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坂の上の雲ノロジー https://sakakumo.com

「坂の上の雲ノロジー」とは、坂の上の雲と年表のクロノロジー(Chronology)を合わせた造語です。弊サイトでは、小説『坂の上の雲』(司馬遼太郎著)の物語である幕末と明治の出来事を、時系列にてまとめています。

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2022/04/18

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  • 秋山真之と広瀬武夫 ~天の道、剣の道~

    広瀬武夫は海軍兵学校の15期生、秋山真之は17期生になり、広瀬は秋山の先輩となります。 一方、この二人の誕生日はというと、秋山真之は1868年(慶應4年)の3月20日生まれで、広瀬武夫は同年の5月27日生まれとなるため、秋山真之の方が2ヶ月

  • 秋山真之と正岡子規の友情(後編)〜不生不滅明けて鴉の三羽かな〜

    (前編のあらすじ) 松山で誕生した正岡子規と秋山真之は外の世界への憧れを強めるようになり、上京を決意。憧れの東京で東京大学予備門に入学した二人は、立身出世を夢見て学問に励みます。そして、同じ夢を目指す同郷の仲間たちと青春を謳歌していました。

  • 秋山真之と正岡子規の友情(前編)

    志半ばにして亡くなった友の死に、秋山真之と正岡子規は、友の為に必ず立身出世し、功を成し遂げようと誓います。様々な困難を励ましあい支えあい克服していった、二人の熱き友情の物語をご紹介いたします。 本文の構成は、2008年(平成20年)4月4日

  • 連合艦隊旗艦「三笠」

    戦艦「三笠」とは 日清戦争後、海軍は仮想敵国ロシアとの対決に備えて六・六艦隊の整備に着手します。六・六艦隊とは、戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻を基幹とするもので、この拡張計画は1896年(明治29年)度から1905年(明治38年)度までの10年計

  • 「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」の波の高さってどのくらいなの?またその意味は?

    日本海海戦における秋山真之の名文「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」。 では、この「浪高シ」とは実際にはどのくらいの高さの波なのでしょうか。 1. 「浪高し」の波の高さはどのくらい? やがて飯田少佐が真之のところへやってきて、草稿をさし出した。「

  • 日清戦争開戦と高陞号事件

    1894年(明治27年)7月25日、日清戦争開戦時に東郷平八郎艦長の指揮する巡洋艦浪速がイギリス商船高陞号を撃沈する事件が起こりました。 1. 高陞号事件 高陞号撃沈の図 午前十時、済遠をさがしていた浪速は、べつの目標を発見した。大型汽船で

  • 東郷平八郎の経歴(官歴)

    東郷平八郎の経歴 1847年(弘化4年) 12月22日 鹿児島城下、加治屋町の邸に誕生 1870年(明治3年) 12月11日 「龍驤」艦見習士官 1871年(明治4年) 3月12日 英国へ海軍修業として留学 1878年(明治11年) 1月3

  • 東郷平八郎元帥の国葬

    1934年(昭和9年)5月30日午前7時、元帥・海軍大将・正二位・大勲位・功一級・侯爵東郷平八郎が逝去します。その生前の偉大な功績に対し、従一位に昇位、そして国葬を賜ります。 東郷平八郎、逝去 晩年の東郷平八郎(昭和8年11月頃撮影) *東

  • NHKスペシャルドラマ坂の上の雲の主なロケ地

    1. スペシャルドラマ坂の上の雲、第13回「日本海海戦」のロケ現場 撮影日:2010年5月27日 戦艦三笠ロケセット全容 セット 撮影中 水柱を上げる為の噴射機 三笠のファンネル(煙突)が被弾したシーン 戦艦三笠正面 被弾した煙突 本番前

  • NHKスペシャルドラマ坂の上の雲の登場人物とキャスト(配役)

    1. 秋山家の人々 秋山真之(淳五郎) 【海兵17期】本ドラマの主人公。海軍の道に進み、後に連合艦隊参謀を務める 配役小林廉(幼少期)→ 本木雅弘 秋山好古(信三郎) 【旧陸士3期】秋山真之の兄。日本騎兵を戦略機動集団に育て「騎兵の父」と呼

  • スペシャルドラマ坂の上の雲あらすじ

    第1部(2009年放送) 第1回「少年の国」 松山城 260年続いた幕藩体制を倒して、日本には「明治」近代国家が誕生した。その国は、帝国主義まっただ中の西欧列強という「大人」たちに囲まれた「少年の国」であった。 四国・伊予松山に三人の男がい

  • NHKスペシャルドラマ坂の上の雲の概要

    原作となる小説『坂の上の雲』は、1968年(昭和43年)~1972年(昭和47年)の4年3ヶ月に渡って「産経新聞」に連載され好評を博した作品で、日露戦争の時代を生きた明治の青春群像を、司馬遼太郎が10年の歳月をかけ渾身の力で書き上げた壮大な

  • 乃木希典の人となりが表れる逸話6選

    1. 軍服で押し通す 乃木希典は新婚の初夜、花嫁の静子を放ったらかしにして酒を飲みに出かけほど、若い頃はかなり荒っぽい遊びをしていましたが、1888年(明治21年)、2年間のドイツ留学をを終えて帰ってくると、ガラリと変わって、衣食住にはまる

  • 乃木希典の名言・語録

    武士道は言葉ではない かってある人が乃木に「武士道」とは如何なるものでありましょうかと尋ねたところ、乃木は言下に、 武士道は言葉ではない と答えた。 そして自分は軍人であるから、政治など関係すべきでないと議員選挙にはいつも棄権した。 他人か

  • 軍神・乃木希典、賛否分かれるその人物評

    乃木希典(のぎまれすけ)とは 乃木希典 1849年(嘉永2年)11月11日、江戸の長府藩邸に生れる。 1865年(慶応元年)、報国隊に参加し幕府軍と戦う。 1869年(明治2年)、伏見御親兵兵営に入営、翌年脱藩騒動鎮圧のため帰藩する。 西南

  • 坂の上の雲の登場人物相関図

    登場人物相関図 主人公 秋山好古 日本騎兵を戦略機動集団に育て「騎兵の父」と呼ばれた 正岡子規 帝国大学を中退後、新聞「日本」に入社。近代文学の発展に貢献する 秋山真之 日露戦争で連合艦隊司令長官東郷平八郎の参謀として活躍 海軍 山本権兵衛

  • 上杉謙信の「車懸りの陣」と秋山真之の「七段構えの戦法」

    川中島に深い霧が出ると聞いた甲軍の軍師山本勘助は全軍を二手に分け、12,000の別働隊が、上杉謙信(越軍)の立てこもる妻女山に奇襲をかけ、信玄率いる8000の本隊は八幡原の麓に待ち構え、追い落とされた敵を別働隊とで挟み討ちにするという「啄木

  • おとぎ話「桃太郎」の真意〜秋山家の場合

    1890年(明治23年)、秋山真之は海軍兵学校を卒業、少尉候補生となり、練習艦「比叡」に乗り込んで遠洋航海に出ることになりました。そこで、父・秋山平五郎は真之に、昔話の「桃太郎」の話をして、はじめて外国にゆく息子を激励したといいます。 秋山

  • エリート好きの山本権兵衛

    1. 広瀬武夫、友人財部彪(たからべたけし)の結婚を反対する 広瀬武夫 広瀬武夫と財部彪は海軍兵学校の同期(15期)でもあり、互に認める友人でした。 その財部彪が山本権兵衛海相の娘を娶る事になりました。 広瀬はその報に接して驚き、 これはい

  • 山本権兵衛の人となりが表れる逸話4選

    1. 父・五百助の厳しい訓育 山本権兵衛の父五百助盛珉は書画を能くして歌道に通じ、武芸でも特に槍術などは藩の中でも指折りの達人であった。そして、藩の右筆となって出仕、長い間藩主の書道指南を兼ね勤めた人である。 その父の躾はなかなか厳しかった

  • 日本海軍の父、山本権兵衛の人物評

    1. 山本権兵衛とは 山本権兵衛 山本権兵衛(ごんのひょうえ)は、1852年(嘉永5年)10月15日、鹿児島の加治屋町に生まれる。加治屋町といえば、西郷隆盛、大久保利通、大山巌、東郷平八郎などの出生地である。家柄は恒武平氏の出で、父五百助盛

  • 広瀬武夫の名言・語録

    広瀬少佐の筆蹟(八代六郎大佐に宛てた告別の書簡) 広瀬少佐の筆蹟 指揮福井丸再赴旅順口閉塞 七生報国 七たび生まれて国に報ぜん 一死心堅 一死 心堅し 再期成功 再び成功を期し 含笑上船 笑みを含みて船に上る武夫天佑を確信し

  • 児玉源太郎の名言・語録

    1. 墓が立派になっていい 日露戦争開戦前の1898年(明治31年)に児玉源太郎は台湾総督に任命されます。1900年(明治33年)には台湾総督のまま陸軍大臣を兼任。そして1903年(明治36年)には内務大臣も兼任します。しかしこれだけの重任

  • 児玉源太郎の人となりが表れる逸話7選

    1. 児玉源太郎の水浴び 児玉大将産湯之井戸 児玉源太郎は幼年7歳の時から水浴びを始めます。以来、日露戦争の始まるまでの50年間は毎日欠かさず水浴びを続けたといいます。井戸に往き、頭からザブッと浴び、寒中といえども決して欠かすことはなかった

  • 稀世の英雄・児玉源太郎の人物評

    川上操六、桂太郎とともに「明治陸軍の三傑」と呼ばれる児玉源太郎の人物像及び人物評をご紹介いたします。 1. 児玉源太郎とは 児玉源太郎 1852年(嘉永5年)2月25日、周防国徳山藩士の子として生れる。父代わりの義兄が藩内旧主派に暗殺され一

  • 広瀬武夫の人となりが表れる逸話4選

    1. 広瀬武夫の大食漢 広瀬武夫が17、8歳で、まだ海軍士官でなかった頃の話です。広瀬は鰻丼なら5杯、お鮨なら10人前を平気で食べる大食漢であったそうです。 ある日、広瀬武夫が東京本所区花町のお祖母さん(継母のお母さん)の家に遊びに行った時

  • 軍神・広瀬武夫の人物評

    1. 広瀬武夫とは 1868年(慶応4年)5月27日、豊後国竹田町(大分県竹田市)に生まれる。父は岡藩士で、幕末期に倒幕に加わり、明治維新後は裁判官として大阪・岐阜など各地に赴任。海軍少将広瀬勝比古は実兄。 1885年(明治18年)、兄・勝

  • 秋山兄弟の母、秋山貞(山口貞)

    秋山貞(山口貞) 1827年(文政10年)、松山藩士山口正貞の二女として生まれる。 25歳の時に、貞は、 「親のいいつけだったらどこへでも行きますし、若い時の苦労はどんな苦労でも構いませんが、どうか老後だけは安楽に暮らしたいと思っています。

  • 正岡子規の母、正岡八重

    正岡八重 1845年(弘化2年)、伊予松山藩の藩校「明教館」の教授で漢学者の大原観山の長女として生まれる。 33歳の時に、御馬廻加番であった正岡常尚の後妻に入った。 常尚の先妻は、長男を生むとすぐに亡くなり、その長男も天折していた。 正岡家

  • 秋山真之の妻、秋山季子

    日頃より「大抵の人は、妻子を持つと共に片足を棺おけに衝込みて半死し、進取の気象衰へ退歩を治む」(天剣漫録)と結婚を否定し続けていた秋山真之が、ついに年貢を納めた相手とは 秋山季子 愛知県豊田市出身の宮内省御用掛稲生真履(まふみ)の三女として

  • 秋山好古の妻、秋山多美

    結婚生活の35年間、秋山好古はその半分以上家を留守にするが、家政の整理など、軍人の妻として秋山家を守った多美。 秋山多美 秋山夫妻 旧旗本佐久間正辰の長女。 秋山好古が陸軍士官学校を出て下級将校の頃、麹町土手三番町の佐久間正節家の本屋敷の離

  • 正岡子規の妹、正岡律

    正岡律とは 1870年(明治3年)、正岡常尚、八重の長女として生まれる。兄は俳人・正岡子規。 幼少の頃、子規がいじめられると、逆に小石を両手にもち、いじめっ子を追いかけたと云う。 律は子規が学友と難しい話をする輪に入っていこうとしなかったが

  • 小説「坂の上の雲」のあらすじ

    坂の上の雲 1 明治維新をとげ、近代国家の仲間入りをした日本は、息せき切って先進国に追いつこうとしていた。この時期を生きた四国松山出身の三人の男達―日露戦争においてコサック騎兵を破った秋山好古、日本海海戦の参謀秋山真之兄弟と文学の世界に巨大

  • 東郷平八郎の名言・語録

    1. やはり示現流 東郷平八郎が英国留学から帰朝した時に、友人が、英国海軍の模様いかにと尋ねた。 東郷はただ一言、「やはり示現流」と答えた。 この示現流とは、彼が青年時代に薩州で学びたる剣法一派の名であるが、この剣法は大なる長き棒を用いて、

  • 東郷平八郎の人となりが表れる逸話

    山本権兵衛は、東郷平八郎のことを「何事でも一つ目的を立てるとそれを達成するには極めて忠実であり、又意志も鞏固な男である」と評していますが、その性格は東郷平八郎の幼少時代の逸話からも見ることができます。 1. 東郷平八郎、馬に噛まれる 東郷家

  • Z旗:皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ

    毎年5月27日になると、横須賀の記念艦「三笠」をはじめ、日本海海戦に縁のある各処で、恒例の如くZ旗が掲陽されます。今回はこのZ旗についての謂われをご紹介いたします。 Z旗(ゼットキ)とは Z旗 Z旗(ゼットキ)とは、黄・青・赤・黒の四色で染

  • 聖将・東郷平八郎の人物評

    1. 東郷平八郎とは 東郷平八郎 1847年(弘化4年)12月22日、鹿児島藩士の子として生れる。 薩英戦争 初陣となった薩英戦争では、英艦のアームストロング砲の凄まじさを見せ付けられ、「海から来る敵は海にて防ぐべし」と悟る。 戊辰戦争 戊

  • 明治日本一の美人、末弘ヒロ子

    日本で最初に美人コンテストが行われたのは、明治半ばのことです。といっても、出場者を舞台の上に集め、審査を行うというようなものではなく、写真による審査が一般的でした。 1. 日本の美人コンテストの起源 1891年(明治24年)、東京浅草の凌雲

  • 秋山真之と慶應義塾野球部と褌論

    1907年(明治40年)10月31日、初めて布哇(ハワイ)のセントルイス野球団が来日し、早稲田、慶應野球部とそれぞれ対戦することになりました。 初の日米対抗野球試合 セントルイス野球団 大正12年発行『野球歴史写真帖』より しかし、早稲田は

  • 正岡子規、従軍記者となる

    1895年(明治28年)3月3日、正岡子規は日清戦争の従軍記者として東京を出発します。 従軍前に広島で記者仲間と写した写真、後列右が子規 子規の従軍が決定した。(中略)かれが東京を出発したのは、寒気が去った三月三日であった。その出発にあたっ

  • 秋山好古と二六年式拳銃

    秋山好古は戦時でも軍刀を用いず、平時佩用する模造刀身の指揮刀を携行しました。 そして、何よりも自決用のピストルをいつも首にぶら下げていました。 好古の本営は、廟であった。かれはテーブルの上にピストルと水筒をのせている。ピストルのひもが長く、

  • 「三笠艦橋の図」の真実

    有名な日本海海戦における東城鉦太郎作画の「三笠艦橋の図」です。 三笠艦橋の図 ただこの絵、ある点において史実通りに描けていません。 さてそれはどこでしょうか? 正解は、東郷平八郎(中央)の左後ろに構える秋山真之の恰好です。 小説『坂の上の雲

  • 正岡子規の墓誌銘

    1898年(明治31年)7月13日、正岡子規は「正岡常規又ノ名ハ処之助又ノ名ハ升又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭書屋主人又ノ名ハ竹の里人・・・」という墓誌銘を、河東銓に宛てて書き送ります。 正岡常規又ノ名ハ処之助又ノ名ハ升又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭書

  • 秋山兄弟の母・貞逝去の訃報に接し、秋山好古がとった行動は?

    1905年(明治38年)6月19日、小説「坂の上の雲」の主人公である秋山兄弟の母・貞が、千葉県習志野の秋山好古邸で永眠しました。(享年79歳) 秋山貞 この時、秋山兄弟は日露戦争に出征していましたが、弟の秋山真之は日本海海戦の後で佐世保に帰

  • 海外留学を命ぜられた秋山真之の覚悟

    1897年(明治30年)6月26日、明治海軍は日清戦争のため中断されていた留学制度を再開し、選抜した5人の海軍大尉を留学生として欧米諸国に派遣します。 この時選ばれたのが、イギリスに財部彪大尉、フランスに村上格一大尉、ドイツに林三子雄大尉、

  • 聯合艦隊解散之辞(連合艦隊解散の辞)の原文を現代語訳、英訳で

    1903年(明治36年)12月28日に、日本とロシアの開戦に備えて編成された連合艦隊は、1905年(明治38年)5月の日本海海戦に於いて華々しい勝利をあげ、戦いは終結。 同年12月20日、連合艦隊はその戦時編成を解き、東郷平八郎連合艦隊司令

  • サイ・ヤングと同い年!正岡子規が日本野球に残したその功績とは

    西暦1867年、後に「サイ・ヤング賞」で有名なアメリカプロ野球にその名を刻むサイ・ヤングが誕生しますが、その年日本にも、後に日本野球の普及に多大な貢献を残す正岡子規が誕生したのでした。 1. ベースボールに熱中する正岡子規 正岡子規は、東京

  • 正岡子規、34年余の短き生涯(経歴と出来事)

    正岡子規の経歴とその年の出来事 1867年(慶応3年) 9月17日 松山藩士正岡隼太常尚の長男として誕生 生誕の地松山市新玉町1丁目8、9番地、戦災後の街路改正で定かでなく、ほぼその跡に当る花園町筋に記念の標柱が立っている。 1869年(明

  • 秋山好古の経歴(官歴)

    昭和11年に秋山好古大将伝記刊行会より発行された伝記『秋山好古』より、秋山好古の経歴をまとめました。 秋山好古の経歴 1859年(安政6年) 1月7日 伊予松山藩士・秋山久敬の三男に生まれる 1866年(慶応2年)   藩校・明教

  • 秋山真之の経歴(官歴)

    大正7年に発行された『秋山眞之七七日忌念写真帖』及び昭和8年に秋山眞之会より発行された伝記『秋山眞之』より、秋山真之の経歴をまとめました。 秋山真之の経歴 1868年(慶応4年・明治元年) 3月20日 父・秋山久敬と母貞の五男として誕生 1

  • 正岡子規の肖像写真カラー化10選

    正岡子規の肖像写真です。なお、画像はPhotoshopのフィルター機能でカラー化しています。 正岡子規ポートレート(肖像写真) 明治7年の頃(写真下段の右から3番目が正岡子規) 明治18年頃母八重と写した記念写真 明治20年頃第一高等中学校

  • 秋山好古のポートレート(肖像写真)9選

    昭和11年に秋山好古大将伝記刊行会より発行された『秋山好古』より、秋山好古の肖像写真を掲載しています。なお、画像はPhotoshopのフィルター機能でカラー化しています。 秋山好古ポートレート(肖像写真) 大阪師範学校時代 少尉の時 大尉の

  • 秋山真之のポートレート(肖像写真)13選

    1918年(大正7年)に発行された『秋山眞之七七日忌念写真帖』より、秋山真之の肖像写真を掲載しています。なお、画像はPhotoshopのフィルター機能でカラー化しています。 秋山真之ポートレート(肖像写真) 両親並に12歳の時 少尉候補生の

  • 司馬遼太郎氏が10年の歳月をかけた歴史長編小説『坂の上の雲』

    「明治」という新しい時代が誕生してから100年後の1968年(昭和43年)4月22日(月)、「産経新聞」の夕刊に司馬遼太郎氏の連載小説がスタートします。それが、小説『坂の上の雲』です。 産経新聞(夕刊)に1968年(昭和43年)4月22日~

  • 魂を打込んだ正岡子規の俳句革新運動

    俳句の革新運動は正岡子規一人の運動ではなく、尾崎紅葉の硯友社においても、新しい句作が試みられた。ただ紅葉らにとって俳句は小説の余技でしかなく、俳句を遊戯とみなす伝統的思想から抜けきれないものがあった。 それに反して子規においては全く魂を打込

  • 秋山好古と騎兵

    旧松山藩士久松家の当主定謨がフランスのサンシールの陸軍士官学校に留学するにあたり、秋山好古は輔導役を頼まれます。 しかし、ドイツ式の軍事学を学んでいた好古にとっ […]

  • 秋山真之の軍学、海軍兵術4つの構え

    目次1. 戦略、戦術、戦務1-1. 戦略1-2. 戦術1-3. 戦務2. 天、地、人2-1. 天2-2. 地2-3. 人3. 正法と奇法3-1. 正法3-2. […]

  • 正岡子規の名言・語録

    正岡子規の名言・語録を、子規の作品集の中から抜粋しご紹介いたします。 1. 人間というのは蟹がこうらに似せて穴を掘るがように 人間というのは蟹がこうらに似せて穴を掘るがように、おのれの生れつき背負っている器量どおりの穴をふかぶかとほってゆく

  • 秋山好古の名言・語録

    1. 男にとって必要なのは 男にとって必要なのは若いころに何をしようかということであり、老いては何をしたかということである 好古はめずらしいほどの美男であった。しかし、美男であることを人に言われるほどきらいなことはなかった。目的主義の好古に

  • 秋山真之の名言・語録

    1. 試験は戦いと同じだ。戦いには戦術が要る 真之はあまり勉強している気配がないのに、いつも海軍兵学校では首席であった。 要は試験問題の「山かけの名人」であった。過去の5年間の問題集を集め、教官が必要な問題をくりかえすという「癖」をまず見抜

  • 正岡子規の逸話

    1. 子規のはかない恋 1894年(明治24年)の夏、正岡子規が木曽路を経て美濃伏見から舟で木曽川を下り、北方で下船、木曽川停車場から汽車に乗るつもりで駅前の茶店で休憩をします。この時の思い出を、1899年(明治32年7月)に子規が発表した

  • 秋山好古の逸話

    1. 秋山好古の給料 下は秋山好古の給料の変遷です。 風呂焚きの仕事(天保銭一枚/日)小学校助教(7円/月)本教員(9円/月)師範学校教員(30円/月)東京予備員(8円/月)*陸軍士官学校に入るため旧藩主久松公の輔導役としてフランスへ私費留

  • 秋山真之の逸話

    1. 秋山真之の豆好き 秋山真之の好物は煎り豆。考え事をしている時には決まってポケットの中の煎り豆を取り出してはボリボリとかじっていたといいます。 実のところ豆に含まれるビタミンB群には、イライラなど神経の不安定や集中力不足に効果があるとの

  • 「病牀六尺、これが我世界である」正岡子規

    小説『坂の上の雲』の主役の一人である正岡子規の略歴と、その人物像について5人の談話をご紹介いたします。 1. 正岡子規とは 正岡子規 1867年(慶応3年)、伊予松山藩士正岡隼太の長男として生まれる。幼名は升(のぼる)。 父隼太は早世するが

  • 「明治陸軍最後の名将」秋山好古

    小説『坂の上の雲』の主役の一人である秋山兄弟の兄・秋山好古の略歴と、その人物像について7人の談話をご紹介いたします。 1. 秋山好古とは 秋山好古 1859年(安政6年)、伊予松山藩士秋山平五郎の家に生まれる。 幼名は信三郎。「日本騎兵の父

  • 「智謀湧くが如し」秋山真之

    小説『坂の上の雲』の主役の一人である秋山兄弟の弟・秋山真之の略歴と、その人物像について11人の談話をご紹介いたします。 1. 秋山真之とは 秋山真之 1868年(明治元年)3月20日、父平五郎と母貞の五男として生まれる。幼名は淳五郎。 「日

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