地は明治十九年に始まったと前に書きましたが、それは次の新聞記事によります。 「外国人の避暑 本年は外国人の碓氷峠近辺の社寺又は農家を借受けて暑を避くる者甚だ多く是は 伊香保温泉最寄の過日コレラ患者のありしの因るならんといふ」 これは明治十九年八月五日の朝野新聞の記事ですが、新聞記事ですから、それは客観性があるということです。この記事は朝野新聞という当時でも民権運動から出てきたもので信用性は高いものです。朝野新聞は明治7年に創刊され、北島成柳により運営されました。記者は犬養毅や尾崎行雄などが在籍していました。 わたくしはA・C・ショーは明治十五…
こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。 昨日、秩父にある」三峯神社に行ってきました。 長瀞を通り、神社へと坂道を登り始めましたが、連休の中日でした。 車がいやに多い。途中まで快適に登りました。ところが途中、車が渋滞にハマってしまいました。 動いても10分に数十メートル、なんと神社本殿まで2時間30分かかりました。 わたくしはいままであまり渋滞は経験していません。まるで夏の軽井沢みたいでした。 でも、その分、着いたらとてもうれしかったです。 神さま、龍神さまのエネルギーをたくさんいただいてきたと思います。 渋滞も忘れて、ありがとうございました。 帰りはガソリンを秩父市内で補給して、激しい雨のなか…
こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。 近年の夏は暑くなり、軽井沢でも30℃を越える日があります。そこで軽井沢や御代田町でもフルーツが成らないかと思い、やってみることにします。 場所は御代田町です。冬なども2℃くらい気温が高いので、条件は整っていると思います。 すでにプラムは結実します。ただ、虫が果実のなかに入ってしまうので食べられるまでにはなりません。虫の入らない方法を考えてみます。例えば袋を被せるとか。 あと、リンゴやゆずはどうかな? 苗木を手に入れて、植えてみようと思います。 みなさまにご報告できるのは数年先のこととなります。桃クリ三年、柿八年ですか。ゆずは何年でしょうか。 群馬県方面に…
こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。 たまたま軽井沢の三度山から矢ケ崎川沿いに歩いてみました。今頃になり、太陽が出ないと少し肌寒く感じてしまいます。 わたくしの小学生の頃とはもちろん風景もだいぶ異なり、別荘も現代風です。かつては外国人がこの辺にはたくさん住んでいました。カラフルな木造の建物ばかりでしたが、それは自分でペンキを塗ってそのようにしていたのです。赤や黄色、印象に残っています。 近くの雲場の池も水が透明でたくさんの魚(ニジマス)が泳いでいました。当時は釣りを楽しんでいる方もたくさんおりました。わたくしも三十センチくらいのニジマスを釣ったことがうれしくて覚えております。 その池でも外国…
こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。 E・G・ホルサムは鉄道建築技師(御雇外国人)として日本を訪れました。明治政府は日本の近代化のため多くの外国人を雇い、外国の文化に近づけるため努力をしていました。なかでも英国からは多くの教師を迎えています。 ホルサムは休暇を利用して日本の各地を訪れました。明治十年には軽井沢の追分宿にも宿泊しています。そのなかで「外国人向けホテル」という看板のある茶屋があったことがホルサムの日本旅行記『Eight Years in Japan』から判っています。それがどの茶屋であったかはわからないものの明治十年ということを考えると注目すべきことと思います。 アーネスト・サト…
こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。 ハリー・パークス卿は英国の公使として在日中に日本各地に旅をしています。 日光については明治三年に外国人として初めて訪れております。明治三年は日本政府が日光を外国人に開いた年でもありました。ハリー・パークス卿はその旅で軽井沢の信濃追分を訪れ、浅間山に登山をしております。これ以降、多くの外国人が浅間山に興味を抱き、登山をしておりますが、それは世界のなかでも活火山の浅間山は一番に登りやすい山であったからです。パークス卿は浅間山に身体をいやすためにも登山をしていました。 後に日本公使になったアーネスト・サトウはパークス卿の日本語通訳をしていました。「中部・北部日…
こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。 今日、軽井沢の離山を通り過ぎたとき、妙に小さい頃のことを想い出しました。小学校3年生くらいだったと記憶していますが、友達と離山に遊びにいきました。離山は登山という感覚の山ではありません。いつもわたくしたちの生活に密着しています。 友達と山桑の実などをほおばり、口のなかを真っ青にして山に入っていきました。そのうちに登山道から離れてしまい、道がどこにあるか判らなくなってしまいました。連れも判らないといい、道に出ようと一生懸命に歩きました。下を見おろせば建物があるのが見えてそこまですぐに降りられるように思ったのですが、歩いても歩いても建物との距離はちじまりませ…
こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。 明治十九年というのは、軽井沢が避暑地化に向かった年です。いままで明治十九年はA・C・ショーが軽井沢を初めて訪れたといわれてきましたが、そうではないことが判りました。この明治十九年はコレラが流行していた年で、群馬の温泉でもそれが猛威をふるい、それを恐れた多くの外国人は避暑をすることのできる軽井沢の峠町まで逃れてきました。峠町は外国人でたいへん混み合い、その様子をみた朝野新聞がそれを報道したのです。峠町は宿泊施設がなかったので神社や空家の農家などを借りたり、自らキャンプのできる道具を持ち込んで避暑生活を送りました。たくさんの外国人がそこで涼をとっていたので新…
こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。 北軽井沢にある道の駅八ッ場ふるさと館に行ってきました。天気は雨に降られましたが、ダムの水もみどり色で美しく、まあまあのドライブでした。 たくさんの吾妻産の野菜がありました。なかでもトウモロコシは甘く、生でも食べることのできるものでした。 機会がありましたらお試しください。 最近のモロコシは生食OKのものがたくさんあります。糖度が高いです。それは茹でて召し上がるとどうも糖度が落ちてしまうように思います。 わたくしはもちろん生食です。 草津温泉も比較的に近いところにありますので楽しみが増えます。 これからわたくしたちは軽井沢千ヶ滝にある千ヶ滝温泉をいただきに…
こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。 今回は小生の著書『明治期、日本の避暑地:日光・箱根・軽井沢を拓いた外国人』について紹介します。 かつての書物は多くが日本人からの視点でのものでした。今回の著作は明治時代に日本を訪れた外国人の旅行記に眼をむけて書きました。外国人のみた日光などの避暑地の姿、明治時代の風景が見えてくると思います。軽井沢などの地域の人々はたいへんな苦労をして時代を切り開いてきたことが理解できます。特に軽井沢ではA・C・ショー司祭はいままで明治十八年、十九年に訪れたとされていましたが、新聞記事により明治十五年ということが判りました。どうぞご一読いただければ幸甚です。書店から入手で…
こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。 軽井沢を発見した外国人についてはA・C・ショー司祭といわれてきたが、それもさらに調査をすれば慶応四年(明治元年)に軽井沢からハリー・パークス卿に」手紙を書いたW・ウィリス(医師)ということが判ってくる。 ウィリスは慶応四年十月に碓氷峠を通り高田に行っている。これは東北戦争で傷ついた日本の兵士を治療するためで、ハリー・パークス卿に招請されていた。その途次、W・ウィリスは軽井沢から手紙で第一報を送っているが、これこそが保養地軽井沢の発見として認識できるものではないかと考える。 今日は江戸平野から長い上りになり、それから今度はかなり下って、ここ(軽井沢)に着い…
こんにちは。高見沢隆の詩的ライフです。 いままでA・C・ショー司祭は軽井沢に明治十七年か十八年に訪れたとされてきました。それは過去に出版された書籍からそのように理解されてきましたが、それが今回、新たな資料により軽井沢にA・C・ショーが訪れたのは明治十五年ということが判りました。北信毎日新聞昭和十一年八月七日の記事からで新聞記事だからそこには客観的な思考が流れています。 貴重な文献を発見 シヨー氏軽井沢発見は明治十五年 千葉県成田から古文書が現れる(千葉電話) 異国情緒をもつた高原の避暑地軽井沢は在日英人のチャプレン(宣教師)エ、シ、シヨウが発見したーといふ貴重な書簡が今回霊場成田町郊外の農家か…
高見沢隆(たかみざわたかし)、詩人です。1957年10月26日 軽井沢町生まれ。桜美林大学文学部英語英米文学科を卒業し、1980年軽井沢町に奉職する。 大学では詩誌「水晶」同人。その後、詩誌「オルフェ」ー(山室静氏等の雑誌「近代文学」の同人が多く活躍していた)ーを経て、1996年、詩誌「Thyrse」を渋沢孝輔氏等と創刊。2001年、「歴程」同人になる。現在では「歴程」同人とともに個人の雑誌「旅人」を発行中。日本文藝家協会、日本現代詩人会会員。 1982年、軽井沢で開かれた「歴程夏の詩の詩のセミナー」に参加し、詩人の渋沢孝輔氏、入沢康夫氏、新道凉子氏、辻井僑氏、評論家の粟津則雄氏、哲学者の矢内…
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