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こんにちは。RIYOです。今回はこちらの作品です。 風のように去ってゆく時の流れの裡に、人間の実体を捉えた『風立ちぬ」は、生きることよりは死ぬことの意味を問い、同時に死を越えて生きることの意味をも問うている。バッハの遁走曲に思いついたという『美しい村』は、軽井沢でひとり暮しをしながら物語を構想中の若い小説家の見聞と、彼が出会った少女の面影を、音楽的に構成した傑作。ともに、堀辰雄の中期を代表する作品である。 昭和初期、日本の文芸思潮の主流であった自然主義は私小説へと移行し、反自然主義の流れが大きく変化していきます。夏目漱石をはじめとする「余裕派」、森鴎外らの「高踏派」が台頭すると、永井荷風らの「…
お立ち寄り下さり、ありがとうございます。 先日までの雪景色が噓のように、すっかり春がやってきた軽井沢。今日の最低気温は6時54分の5.6℃、最高気温に至っては…
大野晋・丸谷才一『日本語で一番大事なもの』の中で、丸谷才一は堀辰雄の小説『風立ちぬ』(1938)を取り上げて、言います、「巻頭にヴァレリーの ”Le vent se lève, il faut tenter de vivre.”という詩が引いてあります。それが開巻しばらくしたところで、語り手がその文句をつぶやく。そこが「風立ちぬ、いざ生きめやも」となっている。「生きめやも」というのは、生きようか、いや、断じて生きない、死のうということになるわけですね。ところがヴァレリーの詩だと、生きようと努めなければならないというわけですね、つまりこれは結果的には誤訳なんです。「やも」の用法を堀辰雄は知らなか…