「インボイス制度」施行に至った原因の一つは「的外れな政権批判/政策批判」にある。ラサール石井やそのお仲間がやってきたことはまさに「的外れな政権批判/政策批判」。その結果増えたのは、外国人や国境が邪魔な奴らが有利になる政策。日本が不利になり国民が貧困化するのは当然。「的外れな政権批判/政策批判」の支柱は、やはり「空想的平和主義」だ。
「適切な言語感覚」を探求する者。「言葉の変化全肯定論者」の軽薄さと危険性を独自の視点で暴き出す。「言葉は生き物」「言葉に寛容になれ」と心無い批判をされた人よ。あなたの言語感覚は間違っていない。そんな奴らに屈するな。言語を守ることは国防。
もし、保育所・幼稚園で保育士や教諭が「ワンオペ」と言っていたらどうだろう。良い気分にならないのが親として真っ当な心理なはず。その一方で、我が子との暮らしを「ワンオペ」と言ってのける親がいる。あなたがどう思うか訊きたいところだ。もし「ワンオペ」と言い放つ保育士や教諭に不快感を抱きながら、自身が「ワンオペ育児」と
「普通においしい」「普通におもしろい」「普通にかわいい」などの言い回しは、田舎の小中学生のセンスに似ている。自転車にアッパーハンドルやバイクのフロントカウルなど、何でもかんでも好き放題に取り付けて喜ぶような。アホである。私も似たようなことをしていたので、未熟な彼らにはまだ可愛げを感じる。「普通に~」も不適合なパーツと同じ。
「言葉を変えて何が悪い」とぬかすバカへ告ぐ。不完全なくせにこれ以上自由を望むな
既存の語義と用法で申し分ないほど自由な表現が可能にも関わらず、更なる自由と制限の解除を求める。これは人間に高い理性が「恒常的」にあるという条件を必要とする。しかし、そんなものは二千年以上前に否定されている。条件は満たされない。飽きっぽいから定義や基準を変えたがる。恒常的に高い理性を保てない奴らには土台無理な話だ。
「普通においしいはOKだよ♡」平野啓一郎の正体は二枚目気取りの三枚目
平野啓一郎よ。各々が語義や用法をいじくり回して変化させるという多様性をお前は支持している。ならば「普遍」「普通」なるものにズレが生じ多様性に富むことを認めたことになる。では「普遍的に通じる」という論理は否定されるのではないのか?お前は、頭の中がバランバランに分裂した統合失調なのだ。
大手新聞社やテレビ局といった企業、個人ブログ、まとめブログなどへ意見を届けた。しかし、その殆どが提案を受け入れることなく現在も活動している。防犯の知識を悪用した「可能性」の誤用に関しては惨敗だ。よって「実績」とは言い難い。私が不適切と感じる表現はこの他に多数ある。随時更新していくつもりだ。
「防犯」大切ですよ!「対策」重要ですよ!「防犯」と「対策」共に強調したいので「防犯対策」になってしまうのだ。これを親切心や配慮と捉えたあなたはすっかりコントロールされている。企業や組織が「対策」を付けたがるのは「お前らはバカだ」ということの裏返し。「防犯」だけでは注意喚起として弱いと判断しなければ
目下のイベントにしか興味がないソーシャルゲームのアホプレイヤー共が「納金」の対義語であるはずの「課金」で上書きセーブをやらかしている。その上書きセーブのデータは各分野でコピーされ世間に蔓延した。その蔓延ぶりは手の付けられないところまできており、愛国心の塊のような桜井誠氏でさえ「納金」のことを「課金」と言っている始末。
前項で例に出した表現に共通するのは、内(思考)と外(言葉)がバラバラな状態ということ。内と外がバラバラな状態を続けているとどうなるか。「徐々に無思考へと至る」のだ。「女子力」と「草」は既に「思考を放棄している域」に達している「無思考状態」なので救いようがない。まさに「一億総ボケ社会」だ。まったく、日本人は「再考」だぜ!!
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「インボイス制度」施行に至った原因の一つは「的外れな政権批判/政策批判」にある。ラサール石井やそのお仲間がやってきたことはまさに「的外れな政権批判/政策批判」。その結果増えたのは、外国人や国境が邪魔な奴らが有利になる政策。日本が不利になり国民が貧困化するのは当然。「的外れな政権批判/政策批判」の支柱は、やはり「空想的平和主義」だ。
「プライマリーバランス黒字化」「財政破綻」「通貨の信認」などは優先的に語義を疑うべきだと私も思う。しかし、ここから先が三橋氏と私の見解が大きく違うところだ。その違いを述べよう。
竹中平蔵、お前をいつか必ず殺してやる 竹中平蔵や堀江貴文など、多くの国民を苦しめた奴らがいる。間接的にせよ、奴らのせいで
[jin-yohaku50] ありがとうございました [jin-yohaku50] 私はこれまで何ら疑いを持たず上記の表
[jin-yohaku50] ありがとうございました [jin-yohaku50] 私はこれまで何ら疑いを持たず上記の表
本来の読み方の記録。これに戻せと主張しているわけではない。ひとまず、こんな読み方だったのかと思って貰えればそれで良い。
私は溢れかえる「コスパ」なる言葉のデタラメさに辟易し、激しい怒りすら覚えるようなった。近頃では「コスパ」と書かれているレビューには片っ端から「参考ならない」「違反報告」などをクリックしている。「レビュー」の条件を満たしていないからだ。乱用される「コスパ」には特徴がある。それは
他者の視点から自分に反論を試みた。これまで私は言語に関してあらゆる問答を目撃してきた。その問答の渦中に己がいたこともある。当ブログの記事は、今まで経験した問答に対する私論だ。考え抜いた末の答えなので、大抵の反論に対応できている。だが、曖昧な部分や矛盾点があることにも気付いたのだ。己を懐疑し矛盾を直視するのは、意見を公表する者として当然であるという考えの元、投稿する。
私としては「分類関係なく反発するのもやむなし」という心情が若干ある一方で「誤りは条件問わず指摘し合うのが好ましい」と考えている。つまり「一部に限定すれば反論に賛成」と思いつつも、やはり好ましい表現を提案されたならば素直に従うべきという立場。ただし「なります敬語」「させていただきます敬語」「お疲れ様」などの
「キチガイ」言葉遣いの記事に対する反応の一つがそんなコメントだった。それが凄く印象に残っている。殺意をチラつかせた文言があったので「キチガイ」と評価されても仕方ない。殺意をチラつかせてしまうのは私の性分だろう。ただ、どうしても攻撃的な表現になってしまうのには、それなりに背景があるのだ。
「豊富な語彙」という表現に示されるように「語彙とは、一定の領域に蓄えられた言葉たち」なのだ。もっと簡潔に述べれば「倉庫の荷物」のようなものが「語彙」の実態である。「語彙=倉庫の荷物」に「力」という文字を足すとどうなるか。とたんに意味がボヤケてしまう。倉庫の荷物の力?荷物そのものの力?何じゃそれといった具合に。
「観」という文字が含まれている表現は概ね「何者か」がいるのだ。観察や観賞はまさに人の視点抜きでは表せない。「客観」に関しては、あらゆる主観を排除する意味合いがあるので例外と言えなくもない。だが、やはり「観察者/観測者」を必要とするので人の意思を排除できない。
「~感を感じる」「感じる~感」といった表現を絶対に許せない神経でなければライターをやるべきではない。こんな無粋な重言に対して指摘されるまでもなく「あれ?」と思わない奴は間違いなく「鈍感」だからだ。これはスポーツ選手にとっての動体視力や反射神経みたいなもので「~感を感じる」「感じる~感」という表現に何ら抵抗や反応がないなら
あなたは関係を進展させたいと思っている女性と話していてこう感じたことはないだろうか。「言葉の意味を間違ってるんだけどな」「その意見はちょっとおかしい」。受け流すのも一つの手だ。だが、どうしても訂正したくなったり、反論したくなったりすることもあるだろう。そんなときには次の方法を試してみてほしい。
本気で身体作りに励む男性は知っている。筋肉を増やすことがいかに大変か。女性となるとその大変さが跳ね上がることも理解している。身体作りに励む男性の全てとは言わないが、生活リズムや食事に気を使っている。暴飲暴食もしない。アルコールに溺れない。遊興にも関心が薄い。どうせ寄ってくるならまっとうな生活を心掛けている男性のほうが良いに決まっている。
あなたは目上の人に対してこんな返答をしていないだろうか。「していない」と思っている人でも、よく自分を観察してほしい。つい「あ」と入れてしまっているかも知れない。この「あ」は、潜在的な謙虚さや向学心からくるのかも知れないが、目上の人の印象は悪く「頼りない」というマイナス点しか残らない。
今回は「テンション」の誤訳・誤用について持論を述べたい。 話は日本国憲法や主権にまで広がるが、全て繋がっている。 誤訳に
三橋貴明氏が「財政破綻論・自己責任論を徹底的に潰せ![三橋TV第246回]」の動画内でこんな発言をしていた。日常会話でやたら言葉に定義にこだわるやつ嫌でしょ。この率直な感覚に大抵の人は納得できるだろう。日常会話においては言葉の定義よりも、話者が述べたい意見の全体像を掴むほうが肝要だと。しかし私は、ここに合成の誤謬の
「草」と書いているのを見てあなたはどう思うだろうか。笑ったことを意味しているなんて答える人がいるかも知れないが、実は全く意味を内包していない。その言語空間に参加している証を残したいだけなのだ。参加している痕跡として、とりあえず「草」と書いているに過ぎない。
語義用法変化肯定論者はよく「道具」という認識で言語を扱う。その認識は「道具は使いよう」という粗雑な方向に進みやすい。実際、気紛れで無自覚に語義や用法を変えてしまう奴らは、好ましい言葉選びを提案した私のような者に「道具は使いようだ」と対抗する。その裏にはこんな感情がある。
本来の読み方の記録。これに戻せと主張しているわけではない。ひとまず、こんな読み方だったのかと思って貰えればそれで良い。
私は溢れかえる「コスパ」なる言葉のデタラメさに辟易し、激しい怒りすら覚えるようなった。近頃では「コスパ」と書かれているレビューには片っ端から「参考ならない」「違反報告」などをクリックしている。「レビュー」の条件を満たしていないからだ。乱用される「コスパ」には特徴がある。それは
他者の視点から自分に反論を試みた。これまで私は言語に関してあらゆる問答を目撃してきた。その問答の渦中に己がいたこともある。当ブログの記事は、今まで経験した問答に対する私論だ。考え抜いた末の答えなので、大抵の反論に対応できている。だが、曖昧な部分や矛盾点があることにも気付いたのだ。己を懐疑し矛盾を直視するのは、意見を公表する者として当然であるという考えの元、投稿する。
私としては「分類関係なく反発するのもやむなし」という心情が若干ある一方で「誤りは条件問わず指摘し合うのが好ましい」と考えている。つまり「一部に限定すれば反論に賛成」と思いつつも、やはり好ましい表現を提案されたならば素直に従うべきという立場。ただし「なります敬語」「させていただきます敬語」「お疲れ様」などの
「キチガイ」言葉遣いの記事に対する反応の一つがそんなコメントだった。それが凄く印象に残っている。殺意をチラつかせた文言があったので「キチガイ」と評価されても仕方ない。殺意をチラつかせてしまうのは私の性分だろう。ただ、どうしても攻撃的な表現になってしまうのには、それなりに背景があるのだ。
「豊富な語彙」という表現に示されるように「語彙とは、一定の領域に蓄えられた言葉たち」なのだ。もっと簡潔に述べれば「倉庫の荷物」のようなものが「語彙」の実態である。「語彙=倉庫の荷物」に「力」という文字を足すとどうなるか。とたんに意味がボヤケてしまう。倉庫の荷物の力?荷物そのものの力?何じゃそれといった具合に。
「観」という文字が含まれている表現は概ね「何者か」がいるのだ。観察や観賞はまさに人の視点抜きでは表せない。「客観」に関しては、あらゆる主観を排除する意味合いがあるので例外と言えなくもない。だが、やはり「観察者/観測者」を必要とするので人の意思を排除できない。