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1958年製ポンコツ https://breakbeat83.hatenablog.com/

ブログを作ろうと思ったキッカケは先日友人と飲んでいて フィリピンの事を話していたとき自分の記憶が曖昧だなぁと感じ 記憶が飛ぶ前に記しておこうと思ったからです。 宜しくお願い致しますm(__)m

桃内
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2024/10/08

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  • 子どもの成長

    ある日ポリスから後で行ってもいいかという電話があり待っていると ポリスが男の子と女の子を連れてきて実はこの子たちも身寄りのない子でと話しだし ピンときた僕は彼女にジェニーとポリスが連れてきた子どもたちにお使いを頼み ポリスの話を聞くと子どもたちの親はある事件で犯罪に手を染め亡くなったという事で 路頭に迷っていた子どもをポリスが保護しウチにはジェニーもいるし落ち着くまで 預かってくれないかという事でした。 ウチには縁で繋がったジェニーがいて本当の親子のように接し幸せに暮らしているし そもそも彼女とジェニーとも相談しないと僕だけでは決断できない。 いろいろ考えていると買い物のあと公園に行っていたと…

  • 自分にとっては初めての横型エンジン/カブ

    という事でガンマを手に入れた僕は毎日ウキウキで走り回っていたのですが ジェニーと彼女は一緒に遊びに行けないとか後ろに乗せてもお尻が痛いとか 恐いとかご機嫌斜めでしかたなく車でドライブに誘うと機嫌もよくなって タガイタイまで遊びに行き一日遊んで楽しい時間をみんなで共有して過ごしました。 タガイタイとはこんな所です 帰りにまたガンマの話になり彼女がバイク屋さん寄ってみようかと言いだし 近くのバイク屋さんに行くと彼女がこれなら3人で乗れそうと指さしたのが ビッグスクーターで僕はスクーターにはまったく興味がなかったのと 製造国が中華っていうのも良いイメージがなく あまりノリ気ではなかったのですが彼女と…

  • フィリピンでバイク

    ジェニーとの生活も安定してきて僕も少し自由な時間ができたので みんなと一緒に食事をしている時にそろそろバイク乗りたいなぁとボソッと言ったら 彼女から危険だから絶対ダメと即答され却下されたのですがどうしても乗りたかった 僕はなだめすかしながら説得しても危険だからと首を縦に降ってくれませんでした。 危険だと反対する気持ちもわかるんです。 当時のフィリピンの道路は金魚が飼えるんじゃないかと思うくらい道路事情は悪く 車だったらバーストするかパンクで済みますがバイクで突っ込んだら・・・💦 そんな時タイミングよく(悪く?)僕がバイク好きというのを知っているポリスが来て 知り合いが日本製のバイクを持っててお…

  • ダディと呼ばれて

    女の子の名前はジェニーといいます。 一緒に住み始めた頃は父親との辛い思い出があり悲しい顔をしていましたが 休みの日は一緒に公園や買い物に出かけジェニーの大好きなジョリビーでランチをし いつのまにか近所の子どもたちとも遊ぶようになり少しづつですが笑顔もみせてくれ ジェニーに学校行くか?と聞いたら頷いたので近所の学校に通い始めました。 家の斜め前のサリサリストアの奥さんは元日本に何回も行ったタレントさんで 日本語もペラペラで僕と彼女が学校の送迎ができない時は奥さんが行ってくれたり ジェニーが外で遊んでいる時はいつも見守ってくれていたりお菓子をくれたり 他の近所の方たちも優しく接してくれジェニーの過…

  • 新生活への一歩

    女の子は当然ですがまだ不安と悲しみでいっぱいでしたがジョリビーと彼女のおかげで少しづつ話してくれるようになったのでまずは女の子の住むところを考えねばと 彼女そして僕とポリスでこれからどうするかを話し合いをしました。 その時の僕の現状は昨日のブログでも記したようにチュウブラリンの生活だったので ・彼女の家 ・コンドミニアム この2択しかなかったのですがコンドミニアムはいつ出されるかという不安もあり 彼女の家にはお父さんお母さんもいるし子どもたちのいるので女の子にとっては 一番いいのではないかという結論になりました。 もちろん彼女の家は狭くみんな寝るとパンパンなので僕がコンドミニアムに戻れば 女の…

  • 家族の別れ:女の子の未来を考える

    久しぶりにポリスと再会した僕は今回の件と空港で声をかけてくれた事に感謝し 今までの経緯などを話しポリスもニコニコしながら聞いていたのですが でもなぁお前は日本人なんだからああいう場面に遭遇してもできるだけ避けないと どんなトラブルに遭うかわからないし危険だから気をつけろとポリスが言うと 続けて実はと話しだしあのシ〇ブ中のお父さんは当然刑務所に入り 女の子のお母さんは数年前に逃げて探したが行方が分からないとの事。 そうなると女の子は施設に入るかストリートチルドレンになるしかないんだよと。 ストリートチルドレンとは家庭や保護者の支援を受けずに路上で生活する 子どもたちの事をいい彼らは貧困・家庭の問…

  • 住めば都

    一泊でしたが彼女とその家族そして近所のフレンドリーな方たちとの交流で 自分の中の悪い虫が騒ぎ出しもっとリアルなフィリピンを見たいと思ってしまい 彼女に話すと大喜びしてくれてお父さんお母さんも喜んでくれて 僕としては数日間のつもりだったのですが住めば都とはよくいったもんで 数日後には貧困地区での生活も慣れてしまい約半年間お世話になりました。 もちろんガイドの仕事もあったのでコンドミニアムはオフィスとして使い 仕事の時だけ通っていました。 半年間住んでいるといろんな事が起きたので記憶に残っている話をいくつか ピックアップして記しておきます。 1 コンバース事件 普段はビーサンで生活していたのですが…

  • ウルルン滞在記

    泊まっていけと言われてもどこに寝るの?ってくらい部屋は狭いのに 一階はお父さんお母さんと長男夫婦で二階は子どもたちと妹そして僕と彼女で あ~ら不思議川の字で寝るとピッタリ収まるじゃないですか。 それにしても窓は開いていても風は入ってこないで虫ばかりが入ってきて暑い! みんなが寝静まったころ僕もようやく寝れそうになったとき頭の上でガサガサと? 何かと見てみたら子どもたちが食べ残したお菓子にネズミ!これじゃまるでウルルン滞在記じゃないか! 結局その日は眠れず朝を迎えお母さんが出してくれた珈琲を飲んでいたら お兄さんの子どもに海に行こうと誘われ近所の子どもたちと行ってきました。 帰ってきてみんなで朝…

  • スクワッターエリア(貧困地区)

    生活も仕事も安定してきてそろそろ移住の事を本気で考えないとなぁと 思っていた時に彼女のお父さんが病気になり彼女と二人で家に行きました。 ご両親には以前お会いして食事をした事があるのですが家に行くのは初めてで 大通りから路地に入ると正直すごい所に住んでいるなぁという印象でした。 そこは所謂スクワッターエリア(貧困地区)というところで これがよくいうフィリピンの3K(臭い・汚い・危険)かと思いました。 家に着くと彼女の家はコンクリートとトタンのシンプルな2階建てで そこにお父さんお母さん彼女のお兄さん夫婦と子ども2人そして彼女の妹1人。 一応流しはありますが料理と洗濯は外でトイレとシャワーは階段の…

  • ジェラシーと監視:フィリピンパブでの出来事

    ブログをはじめてよかった事はもちろんガイドの仕事が増えたことですが 日本との情報交換・交流は僕にとって欠かせないものになりました。 そしてガイドの仕事でいろんなところを巡ったり夜はカラオケで遊んだり フィリピンではフィリピンパブ(キャバクラみたいなお店)をカラオケといいます お客様の中にはリピートしてくれる方も多く楽しい時間を過ごさせていただき 彼女や日本語ができる女の子もお店をやめてガイドの仕事に専念してくれ お客様たちからも好評でした。 が 彼女の情報網の凄さを思い知らせれました! お客様とカラオケのお店に入って数分で電話が鳴り出ると 彼女が今○○というお店でしょ○○ちゃん指名してあげてね…

  • インターネット苦悩の日々とブログ開設

    ガイドをするといっても宣伝はどうしようと考えた時にブログをやろうと閃きましたが 当時のフィリピンはインターネットがやっと普及し始めたばかりで ネット会社のスタッフが繋がらなくてアタリマエ繋がったらラッキーと言うくらい 繋がるまで時間はかかるし繋がっても重くやっとの思いでブログを立ち上げました! 初めの頃はアクセスも少なかったですがフィリピンパブ大好き紳士様が増え始め コメントもいただけるようになり写真も載せた方がいいですよというコメントを いただきブログに初めて載せた写真がコチラです。 ここはタガイタイといってマニラからも近く日帰りでも観光できるスポットで タール火山とその周囲に広がるタール湖…

  • ローカル免許取得

    コンドミニアムに住むようになり当然の流れで彼女も住みつくようになり 彼女は夜になると仕事に出かけ僕はその間に掃除や洗濯をしてまるで主夫かヒモ! そんなヒモ生活も一週間もすれば飽きて仕事をしなければといろいろ考え 調べたらフィリピンでは短期間であれば観光ビザでも仕事はできるそうで 短期間や観光ビザしかないという事はどこかに就職するという選択肢はないから 会社とかは立ち上げずフリーで動いた方がいいなと勝手に思い ネオン街を歩いているとやたら日本人が多いのに気づき彼女にお店でお客さんに 日本語の話せる女性のガイドがいたらどうする?というリサーチをしてもらいました。 リサーチの結果は予約するや助かるが…

  • フィリピンでの生活が始まる

    皆さまお察しのとおり僕はいつのまにか彼女からmahal ko(マハルコ)と 言われるようになり僕はまだそんな気持ちではなくまだ早いだろうと言っても そんなのお構いなしに外で普通に抱きついてくるはキスしてくるはで お客さんやスタッフに見られたらマズイだろと言ってもそんなの関係ないと言い そんな日々が続いておりましたが帰国する日が近づいてきました。※mahal ko(マハル コ)とは恋人同士が呼び合うフィリピン特有の呼び方です。 彼女はビザの延長をしろと泣きながら訴えてきて少し考えて けっきょく僕は延長をする事にし彼女と移民局のオフィスに向いました。 ダバオの時もそうでしたがビザの延長は意外と簡単…

  • マニラで初デート

    ビガンに3泊しマニラに戻ってきました。 バスの疲れもあるし宿も決まっていなかったので観光する元気もなく とりあえず安くて湯船のあるホテルを探しバックパッカーなどがよく泊まる ホテルはシャワーしかない事が多いので今回は少し大き目のホテルを何軒かまわり ようやく値段も手頃で湯船があってお湯も出るホテルがみつかりチェックイン! 振動と音が恐怖のエレベーターを降り部屋に入るとサブッと言いたくなるくらいの クーラーがこれまた音と振動でとにかく風呂だと湯船にお湯を入れると水? フロントに聞くとちょっと待っててーと言われ待っているとお湯が出てきたので ゆっくり浸かりベットで寝て起きたら夜になっていたのでゴハ…

  • 日本人が守った街ビガン

    バスに揺られること約9時間やってきましたVIGAN(ビガン) そこはバスで異国に来てしまったのかと錯覚するくらいダバオともマニラとも違う 雰囲気でバスの疲れも吹き飛ばすくらいの素敵空間でした。 LOLOのお嫁さんのお母さんがわたしの故郷は日本人が守ってくれたんだよという 言葉が気になっていたので僕なりに調べたのでここに記します。 1945年アメリカ軍がルソン島に上陸してマニラを奪還。 マニラは空爆により廃墟となりました。もはや敵の侵入を防ぐ戦力すら失った日本軍は各地の司令官に諸都市を破壊して 山中に撤退しゲリラ戦を展開するよう命令する。 少し時間を戻して1941年。コルディリェーラ山地を任され…

  • 初マニラ(正確にはマカティ)

    マニラの空港には何度も来ていましたが、いつもダバオにいくため 空港からバスに乗って国内線の飛行場に行っていたので僕にとっては 今回が初マニラでした。 日本でいつもお世話になっていた旅行会社にマニラ行きのチケットを予約したら 今回はダバオじゃないんすね?と聞かれたので今回は遊びだよと言ったら ハマりましたねニヤッとしながらホテルは何泊予約しますか?と聞かれたので 2泊だけであとは自分で探すという事で予約してくれていたホテルに向かうため タクシーに乗り空港を後にしました。 ダバオとは違うマニラの景色を楽しんでいると歓楽街っぽいところに入っていき タクシーは止まり着いたよとホテルを指さしたので降りる…

  • フィリピン料理

    日本に帰ってきてもモヤモヤのまま仕事をしモヤモヤのままゴハンをいただき 日本の料理はもちろん美味しいのですがゴハンをいただいている時でも フィリピンの料理を思い出してしまう… というわけで本日はフィリピンではポピュラーで僕の大好きなフィリピン料理を いくつか紹介させていただきます. Sinigang/シニガン フィリピンの国民的料理で肉や野菜の入った 具だくさんの 酸っぱいスープです。 二日酔いの時や体調が悪い時に飲むと楽になる 魔法のスープなんです。 Sisig/シシッグ 細かく刻んだ豚肉をしょう油、ビネガー、にんにく、 唐辛子で炒めた鉄板料理でご飯と一緒に食べても ビールの おつまみとして…

  • 帰国への想いと感動のサプライズ

    LOLOが新居でフィアンセの家族と暮らすようになってから一年。最初はみんなギクシャクしていましたが流石フレンドリーなフィリピン人 すぐにみんな溶け込みLOLOも車椅子がなくても立てるようになりました。 僕もその間は日本とフィリピンを行ったり来たりでLOLOの生活を見守っていました。 みんなLOLOの事を大切にしてくれているしLOLOも安心して生活できているとうだし LOLOの口からわたしはここで骨を埋めるつもりだという言葉を聞き 僕はもうお払い箱だなぁと感じたので一旦日本に帰る事にしました。 しかしフィリピンの風景・人・雰囲気・空気・食べ物・常に危険な香りすべてが 好きになってしまっていた僕は…

  • 愛のカタチ

    話は飛びますがLOLOの新居も完成し車椅子でも不自由ない作りになっていて 結婚の許可もおりて二人はめでたく夫婦になりました。 その頃には僕もLOLOのフィアンセと仲良くなっていたのでズッと思っていた 疑問をフィアンセに聞いてみました。 30年以上前の記憶なので正確ではないですがLOLOの事を本当に愛していて 結婚をしたのかと…彼女の口から出た言葉はフィリピンでは日本人はブランドで 日本人がいれば家族は安泰だからわたしも家族もLOLOの事を大切にすると。 それにLOLOは優しいしLOLOといる時はわたしも幸せです。 だから愛しているとはちょっと違う感覚だけど本当に好きです。 この事はLOLOにも…

  • フィリピンの庶民の足

    そうなんです移動中なにが楽しいかってそれはフィリピンの乗物なんです。 それは日本にはない乗物でジプニーやトライシケという乗り物です。はじめはLOLOのフィアンセやインターンの子たちと乗りましたが 慣れたら一人で乗るのが楽しくてどこに行くにもジプニーでした♪ ジプニーは元々戦後アメリカ軍が残したジープを改造して作られたもので オーナーが自分好みにカスタムした外観とカラフルな装飾が特徴で バスのように乗客を運ぶフィリピンではもっともポピュラーな公共交通手段です。 停留所があるところもありますが手をあげれば停まってくれるし好きな場所で 降りる事も出来ます。 降りる時はPara(パラー)と声をかけたり…

  • セカンドライフ

    万事休すのLOLOの答えはフィアンセの家にお世話になるでした。 しかしフィアンセの家には家族もいるし車いすでの移動には狭くて無理があります。 フィアンセとその家族インターンたちと相談していたらフィアンセのお父さんが 家は小さいが庭があるから建て直してくれれば車椅子でも不自由しないんじゃないかと 言ってくれたので翌日フィアンセの家を見せてもらいにいきました。 街からは少し離れていますが環境はいいし庭は広いしセカンドライフをおくるには ちょうどいいんじゃないかとLOLOに話し日本のじいちゃんにも事情を説明して ドクターにも相談したら知り合いのカルピン(大工さん)を紹介してくれるという事で 話は進み…

  • LOLO万事休す!

    日本に帰国し2日間滞在してフィリピンに戻ったのですが その2日間で話は進んでおり退院後は通院もあるから病院の近くのホテルに滞在し その間に僕とロロのフィアンセそしてインターンたちも手伝ってくれると言うので できるだけ段差がなく車椅子でも不自由なく移動できる一軒家を探すという 話になっており翌日からそのミッションは遂行されました。 といっても僕は地理も言葉もチンプンカンプンなので探してくれたのはフィアンセと フィアンセの家族そしてインターンたちでした。 しかしここで問題が発生しました僕はもちろん他のみんなも知らなかったのですが フィリピンでは外国人は家は買えますが土地は買えないという事を。 どう…

  • 人間と動物の共存

    日本に一時帰国した僕はまずはじいちゃんにお兄さんは日本に帰らない事を告げ 最初は驚いていたもののニヤっと笑いやりやがったなと嬉しそうでした。 そして帰るのを待っていてくれた方々のマッサージをしてその日は終わりました。 帰国して感じた事は日本の医療制度はやっぱありがたいなぁと。 フィリピンではほとんどが前金制です。 例えば病気になって病院に行き診察してもらいますよね(ここまでは普通だと思います) 診察が終わるとドクターから処方箋を渡され本人もしくは連れの人が薬局に行き 注射器や針・薬などを買ってドクターに渡しそこで初めて治療がはじまります。つまりお金がないと診てもらえないという事です。 もちろん…

  • ロロ移住決断

    お兄さん…日本のじいちゃんのお兄さんだから今までお兄さんと書いてきましたが これからはみんなが呼んでいたLOLO(ロロ)に変更させていただきます。 ちなみにLOLO(ロロ)はタガログ語でおじいちゃんでLOLA(ロラ)はおばあちゃんです。 ロロは半身不随になってしまいましたがみんなの献身的な介護により元気になり 退院の日も近づきましたがすぐには日本へは帰れないので車椅子でも安全な ホテルを探さなきゃなぁと思っていたところインターンの子たちも探すと言ってくれ 一人の子が明日は休みだから一緒に行くと言ってくれ約束をしていたのですが ロロから話があると呼ばれ病室に行ってみるとロロとフィアンセがいて 実…

  • 感動の日本語サポート!フィリピンでの心温まる絆

    お兄さんの手術も無事に終えましたが目を覚ますと体は動かず話す事もできず 周りはフィリピン人だけで不安と辛さでパニックになり落ち込んでいました。 泣いている時もあり介護の経験もない自分には周りのお世話をするくらいしか できませんでしたがお兄さんのベットの前を通るインターンがお兄さんに だいじょうぶですか?と日本語で話しかけてきたのでビックリ! それからは他のインターンもベットの前を通るたびに日本語で話しかけてくれ 最初は挨拶程度でしたが「ゴハンタベテゲンキニナッテネ」とか会話になり お兄さんの顔色も少しづつよくなり微笑むようになってきました。 インターンにどうして日本語が話せるようになったのか聞…

  • ダバオで衝撃の真実

    ダバオに着くとガイドさんが迎えに来てくれていてそのまま病院に行き ドクターに病院に担ぎ込まれた経緯や病名などの詳細を聞き手続きをして 日本で心配しているじいちゃんに電話をして手術の日取りも決まり 僕はガイドさんと食事がてら病院の周りを散策しに出かけました。 しかし僕の気持ちの中にはモヤモヤしている事がありじいちゃんにまた電話しました。 そもそもじいちゃんのお兄さんはなんでフィリピンにきていたのか? それは日本のフィリピンパブでたまたま隣に座った女の子の接客態度がよく お兄さんはデレデレになり毎日通ううちに好きになりプライベートでもデートをし 3カ月目には結婚の約束をし彼女は日本での仕事も終わっ…

  • 路上でのコーヒータイム:マニラからダバオへの旅路

    僕がマニラのニノイアキノ空港に着いたのが夜の10時半頃で そこから国内線の空港までバスで移動し飛行機でダバオという所に行くのですが その飛行機が飛ぶのは朝の6時半で約8時間何していようと思いながら とりあえず空港内の両替所で5000円だけ円からペソに両替して空港内探索。 ブラブラしていると警察官らしき人に声をかけられ何をしていると聞かれたので 身振り手振りと簡単な英語でダバオに行くと伝えると時間はまだあるから ついてこいと言われガイドブックや旅行会社の人が言っていた悪い警察官だったら ヤバイよなぁと思いながら好奇心とヒマには勝てず付いていくと空港の外に出て 建物沿いに歩いていくと路上におばあさ…

  • 人生の分岐点

    1985年9月?頃の夜フィリピンのニノイアキノ国際空港に降り立ちました。 経緯は友人の家族が三軒茶屋で営む薬屋に寄ったら友人は忙しそうだったので 僕は店の隅で待っていたら待合室にいたじいちゃんがこっちにきて座れと 呼んでくれたので座ったら周りはお年寄りばかりでどこから来たとか どこか悪いのかとかいろんな事を聞かれ僕は元々ばあちゃんに育てられたので そのうち会話も弾み流れでマッサージをしたらウケがよかったのか 今度はいつ来るとか楽になったとか気持ちよかったとか言われ僕も嬉しくなり それからはたまに顔をだしていました。そうしたら突然じいちゃんから近くに使っていない家があるから そこでマッサージ屋や…

  • はじめまして

    はじめまして1958年製のポンコツです。 このブログを作ろうと思ったキッカケは先日友人と飲んでいて フィリピンの事を話していたとき自分の記憶が曖昧だなぁと感じ 自分ではまだまだと思っていても歳だし脳梗塞も経験しているので 記憶が飛ぶ前に記しておこうと思ったからです。 なので誰かに読んでもらうというよりかは自分宛のブログになるので 記憶間違い・誤字脱字・言葉遣いなど多めです。あとは感じた事や趣味・好きな事などを残していこうと思います。 でもたまたま飛び込んできた時はこんなジジイもいるんだと読んでくれたら 嬉しいです。

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