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今日は来年度早々にアップを予定している記事の取材に 大久保学園通り商店街のほぼ中央に位置する市民の憩いの場、 秋山好古の肖像も展示してある「お休み処」で実施。 インタビューする方は街の活性化
ごきげんよう、まんきんたんです。 松山でまだ歩いたことのない町を訪ねるシリーズ、今回は松山市河中町です。 この町も車で通ったことは何度もありますね。 3…
関東日帰り-さいたま編(14) 総武本線 津田沼駅 ~何かと節目となる習志野市の代表駅~
船橋駅から総武線各停に乗車してふた駅、津田沼駅に到着です。4番線の到着。ここで下車します。 津田沼駅は千葉県習志野市津田沼にあるJR東日本の運行上の節目となる駅。習志野市の代表駅ですが、駅は実際には習志野市と船橋市に跨っているそうです。習志野といえば個人的には・・・昔あったPC工場にたま~に出張していたことがありました。そして、陸軍の騎兵学校があった地として知られていると思います。日本陸軍の騎兵という...
秋山貞(山口貞) 1827年(文政10年)、松山藩士山口正貞の二女として生まれる。 25歳の時に、貞は、 「親のいいつけだったらどこへでも行きますし、若い時の苦労はどんな苦労でも構いませんが、どうか老後だけは安楽に暮らしたいと思っています。
結婚生活の35年間、秋山好古はその半分以上家を留守にするが、家政の整理など、軍人の妻として秋山家を守った多美。 秋山多美 秋山夫妻 旧旗本佐久間正辰の長女。 秋山好古が陸軍士官学校を出て下級将校の頃、麹町土手三番町の佐久間正節家の本屋敷の離
1905年(明治38年)6月19日、小説「坂の上の雲」の主人公である秋山兄弟の母・貞が、千葉県習志野の秋山好古邸で永眠しました。(享年79歳) 秋山貞 この時、秋山兄弟は日露戦争に出征していましたが、弟の秋山真之は日本海海戦の後で佐世保に帰
秋山好古は戦時でも軍刀を用いず、平時佩用する模造刀身の指揮刀を携行しました。 そして、何よりも自決用のピストルをいつも首にぶら下げていました。 好古の本営は、廟であった。かれはテーブルの上にピストルと水筒をのせている。ピストルのひもが長く、
昭和11年に秋山好古大将伝記刊行会より発行された伝記『秋山好古』より、秋山好古の経歴をまとめました。 秋山好古の経歴 1859年(安政6年) 1月7日 伊予松山藩士・秋山久敬の三男に生まれる 1866年(慶応2年) 藩校・明教
昭和11年に秋山好古大将伝記刊行会より発行された『秋山好古』より、秋山好古の肖像写真を掲載しています。なお、画像はPhotoshopのフィルター機能でカラー化しています。 秋山好古ポートレート(肖像写真) 大阪師範学校時代 少尉の時 大尉の
旧松山藩士久松家の当主定謨がフランスのサンシールの陸軍士官学校に留学するにあたり、秋山好古は輔導役を頼まれます。 しかし、ドイツ式の軍事学を学んでいた好古にとっ […]
小説『坂の上の雲』の主役の一人である秋山兄弟の兄・秋山好古の略歴と、その人物像について7人の談話をご紹介いたします。 1. 秋山好古とは 秋山好古 1859年(安政6年)、伊予松山藩士秋山平五郎の家に生まれる。 幼名は信三郎。「日本騎兵の父
1. 秋山好古の給料 下は秋山好古の給料の変遷です。 風呂焚きの仕事(天保銭一枚/日)小学校助教(7円/月)本教員(9円/月)師範学校教員(30円/月)東京予備員(8円/月)*陸軍士官学校に入るため旧藩主久松公の輔導役としてフランスへ私費留
1. 男にとって必要なのは 男にとって必要なのは若いころに何をしようかということであり、老いては何をしたかということである 好古はめずらしいほどの美男であった。しかし、美男であることを人に言われるほどきらいなことはなかった。目的主義の好古に