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辞世の句(その14)戦国時代 伊達政宗・織田信孝・武田勝頼・北条夫人・蒲生氏郷
団塊世代の私も73歳を過ぎると、同期入社した人や自分より若い人の訃報にたびたび接するようになりました。そのためもあってか、最近は人生の最期である「死」を身近に感じるようになりました。「あと何度桜を見ることができるのだろうか」などと感傷に耽っ
甲斐善光寺(→山梨県甲府市善光寺)は、正式には「定額山(じょうがくざん) 浄智院 善光寺」という浄土宗寺院です。創建開始は戦国時代中期の1558(永禄元)年のことで、戦国大名の武田信玄が第3次川中島合戦の折に善光寺(→長野県長野市)の寺宝が越後の上杉謙信に略奪されたことを知り、次の合戦(→第4次川中島合戦)で善光寺が焼失して秘仏等が失われることを恐れ、家臣に命じて善光寺本尊の阿弥陀如来像や寺宝を武田氏の本拠の甲府に移...
泣石(なきいし→山梨県甲斐市下今井)は、昨日ご紹介した回看塚(みかえりづか)の次に武田勝頼公夫人(→北条夫人)の足跡を残している史跡となります。真偽の程は定かではありませんが、戦国大名の武田勝頼公が、1582(天正10)年3月3日に新府城(→山梨県韮崎市中田町)に火を放ち、家族や家臣とともに郡内国衆小山田信茂の進言に従い小山田領内の岩殿城(→山梨県大月市)を目指して逃避行する際に、兵卒よりも女性のほうが多いこの一行は、夫...
柏尾山 大善寺(→山梨県甲州市勝沼町)は「ぶどう寺」としても有名な真言宗豊山派の寺院です。奈良時代の718(養老2)年に東大寺の大仏造立に貢献した行基が霊夢(→古代や中世の人が信じた夢のお告げ)により感得したという右手に葡萄(ぶどう)を持ち左手で結印した薬師如来と日光・月光菩薩の薬師三尊像を刻み安置したのが創建の由来とされています。奈良時代には聖武天皇から鎮護国家の勅号と大善寺の寺号をもらい、52堂3000坊を数える...
「四郎作(しろうづくり)古戦場」と「鳥居畑古戦場」は、山梨県甲州市大和町田野にある武田勝頼公一族が自害する「時間かせぎ」のために勝頼公に従った忠臣たちが最後の抵抗を試みた古戦場跡です。1582(天正10)年3月11日午前10時頃、天目山 捿雲寺(→山梨県甲州市大和町木賊)方面を辻弥兵衛と地下人の一揆と織田方に寝返った甘利左衛門尉・大熊備前守・秋山摂津守らに塞がれて、田野村で進退窮まった勝頼公一行の前に、ついに織田軍...
駒飼宿(→山梨県甲州市大和町)は、江戸時代に宿場として栄えましたが、戦国時代の1582(天正10)年3月4日夜明けとともに、武田勝頼公一行は柏尾大善寺(→山梨県甲州市勝沼町)を出発し、笹子峠の手前の駒飼宿の石見某(なにがし)のもとに到着しました。現在は国道20号線となっている大善寺から駒飼宿までの甲州街道沿いや田野古戦場には、後世の人によって創作された「武田不動尊」「日向の宮での軍旗掲揚」「日影の宮での軍旗降下」「鞍...
芍薬塚(→山梨県笛吹市)は、武田勝頼公の次男(→周哲大童子)の墓と伝わる史跡です。江戸時代に編纂された『甲斐国志』人物部には勝頼公の次男について、「武性院殿齋理周哲大童子 渡辺嘉兵衛ト云(いう)者ニ歳ノ児(ちご)ヲ保護シテ鎮目村ニ匿(かくま)ル、翌未年三月七日夭(よう)スト云(いう)」と書かれています。戦国時代の1582(天正10)年1月27日に、武田方国衆の木曾義昌(よしまさ)が武田氏から離反して織田信長に臣従したことを皮...
ホテル石風(→山梨県笛吹市)には「武田勝頼夫人遺愛の松」と呼ばれる松が植えられています。長篠合戦以降、国力の回復に努めていた甲斐武田氏は北条氏との同盟強化を懇願し、北条氏もそれを受諾しました。数え年14歳の北条夫人(→北条氏康六女)は、1577(天正5)年1月22日に数え年32歳の武田勝頼公のもとに輿入れ(→結婚)しました。北条夫人は甲府の躑躅ヶ崎館(→武田氏の本拠)に入る前に武藤家に宿泊して饗応を受け、その御礼として彼女...
天童山 景徳院(→山梨県甲州市大和町田野)は、戦国時代後期の1582(天正10)年3月11日に田野合戦に敗れて滅亡した武田勝頼公・同夫人(北条夫人)・武田信勝及び殉難した家臣一同の菩提を弔うため、本能寺の変後、甲斐国の争奪戦(→天正壬午の乱)に勝利した徳川家康が、武田旧臣の小幡景憲(おばたかげのり)を普請奉行に命じて建立した曹洞宗寺院です。武田勝頼公に殉じた小宮山友晴(こみやまともはる)の弟で僧侶の拈橋倀因(ねんきょうち...