還暦前後から老後の暮らしを豊かにするための東洋、西洋、仏典などの古典の紹介。
示衆(25)「所以達六種色聲香味觸法皆是空相、不能繫縛此無依道人」(このように、六種、つまり色声香味触法がみな空相との見地に達した無依の道人は、束縛することなどできないのだ)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の25回目です。 仏には神通力があるというが、修行の先にはそのような力が得られるのでしょうか。 そんなことを質問した修行僧がいたのかもしれません。 それに対して、真の神通とは何かを、臨在は説きます。 臨済録の原文全文は以下のリンク...
示衆(24)「有身非覺體、無相乃真形」(この世に現れた身体は仏そのものではない、姿形などないものこそ真のあり方なのだ)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の24回目です。 世の中にいる高僧の中には、長い長い時間をかけた修行の結果が仏だと教えているものがいます。 臨在はそんな言葉には騙されるな、と説きます。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が戦...
示衆(23)「爾若求佛、即被佛魔攝」(君たちが仏を求めたら、すぐに仏という魔に捉えられるぞ)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の23回目です。 臨済のもとに集まった修行僧たちは、どこかで教えられた「言葉」や「名前」に引きずられ、疑問を抱えたままです。 そんなものに本性はないのだ、と言います。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝...
示衆(22)「所以古人云、平常心是道」(だから古の人が言っているのだ、平常心こそが道なのだと)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の22回目です。 世の中で師と呼ばれている人たちの中には、修行僧を自分の言葉で縛るような人もいたりします。 修行僧の中にも、むしろ自分からそれを望むような人もいます。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝...
示衆(21)「所以師子一吼、野干腦裂」(獅子が吠えれば、野干の脳は炸裂するというではないか)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の21回目です。 修行僧たちは、いつまでも世にいる老師たちの言葉や経典に書かれているものを、何よりも大切にしようとしています。 自分たちは、それらの言葉は真実を語っているのだ、それをそのまま受け入れるべきだ。 そう信じています。 凡...
示衆(20)「渠且不是修底物、不是莊嚴得底物」(君たち自身は修行で現れたものではなく、仏の姿が現れたものでもない)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の20回目です。 修行する僧たちは、経典や、過去に言われたとされる祖師たちの言葉に囚われ続けます。 そして、それらを理解したならば、修行が成る、と信じています。 しかし臨済は、それらはむしろ業づくりのことなのだと言います。 臨済録...
示衆(19)「蒺藜夌刺、枯骨上覓什麼汁」(棘だらけのハマビシの実や、カラカラの骨をしゃぶっていったいなにを吸おうというのか)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の19回目です。 僧の一人が「三眼国土」について質問します。 「三眼国土」とは「浄妙国土」、「無差別国土」、「解脱国土」の三つ。 臨済は説明し、それらもまた、まやかしなのだ、と言います。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認く...
示衆(18)「如菩薩疑時、生死魔得便」(菩薩にでさえ疑いが生じた時には、生死の魔がつけ込む)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の18回目です。 臨済は修行僧たちに、自分自身をもっと信じろと言い続けます。 もし自分に対して疑いが生じたならば、菩薩でさえ生死の魔がつけ込むのだ、と。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が戦...
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還暦前後から老後の暮らしを豊かにするための東洋、西洋、仏典などの古典の紹介。
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「臨済録」原文全文とその現代語訳を紹介しました。 仏教や禅に関する書籍ですが、純粋に東洋思想の書物としても読むことができます。 そこに書かれている言葉は、現代に生きる私たちにとって、自信を持ち、より心穏やかに暮らすための導きとなるものばかりです。 「臨済録」が、より多くの人たちに読まれることを
臨済は、自らの法を伝えた慧然に、最後の問いかけをします。 それに対し、慧然は一喝で答えます。 臨済はその答えに満足したのでしょうか。 それとも大いに不満だったのでしょうか。 自分の法は、目の見えない驢馬のところで滅んでしまう。 そう言って亡くなりました。 臨済が亡くなった後、慧然らは師の
金牛和尚は臨済の振る舞いを無礼であると咎めます。 しかし臨済はまったく構いません。 そして、さらになにか言おうとする金牛和尚に一棒を加えます。 溈山に、さてこの二人、どちらが勝ったのだろうかと問われた仰山は答えます。 勝ったとしたらどちらも勝ち、負けたとしたらどちらも負け。 勝ち負けは、こ
溈山は、古人たちの教えは電光石火のようなもの、誰も追い切れないが、そもそもそんな言葉には意味などなかったのだ、と言います。 それに対し、仰山は言います、表向きには誰も通さないが、裏ではこっそりと馬も車も通り抜けています。 言葉の上での厳しさはあっても、通り抜ける術はあるものだ。 そう言っている
明化は臨済に、どうして歩き回っているのかと尋ねます。 臨済は、ただ歩いて草鞋をすり減らそうとしているだけです。 あるいは、ただ草鞋がすり減ってしまうまで歩いているだけです、ということかもしれません。 明化はさらに問います。 それはどういうことか、と。 臨済はそれに答えるのではなく、ただつぶ
臨済は凡でもなく聖でもないところを象田に尋ねます。 それに対し象田は、まあ自分は見たままの、このままのものだよ、と答えます。 臨済は一喝して、ここに集まっている僧たちは、象田から何を学ぼうとしているのか、と言います。 その言葉の意味は、何通りかに解釈できるかと。 ここには学ぶべきものはない。
翠峰の問いかけに対して、臨済は、黄檗には特別な言葉などありません、と答えます。 そうだとしても、何か言ってごらんと翠峰はさらに問いかけます。 それで、臨済は、矢のように、あっという間に西に向かって飛び去った。 もうここには痕跡も残っていないのだ、と言います。
とても短いやり取りの中で、華厳和尚と臨済はお互いの力量を計りあっています。 そしてそれぞれを認めているのでしょう。 臨済録の中に出てくる人たちは、懸命に経典を読むことよりも、むしろ居眠りをするような状況を評価しているようです。 そこから私たちはどのようなことを読み取るべきでしょうか。
大慈和尚は臨済に答えて言います。 冬の寒さの中でも松は変わらず、千年経とうとも他のものとは同じではない。 しかし、世の中も春ともなれば、老人は花を手にもて遊ぶのだ。 それは大慈和尚のそのままの現状を言ったものかもしれません。 それに対して臨済は言います。 古くから完成された知恵といわれてい
臨済は、師である黄檗の教えを、その痕跡を見ることもできない、と言います。 それは形を変え、臨済自身の中に流れ込んだものということかもしれません。 黄檗の教えが、笛に流れ込む爽やかな風であれば、きっと清々しい音を出すはず。 その笛の音を聞いている者はどこにいるのか、と平和尚は尋ねます。 その問
剣先を交えることなく勝ちを得るにはどうしたらよいか、どうかその方便を示してほしい。 臨済はそう問います。 それに対して龍光は剣で相手に切り掛かるときのかけ声を発します。 咄嗟の方便ではなく、追い詰められたときに発する一声のように聞こえます。 臨済は遠慮することなく言います。 龍光は負けた、
住職は、仏陀のお墓に礼拝しますか、それとも祖師のお墓を先にしますか、と聞きます。 臨済は、どちらにも礼拝しない、と言って、立ち去ってしまいます。 では臨済は何をしにそこに行ったのでしょうか。 仏教や禅の修行者を縛り付けているものの張本人たちを確認しに行ったのかもしれません。 そして、それらの
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