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石ころ https://blog.goo.ne.jp/bachan-no-1

日々の聖書通読から、聖霊のお導きによって気づかせられたことや、 新しく教えられたことなどを書いて居ます。 それは今日を生きるための知恵となり、失敗からの守りとなります。 また、不意な出来事に対して、予め備えてくださる言葉でした。

ムベ
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奈良県
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2016/04/03

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  • 今日の歌(2024.10.31)

     特売の蜜柑並べて午後3時 コスモスにご苦労様と土返し冬の支度のパンジー選び今日の歌(2024.10.31)

  • ラザロのよみがえり ②(ヨハネの福音書11章)

     彼女はイエスに言った。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」マルタはこう言ってから、帰って行って姉妹のマリアを呼び、そっと伝えた。「先生がお見えになり、あなたを呼んでおられます。」マリアはそれを聞くと、すぐに立ち上がって、イエスのところに行った。(27~29) イエスの御名を聞くとマリアは直ぐに立ち上がった。胸にあるいっぱいの悲しみと、訴えたい言葉を抱えて駆けて行ったであろう。唯一の救い主に。 イエスはまだ村に入らず、マルタが出迎えた場所におられた。(30) 葬式の混乱の中にイエスは入って行かれない。其処に在るのはサタンの祭りである。神のものであるべき命を奪った、サタンのどんちゃん騒ぎなのである。この中に入って行って大見得を切って、見世物のようにラザロよみがえら...ラザロのよみがえり②(ヨハネの福音書11章)

  • 今日の歌(2024.10.27)

     朝顔のブルーが覆う曲がり角 坂道を悩みつ登る投票所思い書けずに虚しく下る今日の歌(2024.10.27)

  • ラザロのよみがえり ①(ヨハネの福音書11章)

     さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。(1~2) マリヤはイエスが来られると、お側に座ってみことばに聞き入る人であった。彼女はイエスの葬りを察して高価な香油を捧げるほどにイエスを愛していた。 姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」(3~4) マリヤたちはイエスに知らせることで、すぐにラザロは癒やされると信じていたことであろう。...ラザロのよみがえり①(ヨハネの福音書11章)

  • みことば

     汝ら静まりて我の神たるを知れ(詩46:10)みことば

  • 今日の歌(2024.10.24)

     秋雀宿を一つの同居人 雀との同居にすっかり慣れてしまって、羽を散らされても、糞を落としても動じなくなった二年目の秋。ウオーキングの田に群れる小鳥たちに勝手に親しみを覚え、牛の「モー」という声に立ち止まって姿を見たいものだと、多分牛舎と思しき建物を何時も眺める。 遠距離通勤の息子と早朝に起き出して主を礼拝する。「主の祈り」から始まってみことばを交読し、「アバ父」なる神に感謝を込めてお祈りする。私はみことばから祈り、息子はみことばと祈りのこの「時」を感謝する。私も年寄りであり、明日が約束されている時代でも無い。この時が守られていることは本当に主の恵みである。明日のことは主だけがご存じであり、彼が祈る度に貴重な今日を意識して、備えられたこの時に深い感謝を覚えて私は「アーメン」と言う。 今朝はウォーキングの帰り...今日の歌(2024.10.24)

  • わたしは門です④(ヨハネの福音書10章)

     わたしと父とは一つです。ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、再び石を取り上げた。(30~31) イエスと父なる神は一つ、それゆえイエスはキリストとして地に下って、神の人類救出計画を遂行される。イエス・キリストの十字架によって、滅びの死は永遠のいのちに代えられ、キリストを信じる者の死は滅びではなく永遠への門となった。 しかし、ユダヤ人はイエスに拠る神のわざから目を背け、みことばに耳を閉ざして、イエスを神を冒瀆したとして石打の刑によって殺そうとした。神を冒涜したのは彼らであった。 イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」(32) イエスは「わたしが行った神のわざに拠って死刑にするの...わたしは門です④(ヨハネの福音書10章)

  • 永遠のいのち

     永遠のいのちはイエスを信じた者が、十字架のあがないによりすべての罪をきよめられて神の子とされ、肉体の死を経て、あるいは携挙により、神に召されて新天新地で生きるいのちである。新天新地に死や病はなく、完全な霊のからだは永遠を生きる。  血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。(Ⅰコリント15:44) これらを教える聖霊に拠って今神と平和を経験しなければ、隠れるべき夜も影もない、光りの中の永遠を待ち望むことは出来ない。神が待っていてくださるゴールの、永遠のいのちを目指すのでなければ、どんなに働いてもその信仰生活は迷走しているのである。 見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神...永遠のいのち

  • わたしは門です③(ヨハネの福音書10章)

     だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」これらのことばのために、ユダヤ人たちの間に再び分裂が生じた。(18~19) イエスは、父なる神の命令に子として従順して十字架で命を捨てられた。すべては神の権威の下に在ることで、神の義と神の愛に拠ることである。イエスが神を父と呼ばれたことに反発する者たちは、やがて、イエスが十字架で死んでよみがえった時に、このみ言葉を思い出して不信の罪を悔い改め、十字架で罪をあがなってくださったキリストを礼拝するなら彼らも救われる。 イエスがキリストとして地に来られ、父のみこころを行ってすべての人の罪をあがなわれても、信じて救われる者と拒絶...わたしは門です③(ヨハネの福音書10章)

  • わたしは門です②(ヨハネの福音書10章)

     わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。(11) 良い牧者であるイエスは、神の最上の計画を持って地に来てくださった。罪の報いである滅びの死から贖い出し、神の子として生かすために、すべての人の罪を負って十字架に死に、三日目に墓からよみがえり、神の計画を成し遂げて御父の許に昇られた。イエス・キリストのこの御わざを信じる者を、神の家族として迎え入れ永遠を共にしてくださるためである。 牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。(12~13) 自分のものではない羊のために狼と戦って命を危険にさらす者は無く、雇い人は羊を支配して危険...わたしは門です②(ヨハネの福音書10章)

  • 今日の歌(2024.10.12)

     弧をなせしひづちの垂穂惜しまずや たおやかに暑さと寒さ行き来するコスモス挟み隣人を得ぬ今日の歌(2024.10.12)

  • わたしは門です①(ヨハネの福音書10章)

     「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。しかし、門から入るのは羊たちの牧者です。(1~2) 羊に例えられるキリスト者は神の牧場で養われ、キリストと共によみがえらされたいのちは永遠を生きる。神の牧場の門はイエス・キリストだけであり、キリストの十字架の血潮に拠って罪をあがなわれ、神との平和をたまわった者だけが通る門である。 門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。(3) 羊は、牧者であるイエスが語るみことばを聞き分けるとあり、それこそ羊のいのちの言葉である。羊はその声を良く知っていなければいのちを失う。羊は牧場に閉じ込められているのではなく、彼らは囲...わたしは門です①(ヨハネの福音書10章)

  • 目が不自由な人の癒やし③(ヨハネの福音書9章)

     神がモーセに語られたということを私たちは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らない。」(29) イエスを知らずに神を知ることはない。天地創造の神はご自身を知らせるために、ひとり子イエスを地に遣わされた。ひとり子のいのちを与えることに拠って神の愛を知るようになり、罪が贖われたことを知った者はキリストへの感謝に溢れて、「アバ父」と呼ぶ神の家族とされるのである。 神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。(ガラテヤ4:4~5) イエスを通らずに神を知る者はおらず、イエスに拠らずに神に受け入れられる者もいない。イエスを否定する者に在るのは永遠の滅びである。御子をたまわるほ...目が不自由な人の癒やし③(ヨハネの福音書9章)

  • 今日の歌(2024.10.07)

     ひこばえの穂の整然を惜しみけり ウオーキング見渡す限りただひとりひづちの緑飽かず眺めつ今日の歌(2024.10.07)

  • 目が不自由な人の癒やし②(ヨハネの福音書9章)

     人々は、前に目の見えなかったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。イエスが泥を作って彼の目を開けたのは、安息日であった。(13~14) イエスによる、神の大きな祝福のわざを見た人々がしたことは、律法を用いてイエスを裁くことであった。神の憐み深い御わざを目にした時に、その救いを素直に喜んで、神をほめたたえることが出来ない理由が律法に拠ることなら、その律法の用い方は的を外している。どこから間違ってしまったのか、神がどのようなお方であるかを、みことばに静まって聴くべきである。 こういうわけで再び、パリサイ人たちも、どのようにして見えるようになったのか、彼に尋ねた。彼は、「あの方が私の目に泥を塗り、私が洗いました。それで今は見えるのです」と答えた。(15) 彼の言葉は、誰に対しても真実を語ってぶれるこ...目が不自由な人の癒やし②(ヨハネの福音書9章)

  • 目が不自由な人の癒やし①(ヨハネの福音書9章)

     さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」(1~2) イエスはその人を見て足を止められた。大きな祝福が彼の前に来たとき、彼は何時も投げつけられる言葉を聞いた。体の不自由さに加えて、自分と親を疑わせる呪いの言葉である。このような考えは日本にもあり、因果応報の考えはそれが他人事である人の、汚れた良心が神に成り代わって下す判決である。  イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。(3) 障害を持って生まれて来た人とその両親にとって、何と慰めと希望に満ちた言葉であろう。神の愛に満ちたこの言葉によって、...目が不自由な人の癒やし①(ヨハネの福音書9章)

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