上図は、推古までの古事記と日本書紀の天皇の年齢と在位期間を示したものです。さらに継体紀までは、日本書紀に紀年で書かれた記事の次の記事の年との差を表したものです。 たとえば、最初の神武は、古事記では137歳、日本書紀では127歳、在位期間は日本書紀の紀年記事の
古代遺跡、日本書紀、古事記、各地の伝承などには、大陸文化の痕跡が残されている。それらを持ち込んだ騎馬遊牧民、シルクロードの担い手のソグド人と日本の関わりを探る。縄文の話題。近畿一元史観ではない多元的歴史観について。古田史学の会の応援など。
継体天皇までの年齢と在位期間、及び紀年記事の次の記事との間隔について つくられた万世一系⑸
上図は、推古までの古事記と日本書紀の天皇の年齢と在位期間を示したものです。さらに継体紀までは、日本書紀に紀年で書かれた記事の次の記事の年との差を表したものです。 たとえば、最初の神武は、古事記では137歳、日本書紀では127歳、在位期間は日本書紀の紀年記事の
天皇崩御年が記紀で異なるのは一人の天皇が複数のモデルで記された可能性 つくられた万世一系⑷
図は、古事記に記された天皇崩御年の干支と日本書紀との対照表。右側に干支の順番の番号をつけて、年差がわかるようにしました。たとえば、崇神天皇は、古事記は戊寅で15、日本書紀で辛卯は28。よって13年も異なることになります。このように崇神から継体まで崩御年が異な
景行紀の不自然に間隔のあいた記事の違和感 つくられた万世一系⑶
群馬県高崎市綿貫観音山古墳武人埴輪 景行天皇も116歳と長寿であるが、古事記ではさらに137歳となっており、偶然なのか神武と同じ年齢になっている。ただ書紀の神武は127歳と違っている。天皇としての在位期間も60年と長いが、開
図は神功皇后紀の百済・中国史書との記事対照年表 百済王の崩御即位記事は、二運120年ずらして神功紀にはめ込まれている。(画像はクリックして御覧ください) 日本書紀の中にあって、奇妙な存在のひとりが神功皇后こと気長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト)である。
継体天皇の年齢がなぜ古事記と日本書紀で異なるのか? つくられた万世一系⑴
1.古代の天皇の年齢は二倍年暦によるものなのか 日本書紀には、神武から天武までの間で、年齢が記載されていない天皇の方が多い。神武からいわゆる欠史八代、さらには応神までは途切れることなく記載されているのに、仁徳から武烈までは不記載が続く。図の書紀の年齢の( )
倭の五王が日本書紀の天皇に比定できない理由 武寧王と倭の五王⑵
宋書倭国伝に記された倭の五王、すなわち、讃・珎・済・興・武を、日本書紀の天皇のことだとし、理由を付けて各天皇に当てはめるということが行われている。しかし、掲げた図にもあるように、倭の五王の在位期間と、天皇のそれは全く一致しないのである。とにかく、近畿の
佐賀県唐津市加唐島 オビヤ浦に武寧王生誕地がある 日本書紀には、武寧王誕生の説話が雄略紀と武烈紀の二カ所に登場する。渡来した新羅王子であるアメノヒボコについては、日本書紀や古事記、そして播磨国風土記などにも描かれている。ところが武寧王は、佐賀県唐津市加唐
和泉史談会の古代史講演会の案内です。大阪府和泉市で開催します。 日本の加唐島で生まれたとされる百済の武寧王は、百済王に即位するまでの半生が不明です。どこでどうしていたのでしょうか?ところが、後の桓武天皇の母、高野新笠は、武寧王の子孫だというのです。ど
頭部に蛇が描かれている土偶、縄文中期藤内遺跡出土 長野県諏訪郡富士見町井戸尻考古館 たいていの土偶と同じく、下半身と左手が欠損していたのだが、発見者らが木製の土台に固定させたそうだ。 頭に蛇が表現される土偶は大変珍し
写真は京都府福知山市三和町大原地区、国道173号線沿いの大原神社に隣接の産屋1、日本書紀にみえる臼を背負う天皇の意味 日本書紀には、景行天皇の二年に皇后が双子を生む記事がある。大碓(おほうす)皇子と小碓(をうす)の兄弟の誕生の逸話だが、小碓が後のヤマトタケル
写真は、群馬県渋川市北橘歴史資料館 ガラスケースでの展示で、鮮明には撮れず。 縄文時代後晩期のものと考えられる小さな形の石剣です。出土地は不明のようですが、群馬県前橋市箱田の木曽三柱神社の社宝としてまつられていたとのこと。 全長30センチメートル、
龍鳳文環頭太刀(環頭部)6世紀前半 山清生草M13号墳 国立晋州博物館 任那日本府は、日本書紀の欽明紀のわずか10年ほどの期間に登場する、韓半島における加耶の組織であった。 だが、任那、とはされていないが、雄略紀
5.神武紀に描かれた猟の民俗―宇陀の血原の意味 神武東征の一場面に、菟田(宇陀)の兄猾(えうかし)と弟猾(おとうかし)を天皇は呼ばれたが、弟だけがやってきて、兄は歓待のふりをして襲撃の準備をしていると報告する。そこで道臣命を遣わして、兄猾を責め立てた。追い
3.火に囲まれた大国主が落ちて助かった穴の謎 古事記には、スサノオによる大国主への試練の一節に野原で火に囲まれてしまう場面がある。 鼠來云「內者富良富良、外者須夫須夫」如此言故、蹈其處者、落隱入之間、火者燒過。 鼠来て曰く、「内はほらほら、外はすぶすぶ」
写真は群馬県前橋市柏川歴史民俗資料館 実物大?の落し穴模型 古事記や日本書紀の説話には、当時の民俗から取り入れられたものがあるという事例を取り上げます。1. 落し穴猟の底にある杭の目的は? 縄文時代には、罠用の落し穴が列島全体で100万基を超えると予想さ
埼玉県稲荷山古墳復元礫郭 2015撮影 現在、礫郭はパネルになっているようです。 杖刀人については『山陽公載記』の記述に従って「刀を杖つく人」とする説など、複数の解釈はあるが、いずれにしても杖刀人とは武官であって、大王に近侍する親衛隊、宮廷警備の武人とい
写真は、光州博物館展示の胴部に大きな穴のあけられた土器 こちらは、愛知県朝日遺跡の円窓(まるまど)付土器1.愛知県清須市の朝日遺跡の円窓付土器 環濠のある弥生集落だが、従来、防御施設といった解釈がされてきたが、こちらで示したように、洪水など、水害対策
銅鐸絵画の人物が持つ工字型器具は、機織り用の桛(かせ)が妥当
光州博物館展示機織り道具 右側が桛(かせ)日本の弥生時代にあたる頃のもの1.弥生人が持つのは釣り竿なのか?それとも・・ 銅鐸絵画に、工字型(I字型ともいわれる)の器具をもつ人物が描かれている。なかには下図にあるように工字だけ描かれているものもある。これ
1.大塚ひかり氏の『昔話はなぜお爺さんとお婆さんが主役なのか』(草思社2015)のご紹介 著者は古典エッセイストとして活躍。ユニークな切り口で古典を語っておられる。ここでは、昔話の主人公に見られる特徴から、古代社会の問題を浮き彫りにされている。 柳田国
写真は、奈良の歴史イベントでの服部氏の講演 古代史の通説では語られることはないが、多元史観では、701年に王朝交代があったとする視点での議論がされてきている。ここでは、古田史学の会の服部静尚氏の王朝交代論を簡単に紹介したい。1.日本書紀の最後は次の記
金銅製冠(複製)・金銅製大帯 東京国立博物館展示。 群馬県の山王金冠塚(二子山)古墳は、6世紀後半の前方後円墳。大正4年に金銅製冠が金銅製大帯、馬具類、鉄製甲冑、刀装具類などと共に出土した。金銅製冠は、新羅系のいわゆる出字型金冠であり、これを由水常
写真は、群馬県前橋市大室古墳群の公園内大室はにわ館展示の個人の作品 任那日本府とは、加耶の王族らによる組織であって、けっして、日本の倭国の出先機関でもなければ、軍事組織でもない。日本府が登場するのは、日本書紀だけであり、しかもその中の欽明紀のわずか10
垂仁天皇は田道間守(タヂマモリ)を常世(とこよ)の国に遣わし,非時香菓(ときじくのかくのみ)を求めさせた。しかし、手に入れて戻った時には天皇は亡くなっていた。田道間守は泣き叫んでその場で命を絶ったという。そしてこの非時香菓は古事記、日本書紀とも今の橘である
人類進化に多大な影響を与えた「火」の使用 火打金とポシェット⑶
1.火の使用が決定的だった 人類にとって、火の利用が重要であったことを改めて認識させられる書がある。従来の農耕や初期国家についての定説を覆すような問題提議がなされた『反穀物の人類史』に、初期人類における火の使用が多大な自然環境への影響、食物利用の飛躍的拡大
任那日本府は、日本国(倭国)の出先機関などではなく加耶の組織だった。
任那日本府については、一般的に思われているイメージと、唯一の出典でその根拠となる日本書紀の欽明紀の記述とに大きな隔たりがあるように思われる。 最近では次のような理解になっている。「日本書紀で半島南西部の『任那』を当然のように支配地と見る見方は、今日では
シュメル神話と保食神(ウケモチノカミ)の語呂合わせ シュメルと記紀神話⑴
大いなる女神(左)に拝謁する若い植物女神(右) 山型の椅子に座るニンフルサグ女神は両肩から植物が芽生え、手に穀物の穂を持つ。(円筒印章印影図 アッカド王朝時代BC2334~2154) シュメル神話について書かれた『シュメル神話の世界』には、日本の神話との類似が見
上図の韓半島の地図は5世紀後半から6世紀初めの加耶の範囲を示したもの。 古代の韓半島には、金官加耶、安羅、大加耶といった複数の国々をまとめて加耶と呼ばれる国がありました。百済と新羅の挟撃に遭い、6世紀半ばには新羅によって滅亡してしまいます。 日本書紀では
「カチカチ山」に描かれた火打金と火打石 火打金とポシェット⑵
1.火打石どうしを打っても発火させるのは困難 まずは、用語の説明をさせていただく。一般的には、火打石を叩いて発火させるものだとされるのだが、これでは少し不正確なのである。火花が出るのは、火打金とされる鉄に焼き入れをして炭素を含ませた鋼が硬質の石との打撃で削
セティ1世王墓壁画 王の喪船を曳く従者 古事記仲哀天皇記の押熊王の反乱という説話では、神功皇后が危険を予知し、御子が亡くなったとの偽情報を流し、喪船を用意して出航して敵に臨むという一節がある。敵を欺くための皇后による策略であるが、実はこの箇所が古来
新しく立てたトーテムポールに集うカナダのハイダグワイの村人たち(上村幸平氏撮影) 三内丸山遺跡の巨大な柱穴と木柱痕から、高層の六本柱の建造物を想定することには無理があり、復元されてシンボルタワーのような存在になっている構造物が虚偽であることを明らか
群馬訪問の目的の一つに、火打金について新たな情報を得たいという思いもあったが、高崎市吉井郷土資料館では、関係する展示品をいくつも見ることが出来た。 そこで火打金のセットを2000円で購入した。これはネットで注文するよりもお得だったかもだが、これはカスガイ型
1.三人童女埴輪 後円部墳丘西側から前方部くびれ方向に向かって、人物埴輪の一団が置かれていた。三人童女埴輪をあいだにして、対座するように、合掌する男子と祭具を捧げ持つ女子埴輪という構図の埴輪群を、祭人像グループとも呼ばれる(大塚2017) 古墳の前に立てられた
二段目に作られた切り石を積み重ねた巨大石室 綿貫観音山古墳⑴
群馬県高崎市綿貫観音山古墳の横穴式石室は未盗掘のため豊富で豪華な副葬品を持つものであったが、その石室そのものも巨大で、見ごたえのあるものであった。 壁石材は四角に加工されたブロックを積み重ねて作られているというのも見事。中に入れば感動もので、スカッシュ
おしゃれを競い合っていたかもしれない縄文女性の耳飾り 『万物の黎明』から思うこと
伊勢崎市赤堀歴史民俗資料館 縄文晩期釜の口遺跡の土製耳飾 1.耳飾りの美に感嘆する。 写真は、直径5センチは下らない縄文のピアスの耳飾り。もちろん粘土細工だが、器用な縄文人が作りだした芸術作品のようであり、今でもこのようなデザインの装飾品があっても通用
群馬県高崎市観音塚考古資料館の展示の様子。巨大パネルが連なった圧巻の展示ディスプレイです。 観音塚古墳は石室そのものは、あの巨大な墳丘を持つ奈良県見瀬丸山古墳を少し小さくしたものではあるが、たいへん立派な巨石が使われた石室を見に行ったのですが、蚊の襲
ヨロイを着けた古墳人と、縄文土器、埴輪も見ごたえありの「発掘情報館」
群馬県埋蔵文化財調査センターにある発掘情報館は二度目の訪問だったが、前にはなかったヨロイを着けた古墳人のレプリカの展示には驚いた。 渋川市の金井東裏遺跡のものだが、今まで背中のヨロイだけが姿を見せている写真しか知らなかったのだが、ここでは、その背中側の
不思議な群馬県の八角形倉庫 伊勢崎市赤堀歴史民俗資料館の八面甲倉
群馬には、八角形古墳が複数見られるのだが、古代の建物にも八角形がある。伊勢崎市赤堀歴史民俗資料館で、解説パネルと復元模型を見ることができる。 伊勢崎市三軒屋遺跡から、礎石があったと判断される柱穴と、その前にも掘立柱式の八角形倉庫が見つかったという。そ
相澤忠洋氏の採集した旧石器の数々を見る事ができる。土地を自分で購入して調査を行うといったエピソード、納豆売り用の自転車の展示など、並々ならる苦労をされたことが知れる博物館だが、中には、少し気になる展示品もあって、たまたま菱形のように割れただけの自然石の
安中市学習の森 ふるさと学習館の2階に考古・歴史資料の展示室がある。前回の群馬訪問では、パスしてしまったのだが、今回、見に行ってよかったと思う豊富でユニークな展示資料であった。 はじめの写真は、四隅にイノシシが表現された土器だが、頭部の形が丸いので、まる
三津屋古墳は平面だけでなく立体的にも八角形がわかる貴重な古墳
北群馬郡吉岡町にある全国にもめずらしい正八角形墳であり、その姿を内部まで間近に見る事ができる。 この八角墳は全国に10基あまり、東日本に5基で、その中に伊勢塚古墳(不正という但し書き付きだが)、吉井町の一本杉古墳、多摩市稲荷塚古墳、山梨県一ノ宮経塚古墳が
群馬に古墳見学をされるなら必見の、西日本ではお目にかかれない芸術的な石室であり、それは飛白(かすり)模様とか水玉模様ともいわれる。 6世紀代の東日本で最大級、全長145mの前方後円墳である七輿山古墳のトイレを兼ねたパネル展示室のある駐車場に車を停めて、北へ
群馬県前橋市大室古墳群は、長径が1㎞にも及ぶ大室公園として整備されている。その中の6世紀初頭の前二子古墳は墳丘長が94mでその周囲を堀や外堤が取り巻く。全体がベンガラで塗られた横穴式石室で、ここが吉永小百合さんのポスターになっている。副葬品には、青色ガラス
古墳の石室を見る吉永小百合さんをモデルにされたJR東日本のポスター。これは2020年に企画されたキャンペーンのもの。群馬の博物館などに今も掲示されています。関西ではあまり見かけないものですが、博物館で初めて見ました。小百合さんがモデルとなれば、やはり絵になり
七支刀については、埴輪の例もあるように、鹿角をモチーフにした霊剣であったと考えるが、ではその霊剣がどのように倭国にもたらされたのか、百済との関りで私見を提示したい。1.銘文の一般的な解釈表 泰和四年十一月十六日丙午正陽造百練銕七支刀出辟百兵冝供供侯王□
『加耶』2022年度国際企画展示 歴史民俗博物館図録より 欽明天皇の時代に滅んだはずの任那に関する記事が、半世紀以上あとの推古天皇の時代に登場するといったことが他にもある。推古8年2月に新羅と任那の交戦記事がある。天皇は任那救援の指示を
型吹亀甲文紺色坏 慶州天馬塚 6世紀 類例は4世紀頃の東地中海から黒海周辺、南ロシアなど広く分布しているが、東アジアでは唯一の出土例とのこと。 『ユーラシアの風新羅へ』より 日本書紀は、古代の情報が豊富に綴られた重要な書物である。しかし、その記述には、様
隋書の倭が俀と表記されていることについて、これは倭国のことではなく、俀国という別の国があったという解釈が繰り返されている。だが、一般的には俀は倭に修正されて記述されている。岩波文庫も『隋書倭国伝』である。図書館で「隋書俀国伝」と検索しても出てこないとこ
縄文後期住居跡から出土した青銅製の刀子 (山形県遊佐町三崎山遺跡) 詳しくは、文化遺産オンライン(こちら)をご覧ください。 縄文時代に青銅器などあり得るのか、とお思いの方も多いはず。研究者の中には、当初、戦時中に中国から持ち帰ったもので
図はDNA分析から日本人の成り立ちの研究をされる篠田謙一氏作成の4万年前の海岸線と人類の移動ルートを表したものである。 この三つのルートが、ほぼ定説のようになっているが、よく見るとこの図には気になる点がある。それは現在の海岸線とともに、氷期の海水面の低下で
(写真は、新潟県長者ヶ原考古館の説明パネル) 弥生時代のみならず、1万年あまりの縄文時代も移住者が自分たちのエリアを開拓しては、既存の集団と交流をし、文化を発展させていった。こういったことは当たり前のようであるが、研究者の多くには不思
天理参考館の中国唐の時代、乗馬ポロを楽しむ女性を描いたもの。おそらく、彼女の右手にマレットが握られていた。このポロが高松塚古墳絵画にも関係している。 同じ古代史の会で奈良新聞の方から、うれしい知らせが届いたので、転載させていただきます。 向かって右側の
写真は、富山県南砺市埋蔵文化財センターの玦(けつ)状耳飾り 大陸始原の遺物と考えられる。1.縄文時代が1万年続いたという誤解 よく縄文時代は1万年以上の長い期間続いたという、世界に類を見ないことだといった表現を目にすることがある。しかしこれは、ちょっと奇妙で
1.後の加耶の地からやって来た弥生移住民 最初の弥生時代の移住者は、半島のどこからやって来たのだろうか?それを示す分かりやすい図がある。支石墓、松菊里型住居(住居の形が円形で中央に穴があり、その両脇に2本の柱がある)、丹塗磨研壺、石包丁という渡来の代表的な
2024. 6月1日(土)史跡めぐりハイキングのご案内JR栗東駅改札口午前10時30分出発→伊勢遺跡史跡公園(学芸員さんに解説をお願いしています)※雨が降らなければここで昼食 → 皇大神社→大宝神社→JR栗東駅乗車、草津駅経由、手原駅下車→栗東歴史民俗博物館→栗東自然観
京都府立植物園のヒトツバタゴです。なんじゃもんじゃ、ともいわれてます。まだ咲きだしたところで、樹齢の高い幹の太いのは、まだこれからのようです。GWの間は、しっかりと楽しむ事ができそうです。 咲いてる場所はこちらのマップです。 次は洛西ニュータウンのラク
上図は、三重県松阪市の宝塚古墳の船形埴輪、下は京都宇治市の庵寺(あんでら)山古墳の衣笠型埴輪 両者の特徴ある形状には共通点があるという。 古墳には周囲を取り巻くように円筒埴輪が置かれていることが多いが、その要所要所に衣笠(蓋)型埴輪が据えられていること
1.被葬者を送るために船形の飾りのついた冠 写真は、滋賀県鴨稲荷山古墳の復元された金銅製冠で、その立飾りの先端は、蝶とか花の形などと一般的に説明されているが、よく見ると宮崎県西都原古墳の船形埴輪と酷似している。舳先の二本の柱、櫂座表現など、これをモデルに
1.失敗だった実験航海 一九八九年に大阪港から釜山まで、古代船の復元による実験航海を行った『なみはや』だが、後日に漕ぎ手が当時のことを語る記事がある。「大阪市立大学のボート部が、二十六名を八~九名の三班に分け、天保山から牛窓、牛窓から福岡、福岡から対馬の各
写真の土器は、京都の比叡山の麓の一乗寺向畑町遺跡のいわゆる注口土器だ。東日本にはユニークな形状や文様のもの注口土器が多くみられるが、この京都の土器は引けを取らない見事なものである。 肩部がそろばん玉の形をしていて、高さは24.8cmとのことだが、かなりの容量
⑸万葉歌の地名をすべて奈良の大和や近畿を中心に考えるのは疑問 竜田山(龍田山)は万葉歌によく登場し、奈良あたりが有名だが、熊本県にも龍田山(立田)があるように、伊勢も三重県以外の各地に見受けられる。万葉歌には次のような地名への疑問がもたれた例がある。注2
次は持統天皇の作とされる有名な万葉歌28番歌である。春過而夏来良之白妙能衣乾有天之香来山 春すぎて夏来るらし白妙の衣干したり天の香具山 この歌にはよく言われてきたことだが、いくつも疑問があった。なぜ春の次に夏が来るという当たり前のことを歌にしたのか、
2.スサノオから試練を受けるオホナムヂ(大国主) オホナムヂが大国主神として成長する物語について、次のような解説がある。「蛇やムカデ、蜂の室に入れられ、さらに野火攻めに遭う話は、成年式儀礼として若者に課せられる苦難と試練とを、神話的に語ったもの」(古事記
モーツァルト晩年の傑作オペラである『魔笛』(初演1791年)は、楽曲そのものの評価とは別にその物語には矛盾があるとか、善悪が途中で逆転するといった批評がある。なんでも作者のシカネーダーとモーツァルトは共にフリーメーソンに加入しており、その教義が筋書きに使わ
3.英雄叙事詩『ベーオウルフ』と古事記の国譲り譚 多ケ谷氏によると、『古事記』国譲り譚では、①外来の英雄神(タケミカヅチ)が②土地の神(タケミナカタ)と③素手の闘い(力競べ)をして、④土地の神の手に損傷を与え(一説では手を抜き取り)、⑤そのため土地の神は湖
1.国譲り譚のタケミカヅチ(建御雷)とタケミナカタ(建御名方)の奇妙な戦い 古事記では国譲りを迫るタケミカヅチに、大国主の二番目の子のタケミナカタが戦いを挑む一節がある。しかし威勢よく現れたタケミナカタだったが、腕が剣に変わったタケミカヅチにたちまち怯んで
古代オリエント世界を支配した二人の王の墓 ペルシャ帝国を創建したキュロス二世(前559~前530)は征服者であったが、バビロン捕囚で連行されたユダヤ人などの帰還を許すなど、寛大な政治を行ったようだ。最後は騎馬民族マッサゲタイ遠征で戦死したと伝えられる。イラン
松田美緒さんのオフィシャルサイトはこちら 同じ史学サークルのお母様を通じて写真を送っていただいてます。ソグド人の有名な壁画や独特の骨壺(オッスアリ)、など掲載します。 ウズベキスタン国サマルカンドのアフラシャブ博物館 7世紀の装飾の納骨器(オ
1.高句麗好太王碑文解釈の問題点 同碑の内容でよく注目される記事が、 「而倭以辛卯年來,渡海破百殘,□□新羅,以為臣民」である。 「倭は辛卯年を以て来たり、海を渡りて百残を破り、(東)のかた新羅を□して、以て臣民と為せり」といった釈読がされてきた。判読不明
1948年に博多湾岸の室見川河口近くより、「延光四年」(125年)の文字がある金属片が発見されたが、中国側の鑑定結果は、清朝の文鎮と言ったものであった。しかし古田武彦氏は、『邪馬一国の証明』のなかで、中国側の鑑定内容に関してコメントされて、字体が稚拙、各時代の文
2024年3月2日に「高地性集落論のいま」という研究代表森岡秀人氏の公開シンポジウムがあった。私のような一般も含め200名を超える参加のなか、20名あまりの専門家の発表・発言がありたいへん有意義な一日であった。 各研究者の発表の多くは、脱高地性集落論といった内容
1.天孫降臨のカラクニ 以下は古事記の天孫降臨の一節。 「向韓國(からくににむかひ)眞來通(まきとほりて)、笠紗之御前(かささのみさき)而、朝日之直刺(たださす)國、夕日之日照國也」 古田武彦氏の解読では、「真来通り」はまっすぐに通り抜けているという感じ
古代において、常識では考えにくい年齢が語られるケースでは、現在の半年の期間を一年でカウントしていた場合があって、天皇の長寿も本当はその半分が実年齢であると考えるのが、二倍年暦である。ただ説明しにくい二倍を超える年数をなんでも倍数で説明するのは、無理があ
記紀などの語る渡来人の記事では、百済、高句麗からの渡来が目立ち、新羅についてはあまり目立たないことが指摘されている(田中2013)。また秦氏の記事はあっても、政治の中枢部での活躍はあまり見られない。こういったことから、記紀は、渡来系移住民の「倭」全体の動向
天智(中大兄)と鎌足の関係は、金春秋と金庾信の関係がモデルだった。 つくられた乙巳の変⑸
1.二人の出会い以外にも参考にされていた。 新羅武烈王の金春秋(603~669)は654年に王に即位しているが、647年に人質として来日し、百済征討の支援をもとめるもかなわず、翌年には唐に渡って派兵を要請している。後に百済を滅ぼし朝鮮半島統一の基礎を固めた。后の文姫は
石川県金沢市チカモリ遺跡の木柱列の謙虚な復元 14.5.16
地中より360点余りの木柱根が360点あまり見つかったチカモリ遺跡。なかには直径最大85cmと、三内丸山遺跡とかわらないものもあった。その公園に木柱列の復元がされているが、そのうちのクリ材を半裁した環状の巨大木柱が高さ2メートルになっている。根元に巨大な木柱根があ
漢数字の一のような表現のある石川県御経塚遺跡の縄文土器14.5.16
写真は石川県野々市(ののいち)市ふるさと歴史館の展示品。御経塚遺跡は縄文時代の後期中ごろから弥生時代初頭、今から3,700年から2,500年前の大集落の跡地で、縄文の出土品などが多数展示されている。面白い文様のものがいくつもあるが、その中にひょっとして漢数字の「
山田康弘氏の『縄文時代の歴史』(講談社現代新書2019)には次の一節がある。「一つの住居に何人ぐらいの人が生活していたのかという問いに対しては、住居の拡張面積などの検討から、居住者数=(住居跡の床面積)÷3(人が手足を大きく伸ばしたときの広さ)-1 という
日本書紀・古事記には時代の合わない記事が多数練り込まれており、その中には外来の要素が盛り込まれている場合が少なからず見受けられる。 古事記の崇神天皇の段に、苧環(おだまき)型蛇聟入伝承といわれる奇譚説話がある。夜な夜な活玉依毘売(イクタマヨリヒメ)の所
カスピ海の東隣りのアラル海から東南方向に、ソグド人のホーム・グランドである二十余国の都市国家からなるソグディアナがあった。彼らには、漢文史料によると出身地別に漢語の姓が付けられて、何世代にも用いられ続けていたという。ソグド人の中国姓で出身地がわかるとい
英雄マナスの伝説における二倍年暦の場合の、一か月の日数の問題
英雄マナスを語るキルギスの老人(ウィキペディア)1.英雄の異常出生譚 以下は「シルクロードの伝説」のキルギス(柯爾克孜)族の男、マナス(瑪納斯)のお話。 はるか昔、ジャケップ(加庫甫)夫婦は百歳にもなるのに子がなかった。ある年、妻の
東アジア考古学の門田誠一氏が2023年第13回日本考古学協会賞大賞を受賞された著作。 その対象となった研究書が『魏志倭人伝と東アジア考古学』(吉川弘文館2021)(こちら) 魏志倭人伝に記された倭と倭人の事物・習俗・社会を、同時代の史書・文献、考古資料
弥生時代の環濠遺跡やその出土物を、真っ先に軍事面でとらえる傾向があるのは、その背景に魏志倭人伝の「倭国乱」の解釈の誤解があって、卑弥呼登場までの長期間にわたって大規模な内乱があったかのように刷り込まれてしまったことが要因と考えられる。 早くに古田武彦氏
「弥生時代中期前葉~中葉(紀元前4~前2 世紀)集落が大きく広がり、南居住域と北居住域、東墓域と西墓域など、集落の基本的な配置が定まりました。北居住域の南側には、環濠・逆茂木・乱杭等からなる強固な防御施設が築かれました」 上記は、あいち朝日遺跡ミュージアム
『何が歴史を動かしたのか』(雄山閣)所収の、藤田三郎氏の「唐古・鍵遺跡と清水風遺跡の絵画土器」についてふれさせていただく。⑴防御面が強調される弥生環濠の役割への新解釈 既に藤田氏は『ヤマト王権誕生の礎となったムラ 唐古・鍵遺跡』(2019)において、大規模な多
新潟県糸魚川市長者ヶ原考古館展示品の井の上遺跡からの出土で、男女の文様が描かれた土器です。糸魚川市と上越市のおよそ中間の海岸近くの舌状台地に広がる縄文中期から古代の大規模な遺跡でした。土砂崩れなどで多くは破壊されて住居址らしいものは見当たりませんが、
古代から水神や在地の守護神とするような蛇信仰があった。人の命を奪う毒牙を持つものもあり、姿を見かけると多くの人が忌避するであろう蛇を、人はどうして神にしたのか。しかも崇められるはずが神話では最後に一刀両断に切られるのは何故なのか。人が蛇
言わずと知れたビートルズのジョン・レノンは、小野洋子から様々なことを学んでいる。解散後のジョージ・ハリスンのコンサートに友情出演することになっていたのに、本番当日にいつまでたっても姿を見せないジョンに、ジョージは電話を入れてせかすが、彼は今日は日が悪
弥生土器の船絵に描かれた櫂の支点となる輪(カイビキ) 岐阜県大垣市荒尾南遺跡絵画土器の半円形弧線
『何が歴史を動かしたのか 第二巻』所収の、深澤芳樹氏らの「荒尾南遺跡の船絵に付属する半円形弧線について」にふれてみたい。1.弥生時代の櫂に支点を設けた漕法の表現 何やらムカデのようにも見える弥生土器の線刻絵画だが、その櫂の船べりに半円形が描かれている。言わ
1.戸惑う研究者の背景にあるもの NHK放送の「フロンティア 日本人は何者なのか」では、古墳時代の人のDNAの解析結果に驚き、戸惑いながら語る研究者が描かれている。これまでは、縄文人と弥生人の二重構造で説明されてきた日本人のルーツだが、実は古墳時代に第三のDNAが
福岡県古賀市の船原古墳(古墳時代後期)で出土した金銅製馬具の一つは、揺れるときらきらと輝く歩揺(ほよう)付き金具を複数組み合わせた飾りであったという。市教育委員会と九州歴史資料館は「極めて華麗なデザインで、出土例がない」と発表している。 他にも杏葉(ぎ
12.8.29久々野歴史民俗資料館 岐阜県高山市久々野町にあり、縄文時代の堂之上遺跡の竪穴住居などを復元した公園と隣接しています。 写真の土器のデザインは展示品の中でも特に気を引くものです。顔が表現されたように見えますが、縄文土器ではよく使われる文様の
NHKフロンティア「日本人とは何者なのか」の衝撃 古墳時代に第三の渡来人DNAが6割
NHKフロンティア「日本人とは何者なのか」 「常識がくつがえされる」と謳われるが、その「常識」とは、これまで渡来人問題にまともに向き合おうとしなかった人たちの視野の狭い「常識」にすぎない。 古代のDNA分析で、縄文人と弥生人の二重構造で日
古墳時代のDNA分析結果に当惑する研究者たち NHK フロンティア「日本人とは何者なのか」の衝撃
NHK フロンティア「日本人とは何者なのか」 ⑴ 驚きのインドシナ半島のマニ族の姿 タイのパッタルンというところの森の奥地。そこに古くから、孤立してくらす森の民がいた。はるか古代から変わらぬ生活をしており、そのDNAは縄文人と近似しており、
CDが登場してから、レコードは聞かなくなって、オーディオも処分してしまっていたが、CDより音がいいという評判の声もよく聞かれるようになって気になっていた。ただ家にはやんちゃな猫さんがいるので、迷っていたが、まあ試しにと安価なプレーヤーを購入してみた。もう30
秋田県鹿角(かずの)市大湯環状列石後期BC1800頃 高さ5.8cm 滋賀県のミホミュージアムの土偶展で見た時に、とても小さくてかわいいと思いましたが、これをシャーマンが呪術などに使ったかどうかはわかりません。だがこの土版、小型であっても縄文人がある程度の数
16.03.20富山県南砺市埋蔵文化財センターHPはこちら FBもあります。 みなみとち市ではなく「なんと市」です。 上図は、黒曜石で作られた両頭尖頭器。縄文時代前期前半の東北地方を中心に、わずか20例ほどの出土という珍しいもので、この北陸ではこれだけという貴重
日本書紀の斉明紀には、いわゆる狂心(たぶれごころ)の渠(みぞ)といわれた大工事をおこなったという記事がある。一般的には、奈良県の、香具山の西から現在の天理市付近と考えられる石上山までに至るもので、石を運搬するための運河と呼ぶべきものと考えられている。石
記紀の天若日子の返り矢の話のルーツは、ニムロッドの矢のことではなかった
天孫降臨のための先遣隊として、高御産巣日(タカミムスヒ)は、天若日子(アマワカヒコ)を送り出したが、いっこうに戻って報告する気配がない。そこで様子を知るために鳴き女と言う名の雉(キギシ)を遣わすが、天若日子が矢で射殺してしまう。その矢は、タカミムスヒの
『史跡巡りハイキングのご案内』古田史学の会 済 當麻の地をめぐる2023・12月2日(土)集合 近鉄当麻(たいまでら)駅改札口 午前10時05分※大阪方面は、大阪阿部野橋駅より近鉄南大阪・吉野線準急 河内長野行 9時4分発に乗車奈良方面は、橿原神宮前駅から近鉄南
民俗学の視点で『長柄の人柱』の伝説の意味を解明された若尾五雄
『長柄の人柱』の説話について。大阪市の淀川の長柄橋の架橋工事は、大水のたびに壊れて工事に苦渋していたが、この時に垂水 (現吹田市垂水町)の長者・巌氏が「架橋を成功させるには人柱が必要。袴につぎの当たった者を人柱に」と役人に進言した。ところが自分の袴につぎが
「ブログリーダー」を活用して、hidetyakoさんをフォローしませんか?
上図は、推古までの古事記と日本書紀の天皇の年齢と在位期間を示したものです。さらに継体紀までは、日本書紀に紀年で書かれた記事の次の記事の年との差を表したものです。 たとえば、最初の神武は、古事記では137歳、日本書紀では127歳、在位期間は日本書紀の紀年記事の
図は、古事記に記された天皇崩御年の干支と日本書紀との対照表。右側に干支の順番の番号をつけて、年差がわかるようにしました。たとえば、崇神天皇は、古事記は戊寅で15、日本書紀で辛卯は28。よって13年も異なることになります。このように崇神から継体まで崩御年が異な
群馬県高崎市綿貫観音山古墳武人埴輪 景行天皇も116歳と長寿であるが、古事記ではさらに137歳となっており、偶然なのか神武と同じ年齢になっている。ただ書紀の神武は127歳と違っている。天皇としての在位期間も60年と長いが、開
図は神功皇后紀の百済・中国史書との記事対照年表 百済王の崩御即位記事は、二運120年ずらして神功紀にはめ込まれている。(画像はクリックして御覧ください) 日本書紀の中にあって、奇妙な存在のひとりが神功皇后こと気長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト)である。
1.古代の天皇の年齢は二倍年暦によるものなのか 日本書紀には、神武から天武までの間で、年齢が記載されていない天皇の方が多い。神武からいわゆる欠史八代、さらには応神までは途切れることなく記載されているのに、仁徳から武烈までは不記載が続く。図の書紀の年齢の( )
宋書倭国伝に記された倭の五王、すなわち、讃・珎・済・興・武を、日本書紀の天皇のことだとし、理由を付けて各天皇に当てはめるということが行われている。しかし、掲げた図にもあるように、倭の五王の在位期間と、天皇のそれは全く一致しないのである。とにかく、近畿の
佐賀県唐津市加唐島 オビヤ浦に武寧王生誕地がある 日本書紀には、武寧王誕生の説話が雄略紀と武烈紀の二カ所に登場する。渡来した新羅王子であるアメノヒボコについては、日本書紀や古事記、そして播磨国風土記などにも描かれている。ところが武寧王は、佐賀県唐津市加唐
和泉史談会の古代史講演会の案内です。大阪府和泉市で開催します。 日本の加唐島で生まれたとされる百済の武寧王は、百済王に即位するまでの半生が不明です。どこでどうしていたのでしょうか?ところが、後の桓武天皇の母、高野新笠は、武寧王の子孫だというのです。ど
頭部に蛇が描かれている土偶、縄文中期藤内遺跡出土 長野県諏訪郡富士見町井戸尻考古館 たいていの土偶と同じく、下半身と左手が欠損していたのだが、発見者らが木製の土台に固定させたそうだ。 頭に蛇が表現される土偶は大変珍し
写真は京都府福知山市三和町大原地区、国道173号線沿いの大原神社に隣接の産屋1、日本書紀にみえる臼を背負う天皇の意味 日本書紀には、景行天皇の二年に皇后が双子を生む記事がある。大碓(おほうす)皇子と小碓(をうす)の兄弟の誕生の逸話だが、小碓が後のヤマトタケル
写真は、群馬県渋川市北橘歴史資料館 ガラスケースでの展示で、鮮明には撮れず。 縄文時代後晩期のものと考えられる小さな形の石剣です。出土地は不明のようですが、群馬県前橋市箱田の木曽三柱神社の社宝としてまつられていたとのこと。 全長30センチメートル、
龍鳳文環頭太刀(環頭部)6世紀前半 山清生草M13号墳 国立晋州博物館 任那日本府は、日本書紀の欽明紀のわずか10年ほどの期間に登場する、韓半島における加耶の組織であった。 だが、任那、とはされていないが、雄略紀
5.神武紀に描かれた猟の民俗―宇陀の血原の意味 神武東征の一場面に、菟田(宇陀)の兄猾(えうかし)と弟猾(おとうかし)を天皇は呼ばれたが、弟だけがやってきて、兄は歓待のふりをして襲撃の準備をしていると報告する。そこで道臣命を遣わして、兄猾を責め立てた。追い
3.火に囲まれた大国主が落ちて助かった穴の謎 古事記には、スサノオによる大国主への試練の一節に野原で火に囲まれてしまう場面がある。 鼠來云「內者富良富良、外者須夫須夫」如此言故、蹈其處者、落隱入之間、火者燒過。 鼠来て曰く、「内はほらほら、外はすぶすぶ」
写真は群馬県前橋市柏川歴史民俗資料館 実物大?の落し穴模型 古事記や日本書紀の説話には、当時の民俗から取り入れられたものがあるという事例を取り上げます。1. 落し穴猟の底にある杭の目的は? 縄文時代には、罠用の落し穴が列島全体で100万基を超えると予想さ
埼玉県稲荷山古墳復元礫郭 2015撮影 現在、礫郭はパネルになっているようです。 杖刀人については『山陽公載記』の記述に従って「刀を杖つく人」とする説など、複数の解釈はあるが、いずれにしても杖刀人とは武官であって、大王に近侍する親衛隊、宮廷警備の武人とい
写真は、光州博物館展示の胴部に大きな穴のあけられた土器 こちらは、愛知県朝日遺跡の円窓(まるまど)付土器1.愛知県清須市の朝日遺跡の円窓付土器 環濠のある弥生集落だが、従来、防御施設といった解釈がされてきたが、こちらで示したように、洪水など、水害対策
光州博物館展示機織り道具 右側が桛(かせ)日本の弥生時代にあたる頃のもの1.弥生人が持つのは釣り竿なのか?それとも・・ 銅鐸絵画に、工字型(I字型ともいわれる)の器具をもつ人物が描かれている。なかには下図にあるように工字だけ描かれているものもある。これ
1.大塚ひかり氏の『昔話はなぜお爺さんとお婆さんが主役なのか』(草思社2015)のご紹介 著者は古典エッセイストとして活躍。ユニークな切り口で古典を語っておられる。ここでは、昔話の主人公に見られる特徴から、古代社会の問題を浮き彫りにされている。 柳田国
写真は、奈良の歴史イベントでの服部氏の講演 古代史の通説では語られることはないが、多元史観では、701年に王朝交代があったとする視点での議論がされてきている。ここでは、古田史学の会の服部静尚氏の王朝交代論を簡単に紹介したい。1.日本書紀の最後は次の記
『史跡巡りハイキングのご案内』古田史学の会 済 當麻の地をめぐる2023・12月2日(土)集合 近鉄当麻(たいまでら)駅改札口 午前10時05分※大阪方面は、大阪阿部野橋駅より近鉄南大阪・吉野線準急 河内長野行 9時4分発に乗車奈良方面は、橿原神宮前駅から近鉄南
『長柄の人柱』の説話について。大阪市の淀川の長柄橋の架橋工事は、大水のたびに壊れて工事に苦渋していたが、この時に垂水 (現吹田市垂水町)の長者・巌氏が「架橋を成功させるには人柱が必要。袴につぎの当たった者を人柱に」と役人に進言した。ところが自分の袴につぎが
【3】スサノオに気づかなかったヤマタノオロチ 有名なオロチ退治の説話も、実はよく考えれば奇妙な点がある。スサノオはクシナダヒメを櫛に変えて髪にさしてオロチに臨む。やってきたオロチは捧げられた酒を飲みほして酔いつぶれる。そこをスサノオが斬りつける。めでたしめ
記紀の説話にはその解釈に誤解があって、本来の話の真意が伝わりにくくなっているものがあることを、いくつかの事例で説明する。既に多くの研究者によって指摘されていることを利用させていただき、そこにわずかな私見を交えて論じるものであ
當麻寺を訪れると、寺の創建年(移築)の説明の掲示が三か所見受けられました。そこに記された年代はいずれも681年となっていますが、それは西暦であって当時の年代表記としては、天皇の紀年や元号、干支で表されているのですが、この掲示板の表記では、西暦は同じでも
古代史講演会案内 済 ありがとうございました【和泉史談会】 11月14日(火):午後2時〜4時 (1時半開場) 『古代史の中の誤解を見直す(2)』講師:大原重雄(ブログ主です。)内容:仁徳天皇のカマドの煙の説話、遣唐使、三輪伝承の鍵穴、 金印の蛇の
スサノオの奇妙で乱暴な行為の数々は、北方騎馬遊牧民にとっては普通の習俗であることを、山口博氏は明らかにしている。(こちら) 他にも同じように日本書紀や古事記には、騎馬遊牧民ら大陸の文化で見ないと理解できない記述がいくつも見受けられる。 古事記のヤマト
当ブログのタイトルの背景写真に使わせていただいたブルーのガラスの勾玉は、島根県出雲市大津町「出雲弥生の森博物館」の展示品。隣接する西谷(にしだに)墳墓群史跡公園の西谷3号墓の第一主体からの出土である。隣り合う第4主体が王墓とされ、二重の木棺からはガラス管
【1】大陸、半島から列島につながる燕国の遼寧青銅器文化 秦王の殺害を企てた燕国はおよそ紀元前十一世紀の春秋戦国時代から、北京あたりで金属器文化を持つ勢力であった。それは遼寧青銅器文化とも呼ばれている。北朝鮮の龍淵洞遺跡から多量の燕の鋳造鉄器や、燕国で流通し
【1】入鹿はどうして刀を俳優(わざひと)に預けてしまったのか? 次は入鹿が自分の剣を預けて座につく場面の一節。「中臣鎌子連、知蘇我入鹿臣、爲人多疑、晝夜持劒。而教俳優、方便令解、入鹿臣、咲而解劒、入侍于座」 用心深い入鹿は常に帯刀しているので、鎌足の策略で俳
【1】秦王(始皇帝)暗殺未遂を描く画像石 石材に図像を彫刻したものを画像石と呼び、築かれた古代の墳墓の装飾品としておかれる。その画像の題材に秦王の暗殺未遂事件を描いたものがよく使われた。なぜこの場面が死者を
⑴日本書紀の打毱(だきゅう) 2022年7月末の新聞報道に、日本古来の遊戯「打毬」に使われた可能性がある木球の記事があった。奈良市の平城宮跡で約三十五年前に出土した木球が、西洋の馬術競技ポロに似た日本古来の遊戯「打毬」に使われた可能性があることがわかったという
市民古代史の会京都 秋の講演会のお知らせ 済 ありがとうございました。2023年11月3日(金)祝日の日です。12時40分開場 13時開始 服部静尚さんは、「王朝交代の真相」の講演です。平城京の大和朝廷は、7世紀末の前王朝にとってかわったものなのです。この歴史の真実を
隋書倭国伝(岩波文庫)に記された婦が夫の家に入る際に犬〔火〕を跨ぐ、とあることについて、犬の可能性について検討(1)してきたが、現在も世界の各地で報告されている火に関わる婚姻儀礼とすることがやはり妥当であり、さらにこのことが九州の地を裴世清が見聞してい
三内丸山遺跡のシンボルのような存在となっている大型掘立柱建物(通称六本柱)は、復元にあたっては異論もあって、結局は妥協の産物とでもいえるような屋根のない床三層の違和感のある建物に落ち着いた。報告書や解説本を見る中でいくつか疑問点が浮かび、その後の検討の
ソグド人の研究が進んでおり、この集団の果たした歴史的役割が浮き彫りにされてきている。わずかだが、そのほんの一部を抜粋させていただく。 森部豊『唐―東ユーラシアの大帝国』中公新書2023 より「最近、隋唐革命が成功した別の要因も明らかになってきている。それ
古事記の下巻の仁徳記の前に、次のような記述がある。 起大雀皇帝盡豐御食炊屋比賣命凡十九天皇 仁徳(オホサザキノスメラミコト)から推古(トヨミケカシキヤヒメノミコト)まで十九の天皇、だとされている。ところが、実際の記事は十八代で一人少ないのである
◇九州年号一覧表 (倭国年号とも表記) 701年からの大和朝廷の「大宝」以前の517年より、九州王朝によって作られた年号。 九州年号については、後世の偽作といった論調がありますが、例えば聖武天皇は神亀元年(七二四年)十月一日の詔勅の中で、 「白鳳より以
3. 狭穂彦王のセリフ、「枕を高くして百年を終える」という現代語訳の疑問 次は、日本書紀の垂仁天皇紀の狭穂彦王と妹の狭穂姫が、天皇殺害を企てるも果たせずに自分たちの身を亡ぼすという顛末の説話。妹に対して、狭穂彦王の次のような台詞がある。 「必與汝照臨天
2. 三十年も泣いてばかりいる誉津別命 日本書紀の垂仁天皇二十三年秋九月の記事。天皇暗殺をもくろんだ狭穂彦(サホヒコ)の妹で垂仁天皇の皇后である狭穂媛が生んだ皇子の誉津別命は、三〇歳にもなっているのに髯も長いのに泣いてばかりいてしゃべれない。困った天皇が