みことばは主にたまわりし我が望み御顔仰ぐ日切に恋しき 「イエスさま」御名呼びたりてひれ伏すは我にたまわる赦しのゆえに今日の歌(2024.12.21)
日々の聖書通読から、聖霊のお導きによって気づかせられたことや、 新しく教えられたことなどを書いて居ます。 それは今日を生きるための知恵となり、失敗からの守りとなります。 また、不意な出来事に対して、予め備えてくださる言葉でした。
あなたには、袋に大小異なる重り石があってはならない。あなたには、家に大小異なる升があってはならない。(13~14) 異なる重り石や升を持っているのは人を欺く貪欲のためであり、神は使うか使わないかに関わらず、それを手元に置いていることを嫌われる。使う心が無ければ備えないし、持って居ないことは弱い良心の守りとなる。この戒めを守ることは難しくはない。 時には信仰の本音と建て前を自他に感じることがある。それは異なる重りや升のようだ。しかしそれを警戒して信仰の告白や、主を誇る言葉を口にすることさえ控えて、黙り込んでしまうことは違う。神の恵みによって生きている者が、沈黙のうちに恵みと憐みの日々をなんとなく流されて行くことはサタンを喜ばせているだろう。キリストが「あなたはわたしを誰だと言いますか」と問われても、常に口...完全で正しい重りと升(申命記25章)
兄弟が一緒に住んでいて、そのうちの一人が死に、彼に息子がいない場合、死んだ者の妻は家族以外のほかの男に嫁いではならない。その夫の兄弟がその女のところに入り、これを妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。そして彼女が産む最初の男子が、死んだ兄弟の名を継ぎ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。(5~6)神の選びの民が消し去られることがないように、イスラエルの民の結婚には子孫に名を引き継ぐ義務が課せられていた。 キリストが来られた新約の今は、父なる神のご計画と、御子キリストの十字架の贖い、助け主なる聖霊の働きに拠り、イスラエル人も異邦人も一つの御霊に拠って繋がれ、神の子らは世界中に増え広がった。 キリストによって救われた人々は、感謝をもってみことばに従順する人生を経て肉...今守るべき名(申命記25章)
人と人との間で争いがあり、その人たちが裁判に出頭して、正しいほうを正しいとし、悪いほうを悪いとする判定がなされたとき、もしその悪い者がむち打ちにすべき者なら、さばき人は彼を伏させ、自分の前で、その邪悪さに応じた数だけ打たなければならない。.(1~2) 此処で許されているむちは、「人と人の間の争い」に対してである。人に対して罪を犯せば人から罰せられ、罪に相当する罪の代価を支払うことによって、共に生ることが許される。 しかし、キリストは誰とも争わず何の罪もなかったのに、人を宥めるためにむち打たれ、その人の罪をも負って神を宥めるだめの捧げものとして十字架にかかられた。使徒たちも、神に成り代わって裁く者に左の頬をも差し出すようにしてむちを受けた。そうして、彼らは悪い者に手向かわず聖書に主の栄光を記したのである。...故無き鞭には主の備えがある(申命記25章)
小春日に下校の子等の平和かな 温き陽に春菊摘んで夕餉の膳今宵ゆるりと明日は祭日今日の歌(2023.11.22)
あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは寄留者や孤児、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主があなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。(19) 近頃雀が減ったことが書かれてあった。田畑に彼らの分が残されないからとあり、それがすべてとは思わないけれど、確かに実に綺麗に収穫されている。すべてが機械的に完全に行われる時、かの地にあっても貧しい人の分を思い出すことは無いだろう。 あなたがオリーブの実を打ち落とすときは、後になってまた枝を打ってはならない。それは寄留者や孤児、やもめのものとしなければならない。ぶどう畑のぶどうを収穫するときは、後になってまたそれを摘み取ってはならない。それは寄留者や孤児、やもめのものとしなければ...時代(申命記24章)
父が子のために殺されてはならない。子が父のために殺されてはならない。人が殺されるのは自分の罪過のゆえでなければならない。(16) 親が子の責任を負って命をとられることはなく、子が親のために死ぬことも無いのだ。この定めによって罪の報いが家族にまで及ぶことがなく、子孫は神の守りの中に生かされるのである。 復讐が繰り返されることはなく、先祖の罪科によって戦争が繰り返されることさえ防ぐ。神に赦され互いに赦すことによって、共に生きるように定められたのである。 神は罪を受け入れることができない聖なるお方であるが、罪を憎んでも人を憎まず、罪の故に限りある命となり滅びゆく人類を憐れまれた。それゆえ、御子をキリストとして遣わし、罪の完全な贖いを計画してくださったのである。 キリストを信じた者の罪は神には完全に解決されてあ...赦しと憐みの経験(申命記24章)
隣人に何かを貸すとき、担保を取りにその家に入ってはならない。あなたは外に立っていなければならない。あなたが貸そうとするその人が、外にいるあなたのところに担保を持って出て来なければならない。(10~11) 何という細やかな主のお心遣いであろう。人にはどんなに貧しくても決して手元から離せない物があろう。それを持って行かれるときの心の傷は、飢えや渇き以上の痛みを覚えるであろう。 キリストは言われる。「もう一度あなたがたに言います。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」(マタイ19:24) 金があることは悪いことではないとこの個所で付け加えられることがあるが、金持ちは神の助けがなくても出来ることが多くあるのだ。彼らは病気になれば優秀な医者を探し、最高な医療を求めるであろうし、問...弱さ貧しさを心配してくださる創造主(申命記24章)
傘さして柿と蜜柑を買って来たのんびりとした店内だった 雨降ってほうれん草が安かった家にあるのに買ってしまった 道端に植えたばかりの葉ボタンはいい顔をして雨空を見る今日の歌(2023.11.10)
いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」と。主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである。それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。まこと...詩篇91篇に生きるとき
ひき臼、あるいはその上石を質に取ってはならない。いのちそのものを質に取ることになるからである。(6) ひき臼が無ければ小麦はそのままでは食べられず、飢えて死ぬことになる。パンを得るための質草さえ無い一人の存在をも、天地宇宙を創造された神が予め心配していてくださる。このことを通してさえ、神の愛の細やかさは人には測り知ることは出来ない。 創造主なる神は遥か天の高みから見下ろして、罪に染まって死に行く人を放置出来るような御方ではなかった。アダムを御手によって神の形に作り、永遠に生きる神の息を吹き込んで生きる者とされ、人を愛し交わりと慈しみの対象として造られたからである。 罪を犯して神を避けるようになり、吹き込まれたいのちは力を失ったけれど、キリストを告白するための猶予が与えられている。命のある間にキリストを知...除き去られるべき者が救われた(申命記24章)
二人の息子がいた。弟のほうが父に、「お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい」と言った。それで、父は財産を二人に分けてやった。それから何日もしないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった。(12~13) 弟は飢えて父を思い出し戻って来た。父は遠くから彼を見つけて迎え入れ祝宴を開いて祝った。仕事から帰って来た兄はこのことを怒って、父がなだめても家に入ろうともしなかった。 兄は父に答えた。「ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子...放蕩息子とその兄(ルカ15章)
私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。(マタイ5:12) 主の祈りには、少なくとも赦されただけは赦すように書かれている。キリスト者は日々に際限なく赦されて生きている。赦す回数を七回までというペテロにイエスはこのように言われた。これは数えきれないことであり無限に赦すことである。 わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。(マタイ18:22) 敵の成したわざが如何に暴虐に満ちた所業であっても、それを行ったのが人である限り、イエスはその人のためにも十字架で聖い血潮を流されたのである。その血潮のあがないは、キリストに応答し悔い改めて礼拝する者に成就するのであるが・・。 サタンは業を人を借りて行う。此処に人は呻き魂を引き裂かれる弱さがあるのである。主にある...七回を七十倍するまで赦すキリスト
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みことばは主にたまわりし我が望み御顔仰ぐ日切に恋しき 「イエスさま」御名呼びたりてひれ伏すは我にたまわる赦しのゆえに今日の歌(2024.12.21)
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。(1) 弟子たちが王として世を支配されると期待していたイエス、病人を癒やし死人を生き返らせ、わざをもって神の愛を現しておられた方が、まさか何の罪も犯されないままに十字架で処刑されるのである。それは弟子たちの期待を完全に裏切ることであった。 まして無実を訴えて戦うことも無く、罪人と共に十字架に曝されて死ぬことなど、どうして受け入れることが出来るであろう。イエスは弟子たちが絶望することがないようにと、死を経て再び来られること、また彼らのうちに住まわれるようになることを知らせ、滅びることのないいのちの約束を残された。 疑いから信仰を守るものはみことばの記憶である。聖霊は忘れていたみことばを必要な時に思い起こさせて信仰を守って...真理に導く御霊(ヨハネの福音書16章)
トラクターを追いつ群れたる寒鴉 寒風も帰りは背を押す味方なり 明けやらぬ戸口に立ちて送り出す数十年の守りに感謝今日の歌(2024.12.17)
しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。彼らがわたしのことばを守ったのであれば、あなたがたのことばも守ります。(20) キリストを愛する者は神の義を語り、イエスの十字架のあがないに拠らなければ、永遠に滅びる真実を伝えて幾人かでも救おうとする。しかし、創造主を否定する人にはその言葉は愚かに聞え、神に赦しを乞うべき罪の指摘は、自分を信じて生きる者の感情を逆なでする。神が備えられた良心の声にも耳を塞ぎ、目を閉ざしていたい自我は、みことばを語る者を迫害するようになる。 ただそのような時代にあっても、イエスを信じて受け入れる人々が神の初めの選びによって起こされる。それゆえ、時が良くても悪くてもみことばを語り続...初めからわたしと一緒にいた(ヨハネの福音書15章)
冬薔薇(そうび)香り残りて薄明かり 肉眺め魚を眺めて値を量り脳内巡る今日の献立 冷水で菜を洗いたり魚焼きて時を計りつ夕餉整う今日の歌(2024.12.14)
わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。(10) 御父の戒めイエスの戒めとは御愛の中に留まること。主の愛に応答して愛する方に聴き従うことは喜びとなる。その人が「なぜですか」と理由を問うことは無い。すべての疑問を封じるのは無条件の愛をたまわったからである。 わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。(11) 命をたまわった主の愛を離れて何処に行けようか。イエスに安息している命は恐れを知らず、大胆にアグレッシブに生きるようになる。そう、父母と居る幼子は、愛の言葉に満たされて勇気凛々なのである。 わたしがあなたがたを愛し...みことばを聴いて溢れる喜び(ヨハネの福音書15章)
わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。(1~2) 神は私たちに対して熱心に働いておられる。実を結ぶ者にも実を結ばない者にも神の熱心は変わらず、誰一人放って置かれることも無視されることもない。すべての人の創造主だからである。実を結ぶ者にはもっと多くの実を結ぶことが出来るように必要を備え、実を結ばない者には、実を結ぶことを妨げているものを取り除き、神の光りの中に留まる者を養ってくださる。 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。(3) 主に留まって成った実はみな聖い。みことばを食べて成長したからである。食べたものによって人は成長する。...わたしはぶどうの木あなたがたは枝です(ヨハネの福音書15章)
わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。(27) キリスト者の平安はイエスに拠って約束されている。それは十字架の御わざによって、罪に滅びる死に勝利してくださった永遠のいのちである。必ず万民に訪れる死に勝利している平安である。 死以上に人を脅すものはなく、イエスのみことばを真っ直ぐに受け取った者は、どのような世にもひるむことのない勇気を得る。十字架の恥と苦痛をしのばれほどのイエスの愛に、満たされて生まれる勇気である。 「わたしは去って行くが、あなたがたのところに戻って来る」とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを、あなたが...みことばの保証②(ヨハネの福音書14章)
わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。(18~19) 十字架の後に残される弟子に、イエスは「捨てて孤児にすることはない」と約束された。イエスと共に地で働いて来た弟子にとって、迫害の日々に必要なものはみことばである。イエスが十字架の死を経て墓に葬られ、三日目によみがえられるとき、弟子もまたイエスと共によみがえりのいのちを得て、御父のもとで永遠に生きる者となる。 その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛し...みことばの保証①(ヨハネの福音書14章)
まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。(12) 計画を完了して父の右の座に帰られたイエス・キリストを信じる者は、イエスのように神から出たわざを成すようになる。神であるイエスが人となって肉の体を纏って来てくださった。私たちと同じように世で生きても罪を犯されることはないが、限りある体の不自由と弱さを経験してくださった。体の恐れは死である。キリストから永遠のいのちたまわった者は、生きるための遣り繰りから解かれており、イエスの備えてくださった永遠のいのちに安息している。 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがた...キリスト者の奇跡(ヨハネの福音書14章)
なんだか背中が痛い・・膝がどうかした拍子に痛む・・ちょっと頭が痛い・・そんなのが日替わりで現れたり・・消えたり・・ 歳を取るとあちらこちらが痛むのが当然らしい。なぜ日替わりなのかは知らんけど・・いや、少しは知っているけど・・つまり耐用年数が過ぎているからであり、 「よしよし」と自分をあやしつつ・・「痛いない」と騙しつつ・・「じきに治る」と宥めつつ・・イエスさまに「治してください」お祈りをして、その度癒やされて、 自分のやりたいことは全部やれているから感謝する買い物、料理、掃除、自室の模様替え花の世話、少しの野菜は美味しく食べる ブログは仕事、お金にはならないけれどお金では買えないものを得るそれは今日を喜んで生きる力イエスさま感謝します今日の歌(2024.12.04)
「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(1) 人は良い事にも悪い事にも心騒いでその事柄に釘付けになることがある。主から目を離して見える所には、光りの御使いに変装したサタンが、いよいよ惑わして滅びに引き込もうと待っている。 十字架のキリストは人には嫌悪したくなる御姿である。それゆえ人は十字架を語ることを避けたいのだ。目の前の出来事によってイエス・キリストへの信頼が揺るぐことがある。そのときは聴き続けたみことばを反芻し、十字架で完成してくださった御わざに留まるなら、そう、イエスの完全な赦しの中に留まるときに、たとえ自分の姿がどのようであろうとも、御わざに安息することが出来るのである。 神が備えてくださった救いの十字架の下で、感謝にあふれ喜びの礼拝を捧げ、みこころを行う力を...イエスによって神を見る(ヨハネの福音書14章)
冬の朝夫婦雀の羽光る 冬の薔薇平凡な赤次々と咲き続けたり此処に居るよと今日の歌(2024.12.02)
ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。(31) イエスが受けられる栄光は十字架であり、それはまだ起こっていないけれど、サタンが働き始めることを止められなかったので、それはすでに起こったこととなる。 神が死ぬべき体を纏って地に下ってくださったイエスの栄光は、鞭打たれ、茨の冠を被せられ、弟子に裏切られ、負われた罪のゆえに御父に見捨てられて死ぬことである。 しかし、彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。(イザヤ53;10) 主はユダがこれから果たす役割をすべてご存じであり、恐れと苦難の十字架に向かって進まれる。それは...イエスが受ける栄光(ヨハネの福音書13章)
曙のコーヒーの香の平和あり八十路を越えて静寂を知る 先駆ける赤き一輪山茶花の孤独を守る葉は青々と今日の歌(2024.11.28)
イエスは、これらのことを話されたとき、心が騒いだ。そして証しされた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」(21) イエスは今まさに、一粒の麦となって死んでいのちを与えようとしておられる。しかし、ユダがサタンに従い悪名を残して滅びゆくことに心を痛められ、平気おられたわけではないのだ。主はいけにえを喜ばれないからである。 弟子たちは、だれのことを言われたのか分からず当惑し、互いに顔を見合わせていた。弟子の一人がイエスの胸のところで横になっていた。イエスが愛しておられた弟子である。(22~23) 此処にユダとヨハネの違いが明確に現れている。ヨハネが「イエスが愛された弟子」と称して恐れることがないのは、自分を見ることなくイエスに信頼してのことである。主であ...サタンに導かれて闇に出て行くユダ(ヨハネの福音書13章)
イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。(12~13) イエスは唯一世の初めから終わりまでを知る先生であり、すべての造り主である。主は、裏切るユダの足さえ洗って仕える者の愛の姿を示された。ただ、裏切る者を排除するなら、誰の足も洗うことが出来ないのだが・・。 主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。(14~15) 互いの足を洗い合う必要は、世を生きて行く弟...互いに足を洗い合う命令(ヨハネの福音書13章)
さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。(1) イエスの愛は永遠に変わることがない。それは七の七十倍の赦しの中にあってのことである。イエスの十字架に感謝して救ってくださった愛に応答しようとする者には、彼らの失敗や成功には拠らぬ真実な神の愛がある。 弟子はキリストの御わざを宣べ伝える証人である。主は彼らの必要を満たされる。キリスト者にも働きを受け継がせるために、欠けを覆って罪を洗いきよめられる。思いが汚れているならサタンに支配されるのだ。 夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。(2) イエスに満ち足...イエスに足を洗って頂いたユダ(ヨハネの福音書13章)
鈍色のうすら寒きにドア閉じて出したばかりの炬燵に戻り アスパラ菜姫の如くに守り来て黄金の蕾今朝見つけたる 鈍色の空に群れるはヒヨドリか百舌は今年も早贄残す今日の歌(2024.11.20)
イエスがこれほど多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。それは、預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼はこう言っている。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。」(37~38) 闇が光に打ち勝たないように、人の不信仰によって神の計画が損なわれることはなく、闇の行いの中に十字架だけが罪を駆逐して、永遠の救いの輝きを成就して行く。肉は十字架を避けるが霊はイエスの御わざの十字架に安らう。 キリストを知ろうとする者を惑わす疑惑にも、聖霊の助けが備えられて在る。初めに神が選び・・そう、救いはただ主の憐みに拠ることである。誰も自分の知力に拠ってキリストを知ることはない。 イザヤはまた次のように言っているので、彼らは信じることができなかったのである...闇のなかで成就してゆく十字架の救い(ヨハネの福音書12章)
モーセとレビ人の祭司たちはイスラエル全体に告げた。「イスラエルよ、静まって聞きなさい。今日あなたは、あなたの神、主の民となった。あなたの神、主の御声に聞き従い、私が今日あなたに命じる主の命令と掟を行いなさい。」(9~10) 「今日あなたは、あなたの神、主の民となった」とある。昨日までは主の民ではなかったのか。主はあれほどに面倒見てくださったのに・・。主がどれほど良くして下さっても、聴き従うことが無い者とどのよな関係を築くことが出来るであろう。応答しない一方通行の愛は片思いであって信頼関係は生まれない。主の民であることは、主に聴き従う時に生まれる関係なのである。今日主の民となったのは、今日聴き従うことが始まるからである。 その日モーセは民に命じた。あなたがたがヨルダン川を渡ったとき、次の者たちは、民を祝福...「アーメン」と言いなさい(申命記27章)
冬日受け吉野から来た立ち話 花を誉め相槌をもて迎らる団子屋さんも教えられたり今日の歌(2023.12.20)
この季節になると教会のクリスマス祝会で、わいわいとカーテンを被って博士を演じ、軽妙な司会に笑いころげ、楽しく語り合ってご馳走を頂いたことなどを思い出す。クリスマスの日程が決まると、私はチラシを作ってご近所から始めて出来る限りの範囲配って歩いた。「クルシミマスだ・・」なんて冗談を言いながらも、せわしい家事の合間に走り回った。ただ、ただ、嬉しくて張り切っていた。 しかし・・祝会が終わるとツリーは手早く片付けられ、会堂の装いは元旦を迎えるために切り替えられる。そうして喜びは世のクリスマスと同じように過ぎ去って行き、もう誰もクリスマスを語らなくなる。クリスマスの喜びはクリスチャンにも過行くものなのか・・調子を合わせながらも、心の奥に何とも言えない違和感を覚えるようになって行った。家にもクリスマス飾りはなくなり、...ちょっと切ないクリスマス
モーセとイスラエルの長老たちは、民にこう命じた。「私が今日あなたがたに命じるすべての命令を守りなさい。あなたがたがヨルダン川を渡り、あなたの神、主が与えようとしておられる地に入る日には、大きな石を立て、それらに石灰を塗りなさい。(1~2) ヨルダン川の向こうにいる強い敵に対して、神が備えよと言われたものは大きな石である。石を運び入れて白く塗りみことばを書くことであった。 渡ったら、それらの上に、このみおしえのすべてのことばを書き記しなさい。それは、あなたの父祖の神、主が約束されたとおり、あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地、乳と蜜の流れる地にあなたが入るためである。(3) 主が備えてくださった地を受けるための命令は、強い敵と戦う武器を揃えることではなく、賢い戦略を巡らせることでもない。神のこ...みことばの石を据える(申命記27章)
喜びを悲しむ者を気遣えと証責めるは的外れなり罪故に喜ぶ者を喜べず主を喜ばず悲しみを増す喜びは御国の味そ主の味ぞ霊より溢れ身を癒やしたり分かち合い癒やし恵みを聞くことは主に遜る試練の薬祈るたび主の真実を垣間見て御国を知りて世を忘れたり今日の歌(2023.12.10)
叢に水仙一輪見つけたり静かに香る師走の花よ バスと徒歩連れられ行きて服を買う徐々に広がる我がテリトリー 今日の歌(2023.12.09)
あなたの神、主があなたとあなたの家に与えられたすべての恵みを、あなたはレビ人および、あなたがたのうちの寄留者とともに喜びなさい。(11) 主を楽しみ喜ぶことは私たちの力となる。みことばの経験による霊の満足は魂もからだも全身を元気にする。主を喜ぶ喜びは周りに居る人にも溢れて行くほどに、豊かな主からの恵みとなる。 第三年、十分の一の年にあなたの収穫の十分の一をすべて納め終え、これをレビ人、寄留者、孤児、やもめに与えて、彼らがあなたの町囲みの中で食べて満ち足りたとき、(12) キリスト者の最も素晴らしい収穫物はキリストの平安である。世のあらゆる理不尽の中で・・、みことばの通じない悲しみの中で・・、自身の足りなさの中で・・、未だ祈りの成就を見ぬ中で、ただ、ただキリストのご真実に拠り頼むときの平安である。 あなた...聖霊の宮を守ってくださる恵み(申命記26章)
あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に入って行き、それを占領し、そこに住むようになったときは、あなたの神、主が与えようとしておられる地から収穫する、大地のすべての実りの初物の一部を取って、かごに入れ、あなたの神、主が御名を住まわせるために選ばれる場所へ行かなければならない。(1~2) 多くの奇跡や神の忍耐深い愛によって、イスラエルの民が約束の地カナンに住まうようになったとき、主の備えに深い感謝に溢れて、彼らは収穫したばかりの物を持って主を礼拝する。それは荒野を行く時と同じように、この地でも主に信頼し頼みとして生きる者であることを現わす。 そして、そのとき任務についている祭司のもとに行って、「今日、あなたの神、主に報告いたします。私は主が私たちに与えると父祖たちに誓われた地に入りま...捧げもの(申命記26章)
馴染みしや七月を経て貰う菊 立ち止まり振り返られつ追い来たり紅葉の堤鯉群れる池今日の歌(2023.12.04)
「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23:34) イエスが十字架の上で祈られたこの祈りは、イスラエルのための執り成しである。父なる神はイエスの願いを叶えられる。みこころのすべて成し遂げた完璧な捧げものを受けられたからである。イスラエルは、イエス・キリストの執り成しの祈りを謙って受け取り、感謝のうちに礼拝してキリストの救いを受け取らなければならない。 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:12) サタンは敵のうちに激しく働いて、イスラエルに彼らの残酷な仕打ちを見せつける。そのことによって心をかき乱されて、目の前の敵に釘づけにされてはならない。彼らの成すべ...イスラエルのための十字架の祈り
あなたには、袋に大小異なる重り石があってはならない。あなたには、家に大小異なる升があってはならない。(13~14) 異なる重り石や升を持っているのは人を欺く貪欲のためであり、神は使うか使わないかに関わらず、それを手元に置いていることを嫌われる。使う心が無ければ備えないし、持って居ないことは弱い良心の守りとなる。この戒めを守ることは難しくはない。 時には信仰の本音と建て前を自他に感じることがある。それは異なる重りや升のようだ。しかしそれを警戒して信仰の告白や、主を誇る言葉を口にすることさえ控えて、黙り込んでしまうことは違う。神の恵みによって生きている者が、沈黙のうちに恵みと憐みの日々をなんとなく流されて行くことはサタンを喜ばせているだろう。キリストが「あなたはわたしを誰だと言いますか」と問われても、常に口...完全で正しい重りと升(申命記25章)
兄弟が一緒に住んでいて、そのうちの一人が死に、彼に息子がいない場合、死んだ者の妻は家族以外のほかの男に嫁いではならない。その夫の兄弟がその女のところに入り、これを妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。そして彼女が産む最初の男子が、死んだ兄弟の名を継ぎ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。(5~6)神の選びの民が消し去られることがないように、イスラエルの民の結婚には子孫に名を引き継ぐ義務が課せられていた。 キリストが来られた新約の今は、父なる神のご計画と、御子キリストの十字架の贖い、助け主なる聖霊の働きに拠り、イスラエル人も異邦人も一つの御霊に拠って繋がれ、神の子らは世界中に増え広がった。 キリストによって救われた人々は、感謝をもってみことばに従順する人生を経て肉...今守るべき名(申命記25章)
人と人との間で争いがあり、その人たちが裁判に出頭して、正しいほうを正しいとし、悪いほうを悪いとする判定がなされたとき、もしその悪い者がむち打ちにすべき者なら、さばき人は彼を伏させ、自分の前で、その邪悪さに応じた数だけ打たなければならない。.(1~2) 此処で許されているむちは、「人と人の間の争い」に対してである。人に対して罪を犯せば人から罰せられ、罪に相当する罪の代価を支払うことによって、共に生ることが許される。 しかし、キリストは誰とも争わず何の罪もなかったのに、人を宥めるためにむち打たれ、その人の罪をも負って神を宥めるだめの捧げものとして十字架にかかられた。使徒たちも、神に成り代わって裁く者に左の頬をも差し出すようにしてむちを受けた。そうして、彼らは悪い者に手向かわず聖書に主の栄光を記したのである。...故無き鞭には主の備えがある(申命記25章)
小春日に下校の子等の平和かな 温き陽に春菊摘んで夕餉の膳今宵ゆるりと明日は祭日今日の歌(2023.11.22)
あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは寄留者や孤児、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主があなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。(19) 近頃雀が減ったことが書かれてあった。田畑に彼らの分が残されないからとあり、それがすべてとは思わないけれど、確かに実に綺麗に収穫されている。すべてが機械的に完全に行われる時、かの地にあっても貧しい人の分を思い出すことは無いだろう。 あなたがオリーブの実を打ち落とすときは、後になってまた枝を打ってはならない。それは寄留者や孤児、やもめのものとしなければならない。ぶどう畑のぶどうを収穫するときは、後になってまたそれを摘み取ってはならない。それは寄留者や孤児、やもめのものとしなければ...時代(申命記24章)
父が子のために殺されてはならない。子が父のために殺されてはならない。人が殺されるのは自分の罪過のゆえでなければならない。(16) 親が子の責任を負って命をとられることはなく、子が親のために死ぬことも無いのだ。この定めによって罪の報いが家族にまで及ぶことがなく、子孫は神の守りの中に生かされるのである。 復讐が繰り返されることはなく、先祖の罪科によって戦争が繰り返されることさえ防ぐ。神に赦され互いに赦すことによって、共に生きるように定められたのである。 神は罪を受け入れることができない聖なるお方であるが、罪を憎んでも人を憎まず、罪の故に限りある命となり滅びゆく人類を憐れまれた。それゆえ、御子をキリストとして遣わし、罪の完全な贖いを計画してくださったのである。 キリストを信じた者の罪は神には完全に解決されてあ...赦しと憐みの経験(申命記24章)
隣人に何かを貸すとき、担保を取りにその家に入ってはならない。あなたは外に立っていなければならない。あなたが貸そうとするその人が、外にいるあなたのところに担保を持って出て来なければならない。(10~11) 何という細やかな主のお心遣いであろう。人にはどんなに貧しくても決して手元から離せない物があろう。それを持って行かれるときの心の傷は、飢えや渇き以上の痛みを覚えるであろう。 キリストは言われる。「もう一度あなたがたに言います。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」(マタイ19:24) 金があることは悪いことではないとこの個所で付け加えられることがあるが、金持ちは神の助けがなくても出来ることが多くあるのだ。彼らは病気になれば優秀な医者を探し、最高な医療を求めるであろうし、問...弱さ貧しさを心配してくださる創造主(申命記24章)
傘さして柿と蜜柑を買って来たのんびりとした店内だった 雨降ってほうれん草が安かった家にあるのに買ってしまった 道端に植えたばかりの葉ボタンはいい顔をして雨空を見る今日の歌(2023.11.10)
いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」と。主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである。それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。まこと...詩篇91篇に生きるとき
ひき臼、あるいはその上石を質に取ってはならない。いのちそのものを質に取ることになるからである。(6) ひき臼が無ければ小麦はそのままでは食べられず、飢えて死ぬことになる。パンを得るための質草さえ無い一人の存在をも、天地宇宙を創造された神が予め心配していてくださる。このことを通してさえ、神の愛の細やかさは人には測り知ることは出来ない。 創造主なる神は遥か天の高みから見下ろして、罪に染まって死に行く人を放置出来るような御方ではなかった。アダムを御手によって神の形に作り、永遠に生きる神の息を吹き込んで生きる者とされ、人を愛し交わりと慈しみの対象として造られたからである。 罪を犯して神を避けるようになり、吹き込まれたいのちは力を失ったけれど、キリストを告白するための猶予が与えられている。命のある間にキリストを知...除き去られるべき者が救われた(申命記24章)