還暦前後から老後の暮らしを豊かにするための東洋、西洋、仏典などの古典の紹介。
示衆(6)「猶較些子」(それでも、まだまだだな): 臨済の四照用 「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の6回目です。 今回は、これまで多くの人が関心をもってその意味を理解しようとしている文章の紹介になります。 臨済の四照用と呼ばれている部分です。 照とは、光を当てて相手の内実を照らし出すように見抜くこと。 照察という言葉が近いかもし...
示衆(5)「大德、且要平常、莫作模樣」(諸君、まずは平常どおりにやっていくことだ。特別な格好などつけなくていい) 「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の5回目です。 ここでもやはり、ことさらなことなどしなくてよいと臨済は言います。 その理由は、修行している者たちは、大切ななにかを見失っているだけから。 それに気づくだけで十分なのです。 大切ななにか、とはどのようなものでしょうか。...
示衆(4)「道流、心法無形、通貫十方」(諸君、心の在り方には決まった形はなく、この世のあらゆるものを貫いている) 「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の4回目です。 ここでは、臨済は心とはなにかを説いています。 心は様々な働き方をしますが、もともとは一つであると。 それから、修行僧たちが求めている修行で得られるもの。 それらはまったくの無駄なもの。 そんなものを求めるよりも、もっ...
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の3回目。 臨済は繰り返し、なにかを自分の外に求めるということをするな、と言っています。 修行者、修行僧たちが悩みながら生きているその姿は、現在の私たちと重なって見えます。 臨済が修行僧たちに語りかける言葉は、私たちに語りかけている...
示衆(2)「今日多般用處、欠少什麼。」(今日さまざまな現象として目に見えることには、なにも欠けたものなどいないのだ) 「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の2回目です。 晚參(夜に行われた説法)で始められた講話が、次第に熱を持ったものになっていきます。 ここでは祖師とは、祖仏とは、どんなものであるかを説いています。 修行の目標の姿、修行の到達点ですね。 そして、それを理解できずにあち...
示衆(1)「師晚參示衆云」(師は晚參の時、衆に対して言った) 「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 今回から「示衆」の部分をゆっくりと紹介します。 ここでは、晚參(夜に行われた説法)での言葉が記録されています。 臨済は、相手の本質やそのときの環境によって、その人との向き合い方を変えています。 よりふさわしい修行の進め方を示すためでしょう。...
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還暦前後から老後の暮らしを豊かにするための東洋、西洋、仏典などの古典の紹介。
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「臨済録」原文全文とその現代語訳を紹介しました。 仏教や禅に関する書籍ですが、純粋に東洋思想の書物としても読むことができます。 そこに書かれている言葉は、現代に生きる私たちにとって、自信を持ち、より心穏やかに暮らすための導きとなるものばかりです。 「臨済録」が、より多くの人たちに読まれることを
臨済は、自らの法を伝えた慧然に、最後の問いかけをします。 それに対し、慧然は一喝で答えます。 臨済はその答えに満足したのでしょうか。 それとも大いに不満だったのでしょうか。 自分の法は、目の見えない驢馬のところで滅んでしまう。 そう言って亡くなりました。 臨済が亡くなった後、慧然らは師の
金牛和尚は臨済の振る舞いを無礼であると咎めます。 しかし臨済はまったく構いません。 そして、さらになにか言おうとする金牛和尚に一棒を加えます。 溈山に、さてこの二人、どちらが勝ったのだろうかと問われた仰山は答えます。 勝ったとしたらどちらも勝ち、負けたとしたらどちらも負け。 勝ち負けは、こ
溈山は、古人たちの教えは電光石火のようなもの、誰も追い切れないが、そもそもそんな言葉には意味などなかったのだ、と言います。 それに対し、仰山は言います、表向きには誰も通さないが、裏ではこっそりと馬も車も通り抜けています。 言葉の上での厳しさはあっても、通り抜ける術はあるものだ。 そう言っている
明化は臨済に、どうして歩き回っているのかと尋ねます。 臨済は、ただ歩いて草鞋をすり減らそうとしているだけです。 あるいは、ただ草鞋がすり減ってしまうまで歩いているだけです、ということかもしれません。 明化はさらに問います。 それはどういうことか、と。 臨済はそれに答えるのではなく、ただつぶ
臨済は凡でもなく聖でもないところを象田に尋ねます。 それに対し象田は、まあ自分は見たままの、このままのものだよ、と答えます。 臨済は一喝して、ここに集まっている僧たちは、象田から何を学ぼうとしているのか、と言います。 その言葉の意味は、何通りかに解釈できるかと。 ここには学ぶべきものはない。
翠峰の問いかけに対して、臨済は、黄檗には特別な言葉などありません、と答えます。 そうだとしても、何か言ってごらんと翠峰はさらに問いかけます。 それで、臨済は、矢のように、あっという間に西に向かって飛び去った。 もうここには痕跡も残っていないのだ、と言います。
とても短いやり取りの中で、華厳和尚と臨済はお互いの力量を計りあっています。 そしてそれぞれを認めているのでしょう。 臨済録の中に出てくる人たちは、懸命に経典を読むことよりも、むしろ居眠りをするような状況を評価しているようです。 そこから私たちはどのようなことを読み取るべきでしょうか。
大慈和尚は臨済に答えて言います。 冬の寒さの中でも松は変わらず、千年経とうとも他のものとは同じではない。 しかし、世の中も春ともなれば、老人は花を手にもて遊ぶのだ。 それは大慈和尚のそのままの現状を言ったものかもしれません。 それに対して臨済は言います。 古くから完成された知恵といわれてい
臨済は、師である黄檗の教えを、その痕跡を見ることもできない、と言います。 それは形を変え、臨済自身の中に流れ込んだものということかもしれません。 黄檗の教えが、笛に流れ込む爽やかな風であれば、きっと清々しい音を出すはず。 その笛の音を聞いている者はどこにいるのか、と平和尚は尋ねます。 その問
剣先を交えることなく勝ちを得るにはどうしたらよいか、どうかその方便を示してほしい。 臨済はそう問います。 それに対して龍光は剣で相手に切り掛かるときのかけ声を発します。 咄嗟の方便ではなく、追い詰められたときに発する一声のように聞こえます。 臨済は遠慮することなく言います。 龍光は負けた、
住職は、仏陀のお墓に礼拝しますか、それとも祖師のお墓を先にしますか、と聞きます。 臨済は、どちらにも礼拝しない、と言って、立ち去ってしまいます。 では臨済は何をしにそこに行ったのでしょうか。 仏教や禅の修行者を縛り付けているものの張本人たちを確認しに行ったのかもしれません。 そして、それらの
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