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  • 継体持統㉛:斉明朝の軍事力

    白村江の戦いのような最大級の国難に対し、斉明朝の国力として動員可能な最大軍事力はどの程度であったのだろうか。 隋に見る遠征軍動員可能兵力 参考になるのが、隋による高句麗遠征である。 598年に文帝は30万の軍勢を高句麗に送った。そして612年に煬帝は113万の軍勢を高句麗に送り、618年には隋は滅びてしまった。 従って、『隋にとって30万はいいけど113万はやり過ぎ』というのが見て取れる。 当時の隋の人口は約4600万人とされている。 このため、動員可能兵力の人口比として113万/4600万=1/40が国が傾く限界といえる。余裕ある動員可能兵力人口比は30万/4600万=1/150程度となる。…

  • 継体持統㉚:中大兄の奇妙な行動

    661年7月24日斉明天皇崩御後、中大兄皇子は10月7日には博多港の長津宮を離れ倭京に戻ってしまった。結局九州で指揮をとったのはたったの2ヶ月半。以後、九州で中大兄皇子が戦争を指揮した記録は日本書紀にはない。 中大兄皇子何してた? 斉明天皇崩御後の日本書紀の記事について時系列をまとめてみると、7月24日 朝倉宮で斉明天皇崩御7月 中大兄皇子は長津宮に移り、徐々に(稍)、海外軍を指揮する(原文『稍聴水表之軍政』)8月1日 中大兄皇子は斉明天皇の亡骸を磐瀬宮(長津宮)に移送9月 中大兄皇子は長津宮で豊璋に織冠を授与し軍と共に百済に送り出す。10月7日 中大兄皇子は斉明天皇の亡骸とともに出港10月2…

  • 七支刀

    2025年5月22日に七支刀のCT解析結果がニュースになった。七支刀は百済と日本が初めてお互いの存在を認識し同盟を結んだ際に百済から日本に送られたとする解釈があり、今回の結果はそれを裏付けたものとなった。 七支刀の年代解釈 日本書紀では神功52年西暦252年に百済から七支刀がもたらされたとの記事があり、120年繰り下げる紀年論からは西暦372年のこととなる。 また神功55年西暦255年の百済の肖古王崩御は百済の記録から西暦375年と確定する。 このため、百済から我が国への七支刀贈答を西暦372年とするのが定説となっている。 七支刀の銘文冒頭の年号について泰?四年とあり、東晋太和四年と解釈すると…

  • 継体持統㉙:斉明天皇暗殺説

    百済救済を決断した斉明天皇は、軍を率いて北九州まで行幸し、北九州で唐突に崩御した。何があったのか? 斉明天皇九州行幸の理由 日本書紀によると、660年7月の百済滅亡の報に接し、斉明天皇は「筑紫(九州)に行幸し、救援の軍を派遣する」こととし、661年1月に難波を出発して3月には博多港の那大津に到着。病気等の前触れなく661年7月に突然崩御した。 天皇皇后の親征は異例中の異例で、畿内を離れての遠征は、神武東征、景行親征、仲哀親征と、神功皇后の三韓征伐しかない。雄略天皇は新羅親征を企図するも断念し、継体天皇も結局親征は行っていない。 なぜ、斉明天皇が北九州へ行幸したのか。 『継体持統㉘:斉明天皇九州…

  • 継体持統㉘:斉明天皇九州行幸の不思議

    658年11月有間皇子が粛清され、659年3月には斉明天皇が示威のため国内巡幸を行い、以後、斉明天皇の親政体制に移行した。ところが息つく間もなく660年7月に百済滅亡という大事件が発生する。 中大兄皇子は何してた? 有間皇子粛清後は斉明天皇の親政に移ったようだ。 皇太子の中大兄皇子が有間皇子を引き継いで難波朝廷のトップに君臨しても良さそうなのに、そのような記録、痕跡は一切ない。 百済滅亡を知った後の660年12月に難波宮で百済救援戦争の準備をするが、斉明天皇自身が難波宮へ出向いていて、斉明天皇が親政体制を敷いていたことが確認できる。 一方、皇太子の中大兄皇子は全く出てこない。斉明天皇が崩御する…

  • 継体持統㉗:蘇我氏の仕返しクーデター

    左大臣巨勢徳太が生きている間はおとなしくしていた有間皇子。巨勢徳太薨去後、斉明天皇粛清を企図する。 国庫を浪費する斉明 日本書紀の斉明紀の前半は、数々の土木工事の記載で溢れている。それに対し人々が怨嗟の声を挙げたという。 大化改新によって大量の富と人力が中央政府に集中していたが、それを使って斉明天皇が土木工事を好んでした。 「斉明が土木工事を好んで国庫を浪費し人々が怨嗟の声を挙げた」ことは定説となっているが、以下留意点を挙げておく。 土木工事自体は国防強化の文脈で読める。唐が北東アジアへの攻勢を強める中、予算を国防に注ぎ込むのは当然ではある。山頂に城砦を造営するのは国防そのもの。怨嗟の声はあっ…

  • 継体持統㉖:有間vs斉明

    658年1月に左大臣巨勢徳太が薨去した。右大臣大伴長徳は孝徳天皇生前に他界しており、有間皇子は有力な後ろ盾を失った形だ。 日本書紀記載の経緯 658年10月に斉明天皇と中大兄皇子は有間皇子の勧めた紀伊温湯に行幸した。 11月に入って蘇我赤兄が斉明天皇の悪口を言って有間皇子をそそのかす。 有間皇子が謀反の相談を持ちかけたところで、蘇我赤兄は有間皇子を逮捕し紀伊温湯へ連行。 中大兄皇子は有間皇子を絞首刑にした。 日本書紀の歴史観 日本書紀は蘇我入鹿悪者歴史観に見られるように特定の人物を悪く書くことがある。 有間皇子事件で随分と卑怯者な描かれ方をしている蘇我赤兄もその被害者の一人で、日本書紀は壬申の…

  • 継体持統㉕:祭祀王と執政王

    日本書紀は孝徳朝の皇太子は中大兄皇子といいつつ、斉明紀では何の説明もなく中大兄皇子を差し置いて、斉明天皇が重祚している。 祭祀の皇極と執政の孝徳 乙巳の変に際し、皇極天皇は孝徳天皇に譲位したとされるが、孝徳天皇は執政権を得ただけで、皇極天皇から祭祀を引き継いではいない。 皇極天皇は祭祀王としての天皇位を手放していない。 というか、天皇位を手放すときは、死んで、後継者に殯をさせて位を移し、陵に葬られる必要がある。 孝徳天皇は律令国家という全く新しい国家の建設を目指していたのであって、祭祀旧俗には興味がなかったとみられる。乙巳の変で大極殿から逃げ切った皇極天皇を追うことはしなかった。 祭政分離 6…

  • 継体持統㉔:孝徳朝の後継問題

    孝徳天皇の宝算は59歳。当時としてはいつ亡くなってもおかしくない年齢であった。孝徳天皇は後継者についてどう考えていたか? 孝徳の子は有間皇子だけ? 孝徳天皇の子として記録されているのは男女も含めて有間皇子だけとなっている。越前朝倉氏は孝徳天皇後裔を称していて、始祖で但馬の評造の日下部表米が孝徳天皇の子との伝承があるが、表米が中央で活躍したという伝承はない。 有間皇子は阿倍内麻呂の孫であり、孝徳天皇の有力な後継者であったが、640年生まれであり、孝徳天皇崩御時で数えで15歳と後継者としては若すぎた。 天智には大友皇子、天武には高市皇子と、母の身分は低いが極めて優秀な壮年の皇子がいて、政権を支えた…

  • 継体持統㉓:608遣隋使組の功績

    大化改新立ち上げ時の有力豪族であった左右大臣を粛清し皇極・中大兄親子の実権を剥奪した孝徳は着々と富国強兵政策を遂行。凄まじい勢いで国家体制を整備した。 国家体制の整備 【冠位制度】649年3月蘇我石川麻呂粛清後の649年4月20日には左大臣に巨勢徳太、右大臣には大伴長徳が就任した。阿倍内麻呂・蘇我石川麻呂と違い、巨勢徳太・大伴長徳は新冠位制度に組み入れられ、孝徳天皇に忠誠を誓っていたと思われる。 【改元】650年に大化から白雉に改元したが、649年3月の粛清劇から刷新するためであったとも解釈できる。 【行政組織】国博士の高向玄理と僧旻の主導のもと649年2月には八省が設置されるなど行政組織も整…

  • 事代主の拠点:若杉山辰砂採掘遺跡

    令和7年1月19日に事代主が四国那賀川流域で開発した辰砂=水銀朱鉱山「若杉山辰砂採掘遺跡」のニュースが掲載された。 「国内最古、火を使った採掘跡か 弥生時代の徳島に「世界基準」の技術」朝日新聞 弥生人が火を使い鉱石採掘か、徳島の遺跡の内部数か所にすす付着…専門家「本格的な鉱山経営と推測」読売新聞 日本の辰砂=水銀朱は当時高く評価されていたようで、1世紀以降この那賀川流域の若杉山鉱山、2世紀後半からは宇陀の水銀鉱山で水銀朱が産出された。(解説:第五代孝昭天皇と第十代崇神天皇の出自と水銀朱利権について - 上古への情熱) 出雲出身の鉱山技術者集団を率いた事代主がこのニュースの若杉山鉱山を開発したよ…

  • 継体持統㉒:649年3月の政変

    646年3月20日、中大兄皇子は自らの資産を進んで国庫に返納するという優等生を演じた。孝徳天皇としては甥を粛清する機会を失った形だ。中大兄皇子に入れ知恵をしたのは誰か。豪族を代表してことごとく邪魔をする右大臣で中大兄の姑である蘇我倉山田石川麻呂。孝徳天皇のイライラが募る。 648年4月の異変 新政権による政治改革は順調に進み、647年には冠位の新制度を作り、648年4月には旧来の冠位:聖徳太子の冠位十二階を廃止した。 ところがここで異変が起こる。左右大臣は新制度の冠ではなく旧来の冠を着用し続けたというのだ。(なお、649年2月にはさらなる新制度が定められたが、この時の両大臣の去就は明らかでない…

  • 継体持統㉑:恐怖の独裁者『孝徳』

    孝徳天皇が断行した近代国家への政治改革、大化改新は大成功を納め、孝徳天皇に富と権力が急速に集中。天皇以外の皇族を含む豪族は既得権益や私有資産を次々と剥奪され、官位という見慣れないものが与えられるという状況に追い込まれる。 天皇に集中する権力 日本書紀の孝徳紀は天皇自身による詔のオンパレード。 現代日本人は、『天皇は象徴であり配下の官僚が実際には行った』と考えてしまうが、日本書紀は行動の主体は明確に孝徳天皇としている。孝徳天皇自身が自ら命令を下し、命令に違反した者を自ら弾劾している記載となっている。 一般に大化改新は中大兄皇子と中臣鎌足が主導したとされているが、行政面で中大兄が出てくることはない…

  • 継体持統⑳:大化改新

    軽皇子=孝徳天皇は旧来の制度にとらわれない全く新しい王朝を開いた。日本書紀の孝徳紀は、唐風の近代国家を作る意欲に満ち溢れ、躍動感あふれる記載となっている。 改新の詔が意味するところ 日本書紀により646年に出されたとされる改新の詔は要約すると以下の通り。第一条:公地公民制:豪族による私有を否定。第二条:地方組織の整備:中央政府による地方の統制を明確化。第三条:戸籍・班田収授法:人口調査と中央政府による土地の再分配。第四条:税制:土地面積に基づく税制の規定。 唐のような律令制の近代国家を目指した象徴的な詔となっている。 日本書紀記載の改新の詔は、大宝律令等の後世の資料との比較から、646年当時に…

  • 継体持統⑲:乙巳の変

    641年10月9日舒明天皇崩御から645年6月12日の乙巳の変へ至る経緯を以下にまとめる。 舒明崩御と皇極の暗躍 641年舒明天皇崩御の段階で、祭祀を司る天皇の後継者として、母が皇族である男性皇族は、宝皇女が庇護する葛城皇子=天智、大海人皇子=天武のほか、弟の軽皇子=孝徳、上宮王家にも白髪部王、弓削王がいた。 641年で30歳程度以上の壮年であったのは、軽皇子、上宮王家の白髪部王であり、天智・天武はまだ10代であることから継承資格がない。 宝皇女は、天智、天武への日嗣を実現させるため、推古天皇の先例に倣い、皇后として舒明天皇からの日嗣を企図し、舒明天皇の殯(もがり)を2年にわたり行った。 日本…

  • 継体持統⑱:中臣鎌足の実像

    日本書紀をよく読むと、天智と鎌足は相性が悪いようにしか見えない。実は天智とは仲が悪かったんじゃなかろうか。 孝徳天皇の寵臣としての働き 軽皇子=孝徳天皇が乙巳の変の首謀者であるというのは、遠山美都男先生により解明され、近年相当に市民権を得てきた。 中臣鎌足は孝徳天皇の寵臣であったのは間違いない。 従って、中臣鎌足は乙巳の変で暗躍していたのは間違いないだろう。 一方の中大兄皇子は乙巳の変当時は10代の若年。日本書紀のような鎌足との密談はフィクションとしても、乙巳の変では三韓の調の儀式に皇族として古人大兄皇子とともに侍立していたのだろう。若い武者は儀式の見栄えも良くする。 鎌足は侍立していた皇子た…

  • 継体持統⑰:天智と鎌足は相性が悪い?

    乙巳の変のエピソードも天智天皇から妃を賜った件も作り話とすると、中臣鎌足が天智天皇の寵臣であったこと自体に疑問が出てくる。 侮れない天武天皇との関係 壬申の乱で中臣氏が近江朝の重臣であったことから、天武天皇は鎌足の遺族を冷遇していたという説が多いが、本当だろうか? 天武天皇が天智天皇の娘を4人も娶ったのは有名な話だが、天武天皇は鎌足の娘についても2人も娶っている。妃の年齢からして壬申の乱後のことと思われる。 一方の天智天皇は鎌足の娘を娶っていない。 系譜を見る限り、鎌足は天智天皇より天武天皇に近かったと解釈できる。 孝徳・鎌足・天武という親新羅派人脈 天智天皇のブレインである鎌足は当然親百済派…

  • 継体持統⑯:鎌足の切ない境遇

    中臣鎌足の長男の定恵は孝徳天皇ご落胤、次男の不比等は天智天皇ご落胤。男系で鎌足の血を継ぐ者はいない。俗説ではあるのだが、鎌足に対する扱いが酷すぎて切ない。 日本書紀には案外、鎌足の事績が少ない 中大兄皇子のブレインにして大化改新の立役者とされる中臣鎌足だが、日本書紀を読むと、案外事績が少ない。 乙巳の変前後で暗躍する大量の記載はあるが、まだ10代の中大兄皇子を担ぐなど小説じみていて、全て作り話とも解釈できてしまう。 孝徳朝設立時に「内臣」という他に見られない官職に就いて、以後、白村江の敗戦まで事績がなく、この間は実際には活躍はなかったとの解釈もできてしまう。 白村江の敗戦後、唐・新羅との外交調…

  • 継体持統⑮:韓人殺鞍作臣

    蘇我入鹿は淵蓋蘇文をまねて軍事独裁政権樹立を目指した。当時の北東アジア情勢を考えると、入鹿の目指した未来は至極真っ当であり、十分に勝算があった。が、現実には、ミウチに邪魔されて挫折する。 上宮王家は何故皆殺しにあったか 日本書紀によると、643年10月6日に蘇我蝦夷が病に倒れ、蘇我入鹿が大臣家の家督を得て、10月12日に上宮王家を排し古人大兄皇子の擁立を謀り、その後(上宮聖徳法王帝説では10月14日)、上宮王家は討滅された。 蘇我氏は物部の軍事力を継承しており、上宮王家も崇峻天皇以来の軍事力を保有していた。 緊迫の度を深める北東アジア情勢に対応するため、蘇我氏は上宮王家との軍事力の統合を企図。…

  • 継体持統⑭:入鹿が目指した未来

    日本書紀の蘇我氏悪役歴史観により悪様に描かれる蘇我入鹿。実際の蘇我入鹿は何を考えて行動していたのか? 極めて有能であった入鹿 日本書紀は蘇我氏を悪役に仕立てているため、入鹿に対しては悪意をもった解釈でしか描かれていない。 本当の入鹿はどんな人物だったのか。 奈良時代の藤原仲麻呂が書いた藤氏家伝では、入鹿は極めて有能であったと描かれている。藤氏家伝は藤原仲麻呂による脚色の多い小説みたいな記録との分析があるが、奈良時代において蘇我入鹿を有能と描いても不自然ではなかったとは解釈できる。 実際、有能でなければ日本書紀も悪様には描けなかったであろう。 入鹿が生きた時代の背景 蘇我氏はもともと朝鮮半島情勢…

  • 継体持統⑬:上宮王家滅亡事件と皇極天皇の関与

    643年に山背大兄王が蘇我入鹿に滅ぼされた上宮王家滅亡事件。系図を見ると用明天皇後裔一族のほぼ全員が殺されているのがわかる。凄まじい皆殺し事件である。 皇極天皇の関与 皇極天皇は事件に関与していたのであろうか。 皇極天皇の前夫の高向王が泊瀬王の義兄弟との解釈が正しいとすると、628年の政変時に、皇極天皇は舒明天皇+山背大兄王+蘇我蝦夷陣営に対し、相当な恨みを持っていた可能性がある。 593年に聖徳太子は崇峻天皇=泊瀬部天皇の後継の地位を継承したが、この崇峻天皇の資産を継承したのが名前からすると聖徳太子第二皇子の泊瀬王である。 628年推古天皇崩御時、聖徳太子の最有力後継者はおそらく泊瀬王であっ…

  • 継体持統⑫:上宮王家滅亡事件の真相

    643年に山背大兄王が蘇我入鹿に滅ぼされた事件。641年舒明天皇崩御を契機とした政変である。 事件の経緯 日本書紀による経緯は以下の通り。641年10月 舒明天皇崩御642年1月 皇極天皇即位642年12月 舒明天皇の喪葬の儀643年9月6日 舒明天皇を押坂陵に葬る643年9月11日 吉備嶋皇祖母命薨去643年9月17日 皇祖母命喪葬の儀643年9月19日 皇祖母命を葬る643年10月6日 蘇我蝦夷病気で出仕せず、紫冠を入鹿に授ける。643年10月12日 蘇我入鹿、上宮王家諸王を排し、古人大兄王擁立を謀る643年11月斑鳩宮襲撃。山背大兄王一族集団自決。入鹿の行動に蝦夷が怒り罵る。(なお、上宮…

  • 継体持統⑪:持統天皇の母は間人皇女!?

    宝皇女=皇極天皇の庇護のもと葛城王・多智奴女王・漢皇子は生き残り、天智・間人・天武となったとする解釈。 さらに解釈を進めると持統天皇の母は間人皇女という驚愕の解釈も可能になる。 智奴の名を嗣ぐ者 皇極天皇の父、茅渟王は、その母である大俣王が敏達天皇皇女である(継体持統⑦:漢王の妹、大俣王 - 上古への情熱)場合、田村皇子と血統的には差がなく、皇嗣筆頭であった可能性が高い。 皇極天皇の前夫、高向王は、用明天皇第一皇子である田目皇子の息子である可能性があり、姉妹の佐富女王は聖徳太子第二皇子の泊瀬王妃である。泊瀬王、高向王とも聖徳太子の後継者として有力な皇子であった可能性が高い。 628年推古天皇崩…

  • 継体持統⑩:天智・天武は舒明天皇の子ではないかもしれない説

    推古天皇崩御時に粛清された泊瀬王及び義兄弟の高向王には3人の遺児、葛城王、多智奴女王、漢皇子がいた。宝皇女とともに3人は生き残ったのか? 628年推古天皇崩御時にあったこと 推古天皇崩御時の政変についてまとめると以下の通りとなる。 推古天皇崩御を契機に、①蘇我馬子の兄弟の境部摩理勢、②聖徳太子第二皇子の泊瀬王、そしておそらくは、③泊瀬王の義兄弟の高向王の3人が排除された。皇嗣筆頭格であった茅渟王も推古天皇崩御までに排除されたと見られる。 結果、①蘇我蝦夷が蘇我本宗家の地位、大臣家の家督を獲得、②聖徳太子第一皇子の山背大兄王は上宮王家筆頭の地位を獲得、③田村皇子が高向王妃宝皇女を娶って舒明天皇と…

  • 継体持統⑨:高向王

    日本書紀斉明紀の書き出しは衝撃的である。「天豊財重日足姫天皇(皇極・斉明天皇)は、最初、橘豊日天皇(用明天皇)の孫、高向王に嫁がれ、漢皇子をおうみになった。」 舒明紀でも皇極紀でもなく、なんと、斉明紀の冒頭に、しれっと、「皇極天皇にとって舒明天皇は再婚相手であった」と暴露している。 用明天皇の子であり孫であるとは? 日本書紀では高向王の父母は記載されていない。 高向王は日本書紀で明確に用明天皇の孫とされているが「本朝皇胤紹運録」では用明天皇の子となっている。 高向王は用明天皇第一皇子の田目皇子の子であるとする説がある。 この説の通りとすると、用明皇后の子であり用明天皇の孫であることになる。「本…

  • 継体持統⑧:二人の桜井之玄王

    淡海三船が「皇極」と名をつけた天皇。まさに皇を極めた天皇であるが、出自が謎めいている。 皇極天皇の母方の系譜 日本書紀によると皇極天皇の母は吉備姫王であり吉備姫王の両親の記載はない。出自を記載しない方針であったように見える。 後世の系譜資料では、吉備姫王は、欽明天皇の子、桜井皇子を父とし、母不詳としている。 二人の桜井之玄王 吉備姫王の父とされる欽明天皇の子である桜井皇子、日本書紀では堅塩媛の第十子桜井皇子であり、古事記では桜井之玄王とされている。 古事記では桜井之玄王は二人いる。堅塩媛の皇子の桜井之玄王と、敏達天皇推古天皇の子=堅塩媛の孫の皇女の桜井玄王である。 吉備姫王の親の名は桜井玄王で…

  • 継体持統⑦:漢王の妹、大俣王

    淡海三船が「皇極」と名をつけた天皇。まさに皇を極めた天皇であるが、出自が謎めいている。 皇極天皇の父方の系譜 日本書紀によると皇極天皇の父は茅渟王であり祖父は押坂彦人大兄皇子となっている。茅渟王の母に関する記載はない。 古事記では押坂彦人太子の子の智奴王の母は「漢王の妹、大俣王」としていて、大俣王の父母が誰か書かれていない。 漢王の妹、大俣王 大俣王については同名の大俣王が敏達天皇妃の春日老女子の第四子にいるが、敏達天皇の子に漢王の名がない。 春日老女子の第四子の大俣王の同母兄としては難波王、春日王がいて、いずれかの別名が漢王であれば当該大俣王が智奴王の母との解釈も可能となる。 また後世の資料…

  • 継体持統⑥:押坂彦人大兄皇子の微妙な立ち位置

    敏達天皇の正嫡である押坂彦人大兄皇子。系図を眺めると政治的立ち位置が見えてくる。 太子彦人皇子 日本書紀には丁未の乱の直前に押坂彦人大兄皇子の記事が出てくる。 587年4月2日に用明天皇が天然痘に罹患し死の床についたことで紛争が勃発。「群臣が大連を陥れようとしている」との噂から物部大連守屋が本拠地の河内国に避難。物部氏側の中臣勝海は『太子彦人皇子』と竹田皇子を呪詛するも、事の成り難きを知り、彦人皇子に帰順するが、彦人皇子の舎人に斬られた。 このように、日本書紀は、押坂彦人大兄皇子は物部氏側の中臣勝海を斬っており、物部陣営には属さず、推古天皇寄りの立場に居たと記している。 系図からわかること 事…

  • 継体持統⑤:聖徳太子が開いた道

    用明天皇と聖徳太子の違いは何か?聖徳太子はなぜ『用明天皇のような天皇』の扱いをされなかったのか? 用明天皇第一皇子田目皇子 聖徳太子=厩戸皇子は用明天皇の第一皇子ではない。第一皇子は蘇我石寸名の子で田目皇子である。 この田目皇子は、父の皇后である穴穂部間人皇后を娶った。これは政治的には田目皇子が用明天皇の後継を狙ったものと解釈できる。 父の正妻を娶って後継となるのは珍しいことではなく、「鎌倉殿の13人」でも奥州藤原氏で秀衡の長男国衡が秀衡の正妻を娶って、秀衡後継体制の安泰を図ろうとしていた。 田目皇子は父の皇后との結婚に成功し、権威を得たものの、崇峻天皇との後継争いには敗れたようだ。 なお田目…

  • 継体持統④:崇峻天皇暗殺の真犯人は誰か?

    新しい仏教王朝を開いた用明天皇は天然痘に斃れ短命で終わる。激動の東アジア情勢に対応するため崇峻天皇が用明天皇を嗣ぐ。何故、後継が崇峻天皇なのか。不満を持つ人々がいた。 587年丁未の乱 仏教導入は天然痘パンデミック対策でもあったが、肝心の仏教王朝の開祖である用明天皇が587年に天然痘に斃れる。 これに守旧派が勢いづく。敏達皇后のちの推古天皇から天皇位を奪い新しい天皇を立てるために動き出した。 用明天皇崩御直前に中臣勝海は太子彦人皇子を擁立するため太子のもとに駆けつけるが、推古天皇と通じていた太子彦人皇子は中臣勝海を殺してしまう。 おそらく当初は守旧派が大勢を占めていたであろうが、これで形勢が逆…

  • 継体持統③:継体・安閑・宣化天皇の不思議

    継体天皇の即位の条件として、前政権への一族全体での婿入りがあった。継体天皇は手白香皇女へ婿入りし、後継は手白香皇女の子、欽明天皇と確定していたというのは定説となっている。 一方で、継体天皇崩御時の政治情勢は、強力な指導者を必要としていた。任那については百済に割譲され、北九州では磐井の反乱も起きた。 安閑天皇・宣化天皇は即位したのか? 安閑天皇・宣化天皇は、継体朝内で発言力もあり、政権幹部として活躍していた。軍事・外交上の決済権は安閑天皇・宣化天皇が継体天皇崩御後も握っていたとみて間違いないだろう。 一方で、天皇としての祭祀はどうなのか。安閑天皇・宣化天皇期の記録の混乱を見ると、「天皇」は欽明天…

  • 継体持統②:用明天皇の不思議

    穴穂部皇子の行動を見る限り、敏達皇后である推古天皇が天皇としての権威をずっと握っていて、用明天皇は天皇としては権威のない執政権を持つ王であったように見える。 革新派:用明天皇即位の背景 500年代に入り朝鮮半島権益を巡る外交問題が活発化。田舎者国家である倭国にとって外国文化の受容は外交戦略上重要であったはずで、仏教は500年代の外交官にとって必須の教養になっていたと思われる。 最先端の文化に染まった人々が、古来の習俗に反抗するのは世の常であり、用明天皇も即位前に神道に挑戦するようなトラブルを起こしたようだ。※敏達7年に伊勢神宮に仕えさせた敏達天皇皇女の菟道皇女を池辺皇子が犯す事件があり、池辺皇…

  • 継体持統①:推古天皇にみる皇后の地位

    天皇が亡くなると次の天皇が立つというのが自明のようだが、皇后はどうなのか? 皇后の地位は天皇が亡くなると消えるのか? 皇后の地位は消えず終身制ではないのか? 推古天皇の権威の源泉 推古天皇の権威の源泉は、敏達天皇の皇后であったからというのは、異論は無いだろう。ということは、推古天皇は敏達天皇の継承者として権力を振るったことになる。 皇后の任務として、一般に言われているのが、天皇不在時の天皇の代わりである。では天皇の権威を皇后はどのように継承するのか? 推古天皇は敏達天皇の殯を行っている。敏達天皇の権威を継承する儀式と解釈できる。 用明天皇即位後も殯は続いていて、穴穂部皇子が敏達天皇の殯に乱入し…

  • 系図:倭根子王家・吉備氏③

    系図:倭根子王家・吉備氏② - 上古への情熱からの続き。 倭根子王家・吉備氏系図※系図作成上の基本的な考え方は「上古の時代の系図の作成 - 上古への情熱」及び「世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱」を参照。 吉備氏と葛城氏の誕生 神武天皇にはじまる耳王家と、耳王家に妃を出した弟磯城にはじまる磯城県主家の血は、孝霊天皇にはじまる倭根子王家に引き継がれた。(系図:倭根子王家・吉備氏② - 上古への情熱) 景行天皇は倭根子王家の血を継ぐ播磨イナビ大郎女・若郎女姉妹を娶り、倭根子王家の後継の地位を手に入れて、倭根子王家は断絶する。(解説:景行・成務天皇の不可思議 - 上古への情熱) 播磨イ…

  • 仲哀天皇崩御の謎

    記紀によると仲哀天皇は神の怒りにふれて崩御されたとされている。 実際には何があったのか? 暗殺説 現代人の感覚からすると暗殺されたように見えるが、暗殺とすると、誰が暗殺したのか。 首謀者は敵か身内か。敵としては北九州勢や熊襲が考えられるが、敵による暗殺の場合は、その後の影響としては、後で論じる戦死説と同じである。 身内の場合、崩御後に利益を得た者が怪しい。多大な利益を得たのは、神功皇后、武内宿禰、このほか、和珥氏の建振熊、吉備氏となるが、暗殺の首謀者となると、①神功皇后か②武内宿禰になる。 ①神功皇后による暗殺説 仲哀天皇崩御後、神功皇后は忍熊王を滅ぼし自分の子の応神天皇の即位への道を開いた。…

  • 仲哀天皇の事績②

    記紀によると、仲哀天皇は関門海峡を制圧した後、北九州を制圧し日本統一を果たす直前で斃れた。崩御後、神功皇后が北九州と任那を制圧し、畿内に戻り、反対勢力を駆逐して、日本統一後の最初の天皇として応神天皇が即位した。 具体的に何があったのであろうか? 「仲哀天皇の事績① - 上古への情熱」からの続き。 経緯③長門国へ出兵 『熊襲反乱の報に接し、仲哀天皇は紀伊国から長門国に船で出兵、敦賀気比宮の神功皇后にも船で長門国へ出兵させた。出兵後、即位2年6月には長門国の豊浦津に入り、7月には神功皇后が合流した。』 熊襲は景行天皇九州巡幸によって征服されたとされていることから、このタイミングでの熊襲反乱は、景行…

  • 仲哀天皇の事績①

    記紀によると、仲哀天皇は関門海峡を制圧した後、九州に上陸。最後に残された北九州を制圧し日本統一を果たす直前で斃れた。崩御後、神功皇后が北九州と任那を制圧し、畿内に戻り、反対勢力を駆逐。日本統一後の最初の天皇として応神天皇が即位した。 具体的に何があったのか? 経緯①敦賀進出 『仲哀天皇は即位元年閏11月に越からの献上品の邪魔をした異母弟の蒲見別王を滅ぼし、即位2年2月に敦賀の気比宮に入った』 息長宿禰王に庇護された仲哀天皇は、即位直前に琵琶湖決戦で近江の成務天皇に勝利したと考えられる(仲哀天皇勝利への道 - 上古への情熱)。 古事記の崩年干支から成務天皇崩御の年は西暦355年。仲哀天皇の勝利の…

  • 仲哀天皇勝利への道

    関門海峡を制圧する前の大和盆地の政権は、朝鮮半島との交易を日本海経由の丹波―琵琶湖―山代―大和の経路に頼っていた。関門海峡制圧に失敗した景行天皇は、晩年に琵琶湖経営に乗り出す。琵琶湖を支配する息長王家との摩擦が表面化する。 景行朝は関門海峡制圧できず 景行天皇による九州巡幸の経路を見ると、中部から南部の九州を巡っているものの、関門海峡と九州北岸には近づいていない。 関門海峡は言うまでもなく大陸交易の要所であり、景行天皇の九州巡幸伝承は、朝鮮半島への交易路確保のため関門海峡から北九州の制圧を企図したが失敗したと解釈できる。 景行天皇近江遷都の意味 晩年には方針転換し、大和盆地から琵琶湖西岸の大津…

  • ヤマトタケルは伊吹山で何をしていたのか

    景行天皇には皇后として、即位前にワケられて赴任した先の播磨の実力者で耳王家系の後裔である播磨イナビ大娘皇后と、即位後に制圧した美濃の八坂入姫皇后がいる。景行朝から応神朝への推移はこの播磨対美濃の構図と捉えると理解しやすい。 景行天皇即位の経緯 景行天皇が即位した経緯については「シナリオ:3世紀後半から4世紀前半『垂仁天皇、景行天皇、ヤマトタケル』 - 上古への情熱」の通りであるが、景行天皇は本来の後継者である五十瓊敷入彦を大和盆地から追い出して即位した。 五十瓊敷入彦は美濃で滅ぼされており、景行天皇は五十瓊敷入彦の資産を継承し、八坂入姫を皇后としたと解釈できる。 播磨勢力と美濃勢力の対立 播磨…

  • 解説:景行・成務天皇の不可思議

    前回「系図:倭根子王家・吉備氏② - 上古への情熱」は倭根子王家について説明したが、倭根子王家は系図上は景行天皇の代で途絶える。 倭根子王家・吉備氏系図※作成上の基本的な考え方は「上古の時代の系図の作成 - 上古への情熱」及び「世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱」を参照。 景行・成務による倭根子王家簒奪 倭根子王家は系図上は景行天皇の世代で終わる。 景行天皇は、ハエイロドの子、四道将軍派遣時に吉備を征服した若彦建吉備津彦の子の、播磨のイナビ大娘(景行皇后)・イナビ若娘の姉妹を娶り、耳王家・磯城県主家の子孫の立場となっている。 皇后イナビ大娘の子に若倭根子皇子がいて、倭根子王家最後…

  • 系図:倭根子王家・吉備氏②

    崇神天皇は、祭祀を早々にあきらめて、耳王家・磯城県主家を受け継ぐ大倭根子彦フトニ孝霊天皇を祭祀王として即位させた。この倭根子王家により前方後円墳文化が完成する。 倭根子王家・吉備氏系図※系図作成上の基本的な考え方は「上古の時代の系図の作成 - 上古への情熱」及び「世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱」を参照。 倭根子王家の誕生 大倭根子彦フトニ孝霊天皇から三代は倭根子が続くことからここでは倭根子王家と呼んでいる。 耳王家・磯城県主家を受け継ぎ、祭祀王として即位した大倭根子彦フトニ孝霊天皇であるが、名前のフトニからすると、出自は、懿徳天皇妃のフト真若姫の子で、大倭根子彦スキツミ懿徳天…

  • 系図:倭根子王家・吉備氏①

    概要 耳王家と磯城県主家によりはじまった初期天皇家は祭祀性の高い王家で四代懿徳天皇の代で一旦途絶える。崇神天皇が祭祀世俗統一王となるが、祭祀は手に負えず早々に手放して、耳王家と磯城県主家を受け継ぐ倭根子王家が祭祀を継承し、この血筋は吉備と深い関係を持ちつつ、ヤマトタケル、仲哀天皇、忍熊王を産み、傍系は吉備氏として大発展するも、息長系王家の雄略天皇により息の根を止められた。なお、前方後円墳文化はハエイロネ(倭国香姫)・モモソ姫の母子により完成されたと見られる。 倭根子王家・吉備氏系図※系図作成上の基本的な考え方は「上古の時代の系図の作成 - 上古への情熱」及び「世代を修正した系図を作ってみる -…

  • 系図:初期天皇家系図④:崇神天皇に至る系譜

    初期天皇家系図 ※系図作成上の基本的な考え方は「上古の時代の系図の作成 - 上古への情熱」及び「世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱」を参照。 崇神天皇に至る基本的な経緯は以下の通り(参照「解説:第五代孝昭天皇と第十代崇神天皇の出自と水銀朱利権について - 上古への情熱」)。①弥生時代後期、事代主一族が那賀川上流の水銀朱鉱山を開発。②その後、大物主一族が、日向出身の饒速日と、那賀川の事代主一族のトミ彦とともに、大和の宇陀の水銀朱鉱山を開発。③噂を聞きつけた日向のホホデミ(初代神武天皇)が三輪山麓に乗り込んできて、大物主一族と手を結び、饒速日とトミ彦の一族を追い出した。④しかし物流は…

  • 系図:初期天皇家系図③:磯城県主の系譜

    神武東征に際し活躍した弟磯城は初代磯城県主となり、磯城県主家は代々妃を出し繁栄するが、七代孝霊天皇に妃を出して以降、歴史から消えてしまう。 初期天皇家系図 ※系図作成上の基本的な考え方は「上古の時代の系図の作成 - 上古への情熱」及び「世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱」を参照。 弟磯城は神武東征の立役者として初代磯城県主黒速となる。神武天皇は大物主の子のイスケ依姫を妃とした。このイスケ依姫と弟磯城は関係者で兄弟と考えられるが、関係についてはっきりとは書かれていない。 綏靖天皇世代の磯城県主ハエは、子や姪が3代から6代の天皇妃となり、強大な権勢を保持していたと考えられる。この磯城…

  • 系図:初期天皇家系図②:記紀で異なる妃の系図

    初期天皇家の妃は古事記と日本書紀で記載が大きく異なる。 初期天皇家系図 ※系図作成上の基本的な考え方は「上古の時代の系図の作成 - 上古への情熱」及び「世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱」を参照。 耳王家の妃に関する系譜は、記紀で大きく異なる。古事記では妃を大物主及び磯城県主からとしているのに対し、日本書紀は事代主の子孫の出身としている。 大物主は三輪山の神であり、磯城県主一族は大和盆地南東部の実力者で間違いない。 一方で、「解説:第五代孝昭天皇と第十代崇神天皇の出自と水銀朱利権について - 上古への情熱」でも解説した通り、事代主一族は那賀川の水銀朱鉱山開発を行うなど鉱山権益の実…

  • 系図:初期天皇家系図①:耳王家

    初代神武天皇から四代懿徳天皇までは名の最後がミミ、ミとなっている。 初期天皇家系図 ※系図作成上の基本的な考え方は「上古の時代の系図の作成 - 上古への情熱」及び「世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱」を参照。 名のさいごがミ、ミミとなっている耳王家は彦ホホデミ神武天皇から始まり最後が磯城津彦の子のワチツミとなる。四代スキツミ懿徳天皇の世代までは、すべて男で姫がいない特徴がある。(正確には男女不明であるが、明確な姫がいない。) ワチツミの父は、三代磯城津彦タマテミ安寧天皇の子で、安寧天皇と同じ磯城津彦であるが名前が伝わらない。また「世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱」…

  • 系図:迦具漏比売に関する不思議な系図の解釈について

    古事記には景行天皇の6世孫である迦具漏比売(カグロ姫)が景行天皇の妃となり忍熊王の祖父を産む、さらには応神天皇の妃となり允恭天皇皇后の忍坂大中姫を産むという極めて不可解な系図がある。 筆者もどう解釈したらいいか長年悩んでいたが、ある程度説明可能な解を見つけたので、紹介する。 景行天皇6世孫カグロ姫に至る人物は以下の通り ⓪景行天皇 ①ヤマトタケル ②息長田別王 ③河派仲彦王(杙俣長彦王) ④飯野真黒姫(若建王妃) (若建王は走水海で入水して果てた弟橘姫の子) ⑤スメイロ大中彦王 (天皇の弟という意味でここでは「皇大中彦王」と漢字を当てた) ⑥カグロ姫 となる。 ここで⑤皇大中彦王であるが、天皇…

  • 系図:和珥氏 息長氏 彦坐王家

    崇神天皇の時代の『彦坐王』以来、代々「王」を称する家系について。 概要 ミマツ彦カエシネ(第五代孝昭天皇)の子で倭足彦(第六代孝安天皇)の兄である天足彦から派生する和珥氏から出た皇族は、彦坐王以来、代々「王」を称する家系となっている 最終的には、継体天皇を出し、敏達天皇を経由して、舒明皇極、天智天武に繋がり、現代へ続く天皇家として勝ち残る。 以下に天足彦、彦坐王から皇極天皇に至る系図を示す。(なお黒帯の数字は「世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱」の系図と同じく誕生年を示す。) 神功皇后までの経緯 彦坐王は大和盆地北部を拠点としていたが、子の佐保彦王は垂仁天皇に滅ぼされる。 ただ佐…

  • 解説:邪馬台国論争に終止符を

    邪馬台国論争のキーポイントは、 240年代の伊都国が属していた女王国は畿内の政権と言えるのか? 「解説:記紀が語る領土拡大の歴史 - 上古への情熱」を見てみると、邪馬台国論争にも明確な結論が出るように思う。 魏志倭人伝に見る伊都国 魏志倭人伝では240年代に魏側の使者が倭国に訪れていることから、240年代の倭国の様子を記載している。 伊都国は「代々王がいて、みな女王国に属する。帯方郡の使者が往来し足を止めるところ」とされている。 240年代に伊都国は女王国すなわち邪馬台国に属していたことになる。 日本書紀に見る伊都国 日本書紀では仲哀天皇が崩御する前年に伊覩県主の五十迹手が降伏している。それ以…

  • 解説:記紀が語る領土拡大の歴史

    畿内政権の制圧圏、日本の範囲はどのように拡大していったのだろうか。 記紀が語る領土拡大の歴史についてまとめてみた。 ハニヤス王鎮圧時の制圧圏 畿内はハニヤス王の反乱鎮圧時点で制圧は完了したとの歴史認識のようで、日本書紀には「畿内無事」との記載がある。 このほかに、崇神天皇即位後、制圧伝承のない地域として、紀伊半島と四国がある。ミマツ彦カエシネ(孝昭天皇)が、宇陀の水銀朱などの鉱物資源の権益を求めて、出身母体の事代主一族が支配する四国那賀川流域から紀ノ川を遡って奈良盆地南西の玉手の地に進出したと『解説:第五代孝昭天皇と第十代崇神天皇の出自と水銀朱利権について - 上古への情熱』や『シナリオ:2世…

  • シナリオ:7世紀『日本誕生』

    7世紀の東アジアは、統一中国の隋・唐に飲み込まれるか生き残るかのサバイバルレースが展開された。驚愕のペースで変化する国際情勢に翻弄され、極東地域では、百済・高句麗が滅び、新羅・日本が生き残った。 系図は『世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱』を参照。 六世紀末の589年には隋が中国を統一。598年には30万もの軍を高句麗に派遣してきた。辺境諸国に一気に緊張が走る。 高句麗・百済・新羅は、隋唐の冊封体制に入るという、常識的外交を行った。一方、「倭の五王」の後、対等の関係を目指していた倭国は強大な隋唐に対してもメゲずに自らを貫き通す。600年に隋に対して様子見の遣使をし、607年に小野…

  • シナリオ:6世紀『磐井の乱が引き起こした二朝並立と蘇我氏の勃興』

    系図(世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱)から見えてくる世界。 今回は継体天皇から始まった6世紀の様子について。 502年(紀は506年)に豪族たちの総意で武烈天皇が排除され、503年(紀は507年)に継体天皇が擁立された。継体天皇と二人の皇子(後の安閑天皇と宣化天皇)が和珥系皇女に入婿する形で前世紀の血統の統一が目指された。結果はすぐに現れて継体3年(505年:紀は509年)に後の欽明天皇が生まれて、欽明天皇への皇統の継承が確定するかに見えた。 一方、国際情勢は苛烈化。任那の4県(512年)2郡(513年)を百済に割譲するなど、ジリ貧状態であった。北九州勢としては、せっかく仲哀…

  • シナリオ:5世紀『倭の五王と二朝並立』

    関門海峡制圧(仲哀天皇崩年の前年:記崩年干支によると361年)以降、莫大な富と文化が瀬戸内海・難波に流入。巨大な前方後円墳の造築が可能になり、記録も詳細に残せるような文明開化が起こった。 このため五世紀の歴史は詳細な様子がわかる。以下は、各天皇の元年崩年をまとめたもの。 ※記紀記事の西暦(絶対年代)への比定については、不確定性が多い。日本書紀はストーリー上の都合に応じて改竄している可能性が高いほか、暦について春秋二倍暦などを考え始めると、あらゆる解釈が可能になる。上記表では、古事記記載の崩年干支が、一年暦に換算された正確なものとして、各天皇の元年崩年を整理した。 以下、5世紀の様子を紹介する。…

  • シナリオ:4世紀後半『神功皇后から仁徳天皇まで』

    系図から見えてくる世界。(参照:世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱) 今回は、西暦300年代後半から400年まで。 足仲彦即位(仲哀天皇350年頃)時点で、関門海峡・北九州以外は勢力下に置いていた。また朝鮮半島では新羅や百済が国として形成されはじめて、皇后の息長足姫(神功皇后)は新羅の権益(母方が新羅王子天日槍の子孫)を有していたことから、関門海峡、北九州、新羅の制圧を企図した。 そこで若狭水軍を息長足姫に束ねさせ、紀伊水軍を武内宿禰に束ねさせて、瀬戸内海と日本海から関門海峡を挟み討ちにし念願の関門海峡制圧に成功した。 ここで不測の事態が起こる。足仲彦(仲哀天皇)が急死してしまっ…

  • シナリオ:3世紀後半から4世紀前半『垂仁天皇、景行天皇、ヤマトタケル』

    四代懿徳五代孝昭間、六代孝安七代孝霊間、九代開化十代崇神間を切って世代を見直した『世代修正系図』から見えてくる世界。(参照:世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱) 今回は西暦200年代後半から300年代前半の様子を紹介する。 彦坐王は初代世俗王ミマツ彦(孝昭天皇)の子の天足彦の子孫で、和珥氏一族。子の丹波道主王とともに四道将軍の派遣で丹波方面で活躍して、奈良盆地北部から淀川・琵琶湖・丹波を支配していた。 第十代崇神天皇ミマキ入彦五十瓊殖(イニエ)の代替わりとして、第十一代垂仁天皇イクメ入彦五十狭茅(イサチ)が200年代後半に即位。 垂仁天皇は彦坐王家に介入。彦坐王の子の佐保彦を滅ぼ…

  • シナリオ:3世紀中頃『統一王崇神天皇の登場』

    四代懿徳五代孝昭間、六代孝安七代孝霊間、九代開化十代崇神間を切って世代を見直した『世代修正系図』から見えてくる世界。(参照:世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱) 今回は西暦200年代の様子を紹介する。 第四代スキツミ(懿徳天皇)でホホデミ(神武天皇)から続く祭祀王家は途絶える。スキツミの親族、ワチツミは淡路に拠点を置き、吉備勢力と関係を深める。 世俗王第二代の倭足彦(記紀では第六代孝安天皇)の代替わりとして、ミマキ入彦が纏向を制圧し、世俗祭祀の統一王(記紀では第十代崇神天皇)となる。250年ごろのことである。※ミマキ入彦の出自であるが、皇后のミマキ入姫が、又の名をミマツ姫とも言わ…

  • シナリオ:2世紀末から3世紀初頭『綏靖天皇のクーデターと世俗王孝昭天皇の登場』

    四代懿徳五代孝昭間、六代孝安七代孝霊間、九代開化十代崇神間を切って世代を見直した『世代修正系図』から見えてくる世界。(参照:世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱) 今回は西暦200年前後の様子を紹介する。 ホホデミは即位後、程なくして亡くなる。ここで、皇后イスケ依姫はホホデミの長男タギシミミを男王に選ぼうとする。一方、川派(カワマタ)姫がイスケ依姫を追放するクーデターを起こし、川派姫の夫である渟名川ミミが男王として第二代綏靖天皇となる。2世紀末のことである。※男王がメインか、女王がメインかで、話は変わる。神武天皇は明らかに三輪祭祀の巫女を出す磯城県主家に婿入りしていて、発言力があっ…

  • シナリオ:2世紀『神武東征と纏向の誕生』

    四代懿徳五代孝昭間、六代孝安七代孝霊間、九代開化十代崇神間を切って世代を見直した『世代修正系図』から見えてくる世界。(参照:世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱) 今回は、2世紀の様子について紹介する。 弥生時代後期、阿波の那賀川上流で水銀朱鉱山(現在の若杉山遺跡など)が開発される。事代主一族がこの水銀朱利権を掌握していた。※事代主については出雲の国譲りに関する物語などで大活躍する神であるが、式内神社の分布を見ると、徳島の那賀川周辺にのみあるなど、事代主は本来は那賀川の開拓に関する神であったとみられる。 100年代後半、大物主一族が、奈良盆地南東の泊瀬川上流域、宇陀の水銀朱鉱山を開…

  • 解説:第五代孝昭天皇と第十代崇神天皇の出自と水銀朱利権について

    前回(世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱)紹介した世代修正系図では、第四代と第五代の間、第六代と第七代、第九代と第十代の間を分割した。 第七代倭根子(大倭根子・彦フトニ:孝霊天皇)については大直根子(オオタタネコ)と同一人物ではないかとしたが、今回は、第五代ミマツ彦(孝昭天皇)と第十代ミマキ入彦・イニエ(崇神天皇)の出自について。 第五代ミマツ彦(孝昭天皇)に関して、「ミマツ彦の同母弟」という意味の名を持つミマツ彦イロドが、徳島の那賀川に拠点を持つ長国造の祖先とされていて、事代主の孫との伝承があり、ミマツ彦イロドを祀る『御間都比古神社』が徳島の山中に現存する。 事代主については出…

  • 世代を修正した系図を作ってみる

    前回(上古の時代の系図の作成 - 上古への情熱)自作の『記紀等準拠系図』を紹介したが、この系図を眺めると、親子継承の間隔や婚姻関係など、いろいろ無理があることに気づく。 〇親子継承が大きく伸びている部分として、①ワチツミ、②物部十市根、③武内宿禰が挙げられる。②③は伊香色女、伊香色男の世代が3世代ずれている。①については、ハエイロネ姉妹の世代が3世代、ワチツミが1〜2世代ずれている。 〇3代から6代までの天皇は、磯城県主ハエの子の世代の娘を妃としており、この間の天皇を直系で繋ぐのは無理がある。 〇同世代で活躍したとされる四道将軍の四人の世代がバラついていて、同時期に活躍していたとするのは無理が…

  • 上古の時代の系図の作成

    神武天皇から持統天皇までの記紀が扱う時代について系図を作成してみた。 この時代の神武天皇からはじまる系図では、通常は男系の単調な系図となっていて、神武天皇から成務天皇までは父子継承であることから、系図は一直線になっている。 ところが、本来の記紀には多彩な母系も記述されており、決して一直線の単調な系図で表されるようなものではなく、また、"神武"のような漢風諡号も使われていない。 漢風諡号を用いた単調な系図は、そもそもの記紀の世界観からは大きく異なったイメージを与えて、あまり適切ではないのではないか? 漢風諡号を用いず、母系も意識した系図を作成すると、どのようになるのか? そのような観点から、記紀…

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