龍野古城(鶏籠山城)から紅葉谷を下山する途中に、野見宿禰と書かれた誘導板がありました。せっかくなので、行ってみることに。 しばらく進むと、「力水」と書かれ...
金ヶ崎の戦いで京都に逃げ帰った織田信長は、その約2ヶ月後の元亀元年(15670年)6月、大軍を率いて北近江に侵攻します。その目的は、金ヶ崎の戦いの際に反...
どうする家康 第14話「金ヶ崎でどうする!」 ~金ヶ崎の退き口~
永禄13年4月20日(1570年5月24日)、織田信長は北国に攻め入るため京都を出陣しました。『言継卿記』によると、その軍勢は3万にも及んだといいます。そ...
どうする家康 第13話「家康、都へゆく」 ~家康はじめての上洛~
永禄12年(1569年)5月、今川氏真が籠る懸川城を開城させた徳川家康は、氏真夫婦を相模の北条方に引き渡しました。しかし、これは、甲斐の武田信玄と敵対す...
永禄11年(1568年)12月13日、駿河に侵攻した武田信玄の今川館攻めによって駿府を追われた今川氏真は、遠江の懸川(掛川)城に逃れました。今川館は「館...
どうする家康 第11話「信玄との密約」 ~徳川改姓と遠江侵攻~
永禄9年(1566年)12月29日、家康は姓を「松平」から「徳川」に改めました。後世のわたしたちがよく知る徳川家康の誕生です。なぜこの時期に改姓したかと...
どうする家康 第10話「側室をどうする!」 ~遠州忩劇と西郡局~
今回のサブタイトルは「側室をどうする!」ですが、ひとまず側室の話は後まわしにして、少しだけ描かれた歴史のお勉強をしましょう。 三河一向一揆によって松平...
どうする家康 第9話「守るべきもの」 ~三河一向一揆の戦後処理~
三河一向一揆の実際の戦闘の経緯については、史料によって情報が錯綜していて、月日などは明確ではありませんが、通説では、永禄6年(1563年)秋にはじまり、...
どうする家康 第8話「三河一揆でどうする!」 ~家臣団の分裂~
永禄6年(1563年)に起きた三河一向一揆は、徳川家康の長い人生のなかで、三方ヶ原の戦い、伊賀越えと並んで家康の三大危機とされる出来事です。その理由は、...
ヤマト、999、ハーロック、子供のころ夢中になって観たSF漫画の生みの親、漫画家の松本零士さんが逝ってしまいました。謹んで哀悼の意を表します。わたしの少年...
どうする家康 第7話「わしの家」 ~家康改名と三河一向一揆勃発~
駿府で人質状態となっていた妻子を奪還した松平元康(のちの徳川家康)は、翌年の永禄6年(1563年)7月6日、名を「家康」に改めました。「元」の字は言うま...
どうする家康 第7話「続・瀬名奪還作戦」 ~元康妻子と鵜殿兄弟の人質交換~
前回に引き続き、駿府で人質状態となっている松平元康(のちの徳川家康)の妻子の奪還劇の回でしたね。前話はほとんどフィクションの回でしたか、今話は史実、通説...
昨日、作家の永井路子さんが亡くなられたという報道がありました。謹んで哀悼の意を表します。 永井さんといえば、やはり中世、特に鎌倉時代の作品ですよね。昨年の...
先日、映画『レジェンド&バタフライ』を観てきました。木村拓哉さんと綾瀬はるかさんという日本のトップスターの共演で、織田信長とその正室・濃姫を主人公とした物...
どうする家康 第5話「瀬名奪還作戦」 ~本多正信と服部半蔵正成~
今回のサブタイトルは「瀬名奪還作戦」。今川を見限り、織田と手を結んだ松平元康(のちの徳川家康)でしたが、気がかりだったのは、妻の瀬名(築山殿)と長男の竹...
滋賀県蒲生郡日野町にかつてあった日野城は、古くは中野城と呼ばれていました。そこで、本稿では日野中野城と呼ぶことにします。日野中野城は、日野の領主・蒲生氏の...
今川氏真を見限った松平元康(のちの徳川家康)は、織田信長との連携に踏み切りました。通説によると、永禄5年(1562年)正月に元康が尾張の清州城に赴き、信...
今回は岡崎に帰った松平元康(のちの徳川家康)が、これまで通り今川に付いて織田と戦うか、あるいは、これを機に今川を見限って織田に与するかという、まさに「ど...
大高城に兵糧を運び込むという役目を成功させた松平元康(のちの徳川家康)でしたが、桶狭間の戦いによって今川義元が落命したという報せを受けると、その日の夜半...
どうする家康 第1話「どうする桶狭間」 ~今川家人質時代と神君大高城兵糧入れ~
どうするかは誰もが知っている徳川家康の物語が始まりました。長くて濃い家康の生涯ですから、どこを描いてどこを省くかが難しいところだと思いますが、第1話にし...
さて、今年の大河ドラマ『どうする家康』が、1月8日の日曜日から始まりますね。主人公はタイトルどおり、徳川家康。言わずと知れた戦国三英傑のひとりであり、江...
あけましておめでとうございます。皆さま健やかに新春をお迎えのこととお慶び申し上げます。 昨年も相変わらずコロナコロナの1年でしたが、さすがに3年目ともなる...
武士の時代を創ったのはだれか・・・という質問をしたとしたら、ほとんどの人が源頼朝か平清盛のどちらかの名前をあげるでしょう。わたしも、ひとりだけ名前をあげ...
鎌倉殿の13人 第48話(最終回)「報いの時」 ~承久の乱の顛末と北条義時の死~
さて、最終回。冒頭の徳川家康の登場には驚きましたね。たしかに、家康が『吾妻鏡』を愛読していたという話は事実です。三谷さんのアイデアかプロデューサーの企画...
鎌倉殿の13人 第47話「ある朝敵、ある演説」 ~承久の乱勃発と政子の名演説~
遠縁ながらも源氏の血を引く摂関家の九条道家の子・三寅が次期将軍と決まり、三寅が幼少のあいだは北条政子が将軍を代行することになりましたが、三寅の4代目鎌倉...
「その2」のつづきです。水口岡山城跡伝本丸から伝二ノ丸へ向かいます。 伝本丸と伝二ノ丸の間に大きな堀切があります。 ただ、ここを訪れたのは令和3年(202...
鎌倉殿の13人 第46話「将軍になった女」 ~阿野時元の自害と三寅の東下、そして尼将軍政子の誕生~
日本史上にはいくつもの大きなターニングポイントがありますが、源実朝暗殺という衝撃的な事件も、そのひとつだったといえるでしょう。公暁という若干20歳の若者...
「その1」のつづきです。水口岡山城跡伝西の丸から本丸へ向かいます。 向こうに見える高い場所が本丸です。 本丸に向かって登ります。 ここを登っていくと本丸で...
鎌倉殿の13人 第45話「八幡宮の階段」 ~源実朝暗殺事件~
建保7年(1219年)正月27日、半年前と同じ鶴岡八幡宮で、源実朝の右大臣拝賀の儀が行われる運びとなりました。その日、昼は晴れていたものの、夜になって雪が...
前稿で紹介した水口城から直線距離で1.2kmほど東に、かつて水口岡山城がありました。水口岡山城は水口城が築かれる前に、甲賀郡支配の拠点となっていた山城です...
鎌倉殿の13人 第44話「審判の日」 ~実朝の昇進と義時の薬師堂建立~
後鳥羽上皇の皇子を次期将軍に迎えることが内定すると、上皇は現将軍の源実朝を驚異的なスピードで昇進させました。建保6年(1218年)1月13日に権大納言、...
過日、滋賀県甲賀市にある水口城跡を訪れました。「甲賀」と聞けば、甲賀流忍者を連想してしまいますが、水口城は忍者とは関係ありません。水口城が築かれたのは、忍...
唐船建造の失敗などはあったものの、建保年間の幕政は安定していました。しかし、ただひとつ、大きな問題を抱えていました。将軍・源実朝の後継者問題です。建保5...
建保4年(1216年)6月15日、東大寺の大仏を再建したことで知られる宋人の技術者・陳和卿が、源実朝に拝謁しました。陳和卿は、対面するなり実朝の顔を3度...
かつて丹波国の南東部にあった園部城は、わが国史上、最後に築城された城でした。築かれたのは、江戸幕府瓦解後の明治2年(1869年)。明治に入ってから築かれた...
鎌倉殿の13人 第41話「義盛、お前に罪はない」 ~和田合戦~
建暦3年(1213年)5月2日、和田義盛が兵を挙げました。『吾妻鏡』によれば、八田知重(知家の息子)が義盛の館に兵が集合していることを大江広元に通報した...
前稿でJR伯備線の備中高梁駅前にある山田方谷像を見に行きましたが、備中高梁駅から3駅北上したところに、「方谷駅」という名称の駅があります。その名のとおり、...
建暦3年(1213年)2月15日、鎌倉御家人の千葉成胤のもとに阿静房安念と名乗る僧が訪れます。安念は、信濃国の泉親衡という人物が将軍源実朝の廃位と源頼家...
JR伯備線の備中高梁駅前に、山田方谷像があると知り、立ち寄りました。前稿でも紹介しましたが、山田方谷は備中松山藩出身の幕末の学者で、その才により藩に学問の...
前稿まで備中松山城を歩いてきましたが、城のある臥牛山の南麓に、「山田方谷家塾 牛麓舎跡」と刻まれた石碑と説明板があります。 山田方谷は備中松山藩出身の幕末...
北条時政の失脚により、息子の北条義時が実質御家人筆頭として幕政を運営することになります。『吾妻鏡』には、このとき義時が執権職を継承したとありますが、これ...
現存天守唯一の山城、備中松山城攻城記。 その9 <大池~番所・切通>
「その8」のつづきです。大松山城の東側には、備中松山城の水源となっていた大池があります。 大池は発掘調査中だったため、ロープの中には入れませんでした。 大...
現存天守唯一の山城、備中松山城攻城記。 その8 <大松山城>
「その7」のつづきです。備中松山城天神の丸跡をあとにして、北の大松山城跡に向かいます。前稿でも説明しましたが、備中松山城のある臥牛山は、大松山、天神の丸、...
現存天守唯一の山城、備中松山城攻城記。 その7 <水の手門~天神の丸跡>
「その6」のつづきです。二ノ丸北側の水の手門から北へ進みます。備中松山城のある臥牛山は、大松山、天神の丸、小松山、前山と称される4峰で構成されており、ここ...
鎌倉殿の13人 第37話「オンベレブンビンバ」・第38話「時を継ぐ者」 ~牧氏事件~
私事ですが、本業の仕事があまりにも忙しすぎて、先週の大河ドラマの稿をすっ飛ばしてしまいました。まあ、元より趣味でやっているブログですから、毎週必ず起稿し...
畠山重忠に謀反の疑いありとの讒訴を平賀朝雅より受けた北条時政は、畠山重忠・重保父子の誅殺を決意するも、息子の北条義時、時房からその軽挙を諫められ、いった...
現存天守唯一の山城、備中松山城攻城記。 その6 <二ノ丸帯曲輪~後曲輪>
「その5」のつづきです。備中松山城天守まで攻略しましたが、城の搦手にあたる天守の北側にもまだ櫓跡があります。今回はその北側を攻めます。 「その3」で紹介し...
源実朝の結婚相手を迎えにいくため上洛していた北条政範(北条時政と牧の方(ドラマではりく)の息子)が急逝するという悲劇に見舞われたものの、御台所の鎌倉下向...
「その4」のつづきです。再び備中松山城天守の南側に戻ってきました。今回は天守をじっくり見ていきましょう。 備中松山城の天守は、高さ11mと現存12天守のな...
鎌倉殿の13人 第34話「理想の結婚」 ~時政の専横と実朝の縁談~
源実朝が三代鎌倉殿となり、祖父の北条時政が侍所別当と執権に就任すると、ここから時政の専横がはじまります。あくまで幼い将軍の代理という名目ではあるものの、...
「その3」のつづきです。備中松山城二ノ丸から見た本丸石垣です。 土塀の右側の櫓が五の平櫓、その左側が六の平櫓、五の平櫓の向こうに見えるのが、天守です。 現...
鎌倉殿の13人 第33話「修善寺」 ~時政の執権就任と頼家の最期~
源頼家が伊豆国修禅寺に送られたあと、鎌倉幕府の実権は北条時政が掌握しました。三代鎌倉殿となった源実朝は、建仁3年(1203年)9月10日、北条政子の御所...
現存天守唯一の山城、備中松山城攻城記。 その3 <三ノ丸~二ノ丸>
「その2」のつづきです。備中松山城三ノ丸から北側の石垣群を見上げます。 右の石垣上に見える土塀は現存土塀だそうで、その段の曲輪が厩曲輪です。そして何段か石...
鎌倉殿の13人 第32話「災いの種」 ~頼家の鎌倉追放と実朝政権発足、そして一幡の死~
比企の乱によって幕府内の権勢を手中にしたかに思えた北条でしたが、想定外の事態が発生します。危篤状態にあった源頼家が、奇跡的に回復したんですね。比企一族の...
現存天守唯一の山城、備中松山城攻城記。 その2 <大手門~三ノ丸>
「その1」のつづきです。ふいご峠から歩くこと約15分、見事な石垣の場所につきました。備中高松城 大手門跡にあたる巨大石垣群です。平成28年(2016年)の...
源頼朝の死後、梶原景時の変や阿野全成事件の背後で対立を深めていった北条と比企でしたが、建仁3年(1203年)9月2日、ついに決着が着くときがやってきます...
建仁3年(1203年)5月19日、源頼家は叔父の阿野全成に謀反の疑いありとして捕らえ、その後、誅殺しました。史料でわかるのは、この事実だけ。なぜ謀反の疑...
現存天守唯一の山城、備中松山城攻城記。 その1 <ふいご峠~中太鼓櫓跡>
古くから神々が住むと言われた吉備の国。現在の岡山県の中西部は、かつて備中と呼ばれ、その中心地である松山に、備中松山城がありました。備中松山城は標高430m...
鎌倉殿の13人 第29話「ままならぬ玉」 ~北条と比企の対立
今回は比企の乱の序章の回でしたね。梶原景時失脚後、北条時政と比企能員の対立はますます深まっていきます。源頼朝の存命中は鎌倉殿の舅という立場で幕府内の存在...
「その2」のつづきです。天守台から降りてきました。 「その2」で天守台の上から見た本丸西側の多門櫓台石垣を内側から見た写真です。 石段はのぼっちゃだめみた...
「その1」のつづきです。小浜城本丸跡に残る石垣を見て回りましょう。 まずは本丸南西隅にある天守台に登ります。上の写真は天守台東に続く登り口の石垣。打込み接...
若狭の海城、小浜城跡を歩く。 その1 ~本丸跡(小浜神社)~
福井県小浜市の日本海に面した場所に、かつて京極氏が築いた小浜城がありました。小浜市といえば、アメリカ大統領がバラク・オバマ氏だったとき、同名ということで何...
二代目鎌倉殿となった源頼家を補佐するべく発足した13人の合議制でしたが、スタートから約半年後、早くもその1人が脱落します。死んだ源頼朝が側近中の側近とし...
鎌倉殿の13人 第27話「鎌倉殿と十三人」 ~13人の合議制~
父・源頼朝の急死により、嫡男の源頼家が継承の準備も不十分なまま、突然、鎌倉殿に就任することになりました。このとき頼家18歳。御家人たちのいざこざを調停す...
映画『峠 最後のサムライ』を観終えて、改めて司馬遼太郎の描く河井継之助について考える。
過日、映画『峠 最後のサムライ』を観てきました。故・司馬遼太郎原作の小説『峠』は、『竜馬がゆく』『世に棲む日日』『花神』『燃えよ剣』と並んで幕末五部作の...
奈良県大和郡山市の近鉄橿原線筒井駅より北東一体に、かつて筒井城がありました。現在、その城跡は住宅地になっていて遺構はほとんど残っていませんが、その地形から...
昨日、安倍晋三元総理が白昼、公衆の面前で凶弾に倒れました。謹んで哀悼の意を表し、心よりご冥福をお祈り申し上げます。 暗殺された総理大臣経験者は過去にも6人...
信貴山城から東へ直線距離で約3km、椿井城から西へ約1kmのところに、かつて下垣内城と西宮城という2つの城が隣接していました。この2つの城は、確かな史料は...
鎌倉殿の13人 第26話「悲しむ前に」 ~頼朝の後継者問題~
前話で源頼朝は死んじゃったかと思っていたのですが、まだ死んでいなかったですね。前回の稿でも述べたとおり、頼朝の死は突然だったようで、通説では落馬して間も...
前稿のつづきです。椿井春日神社の鳥居の横に、古墳があります。 宮山塚古墳という名称だそうです。 形状は円墳ですね。古墳前に説明板が設置されています。 説明...
椿井城跡西麓を歩く。 その1 <平等寺春日神社と椿井春日神社>
前稿まで大和椿井城跡を攻城してきましたが、椿井城跡跡西麓にある史跡もめぐってきましょう。椿井城跡跡西麓には、ふたつの春日神社があります。 まずは、平等寺春...
建久10年(1199年)1月13日、源頼朝がこの世を去りました。享年53。それは突然の死だったようで、報せを受けた京都の公家たちの日記には、驚きの様子が...
「その1」のつづきです。椿井城跡最南端の曲輪に到着しました。はるか向こうに見えるのは、生駒山です。 案内板が設置されているようです。 案内板です。椿井城は...
信貴山城から東へ直線距離で約4kmのところに、かつて椿井城がありました。椿井城は、築城時期、城主に関する確実な史料が残っていないため、当初は在地土豪の椿井...
鎌倉殿の13人 第24話「変わらぬ人」 ~源範頼粛清と大姫入内計画~
建久4年(1193年)5月28日に起きた曾我事件の2か月後、源頼朝と実弟・源範頼が失脚しました。時期的に見て、曾我事件と関連していたと見ていいでしょう。...
先日、映画『大河への道』を観てきました。伊能忠敬を主人公にした大河ドラマの誘致に奮闘する千葉県香取市役所の職員と、200年以上前につくられた忠敬の日本地...
鎌倉殿の13人 第23話「狩りと獲物」 ~曾我兄弟の仇討ち~
後白河法皇の喪が明けた建久4年(1193)5月、源頼朝は下野国那須野、信濃国三原野、駿河国富士野などの各地で大規模な巻狩りを催しました。「巻狩り」とは、...
前稿で奈良県王子町の達磨寺にある松永久秀の墓参りをしましたが、もうひとつ、信貴山城跡から南東約3km、支城の立野城から南西約1kmのところに、松永久秀の供...
信貴山城跡から南東約4kmのところにある達磨寺に、松永久秀の墓があります。達磨寺は聖徳太子ゆかりの寺院として知られます。 寺伝によると、達磨寺の創建は推古...
鎌倉殿の13人 第22話「義時の生きる道」 ~頼朝の上洛、後白河法皇の薨去、頼朝の征夷大将軍任官~
奥州合戦の翌年の建久元年(1190年)11月7日、源頼朝はついに上洛します。奥州藤原氏の脅威がなくなったために実現した上洛でした。頼朝は千騎の大軍を率い...
鎌倉殿の13人 第21話「仏の眼差し」 ~奥州合戦と八重の死~
奥州合戦は描かれませんでしたね。藤原秀衡、源義経が死んでしまって役者がいなくなりましたし、北条義時が主人公の物語としてはまだまだ先が長いので、省けるとこ...
信貴山城から直線距離で南東約6km、立野城から南東約4kmのところに、かつて片岡城がありました。別名、下牧城とも呼ばれます。ここも、立野城と同じく信貴山城...
信貴山城から直線距離で約2km南東に、かつて立野城がありました。現在、城跡は住宅街として整備されてしまったため遺構は残っていませんが、奈良県生駒郡三郷町城...
鎌倉殿の13人 第20話「帰ってきた義経」 ~源義経の最期~
追われるように都落ちした源義経は、再起を図って九州に向かうも、途中暴風のために船が難破し、摂津に戻ってきました。その後は寺社などに匿われながら、吉野、鞍...
前稿まで松永久秀の居城・信貴山城を攻めましたが、奈良県にはもう1ヶ所、松永久秀の居城がありました。奈良市内の中心地、東大寺からほど近い場所にあった多聞山城...
鎌倉殿の13人 第19話「果たせぬ凱旋」 ~日本第一之大天狗~
兄の源頼朝より鎌倉入りを拒否され、所領もことごとく没収された源義経でしたが、改元して間もない文治元年(1185年)8月16日、頼朝の申請によって伊予守に...
松永久秀終焉の地・信貴山城。 その4 <北曲輪群~松永屋敷跡>
「その3」のつづきです。主郭跡まで攻略しましたが、信貴山城には主郭から北側に扇状に広がる東西550m、南北700mの城域に、大小120以上の曲輪が配置され...
「その2」のつづきです。雌嶽曲輪まで攻略したので、雄嶽の山頂にある信貴山城主郭を目指します。 前稿で紹介した鞍部からのスタートです。誘導板には信貴山城跡ま...
鎌倉殿の13人 第18話「壇ノ浦で舞った男」その1 ~平家滅亡~
「その1」のつづきです。 屋島の戦いに敗走した平家軍は、安徳天皇とともに最後の拠点である長門彦島に逃れました。一方、屋島の戦いに勝利した源義経軍は、熊野...
鎌倉殿の13人 第18話「壇ノ浦で舞った男」その1 ~屋島の戦い~
今回は屋島の戦いから壇ノ浦の戦い、そして腰越状による源頼朝、義経兄弟の決裂まで、一気に話が進みましたね。これが頼朝もしくは義経が主人公の物語であれば、数...
「その1」のつづきです。朝護孫子寺を参拝したので、信貴山城を攻め登りましょう。 上の写真は朝護孫子寺本堂から見た信貴山です。今からあの山を登ります。 登山...
大和国と河内国の国境にある生駒山系に属する標高433mの信貴山山上に、かつて信貴山城がありました。信貴山城は、戦国の三梟雄のひとりとして知られる松永久秀が...
鎌倉殿の13人 第17話「助命と宿命」 ~源義高、藤内光澄、一条忠頼の粛清~
木曾義仲の滅亡によって、源頼朝は他の源氏勢力を圧することとなり、名実ともに源氏の棟梁とみなされるようになりました。しかし、それをさらに盤石なものとするに...
「その2」の続きです。標高301mの瓜生山頂に登ってきました。 主郭西側の虎口跡と思われます。 微妙に喰い違い形状になっています。 主郭です。 将軍山城と...
「その1」のつづきです。狸谷山不動院の境内を抜け、いよいよ将軍山城跡のある瓜生山頂を目指します。 登山口には鳥居があります。山頂の主郭には幸龍大権現の社が...
足利将軍家ゆかりの将軍山城。 その1 ~狸谷山不動院登山口~
京都洛中の鬼門にあたる北東、京都御所と比叡山を直線で結んだちょうど中間地点あたりにある標高301mの瓜生山頂に、かつて足利将軍家ゆかりの山城がありました。...
鎌倉殿の13人 第16話「伝説の幕開け」その2 ~一の谷の戦い~
「その1」のつづきです。 木曾義仲を倒した源義経軍は、その喜びに浸る間もなく、寿永3年(1184年)正月29日、平家追討に出陣します。一時は西国に落ちて...
鎌倉殿の13人 第16話「伝説の幕開け」その1 ~木曾義仲の滅亡~
寿永2年(1183年)11月19日、源義仲軍が後白河法皇の御所となっていた法住寺殿を襲撃しました。法皇方は奮戦するも、百戦錬磨の義仲軍に敵うはずもなく、...
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龍野古城(鶏籠山城)から紅葉谷を下山する途中に、野見宿禰と書かれた誘導板がありました。せっかくなので、行ってみることに。 しばらく進むと、「力水」と書かれ...
「その2」のつづきです。龍野古城Ⅰ郭エリア北側から、搦手道を下山します。 Ⅰ-8郭まで降りてきました。ここは主郭並みに広い曲輪です。 縄張り図を載せます。...
「その1」のつづきです。龍野古城Ⅰ郭エリア南側虎口から段曲輪を登ります。 Ⅰ-3郭切岸に、立派な石積みが残っています。 おおっ、これはスゴイ! 石積みの上...
今回は姫路の西に位置する兵庫県たつの市にある龍野城です。龍野城には、鶏籠山山頂の山城と山麓の平山城の時代があり、山城は鶏籠山城、朝霧城、麓の城は霞城と呼ば...
嘉吉の乱によって赤松満祐に謀殺された室町幕府6代将軍足利義教の首塚が、兵庫県加東市にある安国寺にあります。全国各地に「安国寺」という名称の寺がありますが、...
兵庫県姫路市のお城といえば、誰もが思い浮かべるのは世界文化遺産の姫路城ですが、戦国時代より前の15世紀には、姫路城の少し北西に位置する坂本城が播磨国の守護...
今回は兵庫県小野市にある河合城跡を歩きます。堀殿城ともいいます。ここも、播磨守護職の赤松氏が東播磨の拠点として築いたとされ、赤松氏一族の上月氏が城主を務め...
「その2」のつづきです。小谷城第5郭まで降りてきました。 縄張り図では、この東側に大堀切があって、西小丸と分断されています。 ここで、山頂にあった縄張り図...
「その1」のつづきです。標高は218mの小谷城城域に入りました。 麓から見えた看板。第3郭の南側に設置されています。 その看板の南側は、帯郭が東西に伸びて...
兵庫県加西市の中心市街地の北条町北側の標高218mの城山山頂に、かつて小谷城がありました。有名な北近江の小谷城は「おだに」と読みますが、ここは「こたに」と...
「その1」のつづきです。善防山城主郭まで制覇したので、次は尾根伝いに東郭を目指します。 主郭東側の虎口跡。一応、左へ曲がって右へ曲がる食い違い虎口になって...
もすぐ桜の季節になりますが、今回は2年前の桜のシーズンに訪れた善防山城を攻めます。今回も赤松氏の城です。善防山城はかつての播磨国、現在の兵庫県加西市にある...
「その2」のつづきです。石塁のあった城山城Ⅱ区からさらに南下します。 説明看板が現れました。現在地と書かれているところがこの場所です。広い削平地になってい...
「その1」のつづきです。城山城跡の北側城域に入りました。 堀切と土塁と書かれた看板があります。 まあ、たしかに堀切っちゃあ堀切かな。薄いけど。 土塁です。...
西播磨を南流する揖保川と、北西より合流する支流の栗栖川が形成する平野を東に臨む標高458mの亀山(きのやま)の山頂に、かつて城山城がありました。ここは、奈...
「その2」のつづきです。楯岩城本丸エリアに入りました。 ここは北西段曲輪のいちばん下の曲輪です。本丸エリアは、頂上の主郭を中心に北西南の三方に段郭が伸びて...
「その1」のつづきです。楯岩城三ノ丸エリアに入りました。本丸、二ノ丸、三ノ丸といった呼び方は豊臣時代以降のものですが、麓にあった縄張り図と鳥観図にそう書い...
今回も播磨国の赤松氏の城・楯岩城を攻めます。別名「太田城」ともいいます。播磨の山城のほとんどは、赤松氏の嫡流、庶流のどこかに関連していますが、ここは、赤松...
久しぶりに大河ドラマのレビューです。第10話では花山天皇の出家事件が描かれましたね。寛和2年(968年)6月23日の丑剋(午前1時から3時)花山天皇が秘か...
「その3」のつづきです。置塩城の南側と東側を攻略したので、次は西側曲輪群に向かいます。 誘導看板には「伝三ノ丸跡」とあります。 虎口っぽい切岸を登ると・・...
金ヶ崎の戦いで京都に逃げ帰った織田信長は、その約2ヶ月後の元亀元年(15670年)6月、大軍を率いて北近江に侵攻します。その目的は、金ヶ崎の戦いの際に反...
永禄13年4月20日(1570年5月24日)、織田信長は北国に攻め入るため京都を出陣しました。『言継卿記』によると、その軍勢は3万にも及んだといいます。そ...
永禄12年(1569年)5月、今川氏真が籠る懸川城を開城させた徳川家康は、氏真夫婦を相模の北条方に引き渡しました。しかし、これは、甲斐の武田信玄と敵対す...
永禄11年(1568年)12月13日、駿河に侵攻した武田信玄の今川館攻めによって駿府を追われた今川氏真は、遠江の懸川(掛川)城に逃れました。今川館は「館...
永禄9年(1566年)12月29日、家康は姓を「松平」から「徳川」に改めました。後世のわたしたちがよく知る徳川家康の誕生です。なぜこの時期に改姓したかと...
今回のサブタイトルは「側室をどうする!」ですが、ひとまず側室の話は後まわしにして、少しだけ描かれた歴史のお勉強をしましょう。 三河一向一揆によって松平...
三河一向一揆の実際の戦闘の経緯については、史料によって情報が錯綜していて、月日などは明確ではありませんが、通説では、永禄6年(1563年)秋にはじまり、...
永禄6年(1563年)に起きた三河一向一揆は、徳川家康の長い人生のなかで、三方ヶ原の戦い、伊賀越えと並んで家康の三大危機とされる出来事です。その理由は、...
ヤマト、999、ハーロック、子供のころ夢中になって観たSF漫画の生みの親、漫画家の松本零士さんが逝ってしまいました。謹んで哀悼の意を表します。わたしの少年...
駿府で人質状態となっていた妻子を奪還した松平元康(のちの徳川家康)は、翌年の永禄6年(1563年)7月6日、名を「家康」に改めました。「元」の字は言うま...
前回に引き続き、駿府で人質状態となっている松平元康(のちの徳川家康)の妻子の奪還劇の回でしたね。前話はほとんどフィクションの回でしたか、今話は史実、通説...
昨日、作家の永井路子さんが亡くなられたという報道がありました。謹んで哀悼の意を表します。 永井さんといえば、やはり中世、特に鎌倉時代の作品ですよね。昨年の...
先日、映画『レジェンド&バタフライ』を観てきました。木村拓哉さんと綾瀬はるかさんという日本のトップスターの共演で、織田信長とその正室・濃姫を主人公とした物...
今回のサブタイトルは「瀬名奪還作戦」。今川を見限り、織田と手を結んだ松平元康(のちの徳川家康)でしたが、気がかりだったのは、妻の瀬名(築山殿)と長男の竹...
滋賀県蒲生郡日野町にかつてあった日野城は、古くは中野城と呼ばれていました。そこで、本稿では日野中野城と呼ぶことにします。日野中野城は、日野の領主・蒲生氏の...
今川氏真を見限った松平元康(のちの徳川家康)は、織田信長との連携に踏み切りました。通説によると、永禄5年(1562年)正月に元康が尾張の清州城に赴き、信...
今回は岡崎に帰った松平元康(のちの徳川家康)が、これまで通り今川に付いて織田と戦うか、あるいは、これを機に今川を見限って織田に与するかという、まさに「ど...
大高城に兵糧を運び込むという役目を成功させた松平元康(のちの徳川家康)でしたが、桶狭間の戦いによって今川義元が落命したという報せを受けると、その日の夜半...
どうするかは誰もが知っている徳川家康の物語が始まりました。長くて濃い家康の生涯ですから、どこを描いてどこを省くかが難しいところだと思いますが、第1話にし...
さて、今年の大河ドラマ『どうする家康』が、1月8日の日曜日から始まりますね。主人公はタイトルどおり、徳川家康。言わずと知れた戦国三英傑のひとりであり、江...