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らしんばん航海日誌 ~探訪という名の歴史旅~ https://rashimban1.blog.fc2.com/

羅針盤ゼミナールの徒然ブログです。当塾の公式マスコットが歴史学の立場から解説を加え、訪問した神社・寺院・史跡などを紹介してまいります。塾の公式ブログですが塾の宣伝は少なめです。

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西住りほ
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2022/07/12

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  • 湯島聖堂(東京都文京区)を訪問しました

    湯島聖堂(→東京都文京区湯島)は、江戸時代前期の1632(寛永9)年に儒学者の林羅山(はやしらざん)が上野の私邸に建てた私塾・文庫・孔子廟(→儒教の祖・孔子を祀る廟)を、1690(元禄3)年に江戸幕府の5代将軍徳川綱吉(つなよし)が神田湯島に移築させ、「聖堂」と呼ぶように改めたものです。孔子廟とともに移転した林家の私塾は多くの門人を輩出し、1797(寛政9)年に幕府の直轄学問所となる昌平坂学問所の基礎となりました。この「昌平」と...

  • 陽運寺と於岩稲荷田宮神社(東京都新宿区)を訪問しました

    江戸時代後期に鶴屋南北が著した『東海道四谷怪談』の主人公お岩さん。自分を毒殺した夫を怨霊となって呪い殺すという江戸時代後期の1825(文政8)年に初演されたこの戯曲はとても有名ですが、夫に毒殺され怨霊になったお岩さんという女性は実在しません。モデルとなった徳川将軍家の御家人田宮又左衛門の娘・於岩(おいわ)さんという女性はいましたが、江戸時代初期の1636(寛永13)年に健気な一生を終えた女性であり、しかも、実際の...

  • 湯島天満宮(東京都文京区)を訪問しました

    湯島天満宮(→東京都文京区湯島)は湯島天神とも呼ばれ、社伝によると古墳時代前期の458(雄略天皇2)年1月に、勅命により天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)を祀る神社として創建されたと伝わります。雄略天皇といえば埼玉県稲荷山古墳(→埼玉県行田市)から「辛亥年(→471年)」「獲加多支鹵大王(→ワカタケル大王=雄略天皇)」と刻まれた鉄剣(→国宝)が出土したことで知られています。この発見により既に発見されていた熊本県江田船...

  • 浅草寺(東京都台東区)を訪問しました

    金龍山 浅草寺(きんりゅうざん せんそうじ)は東京都台東区浅草にある都内最古の天台宗寺院でしたが、戦後に天台宗から独立して聖観音宗の本山となりました。創建は寺伝によると飛鳥時代の628(推古天皇36)年で、本尊は絶対秘仏とされる聖観音菩薩です。それゆえ浅草寺は浅草観音とも呼ばれています。参道には隅田川で漁をしていた兄弟の網に仏像がかかったことが創建につながった逸話や、鎌倉時代に源頼朝が参詣したこと、江戸時代...

  • 宗英寺(神奈川県横浜市青葉区)を訪問しました

    一抽山 宗英寺(いっちゅうざん そうえいじ)は神奈川県横浜市青葉区鉄町にある釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)を本尊とする曹洞宗寺院です。江戸時代後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』によると、上鐵村の地頭であった加藤権右衛門景正が開基し、僧の仁嶺寅恕が開山したとあります。宗英寺の山号と寺号は開基した加藤景正の法名「大樹院一抽宗英」から採られたものと思われます。仁嶺寅恕は1617(元和3)年に没し、加藤景正は1630(寛永...

  • 金刀比羅神社鎮守堂(神奈川県横浜市青葉区)を訪問しました

    金刀比羅(ことひら)神社鎮守堂は、神奈川県横浜市鉄町にある一抽山(いっちゅうざん) 宗英寺(→神奈川県横浜市青葉区鉄町)の境内に祀られている神社です。正式には「宗英寺鎮守堂」というそうですが、地元では長らく「金刀比羅神社鎮守堂」と呼ばれています。神仏習合時代の名残なのか、祭神として仏教式の五神が祀られているのが特徴です。〖祭神〗・道了大権現・秋葉大権現・金毘羅大権現・不動明王・白山妙理大権現境内には「萬助...

  • 観福寺(神奈川県横浜市青葉区)を訪問しました

    宝剣山 観福寺は、神奈川県横浜市青葉区荏田町にある如意輪観音像を本尊とする真言宗豊山派の寺院です。創建年代は不詳ですが、一説には鎌倉時代初期の1225(嘉禄元)年に印誉という僧侶が開基し、その後衰退したものの江戸時代初期に法印朝寿が中興したと伝わります。江戸時代後期に編纂された『新編武蔵風土記稿」には星宿山 王禅寺(→神奈川県川崎市麻生区王禅寺)の末寺であったと記されています。ご住職の話では現在の本堂は...

  • 水天宮(東京都中央区)を訪問しました

    水天宮(→東京都中央区日本橋)は、江戸時代後期の1818(文政元)年に久留米(→福岡県久留米市)藩主有馬頼徳(よりのり)が、三田赤羽(→東京都港区)の久留米藩上屋敷に久留米水天宮を勧請したのが始まりです。1872(明治5)年に現在地に移りました。安産・水難除けの神として崇敬され、都市型の免震構造のコンクリートの箱の上に社殿が建つという首都東京ならではの神社です。祭神には平安時代末期の1185(寿永4)年3月24日の壇ノ浦合戦で入水...

  • 土屋惣蔵片手切(山梨県甲州市)を訪問しました

    1582(天正10)年3月11日午前10時頃、天目山 捿雲寺(→山梨県甲州市大和町木賊)方面を辻弥兵衛と地下人の一揆と織田方に寝返った甘利左衛門尉・大熊備前守・秋山摂津守らに塞がれて、田野村で進退窮まった勝頼公一行の前に、ついに織田軍の先方滝川一益・河尻秀隆の軍勢が鶴瀬から姿を現しました。田野合戦の戦場には、小宮山友晴らが陣城(→防御陣地)を構築した「城作り」が転訛した「四郎作(しろうづくり)古戦場」や、土屋昌恒(まさ...

  • 四郎作古戦場・鳥居畑古戦場(山梨県甲州市)を訪問しました

    「四郎作(しろうづくり)古戦場」と「鳥居畑古戦場」は、山梨県甲州市大和町田野にある武田勝頼公一族が自害する「時間かせぎ」のために勝頼公に従った忠臣たちが最後の抵抗を試みた古戦場跡です。1582(天正10)年3月11日午前10時頃、天目山 捿雲寺(→山梨県甲州市大和町木賊)方面を辻弥兵衛と地下人の一揆と織田方に寝返った甘利左衛門尉・大熊備前守・秋山摂津守らに塞がれて、田野村で進退窮まった勝頼公一行の前に、ついに織田軍...

  • 専修大学黒門(東京都千代田区)を訪問しました

    専修大学(→東京都千代田区神田神保町)は、1880(明治13)年に法律と経済を「専ら修める」ために東京府京橋区銀座(→現在の東京都中央区銀座)に開校した「私立 専修学校」を前身とする創立142周年の伝統を誇る私立大学です。1880(明治13)年の創立時に「経済科(→経済学部)」を日本で一番最初に設置した高等教育機関でもあります。創立には4人の創設者の他に、慶應義塾の創設者である福沢諭吉の尽力がありました。1885(明治18)年に東京府...

  • 駒飼宿(→山梨県甲州市)を訪問しました

    駒飼宿(→山梨県甲州市大和町)は、江戸時代に宿場として栄えましたが、戦国時代の1582(天正10)年3月4日夜明けとともに、武田勝頼公一行は柏尾大善寺(→山梨県甲州市勝沼町)を出発し、笹子峠の手前の駒飼宿の石見某(なにがし)のもとに到着しました。現在は国道20号線となっている大善寺から駒飼宿までの甲州街道沿いや田野古戦場には、後世の人によって創作された「武田不動尊」「日向の宮での軍旗掲揚」「日影の宮での軍旗降下」「鞍...

  • 帯坂(東京都千代田区)を訪問しました

    帯坂(おびざか)は東京都千代田九段南4丁目にある、東京都内に数ある坂道シリーズの一つです。平成時代中頃までは怪談『番町皿屋敷』の伝承地として東京都の公式案内板にも書かれていましたが、現在は案内板が刷新され明確にそれを否定していて面白いと思いますが、これも「創作」であるお岩さんを登場させているので再考が必要と思われます。そもそもの大前提として鶴屋南北の『東海道四谷怪談』も『皿屋敷』も、すべて江戸時代中...

  • 老馬鍛冶山不動尊(神奈川県横浜市都筑区)を訪問しました

    老馬鍛冶山不動尊(ろうばかじやまふどうそん)は、神奈川県横浜市都筑区中川にある旧大山街道沿いにある不動尊です。本堂には大日聖不動明王が祀られています。境内には稲荷社があり、神仏習合のなごりを残しています。本堂に続く石段の脇には「霊泉の滝」と呼ばれる滝つぼがあることから、江戸時代には老馬鍛冶山不動尊は「滝不動尊」とも呼ばれていたようです。とくに江戸時代中期の老中田沼意次(たぬまおきつぐ)政権下の1782(天...

  • 武田神社(山梨県甲府市)を訪問しました

    武田神社(→山梨県甲府市武古府中町)は、1919(大正8)年に武田信虎・武田信玄・武田勝頼公と甲斐武田氏3代の政庁兼居館であった躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)跡に建てられた武田信玄を祭神とする神社です。拝殿の奥に宝物殿があり、武田二十四将図、復元された孫子の旗(→風林火山の旗)、復元された楯無の鎧などが展示されていますが、その多くが江戸時代に作成されたものや復元されたものでした。「お屋形さまの散歩道」を散策する...

  • 稲荷大明神(神奈川県横浜市青葉区)を訪問しました

    稲荷大明神(→神奈川県横浜市青葉区すすき野)は、御嶽神社に隣接する神社です。稲荷大明神なので稲荷神が祭神だと思われますが、本殿や社務所はなく祠(ほこら)が2つあるだけです。稲荷神を象徴する狐の像もありません。鳥居は比較的新しいのですが、横浜市立嶮山(けんざん)小学校に通じる道路沿いには「天下泰平」「國土安全」「享和三年(→1803年)」と三猿(→見ざる・言わざる・聞かざる)が刻まれた江戸時代の庚申塔と地蔵尊が並んで...

  • 御嶽神社(神奈川県横浜市青葉区)を訪問しました

    御嶽神社(→神奈川県横浜市青葉区すすき野)は創建年代は不詳ながら江戸時代後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』には「御嶽社」として記載があり、江戸時代より黒須田村の鎮守社として崇敬を集めていました。現在もすすき野・もみの木台・荏子田・黒須田・あざみ野の人たちを中心に正月は初詣の参拝者で賑わっています。戊辰戦争が始まる1868(慶応4)年1月に社殿を再建したようですが老朽化のため、1975(昭和50)年11月に現在の社殿...

  • 大善寺(山梨県甲州市)を訪問しました

    柏尾山 大善寺(→山梨県甲州市勝沼町)は「ぶどう寺」としても有名な真言宗豊山派の寺院です。奈良時代の718(養老2)年に東大寺の大仏造立に貢献した行基が霊夢(→古代や中世の人が信じた夢のお告げ)により感得したという右手に葡萄(ぶどう)を持ち左手で結印した薬師如来と日光・月光菩薩の薬師三尊像を刻み安置したのが創建の由来とされています。奈良時代には聖武天皇から鎮護国家の勅号と大善寺の寺号をもらい、52堂3000坊を数える...

  • 菅田天神社(山梨県甲州市)を訪問しました

    菅田(かんだ)天神社は山梨県甲州市塩山にある神社で、創建は平安時代前期の842(承和9)年に、嵯峨天皇の勅命により甲斐国司の藤原伊太勢雄が創建したと伝わります。もともと素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀っていたようですが、平安時代中期の1004(寛弘元)年に都で猛威を振るった「怨霊」とされる菅原道真を祀ったため、これが天神社の由来となっています。鎌倉時代以降は甲斐国守護となった甲斐武田氏の保護を受け、戦国時代には武...

  • 雲峰寺(山梨県甲州市)を訪問しました

    裂石山 雲峰寺(さけいしざん うんぽうじ)は、山梨県甲州市塩山上萩原にある臨済宗妙心寺派の禅刹で、東大寺の大仏造立に貢献した行基が奈良時代中期の745(天平17)年に開基したと伝わります。行基は法相宗(ほっそうしゅう)の僧侶ですが室町時代以前の雲峰寺は天台宗寺院で、戦国時代に恵林寺の末寺となり臨済宗に改宗したようです。本尊は十一面観音像で、戦国時代には甲斐武田氏の祈願所の一つとされました。戦国大名は武運長久や...

  • 法泉寺(山梨県甲府市)を訪問しました

    金剛福聚山 法泉寺(→山梨県甲府市和田町)は臨済宗妙心寺派の禅刹で、鎌倉時代末期の元徳年間(1329年~1331年)に甲斐守護武田信武が開基し、月舟周勲が開山しました。鎌倉時代を通じて甲斐武田氏は鎌倉幕府の最高実力者である北条得宗家(→北条氏の家督)と親しい関係を築いており、鎌倉幕府滅亡後も北条一族や関係者を匿ったりしていました。それゆえ建武の新政では後醍醐天皇に冷遇され、1335(建武2)年7月に信濃で挙兵した北条時行(...

  • 中世の武家文書の様式について

    中世に新しく歴史の表舞台に登場してきた武家も、「下文(くだしぶみ)」や「下知状(げちじょう)」などの貴族たちが用いてきた官文書由来の文書を使用しましたが、その一方で、書状(しょじょう→手紙)に由来する「御教書(みきょうじょ)」などの書札様(しょさつよう)文書も公文書として用いました。ただ、用途には違いがあります。「御教書(みきょうじょ)」とは三位以上の公卿(→貴族のトップクラス)の意志をその家の家司(けいじ→家来)...

  • 大井窪八幡神社(山梨県山梨市)を訪問しました

    大井窪八幡神社(→山梨県山梨市)は、平安時代前期の859(貞観元)年に清和天皇の勅願により宇佐神宮(→大分県宇佐市)の八幡三神を勧請して創建されたと伝わります。当初は笛吹川の中島の大井俣にありましたが、後に現在地に移ったようです。本殿の祭神は下記の三神ですが、摂社の若宮八幡宮には仁徳天皇が、3つある末社にはそれぞれ武内宿禰(→武内神社の祭神)、藤大臣連保(→高良神社の祭神)、宗像三神(→宗像神社の祭神)がまつられてい...

  • 劔神社(神奈川県横浜市青葉区)を訪問しました

    劔(つるぎ)神社は神奈川県横浜市青葉区荏田町にある旧荏田村の総鎮守です。「劔」は「剣」の旧字体です。創建年代は不詳ながら江戸時代後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』荏田村の条(→ページ)には「劔社」と書かれていて、「村の中央榎木谷にあり、劔明神と号す。当所の惣鎮守なり」とありますので、江戸時代には村民の崇敬を集めた総鎮守として存在していたことが分かります。〖祭神〗・素戔嗚命(すさのおのみこと)当時の荏...

  • 恵林寺(山梨県甲州市)を訪問しました

    乾徳山 恵林寺(えりんじ)は、山梨県甲州市塩山にある釈迦如来像を本尊とする臨済宗妙心寺派の禅刹で、甲斐国の臨済宗の中心的な寺院です。境内には武田信玄の墓や柳沢吉保(よしやす→江戸幕府5代将軍徳川綱吉の頃の甲府藩主)の墓があります。恵林寺の創建は鎌倉時代末期の1330(元徳2)年で、北条高時や足利尊氏など鎌倉時代末期から南北朝時代前期の最高権力者の帰依を受けた夢窓疎石(むそうそせき)が開基しました。戦国時代になると...

  • 1868(明治元)年の信濃国の藩別石高と藩兵の考察

    大名とは?藩とは?江戸時代に、徳川将軍から1万石以上の領地を賜った(安堵された)武士を大名といい、大名の領地とその支配機構を藩といいます。俗に「徳川300藩」などと呼ばれますが、15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)が大政奉還(→政権を朝廷に返上)を行った1867(慶応3)年10月14日時点に存在した藩の総数は270藩です。また、その270藩も江戸幕府の創設期から幕末まで同じ大名家で存続していた藩はあまり多くありません。初代将軍徳川家...

  • 芍薬塚(山梨県笛吹市)を訪問しました

    芍薬塚(→山梨県笛吹市)は、武田勝頼公の次男(→周哲大童子)の墓と伝わる史跡です。江戸時代に編纂された『甲斐国志』人物部には勝頼公の次男について、「武性院殿齋理周哲大童子 渡辺嘉兵衛ト云(いう)者ニ歳ノ児(ちご)ヲ保護シテ鎮目村ニ匿(かくま)ル、翌未年三月七日夭(よう)スト云(いう)」と書かれています。戦国時代の1582(天正10)年1月27日に、武田方国衆の木曾義昌(よしまさ)が武田氏から離反して織田信長に臣従したことを皮...

  • 武田勝頼公夫人遺愛の松(山梨県笛吹市)を訪問しました

    ホテル石風(→山梨県笛吹市)には「武田勝頼夫人遺愛の松」と呼ばれる松が植えられています。長篠合戦以降、国力の回復に努めていた甲斐武田氏は北条氏との同盟強化を懇願し、北条氏もそれを受諾しました。数え年14歳の北条夫人(→北条氏康六女)は、1577(天正5)年1月22日に数え年32歳の武田勝頼公のもとに輿入れ(→結婚)しました。北条夫人は甲府の躑躅ヶ崎館(→武田氏の本拠)に入る前に武藤家に宿泊して饗応を受け、その御礼として彼女...

  • 甲斐善光寺(山梨県甲府市)を訪問しました

    甲斐善光寺(→山梨県甲府市善光寺)は、正式には「定額山(じょうがくざん) 浄智院 善光寺」という浄土宗寺院です。創建開始は戦国時代中期の1558(永禄元)年のことで、戦国大名の武田信玄が第3次川中島合戦の折に善光寺(→長野県長野市)の寺宝が越後の上杉謙信に略奪されたことを知り、次の合戦(→第4次川中島合戦)で善光寺が焼失して秘仏等が失われることを恐れ、家臣に命じて善光寺本尊の阿弥陀如来像や寺宝を武田氏の本拠の甲府に移...

  • 泣石(山梨県甲斐市)を訪問しました

    泣石(なきいし→山梨県甲斐市下今井)は、昨日ご紹介した回看塚(みかえりづか)の次に武田勝頼公夫人(→北条夫人)の足跡を残している史跡となります。真偽の程は定かではありませんが、戦国大名の武田勝頼公が、1582(天正10)年3月3日に新府城(→山梨県韮崎市中田町)に火を放ち、家族や家臣とともに郡内国衆小山田信茂の進言に従い小山田領内の岩殿城(→山梨県大月市)を目指して逃避行する際に、兵卒よりも女性のほうが多いこの一行は、夫...

  • 新しいホームぺージを仮アップしました

    コースや本部所在地の変更など、いろいろ不具合があったホームページのリニューアル作業を実施しております。まだ、修正箇所などがあるため仮アップ状態ですので、本アップではないのですが、ほぼ完成に近い状態となりましたので、古いホームページと差し替えて公開することにいたしました。各ページは差し替えがしやすいように全てPDFファイルにしております。お問合せフォームなども、ご利用いただけますので、お気軽にお問合せ...

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