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作家の森博嗣氏が「やりがいのある仕事という幻想」という著書のなかでこんなことを書いている、古来、人間の価値というと、その人がしている仕事で判断される事が多かった、それだけ職業というのは人の価値を決める重要な要素だった、だから人よりも立派な仕事につきたいと願ったりする、そうすると人間としてレベルアップしてみんなから尊敬されるだろうと勝手に思い込んでいる。しかし職業に貴賤はなく、どんな仕事でも人の役にたっている、無職であっても人の価値が下がるわけではない、同じように金持ちが貧乏人よりもえらいわけではない、どんなに仕事で成功しても人間として偉くなれるわけではない、確かにその通りであるが実際問題としてお金のある人や権力のある人が人を動かすことで偉いと思わせてることも事実である。職業で人間の価値が決まるのではないと...人間の価値は何で決まるのだろうか?
「年収200万円で豊かに暮らす」という雑誌が発売と同時にX(旧ツイッター)でトレンド入りするほど話題になった、年収200万円で豊かに暮らすとはどんな内容だろうか?と思い購入して読んでみた。ツイートの多くの内容は「年収200万円で暮らせるわけないだろ」「これを見た時色々と地獄を感じた」と明らかにタイトルだけをみての反論だった、しかし本書の内容は節約することが楽しくなるというもので、年収200万円という文言はどこにも見当たらない。スマホ代は月3000円~5000円、財布にはお金を入れすぎない、買った食材はすべて使いこなす、外食を減らす、気が進まない職場の飲み会は回避、ポイントカードを年に一度の見直し、家計簿で有意義なお金の使い方を見る、1週間分の作り置きで食費3万円に削減等「年収200万円で豊かに暮らす」はタ...年収200万円で豊かに暮らすとは?
松本人志氏から性的被害をうけたという女性の証言を週刊文春が報じて1ヵ月半、TVでは連日報道され擁護する人、批判する人、騒動が収まる気配がない状況である。事実であれば悪質な内容であるが松本氏が事実無根といって週刊文春を提訴、そして休業宣言しかし女性側が警察に被害届を出したわけでもない、ただ不愉快な思いをしたと事の顛末を週刊文春に話した、そのことに過敏に反応した。なぜ松本氏が記者会見をしなかったんだろうか?お笑い界のレジェンドでMCをやるほどの人が沈黙を貫く真意がわからない、事実なら「不愉快な思いをさせて申し訳なかった」と謝罪、事実無根なら、その説明をしてればここまでの騒動にならないで違った展開になったのではというのが私の個人的な見解である。松本人志問題の行方は?
作家の村上春樹氏は団塊世代の75歳、音楽好きでジャズのレコードをかけて珈琲やお酒や料理を出す店を経営してた、そのかたわら執筆活動に励んでいた、小説を書いているときは文章を書いているというより音楽を演奏しているというのに近い感覚があるという。そんな村上氏は初めての小説「風の歌を聴け」で群像の新人賞を受賞した、その時高校時代の同級生が店に尋ねてきて祝福してくれると思ったら「あれくらいのものでよければ、俺だって書ける」と言って帰って行ったという、当然腹が立った、その同級生はその後小説を書いたわけでもない、エッセイの中で書かれたこのエピソードは読み手として衝撃的だった。「誰のために書くのか」村上氏は自分の書きたいものを書く、自分が楽しむために書く、そして読者に楽しんでもらいたい、何かを感じてもらいたいと希望しなが...誰のために書くのか(作家・村上春樹)
職業に貴賤はないが人間は明らかに貴賤は存在する、金持ちであろうがなかろうがいやしい人間はいやしく賢い人間は賢い」と言ったのは哲学者の今は亡き池田晶子氏である。 人間は立派な仕事に就きたいと願うもの、そういう仕事に就けば人間として尊敬されると思い込んでる人は多い、例えば医師という職業は確かに患者から直接感謝されることが多い、だから人間としても立派な人ばかりかというと必ずしもそうではない。 おなじように金持ちが貧乏人よりえらいというわけではない、どんな仕事で成功しても人間として、えらいというわけではない、生活の成功者と人生の成功者は違う。 それでは仕事で人間の価値を決めるのではなく何で人間の価値を決めるのかというと、それは人それぞれ見方が違うものである、私はその人の誠実さや弱さを抱えながらも懸命に人生に対し真...生活の成功者と人生の成功者は違う!?
生き方が難しいのはいつの時代も同じで人間はその中でどれだけ精神的な余裕を持てるかをいつも試されてるような気がする、又私達はいい条件がそろえば幸福になれるという錯覚が、なぜかあるものだ。 ある面、一理あるのだが必ずしもそうではない、苦しみの質は人それぞれ違う、物質的には豊かで満たされていても幸せを感じられない多くの人がいることも確かである。 実際100%の幸せなどありえない、幸せは常に断片として現れるものだ、それこそ丸ごとの幸せ、なにからなにまで幸せといった状態は幻想かもしれない。 明日の保証を手にしている人など一人もいないし、今日は元気で安定していても明日のことは誰にもわからない、だから人の一生は最後までわからないと思って生きるしかない。明日のことは誰にもわからない
雑誌プレジデントの特集「我慢しない生き方」は興味深い内容だった、我慢をやめるだけで人生劇的好転とインパクトのあるメッセージがあったが、齢を重ねていくにつれてやりたいことを我慢することがふえていくのが現実である。 お金、健康、人間関係、特に対人関係で気に入らない人とうまくやろうとしたら自分の態度を変えるしかない、我慢が生きていくうえで基本の心構えと思い現役時代を私自身過ごしてきた、我慢することで生活できる、あれも買える、旅行にもいけると思ったものだ。 リタイヤしてからは無理することがなくなった、今は自分の弱さを素直に認められる、思いどうりの人生を歩んできたとは思ってないが、今は我慢しない生き方ができる、このことに感謝したい。我慢しない生き方ができることに感謝
「ふたつよいことないものよ」今は亡き臨床心理士の河合隼雄氏の著書「心の処方箋」に書かれてる名言である、ひとつよいことがあると、ひとつ悪いことがある、自分にとって幸福が誰かにとって不幸ということもある、いいことずくめの人生などないということである。 家庭や学校や職場で問題を抱えてるときにこの言葉に出会い支えられた人は多い、例えば学校でいい成績をとった、会社で仕事を評価された、いいことなんだけど仲間から妬まれ人間関係がぎくしゃくしたとか、ひとついいこと起きたのにひとつ悪い事が起きたとかよくある話である。 人間の一生は晴れもあり嵐もある、どんなに苦しい悲惨な状況でも永久に続くことはない、逆に生れてから死ぬまで幸福の連続ということもない、浮かぶ日もあるし沈む日もある、だから悲観も楽観もしない、そういう姿勢でこの「...ふたつよいことないものよ
日常生活で誰もが多かれ少なかれ落ち込むことはあるものだ、落ち込んだ時は自分で自分を奮い立たせるしかない、待っていても何も変わらない、現状を変えるのは自分、自分が自分を必要としている。 だから自己否定などしなくていい、いまある自分をすべて変えたいと思わない方がいい、落ち込んだことを自分の中で認める、これが自分なんだ、それでいいのだと思うことにしてる。 健康、お金、人間関係などで悩むことは誰にでもある、落ち込むのは自分だけではない、人生で落ち込むのは誰にでもあることだ、そこから這い上がればいい、そう思って私は今まで生きてきたし、これからも生きていくつもりだ。人生で落ち込むことは誰にでもあること
つらいこともそんなに続くものではない、いいこともそんなに続くものではないと考えるようにしてる、病気になるまえから病気になることを心配してもしょうがない、齢を重ねると不安になる、それでもあまり先のことより今のこと、ごく短い期間で考えたいものだ。 嫌なことは考えない、浮かんでは消す、頭を切りかえる、そしてマイナスの言葉はできるだけ口にしない、やる気がしない、駄目だ、つまらない、寂しい、たやすいことではないけど誰のためにもならない言葉かもしれない。 そしてなにがあっても大丈夫なんとかなると思いたい、いつまで生きるかわからないが残りの人生で大切な事だと思っている。大丈夫なんとかなると思いたい
もう少し収入が多かったらよかったのに、もう少し頭がよかったらよかったのに、そうしたら人生は違ってたかもしれない、誰もが思うことかもしれない、しかし幸福度とはあまり関係ないと「幸せのメカニズム」の著者真野隆司氏は著書の中で明言している。 16歳以上の男女を対象に2012年に21カ国で行った調査によると「もっと多くの財産があれば幸せなのに」と思う人は日本人は60%で、ロシア、中国、に次いで第3位だった、いわゆる日本人は国際的にみて「もう少し〇〇だったら幸せだろうに」と思いがちな国民という調査結果だった。 所得などの特定の保証を得ることが必ずしも幸福に直結しないにもかかわらず、それらを過大評価してしまう傾向がある、だから日本人は現状不満派と言われるのかもしれないが本当にそうだろうか?日本人は現状不満派だろうか?
世の中の多くの人は社会において人を判断するとき、学歴や経歴、そして報酬や資産、そして社会的地位を尺度にすることが、ほとんどである、それはその人のものさし、いわゆる価値観である。 それでも人間の価値感なんてちょっとしたことで変わるもの、変貌自在である、環境や経験によってずっと同じということはない、人間の心は矛盾した考えと欲望を持っているからである。 重要なのは収入や社会的地位、学歴、経歴だけが人の価値を計る尺度ではないということ、それは老年になるにつれ理解できるものである、誰かの価値基準にとらわれる必要はない、自分なりの価値基準を見つけてそれを大切にする生き方こそ真の生き方だと思っている。人間の価値感は変わるもの
NHKのドキュメント72時間、舞台は大病院の屋上庭園、東京御茶ノ水駅周辺にある東京医科歯科大学、病床数800の大病院の屋上庭園での定点観測、患者や家族が訪れる人たちの声が聞けた。 私が印象に残ったのは54歳会社員の男性、悪性リンパ腫と診断され入院、奥様と3人の子供(27歳、25歳、9歳)がいるが特に末っ子の9歳の長男は父親に瓜二つで可愛い、この息子のためにも生きていたい、そして息子さんが書いた父親の似顔絵と寄せ書き「パパ、がん、がんばって、まってるよ」大切にしてる父親の笑顔が辛い闘病生活を乗り切る覚悟のようなものが一瞬垣間見えた。 日常でありながら非日常的な病院、闘病してる人にとって病気でない状態はきっとまぶしい幸せの根源なのかもしれない、難病と診断され、本人にとっても家族にとっても人生の色合いが変わって...ドキュメント72時間「大病院の屋上庭園で」
日常のなかで誰もが経験してる、〇〇したい、〇〇しなければ、そんな局面に遭遇したとき、どちらを選択するか迷うものである、〇〇さんに会いたい、〇〇さんに会わなければ、飲み会に参加したい、飲み会に参加しなければ、この違いは大きい。 環境が変わったり、好みが変わったり、かつては大切だった人、大切だったモノが色褪せてしまう、人間の心なんて矛盾してるもので時間が経過して変化するのは仕方がないことである。 たとえば人間関係で〇〇さんと会う約束をする、以前は楽しみで会いたい人だったが、今は気が進まない、それでも会わなければ…そんな時相手の都合が悪いという連絡が入る、なぜかほっとする自分がいる、〇〇したいと〇〇しなければの違いは大きいと感じる瞬間である。〇〇したいと〇〇しなければの違い
「私は力だ、力の結晶だ、何ものにも打ち克つ力の結晶だ、だから何ものにも負けないのだ、病にも運命にも、否あらゆるすべてのものに打ち克つ力だ、そうだ!強い強い、力の結晶だ」 これは昭和の実業家、思想家である中村天風氏(1876~1976)の著書「運命を拓く」のなかの言葉である、運命も健康も自分の心の思い、考え方でよくも悪くもなる、言葉は人生を左右する力がある、積極的な言葉を使う習慣をつけよう、例えば頭が痛い、耳が痛い、痛いのは痛いでいい、そのあとがよくない、痛くてしょうがない、もうだめだ、これがよくない、消極的な言葉だと斬り捨ててる。 天命はどうすることもできない、男に生まれた、女に生まれた、現代に生まれた、昔に生まれた、しかし宿命は人間の力で打ち開いて行くことができるという天風氏、大リーグで大活躍の大谷翔平...大谷翔平が愛読する「運命を拓く」
努力が必ず報われるとしたら、勝利は努力の量に比例するはずである、しかし現実はそうではない、努力は必ずしもむくわれるとは限らない。 この言葉は作家の五木寛之が「折れない言葉」のなかで紹介してるプロスケーター羽生結弦の言葉である、そしてこの言葉に続いて「しかし努力には意味がある」と続けてることに注目したい。 どんなに努力をしても勝てなければ人からは評価されない、他者からの評価は重要である、努力をすれば自分に手応えや満足を感じられる、努力は必ずしも報われないかもしれない、それでも努力をしたことは大切だし価値があるということを言いたかったのでは?と思う。努力は必ずしもむくわれるとは限らないけれど
好きな人嫌いな人というのは第一印象はあまりてにならない、生理的に嫌いというのもあるけれど人間の考え方や性格というのは実際に話してみないとわからないものだ。 好きな人嫌いな人との判定はなかなか難しい、ある視点からいえば嫌いだけど違う視点から見ると好きだとそういう面を人間は必ず持っている、一方で同じ行動をしても好きな人であれば許せる、嫌いな人は許せない、極端な話が一度嫌われると本人はいくら努力しても好かれるということがないということがある。 誰もが嫌われるよりは好かれたい、それは老若男女変わらない、それが人の世の原理である、それでも誰にも嫌われない人など一人もいないはず、全員に好かれようとするから悩む、周囲を見渡して50%の人に好かれたら上等だと私は思っている、人間にとって好き嫌いの感情はたわいのないことのよ...誰もが嫌われたくないけれど
人間関係で怒るときは自分のほうが正しく相手が悪いと思っている、このようなことは日常茶飯事で学校、家庭、仕事関係、友人関係でつぎつぎと起こるものだ。 相手に怒りを感じるということは期待どうりでない、こんなはずではない、そして「~べき」「~でなければならない」という考えが無意識に働いてることがあるものだ。 相手の気持ちになって考えるという言葉はもっともな理屈であるがトラブルに直面すると頭に血がのぼって、そんなことなど忘れてしまう、理屈より感情が先である。 そう考えると怒りはまさに心の声である、そんな時は怒りをぶつける、もしくは喧嘩をしてもしょうがないから我慢する、人それぞれである、怒りの中に困惑、驚き、失望いろんな感情が渦巻いてるものである、さらに利害関係が絡めばややこしい、いつの時代も人間関係は難しいと言え怒りはまさに心の声だけれど
「みをつくし料理帖」「銀二貫」の作者である小説家、高田郁さんは顔出ししないことで有名であるが、サイン会には積極的に参加し読者と親交を深めてる、顔と顔を見合わせて言葉を交わせることが無上の喜びと感じており、ひとりひとりに「この5年はあなたにとってどんな歳月でしたか?」と必ず問いかけるという。 転職、退職、結婚など人生の転機を迎えた人、無難に過ごした人、山あり谷ありだった人、質問したとたん泣き出す人、頑張ったけど夢は叶えられず挫折した人、ひとりひとりに寄り添う高田さん、作品と同じように温かいものが感じられる。 5年という歳月は重い、私の5年間を振り返ると、妻が関節リウマチで入院、同時期に母が認知症、大腸がんで翌年逝去、実家の処分と忘れられない出来事だった、またブログをやってることで日経新聞とNHK出版から取材...この5年はあなたにとってどんな歳月でしたか?
相手の身になって考える、日常生活の中で、人生の色んな局面で遭遇する問題である、相手の身になって考えるということは長い人生のなかで誰もが経験することかもしれない。 その時に大切なことは想像力、他人の心を想像する力があるか、相手が寂しいのか、悲しいのか、それに気づくのがその人の想像力、人を理解するのは会話が必要だが会話があってもわからないことがある、そんなときこそ想像することで理解するしかない。 人から悩みを打ち明けられとき、もし自分が相手の立場だったらどう感じてどう対応するか、他人の苦しみを自分のものとして想像すること、それが相手の身になって考えることだと思っている。相手の身になって考えるということは
運がいいとか運が悪いとかその繰り返しを人は送っている、そして選択の違いによってその後の運命が大きく変わることがあるのが人生である。 進学、就職、結婚、そして40年間のサラリーマン生活を終えるまでは私にとって人生は選択の連続だということを痛感したものだ、楽しいこともつらいこともあったけど、良い事も悪いこともプラスに受け取る、マイナス思考はなんとか打ち消しながら生きてきたような気がする。 運がいいことに私はまだ生きている、人生が終わったわけではない、それでもいつか死んでいくことだろう、それまでは、ささやかな希望と感謝の気持ちを胸に淡々と生きていくつもりだ。運がいいことに私はまだ生きている(再投稿)
健康というものは人間の活動のすべての源である、特に老いると健康が生活のすべてを支配するといっても過言ではない、機能も美貌も知能レベルも体力も衰える、病気になると、てきめん自信を失い気持ちも、内へ内へと向かっていく。 実際加齢というのは誰にとっても望ましいことではない、当たり前のことが当たり前にできなくなるからである、だから、歩けて当たり前、食べれて当たり前、眼が見えて当たり前、耳が聞こえて当たり前、これだけの当たり前が何とかできてる、この4つの当たり前ができてることに今は感謝しかないと思ってる。2023年・当たり前のことに感謝
好きな人嫌いな人というのは第一印象はあまりあてにならない、生理的に嫌いというのもあるけれど人間の考え方や性格というのは実際に話してみないとわからないものだ。 ある視点からいえば嫌いだけど違う視点から見ると好きだと、そういう面を人間は必ず持っている、一方で同じ行動をしても好きな人であれば許せる、嫌いな人は許せない、極端な話が一度嫌われると本人はいくら努力しても好かれるということがないということがある。 誰もが嫌われるよりは好かれたい、それは老若男女変わらない、それが人の世の原理である、それでも誰にも嫌われない人など一人もいないはず、全員に好かれようとするから悩む、周囲を見渡して50%の人に好かれたら上等だと私は思っている。人間にとって好き嫌いの感情は