「その1」のつづきです。毛利元就の墓所から登山道を登ること約15分、曲輪に到着しました。 吉田郡山城の城域は東西約1100m、南北約900mに及ぶ広大な規...
建久10年(1199年)1月13日、源頼朝がこの世を去りました。享年53。それは突然の死だったようで、報せを受けた京都の公家たちの日記には、驚きの様子が...
「その1」のつづきです。椿井城跡最南端の曲輪に到着しました。はるか向こうに見えるのは、生駒山です。 案内板が設置されているようです。 案内板です。椿井城は...
信貴山城から東へ直線距離で約4kmのところに、かつて椿井城がありました。椿井城は、築城時期、城主に関する確実な史料が残っていないため、当初は在地土豪の椿井...
鎌倉殿の13人 第24話「変わらぬ人」 ~源範頼粛清と大姫入内計画~
建久4年(1193年)5月28日に起きた曾我事件の2か月後、源頼朝と実弟・源範頼が失脚しました。時期的に見て、曾我事件と関連していたと見ていいでしょう。...
先日、映画『大河への道』を観てきました。伊能忠敬を主人公にした大河ドラマの誘致に奮闘する千葉県香取市役所の職員と、200年以上前につくられた忠敬の日本地...
鎌倉殿の13人 第23話「狩りと獲物」 ~曾我兄弟の仇討ち~
後白河法皇の喪が明けた建久4年(1193)5月、源頼朝は下野国那須野、信濃国三原野、駿河国富士野などの各地で大規模な巻狩りを催しました。「巻狩り」とは、...
前稿で奈良県王子町の達磨寺にある松永久秀の墓参りをしましたが、もうひとつ、信貴山城跡から南東約3km、支城の立野城から南西約1kmのところに、松永久秀の供...
信貴山城跡から南東約4kmのところにある達磨寺に、松永久秀の墓があります。達磨寺は聖徳太子ゆかりの寺院として知られます。 寺伝によると、達磨寺の創建は推古...
鎌倉殿の13人 第22話「義時の生きる道」 ~頼朝の上洛、後白河法皇の薨去、頼朝の征夷大将軍任官~
奥州合戦の翌年の建久元年(1190年)11月7日、源頼朝はついに上洛します。奥州藤原氏の脅威がなくなったために実現した上洛でした。頼朝は千騎の大軍を率い...
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「その1」のつづきです。毛利元就の墓所から登山道を登ること約15分、曲輪に到着しました。 吉田郡山城の城域は東西約1100m、南北約900mに及ぶ広大な規...
8戦国時代、中国地方の覇者として君臨した毛利氏の本拠として知られる吉田郡山城。江の川(可愛川)と多治比川にはさまれた吉田盆地の北に位置し、城域は郡山全体に...
龍野古城(鶏籠山城)を下山しました。せっかくなので、麓の龍野城にも立ち寄ります。 写真は西側の模擬二重櫓。その背後に見えるのが、山頂に龍野古城のある鶏籠山...
龍野古城(鶏籠山城)から紅葉谷を下山する途中に、野見宿禰と書かれた誘導板がありました。せっかくなので、行ってみることに。 しばらく進むと、「力水」と書かれ...
「その2」のつづきです。龍野古城Ⅰ郭エリア北側から、搦手道を下山します。 Ⅰ-8郭まで降りてきました。ここは主郭並みに広い曲輪です。 縄張り図を載せます。...
「その1」のつづきです。龍野古城Ⅰ郭エリア南側虎口から段曲輪を登ります。 Ⅰ-3郭切岸に、立派な石積みが残っています。 おおっ、これはスゴイ! 石積みの上...
今回は姫路の西に位置する兵庫県たつの市にある龍野城です。龍野城には、鶏籠山山頂の山城と山麓の平山城の時代があり、山城は鶏籠山城、朝霧城、麓の城は霞城と呼ば...
嘉吉の乱によって赤松満祐に謀殺された室町幕府6代将軍足利義教の首塚が、兵庫県加東市にある安国寺にあります。全国各地に「安国寺」という名称の寺がありますが、...
兵庫県姫路市のお城といえば、誰もが思い浮かべるのは世界文化遺産の姫路城ですが、戦国時代より前の15世紀には、姫路城の少し北西に位置する坂本城が播磨国の守護...
今回は兵庫県小野市にある河合城跡を歩きます。堀殿城ともいいます。ここも、播磨守護職の赤松氏が東播磨の拠点として築いたとされ、赤松氏一族の上月氏が城主を務め...
「その2」のつづきです。小谷城第5郭まで降りてきました。 縄張り図では、この東側に大堀切があって、西小丸と分断されています。 ここで、山頂にあった縄張り図...
「その1」のつづきです。標高は218mの小谷城城域に入りました。 麓から見えた看板。第3郭の南側に設置されています。 その看板の南側は、帯郭が東西に伸びて...
兵庫県加西市の中心市街地の北条町北側の標高218mの城山山頂に、かつて小谷城がありました。有名な北近江の小谷城は「おだに」と読みますが、ここは「こたに」と...
「その1」のつづきです。善防山城主郭まで制覇したので、次は尾根伝いに東郭を目指します。 主郭東側の虎口跡。一応、左へ曲がって右へ曲がる食い違い虎口になって...
もすぐ桜の季節になりますが、今回は2年前の桜のシーズンに訪れた善防山城を攻めます。今回も赤松氏の城です。善防山城はかつての播磨国、現在の兵庫県加西市にある...
「その2」のつづきです。石塁のあった城山城Ⅱ区からさらに南下します。 説明看板が現れました。現在地と書かれているところがこの場所です。広い削平地になってい...
「その1」のつづきです。城山城跡の北側城域に入りました。 堀切と土塁と書かれた看板があります。 まあ、たしかに堀切っちゃあ堀切かな。薄いけど。 土塁です。...
西播磨を南流する揖保川と、北西より合流する支流の栗栖川が形成する平野を東に臨む標高458mの亀山(きのやま)の山頂に、かつて城山城がありました。ここは、奈...
「その2」のつづきです。楯岩城本丸エリアに入りました。 ここは北西段曲輪のいちばん下の曲輪です。本丸エリアは、頂上の主郭を中心に北西南の三方に段郭が伸びて...
「その1」のつづきです。楯岩城三ノ丸エリアに入りました。本丸、二ノ丸、三ノ丸といった呼び方は豊臣時代以降のものですが、麓にあった縄張り図と鳥観図にそう書い...
三方ヶ原の戦いで徳川家康をこてんぱんにやっつけた武田信玄は、まさに破竹の勢いといえる快進撃で西上を進めますが、その途中、信玄は血を吐いて倒れ、そのまま病...
遠江を瞬く間に制圧していった武田信玄は、徳川家康の本城である浜松城を目の前にして、突如、進路を西に変えて三方ヶ原台地に上がり、そのまま浜松城を無視して三...
いよいよ徳川家康の人生最大のピンチと言われる三方ヶ原の戦いに突入します。 元亀2年(1571年)、室町幕府15代将軍・足利義昭は織田信長討伐令を出し、こ...
のちに「徳川四天王」のひとりに数えられる井伊直政が出てきましたね。最初、てっきり女性だと思って観ていました。実際の直政も美少年だったといいますから、少年...
金ヶ崎の戦いで京都に逃げ帰った織田信長は、その約2ヶ月後の元亀元年(15670年)6月、大軍を率いて北近江に侵攻します。その目的は、金ヶ崎の戦いの際に反...
永禄13年4月20日(1570年5月24日)、織田信長は北国に攻め入るため京都を出陣しました。『言継卿記』によると、その軍勢は3万にも及んだといいます。そ...
永禄12年(1569年)5月、今川氏真が籠る懸川城を開城させた徳川家康は、氏真夫婦を相模の北条方に引き渡しました。しかし、これは、甲斐の武田信玄と敵対す...
永禄11年(1568年)12月13日、駿河に侵攻した武田信玄の今川館攻めによって駿府を追われた今川氏真は、遠江の懸川(掛川)城に逃れました。今川館は「館...
永禄9年(1566年)12月29日、家康は姓を「松平」から「徳川」に改めました。後世のわたしたちがよく知る徳川家康の誕生です。なぜこの時期に改姓したかと...
今回のサブタイトルは「側室をどうする!」ですが、ひとまず側室の話は後まわしにして、少しだけ描かれた歴史のお勉強をしましょう。 三河一向一揆によって松平...
三河一向一揆の実際の戦闘の経緯については、史料によって情報が錯綜していて、月日などは明確ではありませんが、通説では、永禄6年(1563年)秋にはじまり、...
永禄6年(1563年)に起きた三河一向一揆は、徳川家康の長い人生のなかで、三方ヶ原の戦い、伊賀越えと並んで家康の三大危機とされる出来事です。その理由は、...
ヤマト、999、ハーロック、子供のころ夢中になって観たSF漫画の生みの親、漫画家の松本零士さんが逝ってしまいました。謹んで哀悼の意を表します。わたしの少年...
駿府で人質状態となっていた妻子を奪還した松平元康(のちの徳川家康)は、翌年の永禄6年(1563年)7月6日、名を「家康」に改めました。「元」の字は言うま...
前回に引き続き、駿府で人質状態となっている松平元康(のちの徳川家康)の妻子の奪還劇の回でしたね。前話はほとんどフィクションの回でしたか、今話は史実、通説...
昨日、作家の永井路子さんが亡くなられたという報道がありました。謹んで哀悼の意を表します。 永井さんといえば、やはり中世、特に鎌倉時代の作品ですよね。昨年の...
先日、映画『レジェンド&バタフライ』を観てきました。木村拓哉さんと綾瀬はるかさんという日本のトップスターの共演で、織田信長とその正室・濃姫を主人公とした物...
今回のサブタイトルは「瀬名奪還作戦」。今川を見限り、織田と手を結んだ松平元康(のちの徳川家康)でしたが、気がかりだったのは、妻の瀬名(築山殿)と長男の竹...
滋賀県蒲生郡日野町にかつてあった日野城は、古くは中野城と呼ばれていました。そこで、本稿では日野中野城と呼ぶことにします。日野中野城は、日野の領主・蒲生氏の...
今川氏真を見限った松平元康(のちの徳川家康)は、織田信長との連携に踏み切りました。通説によると、永禄5年(1562年)正月に元康が尾張の清州城に赴き、信...