紀尾井坂(きおいざか)は、東京都千代田区にある坂で、江戸時代における正式名称は「清水坂」とよばれていました。当時周辺一帯には大名屋敷が多くあり、清水坂の南側に紀州徳川家(現在は清水谷公園やグランドプリンスホテル赤坂)、北側には尾張徳川家(現在は上智大学)、彦根藩井伊家(現在はホテルニューオータニ)の屋敷がありました。江戸の住人たちは、三家があった坂道であるところから、紀伊徳川家の「紀」、尾張徳川家...
大河ドラマのゆかりの地の紹介、歴旅の記録をアップしています。今年のテーマは、「光る君へ」「どうする家康」京都の寺社巡り
京都市伏見区の醍醐寺(だいごじ)は、平安時代初期の貞観16年(874年)、空海の孫弟子にあたる聖宝(理源大師)が創建した真言宗醍醐派の総本山となる寺院です。後に醍醐天皇が醍醐寺を自らの祈願寺とし、薬師堂、釈迦堂(金堂)、五重塔が建立されるなど発展を遂げました。釈迦堂(金堂)五重塔弁天堂『源氏物語』第23帖「初音」では、末摘花の兄が醍醐寺の阿闍梨という設定になっています。末摘花(すえつむはな)「源氏物語」の登場...
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では、勝林院の境内を散策してみましょう。法華堂は、後鳥羽天皇ご冥福のため、梨本主尊快親王母公修明門院御計らいにて水無瀬の御所を以て仁冶元年 (1240)に建立されました。享保21年(1736)類焼し、現在の堂宇は、安永年度に再興されたものです。 法華堂は、後鳥羽天皇ご冥福のため、梨本主尊快親王母公修明門院御計らいにて水無瀬の御所を以て仁冶元年 (1240)に建立されました。享保21年(1736)類焼し、現在の堂宇は、安永年度に...
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大原の勝林院は、延暦寺の僧・円仁によって創建され、荒廃した後、寂源法師により、長和2年(1013)に復興された天台声明発祥の寺です。寂源は、俗名は源 時叙(みなもとの ときのぶ)といい、左大臣・源雅信の八男、母は藤原穆子。藤原道長の妻・倫子の兄(弟)です。永観2年(984年)、当時侍従であった時叙は、同僚の侍従・藤原斉信、蔵人・藤原宣孝(のちの紫式部の夫)とともに賀茂臨時祭に怠けて出席しなかったことから花山天皇の...
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それでは、随心院の中を見学していきます。中にも小野小町ゆかりの物が随所に飾られています。小野小町像小野小町うた屏風これは、はねず踊りの人形ですね。随心院では、3月にはねず踊りが行われています。はねず(薄紅色の古名)の梅が咲き誇る中、はねず色の衣装と菅笠の小町と深草少将に扮した少女達の童唄と踊りが披露されるそうです。これも一度見てみたい京の行事です。茶釜能の間には、華やかな障壁画とカラフルな和傘が飾...
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小町庭苑入口随心院の本堂裏には、小町文塚があります。小町文塚 深草少将や多くの貴公子から小野小町に寄せられた千束の文を埋めたと伝わります。小町文塚 百夜通いで有名な深草少将をはじめ当時の貴公子たちから小野小町に寄せられた恋文を埋めたところと伝えられています。 このように丁重に供養された理由として、当時は思いを伝えるために書かれた恋文は、思いの篭ったったものであり粗略な扱いをしては相手に恨まれたり祟...
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随心院(ずいしんいん)は、京都市山科区小野御霊町にある真言宗善通寺派の大本山の寺院。薬医門寛永年間(1624年 - 1631年)の建立。開山は小野流の開祖として知られる仁海(にんがい)僧正。随心院は、そもそもは仁海僧正が創建した牛皮山曼荼羅寺(ごひざんまんだらじ)の塔頭でした。仁海は神泉苑にて雨乞の祈祷を9回行い、そのたびに雨を降らせたとされ「雨僧正」の異名がありました。曼荼羅寺は仁海が一条天皇から小野氏邸宅...
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京都市山科区勧修寺にある勧修寺(かじゅうじ)は、真言宗山階派の大本山の寺院で、皇室と藤原氏にゆかりの深い寺院でもあります。門跡寺院であり、「山階門跡」とも称します。昌泰3年(900年)、醍醐天皇が、若くして死去した生母藤原胤子の追善のため、胤子の祖父にあたる宮道弥益(みやじいやます)の邸宅跡を寺に改めとされています。胤子の父は、紫式部の先祖にあたる藤原高藤(ふじわらのたかとお)、母は宮道弥益の娘・列子(...
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古典文学にも登場する仁和寺『紫式部日記』には、仁和寺の僧都・済信(さいじん)が、また、『枕草子』には、仁和寺の僧正・寛朝(かんちょう)が登場します。中門五重塔寛永21年(1644年)再建。御室桜と共に仁和寺のシンボル的存在となっています。桃山時代建築の国宝建造物。仁和寺の本尊である阿弥陀三尊を安置する御堂。堂内は四天王像や梵天像も安置され、壁面には浄土図などが極彩色で描かれています。経蔵寛永18年(1641年)か...
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御室仁和寺は、真言宗御室派大本山。宇多天皇が譲位後ここに住したので御室御所とも呼ばれ、その後、代々の別当は宇多天皇の子孫が務めていました。その後、三条天皇の皇子である性信入道親王が当寺の別当の上に新設された検校に任じられ、これ以降、門跡寺となって明治維新まで歴代法親王が住持となりました。寛弘7年(1010年)に藤原道長の妻である源倫子の御願によって、観音院潅頂堂が建立されましたが度々の火災で焼失。現在...
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京都文化博物館「近衞家 王朝のみやび 陽明文庫の名宝14―御堂関白記と源氏物語」
京都文化博物館で開催されている「近衞家 王朝のみやび 陽明文庫の名宝14 御堂関白記と源氏物語」を見学して来ました。今回の陽明文庫の名宝展では、国宝『御堂関白記』より、藤原道長による自筆本のみ4巻が紹介されています。また、鎌倉時代に書写された重要文化財『源氏物語』のほか、室町時代と江戸時代の写本が展示され、各時代の源氏物語の歴史を辿っています。この中でも、特に見たかったのは、道長の自筆です。(『御堂関...
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長和5年(1016年)正月下旬に三条天皇は譲位し、東宮・敦成親王が9歳で即位、後一条天皇が誕生しました。幼帝であったため、藤原道長が摂政となりましたが、翌年になると、摂政を嫡男の頼通に譲り、従一位太政大臣に。寛仁2 (1018) 道長の三女で叔母にあたる、九つ年上の威子(いし/たけこ)を後一条天皇の中宮とし、娘の彰子、妍子、威子の立后により一家3后を実現し、藤原氏摂関政治の最盛期を築きました。藤原実資は、『小右記』...
地域タグ:京都市
三条天皇は、第六七代の天皇。冷泉天皇の第二皇子。名は居貞(おきさだ)。母は太政大臣藤原兼家の女超子。986年(寛和2)7月、従弟の一条天皇即位に際し元服、立太子。1011年(寛弘8)危篤の一条天皇の譲位を受け、36歳で即位し、皇太子には中宮藤原彰子の子、敦成親王(後一条天皇)が立ちました。しかし、その頃は藤原道長が左大臣として権勢をふるった藤原氏の全盛時代で、有力な後見を欠く三条天皇は、在位5年の間、絶えず政権...
地域タグ:京都市
紫式部の父・藤原為時は、長和5年(1016年)4月29日に園城寺(三井寺)にて出家。式部の母の兄弟である康延(こうえん)、式部の異母弟・定暹(じょうせん)は、三井寺の僧侶でした。『紫式部日記』には、中宮彰子が出産の際、園城寺の心誉阿闍梨(しんよあじゃり)がもののけの調伏に当たったとあります。園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市にある、天台寺門宗の総本山で、山号は長等山(ながらさん)。三井寺という通称を持ちます...
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京都御苑の枇杷殿(びわどの)は、藤原仲平の屋敷跡です。左京一条にある枇杷第を伝領し、邸内に枇杷が植えられていたことから、枇杷殿、枇杷左大臣などと呼ばれていました。長和3年(1014年)三条天皇は眼病を患い、藤原道長は天皇の眼病を理由にしきりに譲位を迫りました。また、この年と翌年、内裏が相次いで焼失。眼病の悪化もあり、長和5年(1016年)三条天皇は、皇后娍子(せいし/すけこ)の子・敦明親王の立太子を条件に、道...
地域タグ:京都市
藤原顕信(あきのぶ)は、藤原道長と明子(左大臣源高明 の娘)の子で、道長の三男に当たります。11歳で兄と共に元服、寛弘2年(1005年)侍従に任官。寛弘3年(1006年)左兵衛佐を兼ね、寛弘6年(1009年)従四位下、寛弘7年(1010年)従四位上と昇進し、寛弘8年(1011年)10月に右馬頭に。同年12月に三条天皇から道長に対して、藤原通任の参議昇進で空席となっていた蔵人頭に顕信を補任させる意志を告げられましたが、顕信は「不足職之...
地域タグ:大津市
友人が比叡山延暦寺の横川に行って来たと画像を送ってくれました。横川は、延暦寺の最北端にあり、第三代座主・円仁(慈覚大師)によって開かれました。横川中堂本堂は、遣唐使船をモデルとした舞台造りの横川中堂です。延暦寺は火災で荒廃した後、10世紀に良源(元三大師)によって再興されました。元三大師と角大師(『天明改正 元三大師御鬮繪抄』1785年仙鶴堂発行より)根本如法塔 円仁が法華経を写経し納めた塔が始まりで、1925年...
地域タグ:大津市
比叡山延暦寺には、多くの貴族が参詣しました。目や耳の病気に苦しんでいたという三条天皇もその一人です。三条天皇が天皇の位を退いた後、延暦寺に参詣したことが藤原実資の『小右記』書かれており、比叡山へと続く、きらら坂を輿で半日かけてのぼり、延暦寺の根本中堂で病気の回復を祈願したといいます。4年前に訪ねた時の画像です。ケーブル延暦寺から延暦寺の参道を歩いていきます。歩くこと7分で、延暦寺に到着。比叡山の山内...
地域タグ:大津市
真珠庵の寺宝として、曽我蛇足や長谷川等伯の描いた襖絵がありますが、それらが修復に入ったのを機会に、約400年ぶりに襖絵が新調されました。新しい襖絵は、「釣りバカ日誌」でお馴染みの漫画家 北見けんいち氏、映画監督の山賀(やまが)博之氏、アートディレクターの上国料(かみこくりょう)勇氏、日本画家で僧侶の濱地(はまじ)創宗(そうしゅう)氏、美術家の山口和也氏、イラストレータの伊野孝行氏など、現代作家6名によって描か...
真珠庵の境内には紫式部の産湯として使用したと伝わる井戸が現存しており、紫式部ゆかりの地としても知られています。紫式部産湯の井戸紫式部の産湯に使われたと伝わる井戸。紫式部の母が、大徳寺塔頭の雲林院の観音菩薩に安産祈願に訪れたことから、真珠庵にある井戸水を産湯にしたのではないかといわれています。梵字が刻まれているそうです。この井戸は、現在も枯れることなく地下水が湧き出ているそうです。にほんブログ村 歴...
地域タグ:京都市
京都市北区紫野にある大徳寺の塔頭・真珠庵の特別公開に出かけて来ました。今回の特別公開では、本堂、現代作家が描く⽅丈襖絵書院 通僊院(つうせんいん)茶室 庭⽟軒(ていぎょくけん)⽅丈東庭「七五三の庭」、通僊院庭園『源⽒物語図屏⾵』が公開されています。真珠庵は、永享年間(1429年~1441年)に、大徳寺を復興した一休宗純を開祖として創建されました。応仁の乱により焼失し、延徳3年(1491年)に堺の豪商・尾和宗臨(...
地域タグ:京都市
光明寺は、元和5年(1619)に明石城主の小笠原忠真が神戸の福中城から移した寺院です。道を挟んですぐのところに同名の「光明寺」があるため、こちらを朝顔光明寺と呼んで区別しているそうです。本堂境内には、『源氏物語』の主人公・光源氏が月見を楽しみ、「秋風に 波やこすらむ 夜もすがら あかしの浦の 月のあさがほ」と詠んだという光源氏月見の池があります。光源氏月見の池しかし、この歌は『源氏物語』には登場しないの...
観音堂の前に、芝が扇形になっている扇の芝があります。ここは、源頼政の終焉の地とされています。治承4年(1180年)5月26日、源頼政は以仁王を奉じて平家打倒に立ち上がり、平知盛・重衡軍を宇治川で迎え撃ちます。宇治川を挟んでのこの戦は、「橋合戦」と呼ばれ、以仁王軍は、橋の底板を外して敵の侵入を防ぎ、矢で応戦していました。橋の上でも激戦が繰り広げられましたが、17歳の足利忠綱が宇治川の急流の宇治川に馬を乗り入れる...
地域タグ:宇治市
朱色に染まった紅葉を愛でながら、鐘楼の建つ小高い丘へと進んで行きます。ちょうど紅葉の中央に見えるのが鐘楼です。平等院の鐘は、姿の美しさから日本三名鐘に数えられています。こちらには、複製の梵鐘が懸けられており、実物は鳳翔館にあります。梵鐘鳳凰堂と同じ11世紀頃の制作と推定される。全面に天人、獅子、唐草文様などの繊細な浮き彫りを施した、他に例を見ない鐘である。「音の三井寺」、「銘の神護寺」、「姿、形の平...
地域タグ:宇治市
宇治の地は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていました。現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルともいわれる嵯峨源氏の左大臣・源融が営んだ別荘だったものが陽成天皇、宇多天皇に渡り、朱雀天皇の離宮「宇治院」となり、それが宇多天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政・藤原道長の別荘「宇治殿」となったもの。表門道長は万寿4年(1027)に亡くなったため、当...
地域タグ:宇治市
明石市鍛治屋町にある浄土宗の寺院・光明寺は、元和5年(1619)、明石城築城時に三木市から現在地に移築されました。山門通称「浜光明寺」と呼ばれています。本堂本堂は、明石市内の寺院で最大級の大きさなのだそう。観音堂鐘楼享保14年(1729)、藤原国次によってに作られた釣鐘は、明石市内最大級で市の指定文化財になっています。1885年(明治18年)8月9日、山陽道御巡幸中の明治天皇が宿泊した場所でもあり、 1976年(昭和51年)2...
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無量光寺も戒光院同様、『源氏物語』明石の巻に登場する明石入道が光源氏に与えた邸の「浜の館」のモデルとされています。また、明石西国第2番観霊場となっている浄土宗本派の寺で、文学にゆかりの深い寺としても知られています。山門の彫刻は、左甚五郎作といわれています。山門を入ると左手に源氏稲荷が祀られています。大正時代には、作家の倉田百三、武者小路実篤らが訪れているそうです。にほんブログ村 歴史ブログランキング...
地域タグ:明石市
無量光寺の山門前には、光源氏が自分の住む「浜の館」から明石の上の住む「岡辺の館」へ通う時に通ったとされる「蔦の細道」があります。何気ない細い道ですが、ロマンを感じますね。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記ランキング...
地域タグ:明石市
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紀尾井坂(きおいざか)は、東京都千代田区にある坂で、江戸時代における正式名称は「清水坂」とよばれていました。当時周辺一帯には大名屋敷が多くあり、清水坂の南側に紀州徳川家(現在は清水谷公園やグランドプリンスホテル赤坂)、北側には尾張徳川家(現在は上智大学)、彦根藩井伊家(現在はホテルニューオータニ)の屋敷がありました。江戸の住人たちは、三家があった坂道であるところから、紀伊徳川家の「紀」、尾張徳川家...
徳川治貞(とくがわはるさだ)は、紀伊和歌山藩主・徳川宗直(むねなお)の次男として誕生。松平頼邑(よりさと)の養子となり、宝暦3年、伊予西条藩主松平(紀伊)家5代、安永4年、和歌山藩主徳川家9代となりました。8代将軍・徳川吉宗の享保の改革にならって藩政改革を行ない、和歌山藩の財政再建に尽力。自ら綿服を着用、粗食を心掛け、冬には火鉢の数を制限するまでして、死去するまでに10万両の蓄えを築いたといいますこのことから「...
日本橋堀留町に鎮座する三光稲荷神社は、江戸三座の一つである中村座に出演していた歌舞伎役者・関三十郎が伏見より勧請したと言われ、娘さん、子供、芸妓の参拝で賑わったそうです。当社は落語「百川」にも登場します。百川(ももかわ)は古典落語の演目。6代目三遊亭圓生の十八番として知られる。田舎(いなか)から出てきた百兵衛は、葭町(よしちょう)の千束(ちづか)屋という桂庵(けいあん)(口入れ屋)からの紹介で日本橋浮世小...
江戸時代、日本橋室町の浮世小路に料亭「百川楼」がありました。(現在の福徳神社の社務所周辺)百川楼は明和ごろから明治元年にかけて営業をした料亭です。初めは卓袱(しっぽく)料理の店で、後に会席料理に転向。卓袱料理は、江戸時代に伝わった中国料理で、はじめ長崎に伝えられ、京都や大阪にも広がりましたが、江戸では流行が長続きしなかったそうです。安政元年(1854)、ペリー来日の際には、百川楼の料理人が横浜まで出向き、...
東京メトロ銀座線・半蔵門線の三越前駅より徒歩1分、中央区日本橋室町にある福徳神社(福徳稲荷)貞観年間(859年~876年)には既に鎮座していたとされています。日本橋室町二丁目付近は、昔は武蔵国豊島郡福徳村という農漁家の点在する片田舎で、その村名から「福徳稲荷」と呼ばれました。村人は神社の森を「稲荷の森」、里程標(石造一里塚)を「稲荷の一里塚」と呼び親しんでいましたが、明暦3年(1657)正月8日の大地震により、...
中央区日本橋大伝馬町「べらぼう」で、片岡愛之助さんが演じる鱗形屋孫兵衛は、江戸時代、通旅籠町と呼ばれたこの地に地本問屋を構えていました。浄瑠璃本、草双紙、吉原細見、宝船などでを手掛け、安永4年(1775年)に恋川春町『金々先生栄花夢』を刊行して黄表紙をヒットさせました。日本橋堀留町に鎮座する池州稲荷神社は、かつて鱗形屋を同じ通旅籠町にあったったといわれています。創建年代などは不祥ですが、池州屋敷の池沼...
人だけでなく、軍用犬・軍馬慰霊碑や「猫塚」「唐犬八之塚」「オットセイ供養塔」「犬猫供養塔」「小鳥供養塔」、邦楽器商組合の「犬猫供養塔」(三味線の革の供養)など、さまざまな動物の慰霊碑、供養碑、ペットの墓も多数。著名人の墓として、山東京伝、竹本義太夫、鼠小僧次郎吉などの墓があります。山東京伝の墓鼠小僧次郎吉の墓猫塚1793年(寛政5年)、老中・松平定信の命によって造立された「水子塚」は、水子供養の発祥とさ...
明暦大火の供養塔明暦の大火振袖(ふりそで)火事,丸山火事とも。1657年(明暦3年)江戸本郷丸山町から出火し,江戸城本丸をはじめ江戸市中を焼き尽くした火事。死者10万人以上といわれ,江戸城も西丸を残して焼失。幕府は復興に際し御三家をはじめとする大名屋敷の城外への移転,寺社の外辺部への移転などを進め,町屋も道幅を広げ,広小路や火除地を設定,家屋の規模を定めるなどの措置をとった。(コトバンクより)明暦三年(1657...
墨田区両国二丁目にある回向院は、振袖火事と呼ばれる明暦3年(1657)に起きた明暦の大火の焼死者10万8千人を幕命(当時の将軍は徳川家綱)によって葬った万人塚が始まりで、のちに安政大地震をはじめ、水死者や焼死者・刑死者など横死者の無縁仏も埋葬されました。明和5年(1768)以降には、境内で勧進相撲が興行され、これが今日の大相撲の起源となり、明治42年(1909)旧両国国技館が建てられました。回向院明暦三年(1657)、江戸史...
今夜の「べらぼう」で、ついに蔦重が日本橋に進出することに🙌今まで敵対してきた鶴屋もようやく蔦重の才覚を認め、通油町が吉原ものを歓迎するというお話でした。中央区日本橋大伝馬町に、蔦屋重三郎「耕書堂」跡の案内版があります。日本橋の通油町(とおりあぶらちょう)は、古くから重三郎と付き合いのあった版元の鱗形屋孫兵衛だけでなく、鶴屋喜右衛門、西村屋与八など錦絵創始の老舗版元が多数店を構える江戸の出版界の中心...
大伝馬本町本通りは、かつての日光・奥州街道です。江戸時代、五街道の起点・日本橋は交通の要所で、大伝馬町本通には、「越後屋」や「白木屋」などの店が軒を連ねていました。日本橋から延びる日光東照宮への参詣道「日光街道」も人や物が行き交い、日本橋の町は大変賑わいました。徳川家康公江戸開府に際し、御傳馬役支配であった馬込勘解由が名主としてこの地に住し以後大傳馬町と称された(碑文より)江戸名所図絵や広重の錦絵に...
神田駅から歩いて4~5分のところにある旧今川中学校のグラウンド前に「平賀源内居住跡」の案内板があります。平賀源内は、讃岐から上京してから転居を繰り返し、神田白壁町(現・鍛冶町)や神田大和町、神田橋本町などに住んでいたといいます。(千代田区観光協会リーフレットより)今年に入り、「べらぼう」が始まってから設置されたようです。平賀源内(享保13年(1728)~安永8年(1779))は、エレキテル(摩擦静電気発生装置) の...
合祀殿籠祖神社(猿田彦神、塩土老翁神)をはじめ、神田明神本殿に合祀されていた八幡神社(誉田別命)や富士神社(木花咲耶姫命)、天神社(菅原道真命、柿本人麻呂命)、大鳥神社(日本武尊)、天祖神社(天照大御神)、諏訪神社(建御名方神)を合祀。籠祖講関係石造物群千代田区指定有形文化財2005年(平成17年)4月1日指定籠祖(かごそ)神社は、塩土翁神と猿田彦大神祭神が祭神で、社伝によれば1798年(寛政10年)に神田神社...
神田明神は何度か参拝してますが、今まで見逃していたのが、浮世絵師 水野年方顕彰碑です。水野年方(みずのとしかた)日本画家。通称は粂次郎。初め月岡芳年に歌川派の錦絵,山田柳塘に陶画,柴田芳州に南画を学び,のち三島蕉窓,渡辺省亭に師事して人物画,草木画,風景画を得意とした。1887年頃から『やまと新聞』に挿絵を描き,また日本美術協会,日本美術院,日本画会に作品を発表するかたわら,評議員や審査員を務め,浮世絵...
鳳輦神輿奉安殿神田祭において、一の宮・大己貴命がお乗りになる一の宮鳳輦、二の宮・少彦名命がお乗りになる二の宮神輿、神田明神大神輿を奉安する。神田祭の時にこの場所で「鳳輦神輿遷座祭」を執り行う。(神田明神HPより)三の宮奉安庫 (鳳輦庫)三の宮・平将門命(たいらのまさかどのみこと)、平将門様のお乗りになる神輿が奉安されています。三宿稲荷神社・金刀比羅神社三宿稲荷神社 江戸時代より神田三河町の氏神として奉斎...
続いて神田明神の摂末社の紹介です。魚河岸水神社 日本橋魚河岸の守護神として創建され、元和年間に神田明神境内に遷座しました。魚河岸水神社 御祭神 弥都波能売命祭礼日 五月五日 日本橋魚河岸水神社は、徳川家の武運長久と併せて大漁安全を祈願する為、魚河岸の先人により武蔵国豊嶋郡柴崎村神田神社境内(今の千代田区大手町)に鎮座された。 元和年間(1615~)神田神社と共に此の地に遷り、大市場交易神と称されその後、水...
神田明神の境内を紹介します。御社殿昭和9年に竣功。権現造。当時としては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート・総朱漆塗の社殿。本殿・幣殿・拝殿さらに神饌所・宝庫が重なり合うように造られて昭和初期の神社建築では新しい形式をもつ。現の社殿の前は、天明2年に江戸幕府によって造営された。木造で権現造・総朱漆塗。江戸時代後期の神社建築を代表する社殿であったと言われている。社殿内には江戸幕府造営を象徴する徳川将軍家の葵...
神田明神(かんだみょうじん)は、千代田区外神田二丁目にある神社で正式名称は神田神社大鳥居をくぐるとすぐに随神門があります。随神門昭和天皇御即位50年の記念事業として昭和50年に新たに再建されました。総檜・入母屋造。二層建て・屋根は銅板瓦棒葺。外回りには四神(朱雀・白虎・青龍・玄武)、内側には「因幡の白兎」など、だいこく様の神話をモチーフにした彫刻が、二層目には、平将門に由来する金箔をほどこした「繋馬」の彫刻が...
滝沢馬琴住居跡から神田明神に向かう際、急な階段が立ちはだかりました。この石段は「明神男坂」と呼ばれ、『江戸名所図会』にも登場します。『江戸名所図会』にも登場するこの坂は、江戸時代には「明神石坂」、「石坂」、「明神東阪」などと呼ばれていました。高台で見晴らしが良かったため、風光明媚な場所として錦絵にも描かれています。幕府が1825年から1828年(文政8年~11年)の間に町名主に提出させた、町の情報をまとめた...
外神田三丁目の芳林公園の前に滝沢馬琴住居跡の案内板があります。滝沢馬琴は、『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』、『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』などを著わした江戸時代の戯作者(げさくしゃ)です。旗本松平信成の家臣の子として生まれた馬琴は、元飯田町中坂下(現在の九段北一丁目)の下駄屋会田家の養子となりますが、家業を人に任せ、戯作者としての道を歩み始めます。1824年(文政7年)には、外...
白峯神宮の境内にある伴緒社は、源為義とその息子である源為朝を祀ってあります。伴緒社(ともおのしゃ)源為義源義親の子。義父である義忠が暗殺され、その犯人とされ逃亡した義綱を14歳で討ち取った。その後藤原摂関家に仕える。保元の乱では、子の頼賢、為朝らと供に上皇側につき、天皇方の義朝、平清盛らと戦ったが、義朝らに敗れた。東国へ落ち延びようとしたが、義朝のもとに降伏、比叡山に出家した。義朝は、為義と弟たちの...
もとは、蹴鞠・和歌の宗家である飛鳥井家の邸宅地で、手水舎の飛鳥井(あすかい)は、清少納言の『枕草子』の中で、9つの代表的な井戸のひとつに挙げられています。飛鳥井白峯神宮の飛鳥井は平安の昔から有名です。平安時代の歌謡曲の催馬楽「飛鳥井」には「飛鳥井に宿りはすべし、や、おけ、蔭もよし、御水(ミモヒ)も寒し、御秣(ミマクサ)もよし」と謡われていて、オアシスのように人々が憩っていたと想像されます。(や、おけ...
京都市上京区今出川通にある白峯神社のご祭神は、崇徳天皇と淳仁天皇。崇徳天皇は、鳥羽天皇の皇子としてご生誕、保安4年に第75代の天皇に即位されましたが、保元の乱により、讃岐に配流され、長寛2年に45歳で崩御、白峰山陵に奉葬されました。讃岐に配流されてからは、髪も剃らず、爪も切らずに日本国の大魔縁になって朝廷を呪い続けたと伝えられています。崩御されてから大火事や不穏な事件が頻繁に起きたため、崇徳天皇の祟...
法金剛院は、京都市右京区花園にある律宗の寺院で、開基は待賢門院とされています。ここは平安時代初期の右大臣・清原夏野の山荘を平安末期に待賢門院(鳥羽上皇の中宮、後白河天皇の母)が再興した律宗のお寺です。清原夏野(きよはら の なつの)は、平安時代初期の皇族・公卿。舎人親王の孫である内膳正・小倉王の五男。官位は従二位・右大臣、贈正二位。清原夏野『前賢故実』延暦23年(804年)同じ内舎人の官職にあった親族の...
下京区夕顔町に夕顔之墳があります。ここは、『源氏物語』第4帖「夕顔」に登場する夕顔の屋敷があった場所とされ、住宅地の一角に立つ石碑には「源語傳説 五條邊 夕顔之墳」と刻まれています。昭和4年に京都史蹟会によって建てられたそうです。夕顔は物語の中の架空の人物ではありますが、当地の地名も夕顔町となっています。「源氏夕顔巻」(月岡芳年『月百姿』)光源氏が夕顔の屋敷に泊まると、深夜に夢に嫉妬したもののけ(六条...
北野天満宮の帰りに大将軍八神社(だいしょうぐんはちじんじゃ)を参拝しました。大将軍八神社は、桓武天皇が、王城鎮護のために星神大将軍を勧請したといわれる社で、方違え(方除け厄除けの神)として、建築・移動・転宅・婚姻・旅行・交通等あらゆる人間生活に於いて方位の厄災から守護する神として信仰されました。方違えとは、陰陽道に基づいて平安時代以降に行われていた風習のひとつで、外出や造作、宮中の政、戦の開始などの...
元三大師堂本尊は元三大師(良源)。他に毘沙門天像、薬師如来像、不動明王像などを安置。毘沙門天は京都七福神の一つ。鐘楼手水社廬山寺(ろざんじ)(廬山天台講寺[ろざんてんだいこうじ])沿革天慶年中、元三大師良源によって草創される。良源は康保3年(966)55歳で第18世天台座主となり、内供奉に補せられて以降、比叡山から宮中に参内するにあたり、現船岡山の麓、現蘆山寺通北に輿願金剛院を建立し、寛和元年(985)正月3...
京都市上京区北之辺町の廬山寺は、紫式部の邸宅跡として知られています。山門南門(薬医門)遡れば、紫式部の曽祖父である藤原兼輔(堤中納言)が建てた邸宅があり、藤原為時に譲り、紫式部はこの邸で生まれ育ち、『源氏物語』を執筆したとされています。廬山寺(ろざんじ)現在の廬山寺は豊臣秀吉の時代にこの地に移されたもので、ただしくは廬山天台講寺という。もとは天慶元年(938)に慈恵大師良源(じけいだいし りょうげん)...
藤原宣孝 は、正暦元年(990)、御嶽詣を行い、その年筑前守となりました。紫式部との結婚は998年(長徳4)の末か長保元年(999)のはじめといわれいます。紫式部の父の為時と為輔はいとこであり、宣孝と式部はまたいとこの関係にありました。998年には、石清水臨時祭、賀茂臨時祭の舞人を奉仕、同年山城守を兼任。11月末には豊前国宇佐神宮の奉幣使に任ぜられ、翌年帰京。この年4月平野臨時祭の勅使となり、7月相撲召合にも武官として...
合格門をくぐり、階段を上がっていくと、安倍晴明をお祀りする晴明堂に行き着きます。 晴明堂は、平安時代の陰陽師・安倍晴明をお祀りしています。 当山は安倍一族の寺として古来より安倍晴明信仰の聖地の一つとして数えられています。平成十六年(2004)、安倍晴明千回忌を迎えるにあたり二百年振りに晴明堂が再建されました。 正面にある「如意宝珠」は、いかなる願望も意のままに成就し、また悪を払い、災難を防ぐ功徳がある...
石仏石仏群は、江戸時代、境内地に四国八十八所・西国三十三所の本尊仏として祀られていた石仏を一同に安置したものです。その前には弘法大師像と御砂踏み石がお祀りされており、「御砂踏み石」の中には四国八十八所の御砂が奉納されています。(案内板より)白山堂 白山堂は、室町時代に建立されました。流造屋根柿葺(こけらぶき)で美しい曲線の唐破風をもった社殿です。 国の重要文化財にも指定されています。 御祭神は全国の白...
続いて、十一面観音をお参りしました。十一面観音 十一面観音は、苦しんでいる人をすぐに見つけるため、頭上に十一のお顔があり常に全方向を見守っています。 奈良時代から多く信仰され、延命、病気治癒などを願って各地でお祀りされるようになりました。 古来より当山に伝えられる十一面観音は昭和五十七年(1982)に、この場所に勧請し建立されました。また十一面観音の周りの側壁には四千五百体の奉納仏がお祀りされています...
安倍文殊院の稲荷社は、安倍晴明出生の地として、晴明の母とされる白狐・信太森葛葉稲荷が祀られています。江戸時代までは、境内の西古墳の頂上に稲荷社があったそうですが、現在は晴明が祀られている金閣浮御堂が見える場所に移されています。五穀豊穣・金運財運・商売繁盛・家運隆昌等の御利益が厚いことで信仰されています。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴...
続いて金閣浮御堂へ。金閣浮御堂金閣浮御堂・霊宝館は開運弁財天(大和七福神)、安倍仲麻呂、安倍晴明の御尊像、安倍晴明の御尊軸、方位災難除けの九曜星など、陰陽道に関する宝物をお祀りしている御堂で内陣参拝できます。堂内の壁面には、秘仏の十二天御尊軸(四方(東・西・南・北)と、四隅(東北・東南・西北・西南)の八方、天と地、日と月、すべての方角を司る守護神)がお祀りされています。この御堂は「七まいり」という魔...
奈良県桜井市阿部にある安倍文殊院は西暦645年に創建された寺院で、京都・天橋立の切戸文殊、山形の亀岡文殊と共に日本三文殊のひとつです。表山門大化の改新の時に左大臣として登用された安倍倉梯麻呂が大化元年(645年)に孝徳天皇の勅願もあって安倍氏の氏寺として安倍山崇敬寺(安倍寺)を建立したのが始まりである。創建当時の寺地は現在の文殊院の西南300メートルほどのところにあったが、平安時代末期に多武峰の妙楽寺(現、...
大津市歴史博物館では、令和6年(2024年)1月から、特集展示「源氏物語と大津」を約1年間にわたって開催されています。私は3月末に見て来ました。エントランスロビーの無料エリアでは、石山寺本堂の「源氏之間」が再現されており、中に入って写真撮影ができるフォトスポットになっています。「源氏之間」再現コーナーこの横には、紫式部になりきれるフォトスポットもあります。デジタル絵巻54帖各巻のあらすじや関係図が楽しめます。...
越前市を流れる河濯川(かわそがわ)にかかる7つの橋(河濯橋/城ヶ堀橋/鈴虫橋/岩永橋/千代鶴橋/平成橋/蛭子橋)に、「紫式部日記絵巻」「源氏物語絵巻」の一場面が描かれたレリーフが飾られています。平成橋『紫式部日記絵巻』「御産養の夜、中宮(彰子)の前に対座し静かに御簾をあげる紫式部」「御産養の盛儀を覗き見て感激する夜居の僧」蛭子橋『源氏物語絵巻』「柏木(一)女三宮を見舞う朱雀院」「柏木(二)病に伏す柏...
越前市を流れる河濯川(かわそがわ)にかかる7つの橋(河濯橋/城ヶ堀橋/鈴虫橋/岩永橋/千代鶴橋/平成橋/蛭子橋)に、「紫式部日記絵巻」「源氏物語絵巻」の一場面が描かれたレリーフが飾られています。千代鶴橋『紫式部日記絵巻』「新造の竜頭鷁首の舟を下見する道長」この 国安橋の向こうには、千代鶴神社があります。昭和7年(1932年)に建てられた神社で、越前打ち刃物の祖「千代鶴国安」をお祀りしています。千代鶴国安は良...
越前市を流れる河濯川(かわそがわ)にかかる7つの橋(河濯橋/城ヶ堀橋/鈴虫橋/岩永橋/千代鶴橋/平成橋/蛭子橋)に、「紫式部日記絵巻」「源氏物語絵巻」の一場面が描かれたレリーフが飾られています。鈴虫橋『紫式部日記絵巻』道長から賀の歌を求められる紫式部御五十日の祝いの宵、若宮に餅を供する道長岩永橋『紫式部日記絵巻』「御五十日祝いに若宮を抱く中宮と祝膳を供する女房」「渡殿にある紫式部の局に立ち寄る斉信と...
越前市を流れる河濯川(かわそがわ)にかかる紫きぶ七橋(河濯橋/城ヶ堀橋/鈴虫橋/岩永橋/千代鶴橋/平成橋/蛭子橋)に、「紫式部日記絵巻」「源氏物語絵巻」の一場面が描かれたレリーフが飾られています。河濯橋『紫式部日記絵巻』「渡殿の紫式部の局の戸をたたく藤原道長」「中宮・彰子に新楽府を進講する紫式部」城ヶ堀橋『紫式部日記絵巻』「女房たちと語りながら歳末の夜を過ごす紫式部」「風の涼しい夕暮れ、琴を弾いて憂...