あかしろやにしきにましてくろやこいこんとよばれるこのみおしても金魚
人生も時間も世の中も。線か円かで大違い。線、それを引けば前後上下左右順番ができ、前の人は追い越せない。円、前も後もよくわからず、上下左右もおぼつかない。追い越す追い越されるの概念は無である。一円相。線か円か。
みざるきかざるいわざるよりもかまわざるこそまさるなりけれ。よるさるこんさる。
叶福助さんは実在の人物だという。出所知らずながら、福を扶けるも福に助けられるも叶うさま、福不可量まことにもってである。あやかれや。叶に休祥。
新たま於いて新にんにくのよろしい季節。大蒜と玉葱で滋養強壮の神なんちゃって。旬の神様。
風の又三郎とスナフキンはちょっと似ている。どちらも風来坊で妖精っぽい。又三郎とスナフキン。
わし、つよいなぜならよわいからわしこわくないなぜならしらんからわしかしこいなぜならこれからやからせやからわしたのしい2020/12/18なぜなら。
一口に芸者のために男が堕落するとよくいわれますけれども、芸者のために堕落するような人間は芸者がなくてもとどのつまりは堕落するので、あるいはそれ以上の毒を流し罪を創るかもしれません。現代の紳士淑女の人々に、芸者への攻撃を立派にできる資格のある人がいくたりあるでしょうか。それが問題です。ー石井美代酒が人間を堕落させるというような人がいるようだがわかっちゃいない。もともと堕落するような人間が酒を呑んだだけじゃあないか。というようなことを言ったのは確か立川の談志師匠。とどのつまりとはそういうことだ。とどのつまり。
黒岩涙香さんは、土佐のいっごっそうだ。予は客を愛する。長居しない客を大いに愛する。なかでも来ることのない客をもっとも愛する。涙香さん。
貝原益軒先生は牡丹が大変好きであった。花の咲くのを楽しみに丹精込め育てたそれらは、開花時期になると庭一面咲き乱れたそうである。ある日の先生留守中の事、書生二人が庭で相撲を取ろうということになった。最初は気を付けていたがつい夢中になってしまい、先生の牡丹をほとんど踏みにじってしまう。先生が帰ってくると二人はどんなに怒られても仕方がないとあやまりにあやまった。が、先生は「あ、そうか」といったきりである。もしや聞こえなかったのかと、もっと大きな声で牡丹を踏みにじってしまったともう一度おおいにあやまったが、やはり「あ、そうか」というばかり。困惑した二人は、「先生どうぞ私たちを叱ってください」というと、先生はこう云ったそうだ。「私が牡丹を育てるのは花を楽しむために育てるのじゃ。ここで私が腹を立てたら、腹を立てるため...益軒先生。
こんな話がある。幕末の漢詩人として知られる燕石は、博打が三度の飯より好きと言う人で、よく門人から諫められていたという。「先生、詩人の名に傷がつきます。やめてください」すると燕石笑ってこう応じたという。「詩人の博打うちだと云うからいけない。博打うちが詩をつくっているといえば美しいじゃないか」また、豊臣秀吉があるとき侍臣らに、「わしを猿に似ているという者たちがあるがほんとに似ておるか」と問うた。だれも答えるのを憚っていると、曾呂利新左衛門が進み出て、「いやいや殿下は猿に似ているのではありません。猿が殿下に似ておるのです」。とまた、こんな話を思い出した。新地のホステスが、「私、実は女子大生なんです」するとある男がこう言って返した。「女子大生のホステスかあ。てっきりホステスが女子大に通ってるのかと思っていた」主(...主従表裏のたぐい。
獅子舞をやるから何かの役をやれという。仕方ないので笛を吹く役も太鼓を叩く役も辞退して後足の役を願い出た。いやあこれが一番気楽でええわい。茶を売る翁と称された人の洒脱な精神が喜ばしい。売茶翁
芭蕉さんと仲が良かったといわれる木因さん。裏散りつ表を散りつ紅葉かなと一句詠んだ。木因さんと良寛さん(うらをみせおもてをみせてちるもみじ)。山中鹿之助はん(憂きことのなおこの上に積もれかし限りある身の力試さん)と熊沢蕃山はん(憂きことのなおこの上に積もれかし限りある身の心試さん)。寺山修司氏と井伏鱒二氏(さよならだけが人生だ)。といったリレーションシップに時代や歴史を超えた何かをおもいます。谷木因さん。
青銅好く著す布嚢の中去って人間の小臥龍に謁す久しぶりにあなたとお酒を酌み交わそうと思っていたのに、お金のある時に限って逢わないなんて。こりゃまた残念。良寛さん、これまたしかり。一酔
私がジャン・コクトーさんを好きな理由は、おしゃれだからである。私の好きなおしゃれはファッショナブルということではなく、スタイリッシュな様子にそれを感じます。曰く「詩人はモノを描写するのではない。詩人はあるべき姿を解きほぐし、また違った風に結びなおすのだ」。絵を描かせたら、描きすぎを嫌い心に浮かぶものを線に乗せてしかもスピード感あふれてその世界を纏め上げてしまうのです。ファッショナブルな人はたくさんいるけれどスタイリッシュな人はなかなかいない。コクトーさんのスタイル。
ながむればわがこころさえはてもなくゆくえもしらぬ雲の影かな鐘も鳴るなり法隆寺
水はどんな体になろうと文句は言わない。凍ろうが沸騰しようがおかまいなし。どこに行こうと頓着しないし、昼夜をおかずとどまることもない。岩に当たって激しても淵に嵌って沈しても無心だ。「随流識得性無喜無憂」流れに随いて性を識ること得れば、喜も無く憂も無し。水の流れをみて暮らそ。なにをくよくよ。
良寛さんの前に座った貞心尼は、才媛もさることながら、清楚で匂いたつような美貌の人であった。道をひたすら歩いてきた良寛さんへの、仏からの贈り物のようにも思える。良寛さん70歳、貞心尼はん29歳のひとせである。師の君にはじめてこうやっておめにかかり、嬉しくていまだに覚めない夢のような気持ちです。夢ならばやがて覚めるでしょうか。と、貞心尼はん。夢のようなはかないこの世の中で、もううとうとと眠って夢を見、またその夢を語ったり夢を見たりするのも、その成り行きに任せましょう。と、良寛さん。梅の香りの桜花が柳に咲いた。そのような精神的な恋愛に、憧れにも似た感情が湧きます。良寛さんと貞心尼はん。
薮内竹心紹智、通称竹心という人、茶人ながら邪道に落ちた茶道を嘆き門を閉ざして俗との交わりを絶つ。その際「わしゃ真向勝負を挑むのに背面(そむく)と見る人これ笑止なり」と自賛した。評伝によると、その性、滑脱にして洒落、また剛毅にして権門に屈せず、時流に卓越し、常に茶道の正風を求めた人であったという。真正面からその面構えを見てみたい歴史上の人物の一人である。真向いの翁。
干し芋がムシロに並べられている。干し柿の粉が陽光に輝いている。生垣の影の用土の上の満ち足りた膨らみに光が筋をつける。かまどで燃えるパチパチの木が、くゆらせたなびかせる層雲。まるまった暖かい相貌を崩して、ばっさまが静かに笑う。木綿の縞が幾重にも重なって深い情愛の風景を纏っている。そんな日和の風景が確かにあった。お袋にも、親父にも、じいさんにもない。ばあさんの日和が。近づくと、手に取ると、するりと零れるような日和。なんでだろうか。ばっさまは笑う。猪兎亀という芽出度い名前そのままで。浮きことも。浮かざることも。過ぎざれば。ただ夢の如くある。猪兎亀ばあちゃん。
ゴマカサレルコト。シハイサレルコト。ナメラレルコト。ケッテイケンヲウバワレルコト。ゴカイサレルコト。蟷螂も斧を構える。惜しむ。からではない。守るために立ち上がり構える。生き物は、そっと触られると構える。不安定さに構える。圧力をかけ、ギュッと抱きしめると素直になる、という。恐る恐るは伝播するのだ。構えさせたくなければ。シハイショウトシナイコト。ゴマカソウトシナイコト。アマクミナイコト。ソンチョウスルコト。攻撃する為に構えるのではない。ドキドキだから構えるのだ。構えさすほうも構えるほうも。本意ではないことは多い。人が嫌がること。
すがるおひともおりゃせぬみなら。いだくるおもいはこのきのふうせん。ふうのきままにいくてをたくし。ねんげみしょうのかぜのふね。ながれるかわにせもあるほどに。あたしゃこのきでうかびもあがらせ。ういたはれたはこのよのえにし。どうせのるふねかぜのふね。ああ風の船。無山人2007-02-24 なんとなく落書。ふうせん。
おお酒よ乾いていた心は潤い弱っていた心は蘇り散らばっていた心は次第にひとつに纏まってくるただちに心の栄養となる。酒ありて。
降るか降らぬかわからぬ雨ハ持つか持たぬかわからぬ笠ヨそんなこととは露知らズ差すか差さぬかこぬかの雨ハさすもささぬも抜き差しならズなせばなるよの日も差した。狐の嫁入り
鍋に入れる具をそれぞれが持ち寄り、暗闇の中で各々が鍋に入れ、その食感において雑多で多様な発見と面白きを得るのが闇鍋だ。なかにはゲテモノや草鞋が入っていたりするがそれも一興と笑い飛ばすのがルールである。人生は闇鍋なりそれにつけても空の青さよ。闇と青。
昔、景気の良かったものは懐古を主張し今、景気の良いものは現状維持を主張し未だ、景気の良くないものは革新を主張する。使節団と魯迅。
だましはきかず泣き言もきかず叱咤もきかずきくのはおのれの内なる声のみ。鮎は瀬に枯木に烏、人は情けのうちに住む。
芸術的手段や創造的衝動に我々が駆られるのはそこに自己という客観者の存在を認めたいからではないか。主観的なものを客観的な方法を用いて弁証することは人生の処方箋をつくることに役立たせる。という意味において。城窓から山間を望んで。
男子の本懐とはなんぞや女子の本懐でも構わん諸子におけるいだきしほんぶんのところを述べよ。潔(いさぎよ)さ。
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あかしろやにしきにましてくろやこいこんとよばれるこのみおしても金魚
作者不詳の日本最古の漫画ともいわれる鳥獣戯画。下手くそがまねて描いてもほんのりゆるされるゆるさ。懐深い、とはこういうことを言うのかと思ったりします。鳥獣戯画
私は酒が好きであり水もまた好きである。昨日までは酒が水よりも好きであった。今日は酒が好きな程度に於いて水も好きである。明日は水が酒よりも好きになるかもしれない。ちんぽこもおそそも湧いてあふれる湯ー山頭火全句集より山頭火
怒り声は誰に一番よく聞こえるんだ。自分を傷つけたくないのなら、ほえるのはやめとけ。やめとけ。
言い得るも我言い得ざるも我肝を作れ人を作れ腹をくくる。
古いものに目新しさはない。ただ、新しいものに年代物という箔はつかない。熟成かどうかの問題。
袋をもっている。入れたいと思えるものに出会えばなんでも入れられる袋は、持っている。布袋さんはおもう。わしがこれに何か入れたら、もう布袋としての存在理由はなくなる。もっているから持っていない。布袋という冥加。
腕の逞しさや頭の力これらでどれほどの心の静けさを得られる私利私欲を離れ礼節と道義これらこそ人生の安静を得られるんじゃないかい蝦蟇河豚相撲図
生きることは老いて皺を刻むことと同じことで想うことは想うこととしての皺をつくる想うことを想うことはできないが想ってことで出来た皺については想うことができるー中原中也皺。
その腹に何が不足ぞ鳴く蛙蝦蟇
ほんとうは一つ目小僧なんですけどね。豆腐が好きでいつも買いに行くのです。あと茗荷と雑魚と葱も一緒に。何処に行くんですか?と聞かれるとある日は「足の向くまま」と答えます。又次の日に聞かれると「風の吹くまま」と答えます。又次の日「愛の向くまま、風の吹くままですか?」と聞かれるとこう答えます。「豆腐を買いに」。豆腐小僧
僕が初めて兄貴に贈り物をしたのが新築祝い、マーク・ロスコのリソグラフでした。オレンジとグレーの。オマージュ
羨君有酒能便酔羨君無銭能不憂うらやむきみがさけありてよくすなわちようことをうらやむきみがせんなくしてよくうれいざることを「これはまずもっての美酒である。」「味わって貰いたい。」「何という名前の酒?」「メイコン、迷へる魂、迷魂。」「どうして君はそのような銘酒を手に入れたの?」「私はメイコンと称ばれる良酒を服用して、適度に酔うて来ました。」「次には何を味わって飲むの?」「メイテイ・・・」2020-02-12 酔唄抄。良酒は誘う大海原へ
天狗は人の心を読むという。ある木こりが奥山で天狗と遭遇した。「こりゃ怖い」と思うと、天狗は怖がっていることを知って余計に脅す。「これはまずいあっちに逃げよう」とすると、天狗は心を読んであっちこっちと先回りする。あっちこっちに逃げ惑う間にふと、木こりも意図せず持っていた斧がカズラを切りそれが天狗にぶち当たった。心を読めず思いもよらない仕返しに天狗はびっくらこいて、木こりを恐れ逃げ去った。念慮萌とかいてキザシ、誠や心の大切さ、おのれの余計ななにかに萌(きざ)されてはいけない。念慮萌
心に我慢あるときは愛嬌を失う我慢なきときは愛嬌そなわる心に欲なきときは義をおもう欲あるときは義をおもわず心を飾るときは偽りをおもう飾りなきときは偽りなし心に傲りあるときは人をうらむ傲りなきときは人を敬う心に私あるときは人を疑う私なきときは疑になし心に誤りあるときは人を怒る誤りなきときは恐るることなし心に邪見あるときは人を損なう直なるときは疑わず心に怒りあるときは言葉はげし怒りなきときは言葉やわらかなり心に貪りあるときには人に諂う貪りなきときは諂いなし心に愁いなきときは悔やみなし愁いあるときは悔やみ多し心に自慢あるときは人の善を知らず自慢なきときは人の善を知る心に迷いあるときは人を咎める迷いなきときは咎めることなし心ここにあらざれば視れども見えず聴けども聞こえずよくよく心するべし。どれかは嵌る、修養禅話。
時間はあっても金がないその境遇もまた一段の風流といわねばならぬ。あたりまえのことはあたりまえではないという処にいかぬかぎり知れるようなものではない。あるものを費やしてないものを贖う。
六識(眼耳鼻舌身意)には、それぞれ相手があるものです。眼には色、耳には声、鼻には臭、舌には味、身には触、意には法(ああはならぬ、こうはならぬという類)、これを六塵という。目は視るが役、耳は聴くが役、しかも視れども何の色と知らず唯視るのみ、聴けども何の音と知らず唯聴くのみ、これを分別するものは意識でございます。しかれども、得て悪いほうへ傾き易い意識なれば、俺が俺がが主になって、身贔屓身勝手に使われますと、分別も正しく働かぬのみかかえって固有の明徳を覆い隠して、さまざまの悪しきこと思いつくようになりまする。untitled
みのたけにあわせて捨てて拾うて生きる。わたしはやどかりになりたい。
刺激への反応は瞬時に起きるのではない。その合間に私たちはどう対応するかを選択でき、対応の仕方には自身の成長と自由が投影される。-ヴィクトール・フランクル無題
人生も時間も世の中も。線か円かで大違い。線、それを引けば前後上下左右順番ができ、前の人は追い越せない。円、前も後もよくわからず、上下左右もおぼつかない。追い越す追い越されるの概念は無である。一円相。線か円か。
「時が自らについて考えている、それが光だ」。そう書いたのは詩人オクタビオ・パスである。自省する時間こそが光となって出現する。深く示唆的な霊感である。時間は見えない。刻々と時を刻む経過的時間を可視化するためにつくられた装置が時計である。時計の時間は流れすぎてゆく。しかし、私たちが意識する時間とは生の営みのなかでただ直線的に経過するものだけではない。淡い朝の光が強烈な昼の太陽光線となり、やがて黄昏の光となって暮れてゆく。光の微細な変容の中で時間が生起し、時間が自らについて思索しているかのように様々な濃淡と色彩を持った光が明滅する。ー今福龍太「原風景への誘い」より時と光
少年読者諸君に一言する。日本の政治は立憲政治である、立憲政治というのは憲法によって政治の運用は人民の手をもって行なうのである。人民はそのために自分の信ずる人を代議士に選挙する、県においては県会議員、市においては市会議員、町村においては町村会議員。これらの代議員が国政、県政、市政、町政を決議するので、その主義を共にする者は集まって一団となる、それを政党という。政党は国家の利益を増進するための機関である、しかるに甲の政党と乙の政党とはその主義を異にするために仲が悪い、仲が悪くとも国家のためなら争闘も止むを得ざるところであるが、なかには国家の利益よりも政党の利益ばかりを主とする者がある。人民に税金を課して自分達の政党の運動費とする者もある。人間に悪人と善人とあるごとく、政党にも悪党と善党とある、そうして善党はき...いつの世も
(カフクハアザナエルナワノゴトシ)フランツ・カフカは真実の道についての考察でこんな風に述べている。「真実の道は一本の縄。別に高く張られているわけではなく、地上からほんの少しの高さに張られている一本の縄を超えてゆくのだ。それは人々がその上を歩いていくためよりも、人々がそれに躓くためにつくられているように思われる」。縄