図は古田武彦氏の『鏡が映す真実の古代 三角縁神獣鏡をめぐって』(ミネルヴァ書房 2016)のP236に掲載の和田喜八郎の所有していたという鏡である。 ※タイトルの東日流外三郡誌は「つがるそとさんぐんし」です。 古田氏はこの鏡について次のように書いている。「和田喜
古代遺跡、日本書紀、古事記、各地の伝承などには、大陸文化の痕跡が残されている。それらを持ち込んだ騎馬遊牧民、シルクロードの担い手のソグド人と日本の関わりを探る。縄文の話題。近畿一元史観ではない多元的歴史観について。古田史学の会の応援など。
脱皮しない蛇は生きられない。茅の輪くぐりの意味 大山崎町離宮八幡宮
京都府乙訓郡大山崎町 離宮八幡宮 年末年始にすえられる茅の輪くぐり。 ここは中世のエゴマからなる油の製造販売発祥の地であり、そのエゴマで輪が作られている。1.茅の輪くぐりは、蛇の脱皮を擬(もど)くものだった。 茅の輪くぐりは、たいていの神社では、6月の晦日、
1.済と世子興のあいだに王名のない遣使記事がある 雄略紀5年(461)に、蓋鹵王が子の昆支を派遣している。その際、昆支は蓋鹵王の身重の女性を手に入れて渡海するのである。これは既に説明した武寧王誕生譚につながるのだが、その翌年の462年、『宋書』の大明6年に世子興を
1.蓋鹵王は、倭国に滞在したことがあるのであろうか? 蓋鹵王は、日本書紀の雄略5年に昆支に倭国派遣を申し渡しており、それは百済本国でのこととであろう。蓋鹵王が済であるならば倭国に滞在していた痕跡がないと、同一人物説は成り立たない。蓋鹵王も日本にいたと考えら
ゾロアスター教の葬送儀礼がわかるソグド人の史君墓石堂 大シルクロード展
史君墓石堂 複製 陝西省西安市より出土579年に亡くなった史君と妻の康氏(ソグド語ではウィルカークとウィヤーウシー)ために造られた精緻な浮彫が見事な石堂。いわば豪華な家形石棺と言えようか。 正面入り口の上部にある銘文は、ソグド語で記されたもの。 入口の左右
大シルクロード展の図録のおすすめ 卓越した金製品の細線粒金技法や細かい装飾文様などがよくわかる。
スマホでいくつか撮影したが、あとで図録を見て、さすがというか、やはりプロの写真は違うということを痛感した。また、ショーケースに展示された中で、小ぶりの器物は肉眼では細かいところは、よほど視力のいい人でない限り見ることは出来ないと思う。特に金製品の模様な
駱駝さんがお出迎え。本物、というか剥製。名前が付いてます。中国の敦煌研究院から東京富士美術館創立者の池田大作氏に寄贈されたものだそうです。生きてるようにみえます。体毛はけっこうふさふさです。これを見ると、「田道間守の非時香菓、橘はナツメヤシのデーツだった
1.百済のために高句麗を非難する倭王武 倭王武が中国の宋に送った上表文は、末尾に一部を省略した原文と現代語訳を掲載した。その要旨は、中国への遣使を妨害するといった横暴な高句麗への報復の開始前に、突然、父兄が亡くなり、喪中に入ったので、兵を動かすことができ
図は二中歴の九州年号総覧 善記年に「以前武烈即位」とある. 以前に、倭王武と武寧王が同一人物であるとする説を述べた際に、漢籍では二人が同時に存在しているから、この主張は成り立たない、とのご意見があった。二人が同じ人物であるなど信じがたいという思いもあっての
図は、武烈紀と続日本紀の記述の系譜をつなげたもの⒈武寧王は、倭国王権(九州王朝)にいる純陀太子に斯我君を送った。 日本書紀の武烈7年の斯我君が、法師君を産んだその相手についての既述はない。だが、「奉事於朝」(ミカドにつかえたてまつらしむ)とあるように、ミカ
「ブログリーダー」を活用して、hidetyakoさんをフォローしませんか?
図は古田武彦氏の『鏡が映す真実の古代 三角縁神獣鏡をめぐって』(ミネルヴァ書房 2016)のP236に掲載の和田喜八郎の所有していたという鏡である。 ※タイトルの東日流外三郡誌は「つがるそとさんぐんし」です。 古田氏はこの鏡について次のように書いている。「和田喜
縄文土器には、把手なのか、文様なのかよくわからない眼鏡状とか、橋状とも言われている双環突起がついています。土器によっては、そこに腕のようなものが伸びていたり、蛙や蛇の頭のような表現ともとれるものもあります。そして、いわゆる出産文土器にも少し大きめの双環
図は各風土記に登場する天皇名を表にしたもの。 以下は、各風土記の中に登場する天皇とその地名を抽出したものである。記載された天皇名は、漢風諡号ではないのだが、現在に通用している解釈の天皇で分類した。 皇極、斉明は同一人物となる。 欠史八代の天皇は既述なく
既に、『百済本記』に、百済が倭国に王を派遣したといった記事がない、とのご意見に対して、この百済本記には、蓋鹵王から武寧王まで、更には他の多くの王の記事もだが、即位以降の事績しか書かれておらず、即位までどのような活動をおこなっていたのかは、ほとんどわから
古代史講演会のご案内です。和泉史談会の古代史講演会の案内です。大阪府和泉市で開催します。 持統天皇の万葉歌の有名な「春すぎて~」は、実はその解釈に疑問がもたれている歌なのです。 また、燃える火を包む袋~、という歌も不思議な歌なのです。謎
1.兵庫県生石(おうしこ)神社石の宝殿の謎 播磨国風土記の賀古郡大国の里に「作石、形、屋のごとし 聖徳王御世、弓削の大連の造る石」とある。これが石の宝殿の造営に関係することは間違いなかろうが、ではその年代が明確になるかと言えばそうはいかない。これが石槨で
古田史学の会 史跡めぐりハイキングのご案内行先 飛鳥の古墳と益田岩船、新沢千塚古墳群2025年4月5日(土)10時3分(列車到着予定時刻)近鉄飛鳥駅改札口前集合コース 岩屋山古墳 → 牽牛子塚古墳 → 益田岩船 → 小谷古墳 → (昼食)鳥屋近隣公園 → 桝山古
⑴記事の内容についての問題点自昔祖禰,躬擐甲冑,跋涉山川,不遑寧處。東征毛人五十五國,西服衆夷六十六國,渡平海北九十五國,王道融泰,廓土遐畿,累葉朝宗,不愆于歲。臣雖下愚,忝胤先緒,驅率所統 倭国が、合計126国の周辺国を支配していったように書かれているが
よく見させていただいているブログ「考古学のおやつ」2025.1/14の記事に、猫好きには見逃せない内容があった。「中国で出土した紀元前3500年~数百年前までのネコ科の骨22試料のDNAを分析。中国には600年以降にシルクロードの商人がイエネコを伝え、エキゾチックな動物とし
1.武寧王と銅鏡の関係 武寧王墓に副葬された中国製の銅鏡に関しての森浩一氏の指摘だが、半島にはあまり見かけない習慣であり、倭人社会からの影響とされている。「王の方の銅鏡は棺外の長軸上に一面ずつ、王妃のほうは頭部付近に一面、という出土状況も日本の古墳の銅鏡出
奈良県御所市 葛城一言主神社参道ワカタケル像解説パネル1.幼少期にワカタケルと呼ばれていたのは斯麻王ではなかったか。 古事記では大長谷若建命、日本書紀では大泊瀬幼武天皇である雄略は、葛城山で一事主神と出会い、自ら幼武尊と名乗っている。幼い武という名は少し奇
1.列島の統治のために派遣されたイザナギ・イザナミ イザナギ、イザナミは、国生み、神生みの説話の中で描かれているが、本来は国を統治するという天神からの使命を担っていたと考えられる。古事記には、次のような一節がある。 於是天神、諸命以、詔伊邪那岐命・
岡山県恵庭市に大谷1号墳という階段ピラミッド状の方墳があります。山奥の斜面に造られた珍しい形状のものです。合わせて、その周辺の古墳群も紹介します。 詳しくは、最近始めだしました、投稿サイト「note」の「ヒデチャコ」名でアップしております。以下をクリックしてく
日本人は、遣唐使や鑑真の渡航の苦労話などがあって、古代における海外との交流については容易ではないように小学生から思い込まされているのではないかと思われる。そのために大陸、半島からの渡来者、移住民の存在が過小評価され、交易や文化的交流など古代史の解釈にも
大林組の復元モデルがメインのように展示されている1.復元案は意見がまとまらないまま、巨大スロープ案がもてはやされた。2000年に現在の本殿の南側で鎌倉時代のものと推定される三本一組の巨大な柱根、いわゆる宇豆柱が発掘され、「高層神殿」の存在を示唆する発見とな
百済・倭王同一人物説では、倭国では済であった蓋鹵王は、倭国から百済に戻った後に昆支を倭国に派遣し、その彼が世子興となる。すなわち、世子興はまだ生存している済から後を継いだ形になる。しかし、興の即位記事の前に済が死んだと「宋書・梁書」ともに記載されている
先に、倭王の済と世子興の間には、蓋鹵王にとっては不本意なX王が存在したと想定し、中国への遣使も行ったが、横暴さもあって数年後に世子興が派遣されることになったとの考えを示したが、倭の五王の最後の倭王武の後に、継体紀に薨去記事だけ残された純陀太子が、倭王武の
1. 百済三王と倭の三王の同一人物説 蘇鎮轍氏らの倭王武と武寧王同一人物説を検討する中で、前代の済が蓋鹵王、世子興が昆支と考えるように至ったが、簡単にその根拠を述べる。なお、讃と珍は材料がとぼしく、検討課題としておく。もちろん、日本書紀の記す天皇とは全く無
長野県下伊那郡松川町資料館 顔面把手付土器 頭部がマムシのように造形されている。生きたマムシが土器を這っているように見える。1.マムシの生態についての迷信のようなお話 以前に、次のような信じがたい記述があるのを見つけた。縄文時代と蛇に関するものだが、以下の
京都府乙訓郡大山崎町 離宮八幡宮 年末年始にすえられる茅の輪くぐり。 ここは中世のエゴマからなる油の製造販売発祥の地であり、そのエゴマで輪が作られている。1.茅の輪くぐりは、蛇の脱皮を擬(もど)くものだった。 茅の輪くぐりは、たいていの神社では、6月の晦日、
2.スサノオから試練を受けるオホナムヂ(大国主) オホナムヂが大国主神として成長する物語について、次のような解説がある。「蛇やムカデ、蜂の室に入れられ、さらに野火攻めに遭う話は、成年式儀礼として若者に課せられる苦難と試練とを、神話的に語ったもの」(古事記
モーツァルト晩年の傑作オペラである『魔笛』(初演1791年)は、楽曲そのものの評価とは別にその物語には矛盾があるとか、善悪が途中で逆転するといった批評がある。なんでも作者のシカネーダーとモーツァルトは共にフリーメーソンに加入しており、その教義が筋書きに使わ
3.英雄叙事詩『ベーオウルフ』と古事記の国譲り譚 多ケ谷氏によると、『古事記』国譲り譚では、①外来の英雄神(タケミカヅチ)が②土地の神(タケミナカタ)と③素手の闘い(力競べ)をして、④土地の神の手に損傷を与え(一説では手を抜き取り)、⑤そのため土地の神は湖
1.国譲り譚のタケミカヅチ(建御雷)とタケミナカタ(建御名方)の奇妙な戦い 古事記では国譲りを迫るタケミカヅチに、大国主の二番目の子のタケミナカタが戦いを挑む一節がある。しかし威勢よく現れたタケミナカタだったが、腕が剣に変わったタケミカヅチにたちまち怯んで
古代オリエント世界を支配した二人の王の墓 ペルシャ帝国を創建したキュロス二世(前559~前530)は征服者であったが、バビロン捕囚で連行されたユダヤ人などの帰還を許すなど、寛大な政治を行ったようだ。最後は騎馬民族マッサゲタイ遠征で戦死したと伝えられる。イラン
松田美緒さんのオフィシャルサイトはこちら 同じ史学サークルのお母様を通じて写真を送っていただいてます。ソグド人の有名な壁画や独特の骨壺(オッスアリ)、など掲載します。 ウズベキスタン国サマルカンドのアフラシャブ博物館 7世紀の装飾の納骨器(オ
1.高句麗好太王碑文解釈の問題点 同碑の内容でよく注目される記事が、 「而倭以辛卯年來,渡海破百殘,□□新羅,以為臣民」である。 「倭は辛卯年を以て来たり、海を渡りて百残を破り、(東)のかた新羅を□して、以て臣民と為せり」といった釈読がされてきた。判読不明
1948年に博多湾岸の室見川河口近くより、「延光四年」(125年)の文字がある金属片が発見されたが、中国側の鑑定結果は、清朝の文鎮と言ったものであった。しかし古田武彦氏は、『邪馬一国の証明』のなかで、中国側の鑑定内容に関してコメントされて、字体が稚拙、各時代の文
2024年3月2日に「高地性集落論のいま」という研究代表森岡秀人氏の公開シンポジウムがあった。私のような一般も含め200名を超える参加のなか、20名あまりの専門家の発表・発言がありたいへん有意義な一日であった。 各研究者の発表の多くは、脱高地性集落論といった内容
1.天孫降臨のカラクニ 以下は古事記の天孫降臨の一節。 「向韓國(からくににむかひ)眞來通(まきとほりて)、笠紗之御前(かささのみさき)而、朝日之直刺(たださす)國、夕日之日照國也」 古田武彦氏の解読では、「真来通り」はまっすぐに通り抜けているという感じ
古代において、常識では考えにくい年齢が語られるケースでは、現在の半年の期間を一年でカウントしていた場合があって、天皇の長寿も本当はその半分が実年齢であると考えるのが、二倍年暦である。ただ説明しにくい二倍を超える年数をなんでも倍数で説明するのは、無理があ
記紀などの語る渡来人の記事では、百済、高句麗からの渡来が目立ち、新羅についてはあまり目立たないことが指摘されている(田中2013)。また秦氏の記事はあっても、政治の中枢部での活躍はあまり見られない。こういったことから、記紀は、渡来系移住民の「倭」全体の動向
1.二人の出会い以外にも参考にされていた。 新羅武烈王の金春秋(603~669)は654年に王に即位しているが、647年に人質として来日し、百済征討の支援をもとめるもかなわず、翌年には唐に渡って派兵を要請している。後に百済を滅ぼし朝鮮半島統一の基礎を固めた。后の文姫は
地中より360点余りの木柱根が360点あまり見つかったチカモリ遺跡。なかには直径最大85cmと、三内丸山遺跡とかわらないものもあった。その公園に木柱列の復元がされているが、そのうちのクリ材を半裁した環状の巨大木柱が高さ2メートルになっている。根元に巨大な木柱根があ
写真は石川県野々市(ののいち)市ふるさと歴史館の展示品。御経塚遺跡は縄文時代の後期中ごろから弥生時代初頭、今から3,700年から2,500年前の大集落の跡地で、縄文の出土品などが多数展示されている。面白い文様のものがいくつもあるが、その中にひょっとして漢数字の「
山田康弘氏の『縄文時代の歴史』(講談社現代新書2019)には次の一節がある。「一つの住居に何人ぐらいの人が生活していたのかという問いに対しては、住居の拡張面積などの検討から、居住者数=(住居跡の床面積)÷3(人が手足を大きく伸ばしたときの広さ)-1 という
日本書紀・古事記には時代の合わない記事が多数練り込まれており、その中には外来の要素が盛り込まれている場合が少なからず見受けられる。 古事記の崇神天皇の段に、苧環(おだまき)型蛇聟入伝承といわれる奇譚説話がある。夜な夜な活玉依毘売(イクタマヨリヒメ)の所
カスピ海の東隣りのアラル海から東南方向に、ソグド人のホーム・グランドである二十余国の都市国家からなるソグディアナがあった。彼らには、漢文史料によると出身地別に漢語の姓が付けられて、何世代にも用いられ続けていたという。ソグド人の中国姓で出身地がわかるとい
英雄マナスを語るキルギスの老人(ウィキペディア)1.英雄の異常出生譚 以下は「シルクロードの伝説」のキルギス(柯爾克孜)族の男、マナス(瑪納斯)のお話。 はるか昔、ジャケップ(加庫甫)夫婦は百歳にもなるのに子がなかった。ある年、妻の
東アジア考古学の門田誠一氏が2023年第13回日本考古学協会賞大賞を受賞された著作。 その対象となった研究書が『魏志倭人伝と東アジア考古学』(吉川弘文館2021)(こちら) 魏志倭人伝に記された倭と倭人の事物・習俗・社会を、同時代の史書・文献、考古資料