1.疑わしい万葉歌や事績 万葉歌の長歌2首、短歌4首が、すべて持統天皇の作歌とできる確証たるものはない。中西進氏は、長歌の159番「やすみしし・・」は「詞人の代作」、162番「明日香の浄御原・・・」も形式上大后の作とされる。160番「燃える火も」と161番「北山(向南山
古代遺跡、日本書紀、古事記、各地の伝承などには、大陸文化の痕跡が残されている。それらを持ち込んだ騎馬遊牧民、シルクロードの担い手のソグド人と日本の関わりを探る。縄文の話題。近畿一元史観ではない多元的歴史観について。古田史学の会の応援など。
脱皮しない蛇は生きられない。茅の輪くぐりの意味 大山崎町離宮八幡宮
京都府乙訓郡大山崎町 離宮八幡宮 年末年始にすえられる茅の輪くぐり。 ここは中世のエゴマからなる油の製造販売発祥の地であり、そのエゴマで輪が作られている。1.茅の輪くぐりは、蛇の脱皮を擬(もど)くものだった。 茅の輪くぐりは、たいていの神社では、6月の晦日、
1.済と世子興のあいだに王名のない遣使記事がある 雄略紀5年(461)に、蓋鹵王が子の昆支を派遣している。その際、昆支は蓋鹵王の身重の女性を手に入れて渡海するのである。これは既に説明した武寧王誕生譚につながるのだが、その翌年の462年、『宋書』の大明6年に世子興を
1.蓋鹵王は、倭国に滞在したことがあるのであろうか? 蓋鹵王は、日本書紀の雄略5年に昆支に倭国派遣を申し渡しており、それは百済本国でのこととであろう。蓋鹵王が済であるならば倭国に滞在していた痕跡がないと、同一人物説は成り立たない。蓋鹵王も日本にいたと考えら
ゾロアスター教の葬送儀礼がわかるソグド人の史君墓石堂 大シルクロード展
史君墓石堂 複製 陝西省西安市より出土579年に亡くなった史君と妻の康氏(ソグド語ではウィルカークとウィヤーウシー)ために造られた精緻な浮彫が見事な石堂。いわば豪華な家形石棺と言えようか。 正面入り口の上部にある銘文は、ソグド語で記されたもの。 入口の左右
大シルクロード展の図録のおすすめ 卓越した金製品の細線粒金技法や細かい装飾文様などがよくわかる。
スマホでいくつか撮影したが、あとで図録を見て、さすがというか、やはりプロの写真は違うということを痛感した。また、ショーケースに展示された中で、小ぶりの器物は肉眼では細かいところは、よほど視力のいい人でない限り見ることは出来ないと思う。特に金製品の模様な
駱駝さんがお出迎え。本物、というか剥製。名前が付いてます。中国の敦煌研究院から東京富士美術館創立者の池田大作氏に寄贈されたものだそうです。生きてるようにみえます。体毛はけっこうふさふさです。これを見ると、「田道間守の非時香菓、橘はナツメヤシのデーツだった
1.百済のために高句麗を非難する倭王武 倭王武が中国の宋に送った上表文は、末尾に一部を省略した原文と現代語訳を掲載した。その要旨は、中国への遣使を妨害するといった横暴な高句麗への報復の開始前に、突然、父兄が亡くなり、喪中に入ったので、兵を動かすことができ
図は二中歴の九州年号総覧 善記年に「以前武烈即位」とある. 以前に、倭王武と武寧王が同一人物であるとする説を述べた際に、漢籍では二人が同時に存在しているから、この主張は成り立たない、とのご意見があった。二人が同じ人物であるなど信じがたいという思いもあっての
図は、武烈紀と続日本紀の記述の系譜をつなげたもの⒈武寧王は、倭国王権(九州王朝)にいる純陀太子に斯我君を送った。 日本書紀の武烈7年の斯我君が、法師君を産んだその相手についての既述はない。だが、「奉事於朝」(ミカドにつかえたてまつらしむ)とあるように、ミカ
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1.疑わしい万葉歌や事績 万葉歌の長歌2首、短歌4首が、すべて持統天皇の作歌とできる確証たるものはない。中西進氏は、長歌の159番「やすみしし・・」は「詞人の代作」、162番「明日香の浄御原・・・」も形式上大后の作とされる。160番「燃える火も」と161番「北山(向南山
律令制国家の礎を築いた女性天皇として、評価の高まりつつある持統天皇だが、そもそも、その存在自体が、あやしい点がある。 よくいわれることだが、『懐風藻』では、天皇ではなく皇太后とされ、『扶桑略記』では、持統は不比等の私宅を宮にしていたとのことから、即位し
古事記の神武東征でよく議論になるところである。「その八咫烏の後(しり)より幸(いで)行(ま)しせば、吉野河の河尻に到りましとき、筌を作りて魚を取る人あり」 吉野川で筌を使って漁をしていたのである。 しかし、河尻は川下ではない。なぜなら神武は吉野川で筌を使う
筑後国風土記逸文として筑紫の名の由来が三つ挙げられているが、その一つに甕依姫の登場する説話がある。この人物を、古田武彦氏は「みかよりひめ」と訓じて、卑弥呼と同一人物との可能性が高いとされたが、まだまだ検討すべき余地があると思われるので、この点につ
図は古田武彦氏の『鏡が映す真実の古代 三角縁神獣鏡をめぐって』(ミネルヴァ書房 2016)のP236に掲載の和田喜八郎の所有していたという鏡である。 ※タイトルの東日流外三郡誌は「つがるそとさんぐんし」です。 古田氏はこの鏡について次のように書いている。「和田喜
縄文土器には、把手なのか、文様なのかよくわからない眼鏡状とか、橋状とも言われている双環突起がついています。土器によっては、そこに腕のようなものが伸びていたり、蛙や蛇の頭のような表現ともとれるものもあります。そして、いわゆる出産文土器にも少し大きめの双環
図は各風土記に登場する天皇名を表にしたもの。 以下は、各風土記の中に登場する天皇とその地名を抽出したものである。記載された天皇名は、漢風諡号ではないのだが、現在に通用している解釈の天皇で分類した。 皇極、斉明は同一人物となる。 欠史八代の天皇は既述なく
既に、『百済本記』に、百済が倭国に王を派遣したといった記事がない、とのご意見に対して、この百済本記には、蓋鹵王から武寧王まで、更には他の多くの王の記事もだが、即位以降の事績しか書かれておらず、即位までどのような活動をおこなっていたのかは、ほとんどわから
古代史講演会のご案内です。和泉史談会の古代史講演会の案内です。大阪府和泉市で開催します。 持統天皇の万葉歌の有名な「春すぎて~」は、実はその解釈に疑問がもたれている歌なのです。 また、燃える火を包む袋~、という歌も不思議な歌なのです。謎
1.兵庫県生石(おうしこ)神社石の宝殿の謎 播磨国風土記の賀古郡大国の里に「作石、形、屋のごとし 聖徳王御世、弓削の大連の造る石」とある。これが石の宝殿の造営に関係することは間違いなかろうが、ではその年代が明確になるかと言えばそうはいかない。これが石槨で
古田史学の会 史跡めぐりハイキングのご案内行先 飛鳥の古墳と益田岩船、新沢千塚古墳群2025年4月5日(土)10時3分(列車到着予定時刻)近鉄飛鳥駅改札口前集合コース 岩屋山古墳 → 牽牛子塚古墳 → 益田岩船 → 小谷古墳 → (昼食)鳥屋近隣公園 → 桝山古
⑴記事の内容についての問題点自昔祖禰,躬擐甲冑,跋涉山川,不遑寧處。東征毛人五十五國,西服衆夷六十六國,渡平海北九十五國,王道融泰,廓土遐畿,累葉朝宗,不愆于歲。臣雖下愚,忝胤先緒,驅率所統 倭国が、合計126国の周辺国を支配していったように書かれているが
よく見させていただいているブログ「考古学のおやつ」2025.1/14の記事に、猫好きには見逃せない内容があった。「中国で出土した紀元前3500年~数百年前までのネコ科の骨22試料のDNAを分析。中国には600年以降にシルクロードの商人がイエネコを伝え、エキゾチックな動物とし
1.武寧王と銅鏡の関係 武寧王墓に副葬された中国製の銅鏡に関しての森浩一氏の指摘だが、半島にはあまり見かけない習慣であり、倭人社会からの影響とされている。「王の方の銅鏡は棺外の長軸上に一面ずつ、王妃のほうは頭部付近に一面、という出土状況も日本の古墳の銅鏡出
奈良県御所市 葛城一言主神社参道ワカタケル像解説パネル1.幼少期にワカタケルと呼ばれていたのは斯麻王ではなかったか。 古事記では大長谷若建命、日本書紀では大泊瀬幼武天皇である雄略は、葛城山で一事主神と出会い、自ら幼武尊と名乗っている。幼い武という名は少し奇
1.列島の統治のために派遣されたイザナギ・イザナミ イザナギ、イザナミは、国生み、神生みの説話の中で描かれているが、本来は国を統治するという天神からの使命を担っていたと考えられる。古事記には、次のような一節がある。 於是天神、諸命以、詔伊邪那岐命・
岡山県恵庭市に大谷1号墳という階段ピラミッド状の方墳があります。山奥の斜面に造られた珍しい形状のものです。合わせて、その周辺の古墳群も紹介します。 詳しくは、最近始めだしました、投稿サイト「note」の「ヒデチャコ」名でアップしております。以下をクリックしてく
日本人は、遣唐使や鑑真の渡航の苦労話などがあって、古代における海外との交流については容易ではないように小学生から思い込まされているのではないかと思われる。そのために大陸、半島からの渡来者、移住民の存在が過小評価され、交易や文化的交流など古代史の解釈にも
大林組の復元モデルがメインのように展示されている1.復元案は意見がまとまらないまま、巨大スロープ案がもてはやされた。2000年に現在の本殿の南側で鎌倉時代のものと推定される三本一組の巨大な柱根、いわゆる宇豆柱が発掘され、「高層神殿」の存在を示唆する発見とな
百済・倭王同一人物説では、倭国では済であった蓋鹵王は、倭国から百済に戻った後に昆支を倭国に派遣し、その彼が世子興となる。すなわち、世子興はまだ生存している済から後を継いだ形になる。しかし、興の即位記事の前に済が死んだと「宋書・梁書」ともに記載されている
上図は、三重県松阪市の宝塚古墳の船形埴輪、下は京都宇治市の庵寺(あんでら)山古墳の衣笠型埴輪 両者の特徴ある形状には共通点があるという。 古墳には周囲を取り巻くように円筒埴輪が置かれていることが多いが、その要所要所に衣笠(蓋)型埴輪が据えられていること
1.被葬者を送るために船形の飾りのついた冠 写真は、滋賀県鴨稲荷山古墳の復元された金銅製冠で、その立飾りの先端は、蝶とか花の形などと一般的に説明されているが、よく見ると宮崎県西都原古墳の船形埴輪と酷似している。舳先の二本の柱、櫂座表現など、これをモデルに
1.失敗だった実験航海 一九八九年に大阪港から釜山まで、古代船の復元による実験航海を行った『なみはや』だが、後日に漕ぎ手が当時のことを語る記事がある。「大阪市立大学のボート部が、二十六名を八~九名の三班に分け、天保山から牛窓、牛窓から福岡、福岡から対馬の各
写真の土器は、京都の比叡山の麓の一乗寺向畑町遺跡のいわゆる注口土器だ。東日本にはユニークな形状や文様のもの注口土器が多くみられるが、この京都の土器は引けを取らない見事なものである。 肩部がそろばん玉の形をしていて、高さは24.8cmとのことだが、かなりの容量
⑸万葉歌の地名をすべて奈良の大和や近畿を中心に考えるのは疑問 竜田山(龍田山)は万葉歌によく登場し、奈良あたりが有名だが、熊本県にも龍田山(立田)があるように、伊勢も三重県以外の各地に見受けられる。万葉歌には次のような地名への疑問がもたれた例がある。注2
次は持統天皇の作とされる有名な万葉歌28番歌である。春過而夏来良之白妙能衣乾有天之香来山 春すぎて夏来るらし白妙の衣干したり天の香具山 この歌にはよく言われてきたことだが、いくつも疑問があった。なぜ春の次に夏が来るという当たり前のことを歌にしたのか、
2.スサノオから試練を受けるオホナムヂ(大国主) オホナムヂが大国主神として成長する物語について、次のような解説がある。「蛇やムカデ、蜂の室に入れられ、さらに野火攻めに遭う話は、成年式儀礼として若者に課せられる苦難と試練とを、神話的に語ったもの」(古事記
モーツァルト晩年の傑作オペラである『魔笛』(初演1791年)は、楽曲そのものの評価とは別にその物語には矛盾があるとか、善悪が途中で逆転するといった批評がある。なんでも作者のシカネーダーとモーツァルトは共にフリーメーソンに加入しており、その教義が筋書きに使わ
3.英雄叙事詩『ベーオウルフ』と古事記の国譲り譚 多ケ谷氏によると、『古事記』国譲り譚では、①外来の英雄神(タケミカヅチ)が②土地の神(タケミナカタ)と③素手の闘い(力競べ)をして、④土地の神の手に損傷を与え(一説では手を抜き取り)、⑤そのため土地の神は湖
1.国譲り譚のタケミカヅチ(建御雷)とタケミナカタ(建御名方)の奇妙な戦い 古事記では国譲りを迫るタケミカヅチに、大国主の二番目の子のタケミナカタが戦いを挑む一節がある。しかし威勢よく現れたタケミナカタだったが、腕が剣に変わったタケミカヅチにたちまち怯んで
古代オリエント世界を支配した二人の王の墓 ペルシャ帝国を創建したキュロス二世(前559~前530)は征服者であったが、バビロン捕囚で連行されたユダヤ人などの帰還を許すなど、寛大な政治を行ったようだ。最後は騎馬民族マッサゲタイ遠征で戦死したと伝えられる。イラン
松田美緒さんのオフィシャルサイトはこちら 同じ史学サークルのお母様を通じて写真を送っていただいてます。ソグド人の有名な壁画や独特の骨壺(オッスアリ)、など掲載します。 ウズベキスタン国サマルカンドのアフラシャブ博物館 7世紀の装飾の納骨器(オ
1.高句麗好太王碑文解釈の問題点 同碑の内容でよく注目される記事が、 「而倭以辛卯年來,渡海破百殘,□□新羅,以為臣民」である。 「倭は辛卯年を以て来たり、海を渡りて百残を破り、(東)のかた新羅を□して、以て臣民と為せり」といった釈読がされてきた。判読不明
1948年に博多湾岸の室見川河口近くより、「延光四年」(125年)の文字がある金属片が発見されたが、中国側の鑑定結果は、清朝の文鎮と言ったものであった。しかし古田武彦氏は、『邪馬一国の証明』のなかで、中国側の鑑定内容に関してコメントされて、字体が稚拙、各時代の文
2024年3月2日に「高地性集落論のいま」という研究代表森岡秀人氏の公開シンポジウムがあった。私のような一般も含め200名を超える参加のなか、20名あまりの専門家の発表・発言がありたいへん有意義な一日であった。 各研究者の発表の多くは、脱高地性集落論といった内容
1.天孫降臨のカラクニ 以下は古事記の天孫降臨の一節。 「向韓國(からくににむかひ)眞來通(まきとほりて)、笠紗之御前(かささのみさき)而、朝日之直刺(たださす)國、夕日之日照國也」 古田武彦氏の解読では、「真来通り」はまっすぐに通り抜けているという感じ
古代において、常識では考えにくい年齢が語られるケースでは、現在の半年の期間を一年でカウントしていた場合があって、天皇の長寿も本当はその半分が実年齢であると考えるのが、二倍年暦である。ただ説明しにくい二倍を超える年数をなんでも倍数で説明するのは、無理があ
記紀などの語る渡来人の記事では、百済、高句麗からの渡来が目立ち、新羅についてはあまり目立たないことが指摘されている(田中2013)。また秦氏の記事はあっても、政治の中枢部での活躍はあまり見られない。こういったことから、記紀は、渡来系移住民の「倭」全体の動向
1.二人の出会い以外にも参考にされていた。 新羅武烈王の金春秋(603~669)は654年に王に即位しているが、647年に人質として来日し、百済征討の支援をもとめるもかなわず、翌年には唐に渡って派兵を要請している。後に百済を滅ぼし朝鮮半島統一の基礎を固めた。后の文姫は
地中より360点余りの木柱根が360点あまり見つかったチカモリ遺跡。なかには直径最大85cmと、三内丸山遺跡とかわらないものもあった。その公園に木柱列の復元がされているが、そのうちのクリ材を半裁した環状の巨大木柱が高さ2メートルになっている。根元に巨大な木柱根があ