当麻山 無量光寺(→神奈川県相模原市南区当麻)は、鎌倉時代の1261(弘長元)年に「踊り念仏」を広めたことで知られる一遍(いっぺん)が開いた草庵を起源とする時宗(じしゅう)寺院です。一遍から遊行を引き継いだ真教(しんきょう)が老衰のためこの地に戻り、1304(嘉元2)年ここに堂宇を建立し、阿弥陀仏の別名である無量光仏から「無量光寺」と名付け、一遍の分骨を埋骨して念仏の根本道場としました。真教は1319(文保3)年1月に死去する...
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当麻山 無量光寺(→神奈川県相模原市南区当麻)は、鎌倉時代の1261(弘長元)年に「踊り念仏」を広めたことで知られる一遍(いっぺん)が開いた草庵を起源とする時宗(じしゅう)寺院です。一遍から遊行を引き継いだ真教(しんきょう)が老衰のためこの地に戻り、1304(嘉元2)年ここに堂宇を建立し、阿弥陀仏の別名である無量光仏から「無量光寺」と名付け、一遍の分骨を埋骨して念仏の根本道場としました。真教は1319(文保3)年1月に死去する...
根小屋諏訪神社(ねこやすわじんじゃ→神奈川県相模原市緑区根小屋)は、鎌倉時代初期の1192(建久3)年に筑井城(つくいじょう)を築城した筑井太郎次郎義胤(つくいたとうじろうよしたね)が勧請したと伝わります。神仏習合の頃は井木山寿性院(→現在は廃寺)が別当寺を務めました。『津久井郡文化財神社編』によると、戦国時代には小田原北条氏の有力国衆であった津久井城主内藤景定(ないとうかげさだ)によって1527(大永7)年に50間4面の社...
飯縄神社(いいづなじんじゃ→神奈川県相模原市緑区根古屋)は、小田原北条氏の有力国衆であった津久井内藤氏の居城津久井城の飯縄曲輪(いいづなくるわ)にある神社で、鎌倉時代の1197(建久8)年に前身の筑井城(つくいじょう)を築いた筑井太郎次郎義胤(つくいたろうじろうよしたね)が勧請したと伝わります。戦国時代には津久井城主内藤景定が城の守護神として社殿を改築したと伝わります。津久井城の山頂付近は西峰の本城曲輪・太鼓曲輪...
津久井城(つくいじょう→神奈川県相模原市緑区根古屋)は、鎌倉時代初期に三浦氏の一族である筑井太郎次郎義胤(つくいたろうじろうよしたね→筑井為行とも)が築城したところから始まる根古屋式の山城で、津久井湖の南に聳える標高375ⅿの城山に築かれています。戦国時代には、小田原北条氏の有力国衆で「津久井衆」を率いた津久井内藤氏が城主を務め、対武田氏の最前線の城として重視されました。『勝山記』には、1525(大永5)年に甲斐...
浅利明神(→神奈川県愛甲郡愛川町)は、戦国時代の1569(永禄12)年10月8日の三増合戦(三増峠の戦い)において戦死した武田方の重臣浅利信種(あさりのぶたね)を祀った神社です。江戸時代の1700(元禄13)年3月に曾雌常右衛門知義(そしつねえもんともよし)という武士が、主君の下総関宿藩主牧野備前守成春(まきのびぜんのかみなりはる)の命でこの地を検分した際に、自身にゆかりのある浅利信種がこの地で戦死したことを知り、「浅利墓所」...
三増合戦史跡(→神奈川県愛甲郡愛川町三増)は、戦国時代の1569(永禄12)年10月8日に、甲斐の武田信玄と小田原北条氏の別動隊との間で行われた「三増合戦(みませかっせん)」「三増峠の戦い(みませとおげのたたかい)」に関する史跡です。三増合戦場碑は昭和時代後期の1969(昭和44)年に建立され、その周辺には両軍の戦死者を埋葬したと伝わる首塚や胴塚や、戦死した武田家臣浅利信種(あさりのぶたね)を祀る浅利神社などがあります。〖三...
小山田家住宅(→長野県長野市松代町)は、1849(嘉永2)年に建てられた木造2階建て、寄棟、銅板葺の数寄屋造(すきやづくり)の上級武家屋敷で、冠木門(かぶきもん)の西側に置かれた番所と母屋は2006(平成18)年に国登録有形文化財に指定されています。初代の小山田茂誠(おやまだしげまさ、1561年~1637)年は、甲斐都留郡の国衆小山田氏の一門筆頭で、父は1582(天正10)年3月の武田氏滅亡後に小田原北条氏を頼り、武蔵鉢形城(→埼玉県寄居町...
日本初の歌う女優として大正時代に一世を風靡した松井須磨子(まついすまこ)は、本名を小林正子といい、1886(明治19)年3月8日に長野県埴科郡清野村(→現在の長野県長野市松代町清野)で旧松代藩士小林藤太の五女(9人兄妹の末子)として生まれました。1909(明治42)年に坪内逍遥(つぼうちしょうよう)の文芸協会の第1期研究生となり、『ハムレット』のオフェリア役や『人形の家』の主人公ノラなど多くの舞台で活躍し、新劇界を代表する女...
真光山 林正寺(→長野県長野市松代町清野)は、鎌倉時代後期にこの地に配流され没した右大弁信広(うだいべんしんこう)の菩提を弔うために創建されたと伝わる浄土宗寺院です。戦後の1952(昭和27)年に旧松代藩主真田家の菩提寺である曹洞宗寺院・真田山 長國寺(→長野県長野市松代町松代)より2代藩主真田信政の御霊屋と表門が移築されたといいます。これらは江戸時代初期の霊廟建築として貴重であることから1966(昭和41)年に長野県の県...
科野のムラ(しなののむら→長野県千曲市屋代)は、長野県立歴史館の地下から発見された古墳時代のムラを復元したもので、発掘された茅葺の家・竪穴住居・高床倉庫・儀式場などの建物が復元されています。森将軍塚古墳の麓にあたる科野の里歴史公園の敷地内にあり、竪穴住居は囲炉裏に火がつき煙が噴き出していてリアルでした。水田や畑や池もあり、6月の第2日曜日に田植えの体験学習ができるようです。毎年11月には森将軍塚まつりが...
長野県立歴史館(→長野県千曲市屋代)は、森将軍塚古墳館とともに科野(しなの)の里歴史公園にあり、長野県内の考古資料や歴史史料などの展示によって原始から現代までの信濃(→長野県)の歴史を紹介する博物館で、1994(平成6)年11月に開館しました。常設展示室は「信濃の風土と人びとのくらし」をテーマに原始から近現代までを5つの時代に区分し、各時代を象徴する実大環境復元(→鎌倉時代の善光寺門前や江戸時代前期の中農農家、近代製...
千曲市森将軍塚古墳館(→長野県千曲市大字屋代)は、古墳時代前期に「科野(しなの)のクニ」を治めていた王(首長)の墓と考えられる森将軍塚古墳の資料を中心に、千曲市内の遺跡から発掘された考古資料などを所蔵・保管・展示している資料館です。2階の展示室には、森将軍塚古墳の後円部と竪穴式石室を再現し、周りには土器・埴輪・副葬品などをはじめ、長野県内の古墳・埋葬品や発掘調査のパネルなど、テーマごとに展示スペースが設け...
森将軍塚古墳(→長野県千曲市大字森字大穴山)は、古墳時代前期(→4世紀中頃)に造られた長野県最大規模の前方後円墳で、古墳時代の「科野(しなの)のクニ」を治めていた王(首長)の墓と考えられ、全長は約100ⅿあります。古墳館の裏山の標高490ⅿの山頂には、発掘調査をもとに復元された森将軍塚古墳があり、古墳までは遊歩道が設けられ歩いて往復40分ほど、専用バスで往復10分ほどで行くことができます。山頂からは戸隠山や飯綱山が見え...
松操山 典厩寺(しょうぞうざん てんきゅうじ→長野県長野市篠ノ井杵淵)は、武田信玄と上杉謙信(→当時は上杉政虎)が5度にわたって争った川中島合戦のうち、最大の激戦となった1561(永禄4)年の第四次川中島合戦(八幡原合戦)で討死した、武田信玄の実弟・武田典厩信繁(たけだ てんきゅう のぶしげ)を埋葬した瑠璃光山 鶴巣寺(るりこうざん かくそうじ)を前身とする曹洞宗寺院です。江戸時代前期の1654(承応3)年に初代松代藩主真田信之(...
川中島古戦場八幡社(→長野県長野市小島田)は、戦国時代に武田信玄と上杉謙信が争った5回の川中島合戦のうち最も著名な1561(永禄4)年9月10日の第四次川中島合戦の舞台となった八幡原(はちまんぱら)古戦場跡に建立された神社です。八幡原(はちまんぱら)の由来は、平安時代中期の1094(嘉保元)年8月に信濃国に配流された村上顕清(むらかみあききよ)が八幡神を祀った事によります。現在の社殿は1941(昭和16)年に長野県上田市の生島足島...
真田邸(→長野県長野市松代町松代)は、幕末期の1864(元治元)年に、松代藩9代藩主真田幸教(さなだゆきのり)が義母の貞松院の住まいとして松代城の城外御殿として建設したもので、当時は「新御殿」と呼ばれました。江戸時代、大名の妻子は生涯江戸住まいを義務付けられていましたが、1862(文久2)年に行われた文久の改革(→薩摩藩の島津久光が孝明天皇の勅使大原重徳(おおはらしげとみ)を奉じて江戸に参府し、14代将軍徳川家茂に実施さ...
松代城(まつしろじょう→長野県長野市松代町)は、戦国時代に甲斐の武田晴信(武田信玄)と越後の長尾景虎(上杉謙信)が北信濃の覇権を競った川中島合戦において、武田方の拠点として1560(永禄3)年に山本勘助(山本菅助)が築いたと伝わる海津城を前身とする平城です。武田時代には屋代氏・香坂氏・春日氏といった主に川中島4郡(→埴科郡・更級郡・高井郡・水内郡)の国衆が城代を務めました。江戸時代前期の1622(元和8)年に上田藩主の真田...
象山神社(ぞうざんじんじゃ→長野県長野市松代町)は、幕末の松代藩士で兵学・朱子学・洋学者の佐久間象山(さくましょうざん)を祭神として祀る神社で、1864(元治元)年7月11日に京都で暗殺された象山の、殉難50年祭が1913(大正2)年に行われたことを機に、松代町出身の大審院長(→現在の最高裁長官)横田秀雄(よこたひでお)を中心に全国の教育関係者の尽力で神社建立が計画され、1938(昭和13)年11月3日に象山神社(県社)が建立されました...
山寺常山邸(→長野県長野市松代町松代)は、儒学者鎌原桐山(かまはらとうざん)・洋学者佐久間象山(さくましょうざん)とともに「松代の三山」と称えられた松代藩士山寺常山(やまでらじょうざん)の邸宅跡です。山寺常山は、8代藩主・老中真田幸貫(さなだゆきつら→8代将軍徳川吉宗の曾孫)の信望が厚く藩政に尽力し、藩の寺社奉行・郡奉行を務めたのち藩士に兵学を教授した人物として知られます。常山は、明治時代になり真田家が東京に移...
象山 恵明禅寺(→長野県長野市松代町西条)は、江戸時代前期の1677(延宝5)年に松代藩3代藩主・真田幸道が開基、明国から来日した黄檗宗2世木庵性瑫(もくあんしょうとう)が開山した黄檗宗(→臨済宗黄檗派)寺院です。一般的には恵明寺と呼ばれ、江戸時代には京都府宇治市にある黄檗山 万福寺の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。1825(文政8)年に火災に遭い、山門のみ火災を免れ今に至ると伝わります。境内には真田幸道の正室豊姫(→...
有馬新井谷戸天満宮(→神奈川県川崎市宮前区有馬4丁目)は創建年代等の詳細は不明ですが、江戸時代に有馬村新井谷戸(→現在の有馬3丁目)に住む30数戸の氏子が近くの天満宮(→不明)から分祀したと伝わる天満宮です。現在地には明治時代後期の1900(明治33)年に移転されたと記されます。境内には「川崎天神」「川崎天満宮」と書かれた2つの社標が建っており、往時を偲ばせます。〖主祭神〗・菅原道真(すがわらのみちざね)新井谷戸天満宮...
有馬神明神社(→神奈川県川崎市宮前区有馬5丁目)は、創建年代等の詳細は不明ですが、江戸時代後期の1845(弘化2)年12月の再建とあり、同年12月の「有馬村明細帳」によれば、当時村内には神明社2社と杉山社の計3社があったといい、これらが明治時代後期の1910(明治43)年に国の一村一社政策を受けて合祀し、有馬神明神社になったと記されます。もとの神明社2社は、江戸時代には旗本の遠山政之助(とおやままさのすけ)と曾根主税(そねち...
寿栄山 福王寺(→神奈川県川崎市宮前区有馬5丁目)は、境内に残る南北朝時代から室町時代にかけての石碑の存在から、中世にあった葬地に、1602(慶長7)年に死去した僧の雪□が鎌倉円覚寺の塔頭福王寺(→廃寺)の名跡を移す形で創建した臨済宗円覚寺派寺院です。有馬地区は、鎌倉時代には北条得宗家(→北条氏の家督)の所領があり、地域には北条氏ゆかりの寺院(跡地含む)が散見します。福王寺は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された...
松寿弁財天(→神奈川県川崎市多摩区宿河原6丁目)は、真言宗豊山派寺院の雁三山 正幡院 常照寺(→神奈川県川崎市多摩区宿河原3丁目)が管理する弁天堂です。松寿弁財天は、神仏習合の頃には常楽寺の境内にあり、本堂には幕末期の1858(安政5)年に社水という絵師によって描かれた、「松寿弁才天図」が残されています。ご住職によると、この絵は江戸時代におきた多摩川の洪水をモチーフにしているといい、「洪水によって流された村人が1本...
冨鳳山 養周院(→神奈川県川崎市高津区久地3丁目)は、創建年代等の詳細は不明ですが、1604(慶長9)年に死去した僧の吉山が開山したと記される曹洞宗寺院です。2011(平成23)年11月28日には川崎市立久地小学校(→神奈川県川崎市高津区久地4丁目)の6年生児童110人による座禅体験が行われ、僧侶の過ごし方や修行の内容を体験する歴史授業が行われました。上形泰俊住職が地域の児童に様々な文化を体験してもらおうと、例年この時期に座禅修...
宇奈根氷川神社(→神奈川県川崎市高津区宇奈根)は、宇奈根の地が明治時代末期の1912(明治45)年の区画変更により東京府北多摩郡砧村(きぬたむら→東京都世田谷区)から神奈川県橘樹郡高津村に編入されたことから、1927(昭和2)年10月に砧村の宇奈根氷川神社(→東京都世田谷区宇奈根2丁目)を勧請して創建された神社と伝わります。かつては宇奈根地区の全域が北多摩郡に属しましたが、1945(明治12)年の区画変更で郡境が多摩川上に変更され...
青龍山 龍厳寺(りゅうごんじ→神奈川県川崎市多摩区堰3丁目)は、創建年代等の詳細は不明ですが、中興開山は深大寺67住職の宣海と伝わる天台宗寺院です。その頃の山号は自立山だったと記されます。江戸時代には浮岳山 昌楽院 深大寺(→東京都調布市深大寺元町5丁目)の末寺として幕藩体制の一翼を担う一方、別当寺として保谷稲荷神社の祭祀を司りました。寺宝に天台宗の開祖最澄(伝教大師)が彫刻したと伝わる大黒天像があり、観音堂に...
保谷稲荷神社(→神奈川県川崎市多摩区堰3丁目)は、創建年代等の詳細は不明ですが、神仏習合の頃の神体は右手に宝珠・左手に剣を持ち、白狐にまたがった女神像で、安産守護の神として堰村はもとより周辺の村民からも崇敬を受けたと記されます。太平洋戦争末期の1945(昭和20)年4月15日の空襲で被害を受け、戦後の1946(昭和21)年に溝口稲荷社(現在の堰稲荷神社、神奈川県川崎市多摩区堰2丁目)を再建した際に祭神の倉稲魂命(うかのみた...
のちめ不動尊(→神奈川県横浜市都筑区東山田町)は、『二〆(のちめ)不動尊縁起』によると、幕末期の1864(文久4)年に二〆(のちめ→現在の東京都八王子市)から不動像を背負って移住した名主の栗原家が建立した不動堂で、創建当初は鎌田堂近くの「城山」山頂にあったようですが、天災のために現在地に移されたようです。かつては栗原家から不動堂まで参道が敷かれていたそうですが、今は舗装された道路に囲まれているため、港北ニュータ...
三宝寺廃寺(→神奈川県横浜市都筑区東山田町)は、江戸時代には神田山 幡随院 新知恩院(→東京都千代田区神田駿河台、現在は東京都小金井市前原町に移転)の末寺として幕藩体制の一翼を担った東林山 三宝寺(浄土宗)の跡地です。明治時代初期の廃仏毀釈によって廃寺となったといい、跡地には東山田町公民館が建っています。 三宝寺は創建年代等は不詳ですが、1159(平治元)年の平治の乱に敗れ、逃亡先の尾張国で源義朝(→源頼朝...
鎌田堂(→神奈川県横浜市都筑区東山田町)は、平安時代後期の武将で源義朝(→源頼朝の父)の家人で乳母子でもある鎌田政清の館跡に建立されたと伝わる地蔵堂です。江戸時代前期までは純金製の観音菩薩像を安置していたようですが、盗賊に奪われ、1673(寛文13)年に石の地蔵尊を建立したと記されます。江戸時代には真言宗豊山派寺院の妙見山 不動院 長泉寺(→神奈川県横浜市都筑区北山田7丁目)が管理し、幕末の安政年間(→1855年~1860年)...
諏訪山 普門院 観音寺(→神奈川県横浜市都筑区東山田4丁目)は、平安時代前期の貞観年間(→859年~877年)に「顕密の博士」と称された僧の安然が創建したと伝わる天台宗寺院です。一説には、信濃国諏訪の僧・堯観が山田の沢に霊地を求めて、大樹の根本に草庵を結んだとありますが、真偽の程は定かではありません。ただし、本尊の聖観音菩薩立像は、神仏習合の頃は諏方明神像の胎内に安置されていたと伝わるので、山号にもなっている諏...
御嶽山神社(みたけやまじんじゃ→神奈川県川崎市高津区東野川2丁目)は創建年代等は不詳ですが、「韋駄天社」の名で古くから上野川村と下野川村の鎮守として存在し、幕末期の1851(嘉永3)年に草葺の社殿を新築をしたと伝わります。また、最初の東京オリンピックの翌年にあたる1965(昭和40)年に屋根替えを行ったといいます。御嶽山神社(→当時は韋駄天社)は、江戸時代には聚海山 正観院 西蔵寺(→神奈川県川崎市宮前区野川2丁目)が別当寺...
祇央山 龍頭院 妙法寺(→神奈川県川崎市高津区久末)は、開基不詳の天台宗寺院ですが、本堂には1976(昭和51)年春に山門前から出土した鎌倉時代中期の「建長七年」と彫られた鎌田政清(かまたまさきよ→源義朝の乳兄弟)の往生を願うと記された板碑が安置されています。1255(建長7)年は鎌倉幕府の5代執権北条時頼(→泰時の孫)の治世で、鎌田政清の没後100年(→百回忌)にあたります。「主君聖霊」とあるので政清の家臣の子孫たちによって建...
久末義民地蔵尊・庚申塔(→神奈川県川崎市高津区久末)は、江戸時代前期の1694(元禄7)年に、久末村の領主であった旗本の佐橋佳純(さはしよしずみ)の「苛性」を幕府に直訴した罪で処刑された名主を「義民」として祀った地蔵尊の1つです。地蔵尊の隣には江戸時代後期に建立された庚申塔があります。代表越訴型一揆とは正規の訴願順序を越えて、直接上長(→将軍や大名・旗本など)に訴える訴訟を「越訴」(おっそ)といい、江戸時代の前期に...
久末天照大神社(ひさすえてんしょうだいじんじゃ→神奈川県川崎市高津区久末)は創建年代等は不詳ですが、江戸時代に天照大神(あまてらすおおみかみ)を祭神とする神明社と天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を祭神とする杉山社などを前身とする旧久末村の鎮守です。天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)は、神仏習合の頃は下総千葉氏が信仰したことで知られる妙見菩薩が本地仏とされました。神明社は江戸時代には南林山 普門院 ...
南林山 普門院 蓮花寺(れんげじ→神奈川県川崎市高津区久末)は、室町時代の応永年間(→1394年~1428年)に僧の頼意法印が開山したと伝わる真言宗智山派寺院です。戦国時代には戦乱で寺が荒廃したようですが、徳川家康の関東入封後の1596(慶長元)年に小田原北条氏とともに滅亡した世田谷吉良氏の旧臣森弥五郎が中興に尽力したようです。江戸時代には、本山・末寺の制により致航山 感応院 満願寺(→東京都世田谷区等々力3丁目)の末寺とし...
法性山 円融寺(→神奈川県川崎市高津区子母口)は、北条氏綱統治下の1532(天文3)年に池上本門寺(→東京都大田区池上1丁目)の9代住職日純によって開山されたと記される日蓮宗寺院です。創建寺は真言宗寺院だったようですが、その住職の正善坊と日純が問答をした結果、日蓮宗に改宗したと伝わります。円融寺は過去に何度か火災で本堂を焼失したらしく、近世では文化年間(→1804年~1818年)に、近代では太平洋戦争末期の1945(昭和20)年4月...
長唱山 実相寺 蓮乗院(→神奈川県川崎市高津区子母口)は、江戸時代前期の1661(寛文元)年8月7日に死去した浄蓮坊得蔵によって創建されたと伝わる真言宗智山派寺院です。旧本堂と旧本尊(→薬師如来像)は太平洋戦争末期の空襲で焼失しましたが、仏像疎開させていた準提観世音菩薩を新本尊として1956(昭和31)年に本堂を再建し、以後諸堂宇の復興が果たされたといいます。境内には鎌倉時代後期の「正応五年」(→1293年)と南北朝時代の...
子母口富士見台古墳(しぼぐちふじみだいこふん→神奈川県川崎市高津区子母口)は、日本武尊(やまとたけるのみこと)の妻・弟橘媛(おとたちばなひめ)の櫛を祀った「御陵」との伝承をもつ円墳です。宅地造成により古墳の麓が大きく削られていますが、川崎市教育委員会によると現存部分の墳径は17.5ⅿ、高さ3.7ⅿあり、築造当初はかなり大きな円墳であったと推察されます。近くには日本武尊と弟橘媛を祭神とする橘樹神社(たちばなじんじゃ)...