故無き鞭には主の備えがある(申命記25章)
人と人との間で争いがあり、その人たちが裁判に出頭して、正しいほうを正しいとし、悪いほうを悪いとする判定がなされたとき、もしその悪い者がむち打ちにすべき者なら、さばき人は彼を伏させ、自分の前で、その邪悪さに応じた数だけ打たなければならない。.(1~2) 此処で許されているむちは、「人と人の間の争い」に対してである。人に対して罪を犯せば人から罰せられ、罪に相当する罪の代価を支払うことによって、共に生ることが許される。 しかし、キリストは誰とも争わず何の罪もなかったのに、人を宥めるためにむち打たれ、その人の罪をも負って神を宥めるだめの捧げものとして十字架にかかられた。使徒たちも、神に成り代わって裁く者に左の頬をも差し出すようにしてむちを受けた。そうして、彼らは悪い者に手向かわず聖書に主の栄光を記したのである。...故無き鞭には主の備えがある(申命記25章)
2023/11/24 18:40