金井八幡神社(→東京都町田市金井町)は、創建年代等の詳細は不明ですが、江戸時代には広福寺(→現在は廃寺)が別当寺として祭祀を司りました。江戸時代中期の1726(享保11)年10月に仏師佐野木丞が御神像(→神仏習合の頃の神体、約15cm)を作り奉納、1751(寛延4)年7月に石段を建立、1828(文政11)年に仏師田村幸左衛門が神体の神像に彩色を施したと伝わります。また、この年に社殿が再建されたようです。現在の社殿は太平洋戦争が始まる194...
羅針盤ゼミナールの徒然ブログです。当塾の公式マスコットが歴史学の立場から解説を加え、訪問した神社・寺院・史跡などを紹介してまいります。塾の公式ブログですが塾の宣伝は少なめです。
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北条氏常盤亭跡(→神奈川県鎌倉市常盤)は、7代執権北条政村(→政村流北条氏の祖)、6代連署北条義政(→塩田北条氏の祖)、北条時茂(ときもち→常盤北条氏の祖)・北条時範(ときのり→時茂の子)、北条範貞(のりさだ→時範の子)らの邸宅跡です。東西約700m、南北300mに及ぶ敷地で、木の柵が設置された谷戸の一段高くなっているところは常盤亭跡の中でも中心的な場所であったといいます。ここを拠点にした北条一門を常盤北条氏といい、鎌倉末...
佐助稲荷神社(→神奈川県鎌倉市佐助2丁目)は、鎌倉時代の建久年間(1190年~1199年)に鎌倉幕府を創設した源頼朝が有力御家人の畠山重忠に命じて創建したと伝わる神社です。佐助の地名は「佐殿(すけどの)頼朝を助けた」が由来といい、『新編鎌倉志』には南北朝時代の1359(延文4)年12月11日に、凶徒(→南朝勢力)退治の祈祷を佐助稲荷神社の別当三位僧都に命じた足利尊氏の古文書が、鶴岡等覚院(→現在は廃寺)にあると記されています。神...
銭洗弁財天 宇賀福神社(→神奈川県鎌倉市佐助2丁目)は、1185(文治元年)4月に、鎌倉幕府の初代将軍源頼朝が「霊夢」によるお告げに従い宇賀福神を祀ったことから始まる神社です。宇賀神は中世以降に信仰された財をもたらす福神で、仏教の弁財天と習合して宇賀弁財天とも呼ばれました。1257(正嘉元)年に5代執権北条時頼が霊水で銭を洗って一族の繁栄を願ったことから、北条一族の繁栄にあやかろうと銭洗いの風習が広まったと伝わりま...
洲崎古戦場(→神奈川県鎌倉市寺分1丁目)は、鎌倉時代末期の1333(元弘3)年5月18日に鎌倉を攻める新田義貞の軍勢に対して、鎌倉幕府16代執権の赤橋(北条)守時は防御を命じられた巨福呂坂(こぶくろざか)切通しから出撃し、化粧坂(けわいざか)切通しを攻める新田軍主力に対峙するため洲崎で果敢な突撃を繰り返したのち、自害したと伝わる古戦場です。『太平記』の記述によれば、新田方の総大将堀口貞満(ほりぐちさだみつ)が陣容を整え波...
金湯山 早雲寺(→神奈川県足柄下郡箱根町湯本)は、戦国時代の1521(大永元)年に小田原北条氏の2代北条氏綱が初代伊勢宗瑞(→いわゆる北条早雲)の遺命に従い、龍宝山 大徳寺(→京都府京都市北区紫野大徳寺町)の83代住職以天宗清を招いて建立した臨済宗大徳寺派寺院です。建立時期については1531(享禄4)年以降であるとする説も有力です。戦国時代には小田原北条氏の菩提寺として「関東第一の名寺」と謳われ、1542(天文11)年には勅願寺(→...
鵐の窟・頼朝船出の浜(神奈川県足柄下郡真鶴町)を訪問しました
鵐の窟(しとどのいわや→神奈川県足柄下郡真鶴町真鶴)は、1180(治承4)年8月24日の石橋山合戦で平家方の大庭景親(おおばかげちか)に敗れた源頼朝が、身を潜めたものの平家方の梶原景時(かじわらかげとき)の計らいで見逃され難を逃れたという伝承をもつ史跡です。平安時代末期の鵐の窟は奥行きが130mほどあったようですが、1923(大正12)年9月1日の関東大震災による隆起により現在の奥行は11mほどです。窟の近くには「頼朝観音堂」が...
真鶴貴船神社(→神奈川県足柄下郡真鶴町)は、平安時代の889(寛平元)年に平井の翁という人が沖合から漂流してきた楼船の中から木像十体余りを発見し、貴ノ宮大明神として祀ったことが起源と伝わる神社です。1868(明治元)年に神仏分離令が発布され現在の社号となったようです。境内には1180(治承4)年の石橋山合戦に敗れた源頼朝が「しとどの窟」に身を潜める前に休息したと伝わる「頼朝の腰掛石」と伝わる岩が奉納されています。〖祭...
宿鳳山高円寺(→東京都杉並区高円寺南4丁目)は、小田原北条氏の統治下である戦国時代の1555(弘治元)年に、多宝山成願寺(→東京都中野区本町2丁目)の三代住職建室宗正が開基したと伝わる曹洞宗寺院です。現在の本尊は観音菩薩で、室町時代に作られた阿弥陀如来坐像も安置されています。かつてこの辺りには桃の木が多くあったことから桃園と呼ばれ、「桃堂の桃園観音」と呼ばれていたようです。高円寺は5代住職耕岳益道のときに、3代将...
麻布氷川神社(→東京都港区元麻布1丁目)は、社伝によると平安時代の938(天慶元)年に、清和源氏の源経基(みなもとのつねもと)が平将門の乱を平定するため東征した際に、武蔵国豊島郡谷盛浅布冠の松(→現在の麻布一本松の地)に創建したのが始まりと伝わります。ただし、源経基が武蔵介として現地に赴任して在地の検注(→荘園の土地調査)を行ったのは938(天慶元)年で、いわゆる平将門の乱は939(天慶2)年のことなので時系列に齟齬が見られ...
赤坂氷川神社(→東京都港区赤坂6丁目)は、社伝によると平安時代の951(天暦5)年に東国を遊行していた蓮林僧正が一ツ木村(→現在の赤坂4丁目付近)で一夜を明かした際に見た「霊夢」により、この地に氷川明神の社殿を建てたのが始まりとされます。江戸時代中期の1716(享保元)年、紀州徳川家出身の徳川吉宗が8代将軍に就任すると、紀州藩の中屋敷が赤坂にあったことから、氷川明神の信仰が高まり、1719(享保14)年には、吉宗の命令を受け...
虎ノ門金刀比羅宮(→東京都港区虎ノ門1丁目)は、江戸時代前期の1660(万治3)年に讃岐丸亀藩主京極高和(きょうごくたかかず)が国元の象頭山に鎮座する金刀比羅宮(本宮)を藩邸のあった芝・三田の地に勧請し、1679(延宝7)年に京極高豊(きょうごくたかとよ)の代に藩邸が現在地に移転したため金刀比羅宮も移転したと記されます。江戸時代後期に金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)と改称しましたが、神仏分離令により1869(明治2)年に金刀...
愛宕神社(→東京都港区愛宕1丁目)は標高26mの愛宕山の山頂にあります。戦国時代の1582(天正10)小年に小田原北条氏が近江国信楽より勧請したのが始まりで、1603(慶長8)年に徳川家康によって防火の守り神とされました。1610(建長15)年には2代将軍徳川秀忠が社殿、末社、仁王門、坂下総門、別当所などを寄進したと伝わります。江戸時代を通して祭礼などには将軍家から金銭が下賜されるなど崇敬を受けました。1657(明暦3年)の明暦の大...
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金井八幡神社(→東京都町田市金井町)は、創建年代等の詳細は不明ですが、江戸時代には広福寺(→現在は廃寺)が別当寺として祭祀を司りました。江戸時代中期の1726(享保11)年10月に仏師佐野木丞が御神像(→神仏習合の頃の神体、約15cm)を作り奉納、1751(寛延4)年7月に石段を建立、1828(文政11)年に仏師田村幸左衛門が神体の神像に彩色を施したと伝わります。また、この年に社殿が再建されたようです。現在の社殿は太平洋戦争が始まる194...
能ヶ谷神社(→東京都町田市能ヶ谷6丁目)は、江戸時代前期の正保年間(→1644年~1647年)に東照宮として創建された村民持(もち)の神社を母体とし、江戸時代後期には十六所神社といいました。幕末期の1854(安政元)年4月に再建され、1877(明治10)年6月に村社に列せられたと記されます。1914(大正3)年11月に近隣の表谷神社・天照大神・神明社・住吉神社を合祀して社号を能ヶ谷神社に改めました。現在の社殿は戦前の1931(昭和6)年4月に造営...
長滝山 多聞院 妙延寺(→東京都町田市森野2丁目)は、室町時代前期にこの地の領主であった渋谷重宗(しぶやしげむね)が長栄山 大国院 池上本門寺(→東京都大田区池上1丁目)の4代住職日山の弟子である日顕を開山に招いて創建した日蓮宗寺院です。日顕は1429(正長2)年7月23日に死去したので創建はそれ以前であることが分かります。江戸時代には本山・末寺の制により前述の池上本門寺の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。また、江戸...
森野住吉神社(→東京都町田市森野5丁目)は、江戸時代前期の1640(寛永17)年9月にこの地の領主であった幕府旗本須藤家の3代須藤太郎左衛門盛忠(すどうたろうざえもんもりただ)が、祖先の菩提と武運長久のため名主の渋谷由右衛門尉重忠(しぶやゆえもんのじょうしげただ→旧北条家臣、帰農)および氏子により摂津国住吉郡の住吉大社を勧請して創建したと社宝の棟札に記されます。1710(宝永7)年12月に5代須藤権之助盛連(すどうごんのすけも...
西田杉山神社(→東京都町田市金森6丁目)は、江戸時代前期の1683(天和3)年12月に幕臣高木伊勢守の館の鬼門の守護神として創建したと伝わる神社で、社殿・参道ともに高木伊勢守の館(→神奈川県大和市下鶴間)の方角を向いてます。1793(寛政5)年12月と1936(昭和11)年に社殿が再建されました。境内には5mほどの神木の大公孫樹があります。〖祭神〗・日本武尊(やまとたけるのみこと)西田杉山神社は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂...
金神神社(こんじんじんじゃ→神奈川県川崎市麻生区白鳥4丁目)は、創建年代等の詳細は不明ですが、1873(明治6)年に富士講(→富士山信仰)を束ねて設立された富士一山講社を起源とする扶桑教の神社です。扶桑教はかつての教派神道13派(→明治時代以降、政府によって公認された神道系の宗教団体)の一つとして知られます。境内社には笑顔が印象的な江戸期の一木彫り日本一の大黒天が祀られています。〖祭神〗・天祖参神・金山比古命(かな...
日吉神社(→神奈川県横浜市港北区日吉3丁目)は、創建年代の詳細は不明ですが、往古から武蔵国橘樹(たちばな)郡矢上村の総鎮守として同村北方の俗称「お伊勢原」と呼ぶ丘上にあり神明社と称しました。江戸時代には曹洞宗寺院の谷上山 保福寺(→神奈川県横浜市港北区日吉4丁目)が別当寺を務めましたが、祭祀は平村の神職小泉信濃が来て行ったと記されます。旧社殿は田沼意次(たぬまおきつぐ)が老中首座にあった1785(天明5)年の修造と伝...
普賢山 妙海寺(→神奈川県川崎市中原区木月4丁目)は、戦国時代の1534(天文3)年に木月村の村民鳥海讃岐が開基、僧の仏性院日正が開山したと伝わる日蓮宗寺院です。鎌倉時代初期の1187(文治3)年に源義宗という人物が創建した薬師寺という草庵を鳥海讃岐が一寺としたと伝わります。境内には南北朝時代の「貞和六年」(北朝年号→1350年)と彫られた板碑があるようです。江戸時代には後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の中宮となった徳川和子...
横浜赤レンガ倉庫(→神奈川県横浜市中区新港1丁目)は、現在は公園を備えた赤レンガパークとして1年中何かしらのイベントが行われているみなとみらい地区の代表的な文化・商業・観光施設ですが、もともとは、開国以来、国内最大の貿易港となり取り扱い貨物の急増に対応するため、1899(明治32)年に東洋初の接岸式埠頭として新港埠頭の建設が始まり、その一環として作られた保税倉庫(→外国から運び込まれた輸入手続きが済んでいない物...
横浜市開港記念会館(→神奈川県横浜市中区本町1丁目)は、横浜市開港50周年を記念して市民の寄付金によって第一次世界大戦中の1917(大正6)年6月30日に竣工した「ジャックの塔」の愛称で知られる国の重要文化財です。赤レンガに花崗岩(かこうがん)をとり混ぜた辰野式フリークラシック様式(→東京駅丸の内駅舎など赤レンガに白い石材を配した華やかな西洋建築)で、通りに面した3つの隅部に時計塔・角塔・八角塔を配し、ドームを架けた建...
横浜税関本関(→神奈川県横浜市中区海岸通1丁目)は、先代が1923(大正12)年9月1日の関東大震災で倒壊焼失したため、復興事業の一環で1934(昭和9)年に再建されました。竣工当時は横浜市で最も高い建造物で、イスラム寺院(→モスク)風の塔や連続アーチなど優美でエキゾチックな雰囲気から「クイーンの塔」の愛称で親しまれている横浜市認定歴史建造物です。横浜税関資料展示室「クイーンのひろば」では横浜港と横浜税関の歴史、貿易の最...
神奈川県庁舎(→神奈川県横浜市中区日本大通1丁目)は、横浜港近くの日本大通りに面して建ち、「キングの塔」の愛称で親しまれている国指定重要文化財です。先代が1923(大正12)年9月1日の関東大震災で大被害を受けたため鉄骨鉄筋コンクリート構造が採用され、1928(昭和3)年10月31日に竣工しました。昭和初期に大流行したライト様式(→旧帝国ホテルなどを設計した近代建築の巨匠フランク・ロイド・ライトの手による建築様式で、茶色の...
鵜野森日枝神社(→神奈川県相模原市南区鵜野森2丁目)は、創建年代の詳細は不明ですが、中世の頃より鵜野森郷の鎮守四社(→山王社・神明社・鹿島社・八幡社)として祀られており、江戸時代中期の1725(享保10)年に社殿を再建した棟札があるようです。明治維新後の1871(明治4)年に山王社を日枝大神と改称し、さらに1873(明治6)年に日枝神社と改称して村社となりました。国の一村一社政策を受けて1922(大正11)年には神明社・鹿島社・八幡...
方運山 青柳寺(→神奈川県相模原市南区上鶴間本町3丁目)は、室町時代中期の1499(明応8)年に日朝が創建した清龍寺という小庵を前身とする日蓮宗寺院です。1583(天正11)年に、室町幕府15代将軍足利義昭(あしかがよしあき)のもとを離れ小田原北条氏の家臣となった渋谷越後守義重が、日蓮宗僧侶日題が開山に迎えて青柳寺を開基したと記されます。江戸時代には本山・末寺の制により鎌倉の妙巌山 本覚寺(→神奈川県鎌倉市小町1丁目)の末寺...
上鶴間鹿島神社(→神奈川県相模原市南区上鶴間本町3丁目)は、鎌倉時代初期の建久年間(→1190年~1199年)に鎌倉幕府の初代将軍源頼朝が鶴舞の里(→鶴間)に鶴舞神社(→現在の上鶴間浅間神社)を創建した頃に境川付近の下森に創建した神社が前身と伝わる神社です。江戸時代後期の1801(享和元)年8月に現在地に遷座したという文書(→「鎮守鹿島明神社遷座願」)が残されています。遷座後は隣接する方運山 青柳寺が鹿島社と境内社の天神社(→現在...
町田天満宮(→東京都町田市原町田1丁目)は、戦国時代の天正年間(→1573年~1593年)のうち小田原北条氏の統治下(→1590年まで)に創建され、江戸時代前期の1615(元和元)年にこの地の領主となった幕府の旗本三橋氏・武藤氏によって社殿が造営されたと伝わる神社です。江戸時代には寺領7石3斗の曹洞宗寺院、金森山 宗保院(→東京都町田市原町田1丁目)が別当寺として祭祀を司りました。明治維新後は菅原神社と称したようです。1872(明治5)年...
金森杉山神社(→東京都町田市金森7丁目)は、創建年代等の詳細は不明ですが、江戸時代前期の1683(天和3)年12月に幕府の旗本高木伊勢守夫妻(→妻は於亀)及びその一族が下屋敷内に社殿を再建したと社宝の棟札に記されています。再建には家臣や名主(→村長)の大貫助兵衛・囲曽甚五右衛門が費用の大半を工面したようです。江戸時代を通して金森村の村民が西田杉山神社(→東京都町田市金森6丁目)と隔年で神体を奉遷して祭礼を行ったようです...
母智丘神社(もちおじんじゃ→東京都町田市原町田5丁目)は、『東京都神社名鑑』によると第一次世界大戦末期の1919(大正8)年に黒木昇・黒木ハナの両氏が宮崎県の石峰山山頂に鎮座する母智丘神社(→石岑稲荷明神とも、宮崎県都城市横市町)を自宅に勧請したが、「家屋鳴動し畏懼(いく→恐れおののくこと)の念に耐えず」社殿を創建したと記される神社です。家屋鳴動云々の真偽の程は定かではありませんが、個人によって建てられた神社とし...
高ヶ坂熊野神社(→東京都町田市高ヶ坂2丁目)は、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災によって由緒等が散逸したため創建年代等の詳細は不明ですが、和歌山県の熊野三山神社の那智大社に地形がよく似ていて水源に奉斎し、裏山に滝があったようです。1843(天保14)年の古文書に御供米として毎年地頭より6斗の奉納があり、また除地分として600坪があったとあります。江戸時代の頃は図師村の図師山 大蔵院 釜田寺(→関東大震災で倒壊...
高ヶ坂子育地蔵堂(→東京都町田市高ヶ坂7丁目)は、1971(昭和46)年に南農協高ヶ坂支部倉庫が火災で焼失したため、当時荒廃していた子育地蔵堂の敷地を整理して倉庫と地蔵堂を建設したようです。その後、倉庫は不要となり賃貸倉庫として南農協高ヶ坂支部の運用に使用されていましたが地蔵堂が老朽化したため、1993(平成5)年に支部職員全員で子育地蔵講を設立して資金を積み立てて地蔵堂の新築再建することを決め、1999(平成11)年9月に...
当麻山 無量光寺(→神奈川県相模原市南区当麻)は、鎌倉時代の1261(弘長元)年に「踊り念仏」を広めたことで知られる一遍(いっぺん)が開いた草庵を起源とする時宗(じしゅう)寺院です。一遍から遊行を引き継いだ真教(しんきょう)が老衰のためこの地に戻り、1304(嘉元2)年ここに堂宇を建立し、阿弥陀仏の別名である無量光仏から「無量光寺」と名付け、一遍の分骨を埋骨して念仏の根本道場としました。真教は1319(文保3)年1月に死去する...
根小屋諏訪神社(ねこやすわじんじゃ→神奈川県相模原市緑区根小屋)は、鎌倉時代初期の1192(建久3)年に筑井城(つくいじょう)を築城した筑井太郎次郎義胤(つくいたとうじろうよしたね)が勧請したと伝わります。神仏習合の頃は井木山寿性院(→現在は廃寺)が別当寺を務めました。『津久井郡文化財神社編』によると、戦国時代には小田原北条氏の有力国衆であった津久井城主内藤景定(ないとうかげさだ)によって1527(大永7)年に50間4面の社...
飯縄神社(いいづなじんじゃ→神奈川県相模原市緑区根古屋)は、小田原北条氏の有力国衆であった津久井内藤氏の居城津久井城の飯縄曲輪(いいづなくるわ)にある神社で、鎌倉時代の1197(建久8)年に前身の筑井城(つくいじょう)を築いた筑井太郎次郎義胤(つくいたろうじろうよしたね)が勧請したと伝わります。戦国時代には津久井城主内藤景定が城の守護神として社殿を改築したと伝わります。津久井城の山頂付近は西峰の本城曲輪・太鼓曲輪...
津久井城(つくいじょう→神奈川県相模原市緑区根古屋)は、鎌倉時代初期に三浦氏の一族である筑井太郎次郎義胤(つくいたろうじろうよしたね→筑井為行とも)が築城したところから始まる根古屋式の山城で、津久井湖の南に聳える標高375ⅿの城山に築かれています。戦国時代には、小田原北条氏の有力国衆で「津久井衆」を率いた津久井内藤氏が城主を務め、対武田氏の最前線の城として重視されました。『勝山記』には、1525(大永5)年に甲斐...
浅利明神(→神奈川県愛甲郡愛川町)は、戦国時代の1569(永禄12)年10月8日の三増合戦(三増峠の戦い)において戦死した武田方の重臣浅利信種(あさりのぶたね)を祀った神社です。江戸時代の1700(元禄13)年3月に曾雌常右衛門知義(そしつねえもんともよし)という武士が、主君の下総関宿藩主牧野備前守成春(まきのびぜんのかみなりはる)の命でこの地を検分した際に、自身にゆかりのある浅利信種がこの地で戦死したことを知り、「浅利墓所」...
三増合戦史跡(→神奈川県愛甲郡愛川町三増)は、戦国時代の1569(永禄12)年10月8日に、甲斐の武田信玄と小田原北条氏の別動隊との間で行われた「三増合戦(みませかっせん)」「三増峠の戦い(みませとおげのたたかい)」に関する史跡です。三増合戦場碑は昭和時代後期の1969(昭和44)年に建立され、その周辺には両軍の戦死者を埋葬したと伝わる首塚や胴塚や、戦死した武田家臣浅利信種(あさりのぶたね)を祀る浅利神社などがあります。〖三...