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石ころ https://blog.goo.ne.jp/bachan-no-1

日々の聖書通読から、聖霊のお導きによって気づかせられたことや、 新しく教えられたことなどを書いて居ます。 それは今日を生きるための知恵となり、失敗からの守りとなります。 また、不意な出来事に対して、予め備えてくださる言葉でした。

ムベ
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奈良県
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京都府
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2016/04/03

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  • 完全で正しい重りと升(申命記25章)

     あなたには、袋に大小異なる重り石があってはならない。あなたには、家に大小異なる升があってはならない。(13~14) 異なる重り石や升を持っているのは人を欺く貪欲のためであり、神は使うか使わないかに関わらず、それを手元に置いていることを嫌われる。使う心が無ければ備えないし、持って居ないことは弱い良心の守りとなる。この戒めを守ることは難しくはない。 時には信仰の本音と建て前を自他に感じることがある。それは異なる重りや升のようだ。しかしそれを警戒して信仰の告白や、主を誇る言葉を口にすることさえ控えて、黙り込んでしまうことは違う。神の恵みによって生きている者が、沈黙のうちに恵みと憐みの日々をなんとなく流されて行くことはサタンを喜ばせているだろう。キリストが「あなたはわたしを誰だと言いますか」と問われても、常に口...完全で正しい重りと升(申命記25章)

  • 今守るべき名(申命記25章)

     兄弟が一緒に住んでいて、そのうちの一人が死に、彼に息子がいない場合、死んだ者の妻は家族以外のほかの男に嫁いではならない。その夫の兄弟がその女のところに入り、これを妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。そして彼女が産む最初の男子が、死んだ兄弟の名を継ぎ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。(5~6)神の選びの民が消し去られることがないように、イスラエルの民の結婚には子孫に名を引き継ぐ義務が課せられていた。 キリストが来られた新約の今は、父なる神のご計画と、御子キリストの十字架の贖い、助け主なる聖霊の働きに拠り、イスラエル人も異邦人も一つの御霊に拠って繋がれ、神の子らは世界中に増え広がった。 キリストによって救われた人々は、感謝をもってみことばに従順する人生を経て肉...今守るべき名(申命記25章)

  • 故無き鞭には主の備えがある(申命記25章)

     人と人との間で争いがあり、その人たちが裁判に出頭して、正しいほうを正しいとし、悪いほうを悪いとする判定がなされたとき、もしその悪い者がむち打ちにすべき者なら、さばき人は彼を伏させ、自分の前で、その邪悪さに応じた数だけ打たなければならない。.(1~2) 此処で許されているむちは、「人と人の間の争い」に対してである。人に対して罪を犯せば人から罰せられ、罪に相当する罪の代価を支払うことによって、共に生ることが許される。 しかし、キリストは誰とも争わず何の罪もなかったのに、人を宥めるためにむち打たれ、その人の罪をも負って神を宥めるだめの捧げものとして十字架にかかられた。使徒たちも、神に成り代わって裁く者に左の頬をも差し出すようにしてむちを受けた。そうして、彼らは悪い者に手向かわず聖書に主の栄光を記したのである。...故無き鞭には主の備えがある(申命記25章)

  • 今日の歌(2023.11.22)

     小春日に下校の子等の平和かな 温き陽に春菊摘んで夕餉の膳今宵ゆるりと明日は祭日今日の歌(2023.11.22)

  • 時代(申命記24章)

      あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは寄留者や孤児、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主があなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。(19) 近頃雀が減ったことが書かれてあった。田畑に彼らの分が残されないからとあり、それがすべてとは思わないけれど、確かに実に綺麗に収穫されている。すべてが機械的に完全に行われる時、かの地にあっても貧しい人の分を思い出すことは無いだろう。 あなたがオリーブの実を打ち落とすときは、後になってまた枝を打ってはならない。それは寄留者や孤児、やもめのものとしなければならない。ぶどう畑のぶどうを収穫するときは、後になってまたそれを摘み取ってはならない。それは寄留者や孤児、やもめのものとしなければ...時代(申命記24章)

  • 赦しと憐みの経験(申命記24章)

     父が子のために殺されてはならない。子が父のために殺されてはならない。人が殺されるのは自分の罪過のゆえでなければならない。(16) 親が子の責任を負って命をとられることはなく、子が親のために死ぬことも無いのだ。この定めによって罪の報いが家族にまで及ぶことがなく、子孫は神の守りの中に生かされるのである。 復讐が繰り返されることはなく、先祖の罪科によって戦争が繰り返されることさえ防ぐ。神に赦され互いに赦すことによって、共に生きるように定められたのである。 神は罪を受け入れることができない聖なるお方であるが、罪を憎んでも人を憎まず、罪の故に限りある命となり滅びゆく人類を憐れまれた。それゆえ、御子をキリストとして遣わし、罪の完全な贖いを計画してくださったのである。 キリストを信じた者の罪は神には完全に解決されてあ...赦しと憐みの経験(申命記24章)

  • 弱さ貧しさを心配してくださる創造主(申命記24章)

      隣人に何かを貸すとき、担保を取りにその家に入ってはならない。あなたは外に立っていなければならない。あなたが貸そうとするその人が、外にいるあなたのところに担保を持って出て来なければならない。(10~11) 何という細やかな主のお心遣いであろう。人にはどんなに貧しくても決して手元から離せない物があろう。それを持って行かれるときの心の傷は、飢えや渇き以上の痛みを覚えるであろう。 キリストは言われる。「もう一度あなたがたに言います。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」(マタイ19:24) 金があることは悪いことではないとこの個所で付け加えられることがあるが、金持ちは神の助けがなくても出来ることが多くあるのだ。彼らは病気になれば優秀な医者を探し、最高な医療を求めるであろうし、問...弱さ貧しさを心配してくださる創造主(申命記24章)

  • 今日の歌(2023.11.10)

     傘さして柿と蜜柑を買って来たのんびりとした店内だった 雨降ってほうれん草が安かった家にあるのに買ってしまった 道端に植えたばかりの葉ボタンはいい顔をして雨空を見る今日の歌(2023.11.10)

  • 詩篇91篇に生きるとき

     いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」と。主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである。それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。まこと...詩篇91篇に生きるとき

  • 除き去られるべき者が救われた(申命記24章)

     ひき臼、あるいはその上石を質に取ってはならない。いのちそのものを質に取ることになるからである。(6) ひき臼が無ければ小麦はそのままでは食べられず、飢えて死ぬことになる。パンを得るための質草さえ無い一人の存在をも、天地宇宙を創造された神が予め心配していてくださる。このことを通してさえ、神の愛の細やかさは人には測り知ることは出来ない。 創造主なる神は遥か天の高みから見下ろして、罪に染まって死に行く人を放置出来るような御方ではなかった。アダムを御手によって神の形に作り、永遠に生きる神の息を吹き込んで生きる者とされ、人を愛し交わりと慈しみの対象として造られたからである。 罪を犯して神を避けるようになり、吹き込まれたいのちは力を失ったけれど、キリストを告白するための猶予が与えられている。命のある間にキリストを知...除き去られるべき者が救われた(申命記24章)

  • 放蕩息子とその兄(ルカ15章)

     二人の息子がいた。弟のほうが父に、「お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい」と言った。それで、父は財産を二人に分けてやった。それから何日もしないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった。(12~13) 弟は飢えて父を思い出し戻って来た。父は遠くから彼を見つけて迎え入れ祝宴を開いて祝った。仕事から帰って来た兄はこのことを怒って、父がなだめても家に入ろうともしなかった。 兄は父に答えた。「ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子...放蕩息子とその兄(ルカ15章)

  • 七回を七十倍するまで赦すキリスト

     私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。(マタイ5:12) 主の祈りには、少なくとも赦されただけは赦すように書かれている。キリスト者は日々に際限なく赦されて生きている。赦す回数を七回までというペテロにイエスはこのように言われた。これは数えきれないことであり無限に赦すことである。 わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。(マタイ18:22) 敵の成したわざが如何に暴虐に満ちた所業であっても、それを行ったのが人である限り、イエスはその人のためにも十字架で聖い血潮を流されたのである。その血潮のあがないは、キリストに応答し悔い改めて礼拝する者に成就するのであるが・・。 サタンは業を人を借りて行う。此処に人は呻き魂を引き裂かれる弱さがあるのである。主にある...七回を七十倍するまで赦すキリスト

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