「その2」のつづきです。吉田郡山城三ノ丸へ登ってきました。 石碑には「三之丸跡」と刻まれています。「本丸・二ノ丸・三ノ丸」という呼称は豊臣時代以降の言葉で...
「その2」のつづきです。天守台から降りてきました。 「その2」で天守台の上から見た本丸西側の多門櫓台石垣を内側から見た写真です。 石段はのぼっちゃだめみた...
「その1」のつづきです。小浜城本丸跡に残る石垣を見て回りましょう。 まずは本丸南西隅にある天守台に登ります。上の写真は天守台東に続く登り口の石垣。打込み接...
若狭の海城、小浜城跡を歩く。 その1 ~本丸跡(小浜神社)~
福井県小浜市の日本海に面した場所に、かつて京極氏が築いた小浜城がありました。小浜市といえば、アメリカ大統領がバラク・オバマ氏だったとき、同名ということで何...
二代目鎌倉殿となった源頼家を補佐するべく発足した13人の合議制でしたが、スタートから約半年後、早くもその1人が脱落します。死んだ源頼朝が側近中の側近とし...
鎌倉殿の13人 第27話「鎌倉殿と十三人」 ~13人の合議制~
父・源頼朝の急死により、嫡男の源頼家が継承の準備も不十分なまま、突然、鎌倉殿に就任することになりました。このとき頼家18歳。御家人たちのいざこざを調停す...
映画『峠 最後のサムライ』を観終えて、改めて司馬遼太郎の描く河井継之助について考える。
過日、映画『峠 最後のサムライ』を観てきました。故・司馬遼太郎原作の小説『峠』は、『竜馬がゆく』『世に棲む日日』『花神』『燃えよ剣』と並んで幕末五部作の...
奈良県大和郡山市の近鉄橿原線筒井駅より北東一体に、かつて筒井城がありました。現在、その城跡は住宅地になっていて遺構はほとんど残っていませんが、その地形から...
昨日、安倍晋三元総理が白昼、公衆の面前で凶弾に倒れました。謹んで哀悼の意を表し、心よりご冥福をお祈り申し上げます。 暗殺された総理大臣経験者は過去にも6人...
信貴山城から東へ直線距離で約3km、椿井城から西へ約1kmのところに、かつて下垣内城と西宮城という2つの城が隣接していました。この2つの城は、確かな史料は...
鎌倉殿の13人 第26話「悲しむ前に」 ~頼朝の後継者問題~
前話で源頼朝は死んじゃったかと思っていたのですが、まだ死んでいなかったですね。前回の稿でも述べたとおり、頼朝の死は突然だったようで、通説では落馬して間も...
前稿のつづきです。椿井春日神社の鳥居の横に、古墳があります。 宮山塚古墳という名称だそうです。 形状は円墳ですね。古墳前に説明板が設置されています。 説明...
椿井城跡西麓を歩く。 その1 <平等寺春日神社と椿井春日神社>
前稿まで大和椿井城跡を攻城してきましたが、椿井城跡跡西麓にある史跡もめぐってきましょう。椿井城跡跡西麓には、ふたつの春日神社があります。 まずは、平等寺春...
「ブログリーダー」を活用して、坂の上のヒゲおやじさんをフォローしませんか?
「その2」のつづきです。吉田郡山城三ノ丸へ登ってきました。 石碑には「三之丸跡」と刻まれています。「本丸・二ノ丸・三ノ丸」という呼称は豊臣時代以降の言葉で...
「その1」のつづきです。毛利元就の墓所から登山道を登ること約15分、曲輪に到着しました。 吉田郡山城の城域は東西約1100m、南北約900mに及ぶ広大な規...
8戦国時代、中国地方の覇者として君臨した毛利氏の本拠として知られる吉田郡山城。江の川(可愛川)と多治比川にはさまれた吉田盆地の北に位置し、城域は郡山全体に...
龍野古城(鶏籠山城)を下山しました。せっかくなので、麓の龍野城にも立ち寄ります。 写真は西側の模擬二重櫓。その背後に見えるのが、山頂に龍野古城のある鶏籠山...
龍野古城(鶏籠山城)から紅葉谷を下山する途中に、野見宿禰と書かれた誘導板がありました。せっかくなので、行ってみることに。 しばらく進むと、「力水」と書かれ...
「その2」のつづきです。龍野古城Ⅰ郭エリア北側から、搦手道を下山します。 Ⅰ-8郭まで降りてきました。ここは主郭並みに広い曲輪です。 縄張り図を載せます。...
「その1」のつづきです。龍野古城Ⅰ郭エリア南側虎口から段曲輪を登ります。 Ⅰ-3郭切岸に、立派な石積みが残っています。 おおっ、これはスゴイ! 石積みの上...
今回は姫路の西に位置する兵庫県たつの市にある龍野城です。龍野城には、鶏籠山山頂の山城と山麓の平山城の時代があり、山城は鶏籠山城、朝霧城、麓の城は霞城と呼ば...
嘉吉の乱によって赤松満祐に謀殺された室町幕府6代将軍足利義教の首塚が、兵庫県加東市にある安国寺にあります。全国各地に「安国寺」という名称の寺がありますが、...
兵庫県姫路市のお城といえば、誰もが思い浮かべるのは世界文化遺産の姫路城ですが、戦国時代より前の15世紀には、姫路城の少し北西に位置する坂本城が播磨国の守護...
今回は兵庫県小野市にある河合城跡を歩きます。堀殿城ともいいます。ここも、播磨守護職の赤松氏が東播磨の拠点として築いたとされ、赤松氏一族の上月氏が城主を務め...
「その2」のつづきです。小谷城第5郭まで降りてきました。 縄張り図では、この東側に大堀切があって、西小丸と分断されています。 ここで、山頂にあった縄張り図...
「その1」のつづきです。標高は218mの小谷城城域に入りました。 麓から見えた看板。第3郭の南側に設置されています。 その看板の南側は、帯郭が東西に伸びて...
兵庫県加西市の中心市街地の北条町北側の標高218mの城山山頂に、かつて小谷城がありました。有名な北近江の小谷城は「おだに」と読みますが、ここは「こたに」と...
「その1」のつづきです。善防山城主郭まで制覇したので、次は尾根伝いに東郭を目指します。 主郭東側の虎口跡。一応、左へ曲がって右へ曲がる食い違い虎口になって...
もすぐ桜の季節になりますが、今回は2年前の桜のシーズンに訪れた善防山城を攻めます。今回も赤松氏の城です。善防山城はかつての播磨国、現在の兵庫県加西市にある...
「その2」のつづきです。石塁のあった城山城Ⅱ区からさらに南下します。 説明看板が現れました。現在地と書かれているところがこの場所です。広い削平地になってい...
「その1」のつづきです。城山城跡の北側城域に入りました。 堀切と土塁と書かれた看板があります。 まあ、たしかに堀切っちゃあ堀切かな。薄いけど。 土塁です。...
西播磨を南流する揖保川と、北西より合流する支流の栗栖川が形成する平野を東に臨む標高458mの亀山(きのやま)の山頂に、かつて城山城がありました。ここは、奈...
「その2」のつづきです。楯岩城本丸エリアに入りました。 ここは北西段曲輪のいちばん下の曲輪です。本丸エリアは、頂上の主郭を中心に北西南の三方に段郭が伸びて...
「その2」のつづきです。いよいよ山頂の八王子城本丸に向かいます。 本丸への登り口は小宮曲輪からのルートと中の曲輪からのルートがありますが、中の曲輪から登り...
「その1」のつづきです。登山口から登ること約30分、八王子城本丸下の中の曲輪に到着しました。 左奥に見える建物は、八王子神社の社殿、右手の建物は登山客の休...
武田信玄の死後、徳川家康は武田に奪われた領土をいったんは奪還しますが、これに対して、信玄の後継者となった武田勝頼は攻勢に出て、天正2年(1574年)正月に...
過日、東京出張の折、1日だけオフがあったので、かねてから行きたかった東京都八王子市にある八王子城跡を訪れました。八王子城は、小田原城を本拠とする北条氏の3...
三方ヶ原の戦いで徳川家康をこてんぱんにやっつけた武田信玄は、まさに破竹の勢いといえる快進撃で西上を進めますが、その途中、信玄は血を吐いて倒れ、そのまま病...
遠江を瞬く間に制圧していった武田信玄は、徳川家康の本城である浜松城を目の前にして、突如、進路を西に変えて三方ヶ原台地に上がり、そのまま浜松城を無視して三...
いよいよ徳川家康の人生最大のピンチと言われる三方ヶ原の戦いに突入します。 元亀2年(1571年)、室町幕府15代将軍・足利義昭は織田信長討伐令を出し、こ...
のちに「徳川四天王」のひとりに数えられる井伊直政が出てきましたね。最初、てっきり女性だと思って観ていました。実際の直政も美少年だったといいますから、少年...
金ヶ崎の戦いで京都に逃げ帰った織田信長は、その約2ヶ月後の元亀元年(15670年)6月、大軍を率いて北近江に侵攻します。その目的は、金ヶ崎の戦いの際に反...
永禄13年4月20日(1570年5月24日)、織田信長は北国に攻め入るため京都を出陣しました。『言継卿記』によると、その軍勢は3万にも及んだといいます。そ...
永禄12年(1569年)5月、今川氏真が籠る懸川城を開城させた徳川家康は、氏真夫婦を相模の北条方に引き渡しました。しかし、これは、甲斐の武田信玄と敵対す...
永禄11年(1568年)12月13日、駿河に侵攻した武田信玄の今川館攻めによって駿府を追われた今川氏真は、遠江の懸川(掛川)城に逃れました。今川館は「館...
永禄9年(1566年)12月29日、家康は姓を「松平」から「徳川」に改めました。後世のわたしたちがよく知る徳川家康の誕生です。なぜこの時期に改姓したかと...
今回のサブタイトルは「側室をどうする!」ですが、ひとまず側室の話は後まわしにして、少しだけ描かれた歴史のお勉強をしましょう。 三河一向一揆によって松平...
三河一向一揆の実際の戦闘の経緯については、史料によって情報が錯綜していて、月日などは明確ではありませんが、通説では、永禄6年(1563年)秋にはじまり、...
永禄6年(1563年)に起きた三河一向一揆は、徳川家康の長い人生のなかで、三方ヶ原の戦い、伊賀越えと並んで家康の三大危機とされる出来事です。その理由は、...
ヤマト、999、ハーロック、子供のころ夢中になって観たSF漫画の生みの親、漫画家の松本零士さんが逝ってしまいました。謹んで哀悼の意を表します。わたしの少年...
駿府で人質状態となっていた妻子を奪還した松平元康(のちの徳川家康)は、翌年の永禄6年(1563年)7月6日、名を「家康」に改めました。「元」の字は言うま...
前回に引き続き、駿府で人質状態となっている松平元康(のちの徳川家康)の妻子の奪還劇の回でしたね。前話はほとんどフィクションの回でしたか、今話は史実、通説...
昨日、作家の永井路子さんが亡くなられたという報道がありました。謹んで哀悼の意を表します。 永井さんといえば、やはり中世、特に鎌倉時代の作品ですよね。昨年の...