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2021/07/05

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  • 猪狩山城 美濃 二つの立体図を比較して楽しむ

    猪狩山城は岐阜県恵那市笠置町姫栗にあります。木曽川の重要な渡河地点を挟んで、対峙した勢力が猪狩山城と久須見城に拠って戦ったとされます。猪狩山城は木曽川に突き出した比高が200mを超える急峻な尾根上を削平して築かれ、北側の切山方向からの道が唯一残されていました。木曽川にダムが造られ、イカダ流しが行われなくなり、昔の渡船場付近に笠置橋ができ、今は車で切山方面に車で行けるようになりました。今回の参考資料は(1)「信濃をめぐる境目の山城と館美濃・飛騨・三河遠江編」宮坂武男2015(2)「岐阜県中世城館跡総合調査報告書第三集」岐阜県教育委員会2004(3)「笠置村誌」笠置村教育会1938などです。猪狩山城木曽川には橋は無く渡河地点は限られていた猪狩の地名は、イノシシが多く生息し、食用として捕獲したところからきている...猪狩山城美濃二つの立体図を比較して楽しむ

  • 平谷城 伊賀 土塁が完存し虎口構造が興味深く 見学し易い城郭

    ★gooblog終了の為HatenaBlogへお引越しします。引き続きよろしくお願いいたします。※引っ越し先は→こちら平谷(ひらたに)城は三重県伊賀市柘植町にあります。城主は不詳ですが、浜地氏城の出城といわれます。伊賀地方に多い単郭の土塁囲みの城跡で土塁がほぼ完存状態で見ごたえありでした。虎口付近の遺構は独特で、櫓台状の構造がありました。今回の参考資料は(1)「三重の中世城館」三重県教育委員会1976(2)「伊賀の中世城館」伊賀中世城館調査会1997などです。※浜地氏城は→こちら平谷城柘植の地区を領した浜地氏の出城は複数だった資料(1)によると、倉部を中心に周辺地区を領した有力豪族の浜地氏の出城は平谷城や北谷東城など複数あったとされます。平谷城立体地形でも、土塁囲みの構造がほぼ見て取れる常用のソフト、カシ...平谷城伊賀土塁が完存し虎口構造が興味深く見学し易い城郭

  • 滝川西城 近江 その2 滝川城と一体で櫟野川を堀として西方の守りを担った堅固な城郭

    ★gooblog終了の為HatenaBlogへお引越しします。引き続きよろしくお願いいたします。※引っ越し先は→こちら滝川西城は甲賀市甲賀町櫟野にあります。その1では、主に往時の遺構と後世の耕作地化による改変、農作業道による改変に注目しましたが、その2ではその他の遺構も見ていきたいと思います。今回の参考資料も「甲賀市史第七巻甲賀の城」甲賀市史編さん委員会編2010などです。その1は→こちら滝川西城滝川城とセットで西方向に備え南の油日への道も抑える位置に占地北に突き出した尾根に築かれた滝川城と滝川西城は、北側を乱流した櫟野川に北端部を削られ、高低差約15m近くの急角度の崖状になった地形を活かしているようでした。滝川西城国土地理院地図をの1mメッシュをカシミール3Dで加工スーパー地形で国土地理院の1mメッシュ...滝川西城近江その2滝川城と一体で櫟野川を堀として西方の守りを担った堅固な城郭

  • 滝川西城 近江 その1 滝川城と一体で櫟野川を堀として西方の守りを担った堅固な城郭

    滝川西城は甲賀市甲賀町櫟野にあります。小さな谷を挟んだ東側には滝川一益が在城したゆかりの城・滝川城があり、北側を流れる櫟野川を堀として、滝川城とセットで西方への守りと、南の油日方面への主要な街道を抑える城郭だったと思われます。主な城郭遺構はほとんど残っていましたが、後世の耕作地化で一部の遺構の改変があったようです。今回の参考資料は「甲賀市史第七巻甲賀の城」甲賀市史編さん委員会編2010などです。※滝川城は→こちら滝川西城滝川城に隣接した尾根先端部にあり付近には甲賀の大寺櫟野寺がある東の方向は鈴鹿山地に遮られているため、西への備えに重点が置かれたようで、北側の櫟野川を堀に見立て、急な切岸と曲輪の周囲に築かれた土塁で守りを固めていたように見えました。滝川西城国土地理院地図をの1mメッシュをカシミール3Dで加工...滝川西城近江その1滝川城と一体で櫟野川を堀として西方の守りを担った堅固な城郭

  • 鯉山砦 遠江 千頭峯城の目の砦と称され 徳川軍が築いたとされる

    鯉山砦は静岡県浜松市北区三ヶ日町にあります。主城である千頭峯城の南方約1kmの地点にあり、千頭峯城からは見えない南側の浜名湖や主要な街道を見下ろすことが出来ることから「千頭峯城の目の砦」と称されたようです。主郭とされるⅠ郭のある主要部から延びる尾根上には、兵が駐屯したと考えられる長大な自然地形に近い平坦地が続き、要所に尾根を断ち切る堀切が設けられていました。今回の参考資料は(1)『静岡県の中世城館跡』静岡県教育委員会1978(2)『静岡県の中世城館跡中世城郭縄張図集成』静岡古城研究会2022などです。鯉山砦摩訶耶寺北の千頭峯城からは見えない浜名湖や眼下の街道を見張ることが出来る千頭峯城からは見ることが出来ない南側の浜名湖や本坂街道、宇利道などを見ることが出来る絶好の地点に鯉山砦は設けられ、当初は今川氏配下...鯉山砦遠江千頭峯城の目の砦と称され徳川軍が築いたとされる

  • 藤城 美濃 長大な土塁が見どころ 主要道の結節点を抑える城だったか

    藤城(ふじじょう)は岐阜県恵那市武並町藤にあります。藤は地名で、古くは布志といっていたようです。城歴、城主は不詳で城郭遺構としての地形も不鮮明でしたが、土塁と伝えられる長さ90m程の土塁地形と、土塁造成のために掘り上げたと思われる堀切地形が見どころでした。周囲には白垣外、土居外などの地名が残ります。中山道と木曽川の中間点に当たる場所で、主要な道の結節点でもあるので、道を抑える場所に築かれた可能性も感じました。今回の資料は(1)「信濃をめぐる境目の山城と館美濃・飛騨・三河遠江編」宮坂武男2015(2)「恵那市史恵那のむかしばなしとうた」恵那市教育委員会編1974(3)「岐阜県中世城館跡総合調査報告書第三集」岐阜県教育委員会2004などです。藤城刈安城の北部に位置し木曽川方面の守りの役割もあったか刈安城は建武...藤城美濃長大な土塁が見どころ主要道の結節点を抑える城だったか

  • 明見A(仮称)は城跡か? その2 明見茶臼山城(仮称)と名付けられた

    明見茶臼山城(仮称)は愛知県岡崎市明見町にあります。その1では明見A(仮称)として紹介しましたが、専門知識豊富な2名の研究者の方に現地を見ていただき、城跡の可能性があるという見解を示していただき、存在する山の名称から明見茶臼山城と名付け、現時点では(仮称)とされました。今回の資料も(1)マップあいち森林情報マップの微地形図(赤色立体地図)(2)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994(3)「奥平氏と額田」額田町教育委員会2005(4)「岡崎市東部遺跡詳細分布調査報告書」岡崎市教育委員会2010などです。※その1は→こちら明見茶臼山城(仮称)明見地区には奥平氏にまつわる遺構と伝承が豊富のある明見地区は奥平氏が武田氏に決別して、作手地区から移った場所で、奥平氏の伝承や遺構等が豊富ですが、明見茶臼...明見A(仮称)は城跡か?その2明見茶臼山城(仮称)と名付けられた

  • 明見A(仮称)は城跡か? その1 赤色立体地図の地形を現地で確認する

    明見A(仮称)は愛知県岡崎市明見町にあります。マップあいち森林情報マップの微地形図(赤色立体地図)で滝山城を見ていると、偶然付近に山城跡状の地形がありました。手持ちの資料ではここに山城があると確認できませんでしたので現地で確認をしました。今回の資料は(1)マップあいち森林情報マップの微地形図(赤色立体地図)(2)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994(3)「奥平氏と額田」額田町教育委員会2005(4)「岡崎市東部遺跡詳細分布調査報告書」岡崎市教育委員会2010などです。今回はとりあえず仮称を「明見A」としました。明見A(仮称)明見地区は奥平氏関連の旧蹟が多数残る武田氏と決別して作手を立ち退いた奥平氏は、明見地区に移り武田氏の追撃を滝山城で迎え打って撃退したと伝わり、その時武田軍が陣したのが...明見A(仮称)は城跡か?その1赤色立体地図の地形を現地で確認する

  • 伊勢・松阪城 田丸城と周辺史跡 東海古城研究会の見学会が行われました

    令和7年3月16日(日)東海古城研究会の日帰りバス見学会が行われました。見学ルートはJR金山駅→松阪城→松阪城御城番屋敷→松ヶ島城→田丸城→JR金山駅でした。途中で雨に降られましたが松阪城と田丸城では見事な石垣を堪能できました。松阪城表門への道松阪の地名は以前松坂と松阪が混在していましたが、混乱を避けるため松阪に統一したようです。古い資料では松坂となっている場合が多いようです。松阪城見事な高石垣石垣は何度も積みなおしが行われているようですが、おかげで見事な高石書きを今も見ることが出来ました。松阪城石垣のオンパレード松阪城は大規模な城郭ではありませんが、入り組んだ石垣が組み合わさった複雑な構造の石垣を楽しむことができました。松阪城御城番屋敷現存する武家屋敷としては最大規模を誇る国指定重要文化財の武家屋敷で、...伊勢・松阪城田丸城と周辺史跡東海古城研究会の見学会が行われました

  • 浜地氏城 伊賀 土塁の規模に驚く柘植地区の有力土豪の城

    浜地氏城は三重県伊賀市柘植町にあります。浜地氏は柘植地区の倉部を領した有力土豪で、浜地氏城を本城として周囲には平谷城・北谷東城・北谷西城・宮の前城が築かれていました。天正伊賀の乱には柏野城に立てこもったとされます。今回の参考資料は(1)「三重の中世城館跡」三重県教育委員会1976(2)「日本城郭大系第10巻」平井聖[ほか]編集1980などです。※柏野城は→こちら浜地氏城付近には伊賀の有力土豪の城館が多数伊賀は地域ごとに有力土豪が割拠し、織田信雄の伊賀侵攻時には結束して対抗しましたが第二次天正の乱で敗北し織田氏の侵攻を許しました。※福地氏城は→こちら福地氏城館は→こちら浜地氏城主郭は自然地形を生かした大規模な土塁と堀で囲まれている主郭(Ⅰ郭)の東側と北側には大規模な土塁と堀が残っていますが、南側と西側は高低...浜地氏城伊賀土塁の規模に驚く柘植地区の有力土豪の城

  • 広見城 三河 東海古城研究会 2月の城郭見学会が行われました

    東海古城研究会の広見城見学会が2月16日(日)に行われました。広見城は愛知県豊田市に在り市内最大級の山城で東西約400m南北約300mの規模を誇ります。今回の見学会ではその城郭遺構を2時間かけて、隅々まで徹底見学して山城を堪能し、不明とされる礎石の用途なども考えるのがテーマでした。当ブログでは広見城その1~その4として掲載していますが、一般の見学では、規模の大きさ故に登城口から主郭までの見学で終わる場合が多いようです。登城口広場に立つ案内板の縄張図地元の「保見の歴史を伝える会」の皆さんによって、見学路の整備、落ち葉の除去などが事前に行われていたため、スムーズに見学ができました。見学会当日にも、伝える会の皆さんの参加がありました。2時間チョットで城域全体の遺構を見学できました。以前見学したことのある参加者か...広見城三河東海古城研究会2月の城郭見学会が行われました

  • 杉本参考地は城跡か その2 赤色立体地図で発見? 縄張図も描かれた

    杉本参考地は愛知県豊田市杉本町にあります。その1では赤色立体地図で現地確認をしましたが、山城跡らしさの確認はできましたが断定は難しかったです。その2では城郭遺構や歴史に詳しい研究者の方に現地の確認をしていただくとともに縄張図を描いていただきましたので紹介したいと思います。※その1は→こちら杉本参考地赤色立体地図で山城のような地形を発見現地確認で、それらしい地形は確認できましたが山城跡と断定するのは難しく、専門的な知識をお持ちの方々の見解もお聞きし、現地確認もしていただきました。杉本参考地参考地は旭中学校に隣接した東西尾根上にある。縄張図の作図は、東海古城研究会の会員でもある歴史と城郭に詳しい研究者の山崎裕太さんです。この場所を「杉本参考地」と名付けていただきました。杉本参考地縄張図の中心部を抜粋山崎裕太さ...杉本参考地は城跡かその2赤色立体地図で発見?縄張図も描かれた

  • 杉本参考地は城跡か その1 赤色立体地図で発見? 縄張図も描かれた

    杉本参考地は愛知県豊田市杉本町にあります。マップあいち(愛知県統合型地理情報システム)のWebsiteで昨年公開された「森林情報マップ」の微地形図(赤色立体地図)で同地区の大垣内城、源重城を確認していると、両城の間にいかにも山城状の地形がありました。杉本参考地付近にはいくつもの山城がある杉本参考地赤色立体地図に表れた山城に見える地形手持の資料には載っていない、いかにも山城に見える地形です。耕作地跡、寺院跡などの場合も多いので新発見の山城跡と安易に言うことはできないと思います。赤色立体地図の解像度には限界がありますが、帯曲輪状の5堀切と土橋に見える4、4’とAなどの地形が在りますので、現地で確認してみました。杉本参考地地形5西から左上に地点1地点1を取り巻く地形5は帯曲輪状の地形で切岸は高さが3m近くありま...杉本参考地は城跡かその1赤色立体地図で発見?縄張図も描かれた

  • 東海古城研究会 3月の城郭見学会の案内ハガキが届きました

    東海古城研究会が3月に行う見学会の案内ハガキが届きました。今回はバスによる一日コースです。非会員の方は会の公式「X」https://x.com/TokaikojoのDM又はGooogleフォームから問合せ、申し込みが出来ます。当ブログのPC版ブックマークからもリンクが貼ってあります。東海古城研究会3月の城郭見学会の案内ハガキが届きました

  • 桜城 信濃 諏訪下社大祝の城 後に武田氏によって大きく改修された山城

    桜城は長野県諏訪郡下諏訪町にあります。諏訪大社下社の大祝金刺氏の居館・神殿(ごうどの)に付属した城として古くに築かれた山城ですが、今見る姿は後に武田氏の支配下で大きく改修が行われたとされます。近年の公園化や耕作地化により改変を受け一部の遺構の原形が失われたようですが、規模の大きな堀切や竪堀を堪能することが出来ました。今回の参考資料は(1)「信濃の山城と館6」宮坂武男著2013(2)ひなたGIS長野県CS立体図などです。桜城大祝・金刺氏の居館神殿(現下諏訪中学校)のいわゆる詰城として築かれた桜城は眼下に甲州街道と中山道が見下ろせる場所に占地し、山下の居館・神殿や諏訪湖も一望できる好立地でした。桜城Ⅰ郭(主郭)の展望台からの眺望は素晴らしいⅠ郭には展望台が設けられていて、眼下の街並みや居館のあった神殿(現下諏...桜城信濃諏訪下社大祝の城後に武田氏によって大きく改修された山城

  • 舟ヶ谷の城山 遠江その2 採土消滅の遺構を想像しながら多数の堀切遺構を見学

    舟ヶ谷の城山は新野新城ともいわれ静岡県御前崎市新野篠ヶ谷字舟ヶ谷にあります。今回はその2です。最高所の本曲輪と周辺は昭和50年代に大規模な採土によって消滅したようですが、採土以前に踏査した資料(1)によって、失われた部分を想像しながら多数の城郭遺構を見学することが出来ました。今回の資料は(1)『静岡県の中世城館跡』静岡県教育委員会編1978(2)「静岡県の城跡中世城郭縄張図集成(西部・遠江国版)」静岡古城研究会2022などです。舟ヶ谷の城山その1は→こちら舟ヶ谷の城山八幡平の城を新野古城舟ヶ谷の城山を新野新城とも云う資料(2)によると、武田軍の支配した時期には篠ヶ谷城、八幡平の城、篠ヶ谷砦が一体となって武田軍の策源地となっていたとされます。3か所は近距離にあり尾根伝いでの行き来が可能だったのでしょうね。※...舟ヶ谷の城山遠江その2採土消滅の遺構を想像しながら多数の堀切遺構を見学

  • 舟ヶ谷の城山 遠江その1 採土消滅の遺構を想像しながら多数の堀切遺構を見学

    舟ヶ谷の城山は新野新城ともいわれ静岡県御前崎市新野篠ヶ谷字舟ヶ谷にあります。今川系新野氏が支配したが、後に高天神城の攻防戦に際して武田軍によって大改造されたと考えられています。最高所の本曲輪と周辺は昭和50年代に大規模な採土によって消滅したようですが、採土以前に踏査した資料によって、失われた部分を想像しながら見学することが出来、尾根上の興味深い遺構、多数の堀切を堪能することができました。今回の資料は(1)『静岡県の中世城館跡』静岡県教育委員会編1978(2)「静岡県の城跡中世城郭縄張図集成(西部・遠江国版)」静岡古城研究会2022などです。舟ヶ谷の城山南北に延びる細尾根を南から登り本曲輪に達する城道は尾根の南端部から要所に障害地形を設けた細尾根を250m以上登り本曲輪に達します。付近には八幡平の城、釜原城...舟ヶ谷の城山遠江その1採土消滅の遺構を想像しながら多数の堀切遺構を見学

  • 霧山白山城 三河 七里街道を扼する山上の城郭 多数の大岩も見どころ

    霧山白山城は愛知県豊田市霧山町字高山にあります。信州からやってきた松山氏が城主とも言われますが詳細は不明のようです。比高150mの単独峰に幾段もの帯曲輪状地形、畝状竪堀など興味深い遺構が残り、地山の多数の大岩を取り込んだ城域が見ごたえありの山城でした。今回の参考資料は(1)「足助の中世城館」足助町教育委員会2001(2)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994などです。霧山白山城かつては巴川沿いの道はなく七里街道がメインの街道だった今は巴川沿いに道路が敷設されましたが、往時は七里街道が松平地区と足助地区を結ぶ主要な街道だったようです。城はこの街道を見下ろす高所にあり山下の白山神社から山上の奥宮への参道が城道と重なる部分が多そうです。霧山白山城白山神社から奥宮までの参道をたどって見学する城の名...霧山白山城三河七里街道を扼する山上の城郭多数の大岩も見どころ

  • 伊勢 四日市の古城と史跡を訪ねて 東海古城研究会の見学会が行われました

    1月19日(日)に東海古城研究会の四日市の古城と史跡をめぐる見学会が、あすなろう鉄道の1DAYフリー切符を利用して行われました。近鉄四日市駅に集合し、特殊狭軌線・ナローゲージのあすなろう鉄道を利用して采女城→日永の追分→赤堀城→浜田城を巡りました。まずは、あすなろう鉄道で四日市駅から終点の内部駅に向かいます。采女城見学路入口に立つ案内板の案内図赤線が見学路采女城は規模の大きな平山城で、すべての城郭遺構をジックリ見学するためには半日必要と思われますが、見学会では案内板の見学ルートで見学しました。采女城見学路入口には冠木門が新設された入口には近年新設された冠木門がありました。往時にあったかどうか?ですが、城郭見学に対する演出ということでしょうね。案内板には地方豪族の後藤氏の城となっていましたが、この規模は後の...伊勢四日市の古城と史跡を訪ねて東海古城研究会の見学会が行われました

  • 東海古城研究会 2月の城郭見学会の案内ハガキが届きました

    東海古城研究会の2月度の城郭見学会の案内ハガキが届きました。今回の見学先の三河・広見広見城は、愛知県豊田市広幡町にあり、豊田市内最大級の山城ですので、当ブログで何度も取り上げています。※非会員の方の問い合わせ・参加申し込みは東海古城研究会公式「X」からできます。※これまでの当ブログの広見城その1その2その3その4◆山城好きの方は是非お気軽にどうぞ!東海古城研究会2月の城郭見学会の案内ハガキが届きました

  • 鬼場城 信濃 何条もの大堀切が見どころ 上原城との関連は

    鬼場城は長野県茅野市にあります。築城年代、築城者は不明のようですが、諏訪の雄族諏訪氏の支族矢ヶ崎氏との関連が考えられるようで、矢ヶ崎氏の上原城とは山道での連絡が容易だったとされます。今回の参考資料は(1)「信濃の山城と館6」宮坂武男著2013(2)長野県立歴史館所蔵「宮坂武男城郭鳥瞰図」などです。※宮坂武男氏の鬼場城鳥瞰図は長野県立歴史館のホームページで見ることが出来ます。鬼場城直下を大門街道が通る資料(1)によれば、武田氏の諏訪進出により、鬼場城は武田氏によって齢松山城とともに大きく改修され大門街道などの多数の街道の結節点を見下ろす重要な拠点となっていたとされ、狼煙の中継点でもあったようです。※今回の見学では、城山団地の城山区公民館に車を止め、城域北部から入りました。※齢松山城は→こちら鬼場城城域東側の...鬼場城信濃何条もの大堀切が見どころ上原城との関連は

  • 三河・長篠城から岡崎城へ鳥居強右衛門勝商が救援を求めて往復した道 その5 桜井寺街道

    天正三年五月武田勝頼の大軍に包囲された長篠城の籠城将兵400人は次第に追い詰められ、鳥居強右衛門が単身夜陰に紛れて長篠城を脱出し、岡崎城の信長・家康に救援を訴え取って返したと伝わります。この決死の脱出行と味方に朗報を届けて死に至るいきさつが戦国の世で敵の将兵にも武士の鑑として賞賛され、強衛門の磔の図が武田の武将の背旗に描かれ今に伝わりました。当ブログでは強右衛門が駆け抜けた道をその1その2その3その4とたどってきましたが、今回はその5として、桜井寺街道の道を地図でたどります。今回の参考資料は(1)「生平のむかし」城殿輝雄町1984(2)「奥平氏と額田」額田町教育委員会2005(3)2万分の1国土地図明治23年ごろ測図下図などです。※その1→こちらその2→こちらその3→こちらその4→こちら『落合左平次道次背...三河・長篠城から岡崎城へ鳥居強右衛門勝商が救援を求めて往復した道その5桜井寺街道

  • 六呂木城 伊勢 和歌山街道の古道を抑える城郭か 今は果樹園で改変がある

    六呂木城は三重県松阪市六呂木町のあります。城主は六呂木氏と伝わり、城域はミカン園に開墾され、往時の遺構はかなり改変されていました。城址の東下には五箇篠山城に通じる古道が通っていましたので、街道を抑える役割があった城の可能性がありそうです。六呂木城は天正期に五箇篠山城の北畠具親に与して、侵攻する織田軍との戦いに敗れたと伝承されます。今回の参考資料は(1)「松阪の城50選」松阪の城50選編集委員会編2019(2)「三重の中世城館」三重県教育委員会1976(3)三重県埋蔵文化センター小片野新田遺跡発掘情報などです。六呂木城小片野城とセットで和歌山街道の古道を抑えていたか資料(3)には小片野城と古道が示されており、六呂木城とセットで古道を抑え、南下する織田軍に備えていたのではないかと想像しました。六呂木城和歌山街...六呂木城伊勢和歌山街道の古道を抑える城郭か今は果樹園で改変がある

  • 東海古城研究会の1月見学会 案内ハガキが届きました

    2025年1月19日(日)に行われる東海古城研究会の案内ハガキが届きました。ベテランから入門者の方まで楽しめる半日コースの見学会で「非会員の方の参加OK!」。東海古城研究会の公式「X」(旧Twitter)のDM又はGoogleフォームから問い合わせ、申し込みが出来ます。※公式「X」は→こちら采女城は城域が広く、興味深い遺構も多いので今回の見学会でどこまで見ることが出来るか楽しみです。◆会費は当日、現地での支払いになっています。東海古城研究会の1月見学会案内ハガキが届きました

  • 望月青木城 柑子集落の入口を守る望月村嶋城の支城か

    望月青木城は滋賀県甲賀市甲南町柑子(こうじ)にあります。望月村嶋城主望月重元の次男、重武の居城とされ、柑子集落の入口に当たる尾根の北端部に築かれ、望月村嶋城を守り、集落への侵入に備えた出丸的な位置付けだった可能性がありそうでした。今回の参考資料は(1)「甲賀市史第七巻甲賀の城」甲賀市史編さん委員会編2010と現地案内板などです。望月村嶋城は→こちら望月青木城周囲には甲賀の集落ごとに小領主の領地と城が見られる望月村嶋城の周囲にはいくつもの城址が残り、小領主が割拠していたようで、望月青木城は望月村嶋城のある柑子集落の北側の入口を守る位置に在りました。望月青木城城域は尾根の北端部から南側の尾根に展開していた望月村島城から北に延びる尾根の先端部に主郭Ⅰを中心にした城郭遺構が集中し、南側の尾根に平場が延びていました...望月青木城柑子集落の入口を守る望月村嶋城の支城か

  • 久須見城 美濃 「滝坂の渡し」に通じる峠道を抑えるシンプルだが良好に遺構が残る城郭

    久須見城は岐阜県恵那市長島町久須見にあります。松尾左京が城主であったと伝承されますが、詳細は不明のようです。木曽川の渡しに通じる主要な道の峠の切通道を抑える重要な役割があったものと思われます。木曽川は上流で切り出した材木を、いかだ流しで下流に運ぶため、障害となる橋が架けられていなかったので、道は「滝坂の渡し」で木曽川を渡っていたようです。今回の参考資料は(1)「信濃をめぐる境目の山城と館美濃・飛騨・三河遠江編」宮坂武男2015(2)「岐阜県中世城館跡総合調査報告書第三集」岐阜県教育委員会2004などです。久須見城下流に笠置ダムが建設され渡船場は水の底代わりに笠置橋が出来た往時は木曽川を挟んだ南北が別の勢力圏で、滝坂の渡しは重要な結節点だったと思われます。このため久須見城は東側の滝坂の渡しに通じる峠道を監視...久須見城美濃「滝坂の渡し」に通じる峠道を抑えるシンプルだが良好に遺構が残る城郭

  • 小畑城 三河 武田軍の侵入路を扼する山城か? 興味深い遺構が多く残りが良好

    小畑城は愛知県豊田市小畑町字城平にあります。小畑の読みは資料によって異なりこばた、おはた、こはた、があり烏城の別称もあるようです。小畑の集落からの比高が160mの山上に築かれ元亀年間の武田氏の侵入に備えて、周辺の複数の領主が立てこもったと伝わり、遺構の形態は意外に複雑で興味深いものでした。今回の参考資料は(1)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994(2)「藤岡・小原・旭の中世城館」愛知県中世城郭研究会1993などです。※槙本城その1は→こちら小畑城道abCから武田軍の東からの侵入が考えられる地区最大の城郭は槙本城道aは現在の地図には載っていませんが、明治の地図では確認出来、峠のd地点に切通道が残っていました。城域周辺には近年の林道が幾本も敷設され、城域に達する林道fもありました。道b→道a...小畑城三河武田軍の侵入路を扼する山城か?興味深い遺構が多く残りが良好

  • 穴ヶ谷城 遠江 その2 茶畑で一部改変されたが残された遺構が意外に多い

    穴ヶ谷城は静岡市牧之原市中字穴ヶ谷にあります。その1では見学路周辺と城域東側の遺構を見学しましたが、その2では城域中心部と西側の城域の城郭遺構を見学したいと思います。今回の参考資料も(1)『静岡県の城跡西部・遠江国版」静岡県の城跡編集委員会2022(2)『静岡県の中世城館跡』静岡県教育委員会1978(3)VIRTUALSHIZUOKA静岡県中・西部点群データ(4)ひなたGIS静岡県CS立体図などです。※その1は→こちら穴ヶ谷城小仁田薬師堂から登ります今は放棄された茶畑が稼働していた時に軽トラの道として使われていたと思われる道を見学路として城域目指して登ります。穴ヶ谷城曲輪➀および②の表面は茶畑として造成された今は茶畑の利用は放棄され、茶ノ木が伸び放題となり、足を踏み入れるのも困難な状態でしたが、周辺部には...穴ヶ谷城遠江その2茶畑で一部改変されたが残された遺構が意外に多い

  • 穴ヶ谷城 遠江 その1 茶畑で一部改変されたが残された遺構が意外に多い

    穴ヶ谷城は静岡市牧之原市中字穴ヶ谷にあります。文明年間に勝間田十郎政次の城だったが廃城となったとされてきましたが、近年の研究で天正期の武田・徳川の争いの中で改修を受けた可能性が考えられるようです。遠江の山城は近年の茶畑の開発によってその遺構の多くが失われてしまいましたが、穴ヶ谷城も茶畑の開発が行われている為、あまり期待せずに見学に出かけましたが、意外に多くの城郭遺構が明確に残されていました。今回の参考資料は(1)『静岡県の城跡西部・遠江国版」静岡県の城跡編集委員会2022(2)『静岡県の中世城館跡』静岡県教育委員会1978(3)VIRTUALSHIZUOKA静岡県中・西部点群データ(4)ひなたGIS静岡県CS立体図などです。穴ヶ谷城長興寺は勝間田十郎政次が開基とされる東名高速道路が城域の北側通を通っている...穴ヶ谷城遠江その1茶畑で一部改変されたが残された遺構が意外に多い

  • 「城」第236号が届きました。

    東海古城研究会の機関紙「城」の第236号が発刊されて届きました。「城」は会員には無料で届き、会員の投稿も無料で掲載されます。今号では村瀬二郎さんのボールペン画の和歌山城が巻頭を飾っています。石田章さんの縄張図奮闘記は、精緻な縄張図を描き続けた締めくくりとして作図の道具の紹介と、これまで描き貯めた縄張図の内から厳選して13点が一挙掲載されています。石川浩治さんは、所在に諸説があった笠松町の田代城の位置の特定についての論考で、誤った情報がネットで流布・拡散されることへの警鐘も鳴らしています。高橋陽介さんは、「関ヶ原の戦いは無かった」説を発表して話題となっていますが、今回はそれにまつわる最新の諸説を比較検証し論考を加えた興味深い論文です。水野誠志朗さんと後藤正さんの「桶狭間の戦い」は、たまたま同一号に併載された...「城」第236号が届きました。

  • 尾張 物見山と塔山城を訪ねる 東海古城研究会の見学会が行われます

    2024年12月東海古城研究会の見学会の案内ハガキが届きました。今回は現地集合での見学会で、各自集合場所にお弁当を持って集合する企画です。下記に、案内ハガキを抜粋して掲載しました。参加申し込みの締め切りが12月9日(月)となっています。◆申し込み、問い合わせは東海古城研究会の公式「X」からできます。公式「X」は→こちらなお「申し込みの際は必ず車参加或いは交通機関参加予定のいずれかを申告してください。」と注意書きがあります。※駐車場からの距離が少しありそうですので、やや健脚向きかもしれませんね。尾張物見山と塔山城を訪ねる東海古城研究会の見学会が行われます

  • 信貴山城 大和 松永久秀が平蜘蛛の釜と一緒に爆死した伝説の残る大規模城郭 東海古城研究会の見学会で訪れました

    信貴山城は奈良県生駒郡平群町信貴山にあります。当初木沢長政によって築かれましたが、木沢長政が敗死後に松永久秀が入り、大規模城郭に改修・拡張されたと伝わります。東海古城研究会の日帰りバス見学会で訪れました。規模の大きな山城で、名古屋から往復約6時間もかかるため、見学時間の制限があり城域の主要部の見学となりました。今回の参考資料は(1)見学会当日資料(2)現地案内板(3)現地パンフレットなどです。信貴山城Aでバスを降り緩やかな道aを歩いて城域に向かう鳥獣戯画で有名な朝護孫子寺から登る道Cは急な階段が続く厳しい道なので、緩やかな登りの道aで城址に向かいました。道aは後世に整備された軽トラが通れる道で山頂の空鉢堂(くうはつどう)まで続いていました。諸国古城之図に「大和磯城(しきじょう)」として掲載されている信貴山...信貴山城大和松永久秀が平蜘蛛の釜と一緒に爆死した伝説の残る大規模城郭東海古城研究会の見学会で訪れました

  • 平尾城 伊勢 道路で分断された名門千種氏の城 意外に残る遺構を楽しむ

    平尾城は三重県四日市市平尾町にあります。南北朝期に後醍醐天皇の元で活躍した千種忠顕の子孫で、一帯を領していた千種城の千種常陸守忠治が築城したと伝わります。城域は近年の道路敷設で主郭部分を貫通した道路によって消滅した部分がありますが、残された城郭遺構は意外に興味深く見学できました。今回の参考資料は(1)「三重の中世城館跡」三重県教育委員会1976(2)「再発見北伊勢国の城」伊藤徳也著2008などです。※千種城は→こちら平尾城三滝川の沖積地の段丘崖を背景にした北に向かって構えた城郭平尾城の西側を流れる三滝川に削られた段丘上に城址はあり、北西約7㎞にある千草城と連携してさらなる勢力拡大に備えたのではないかと想像しました。平尾城北東方向から見ると、平城で道路が貫通している近年敷設された道路が見事に貫通して、城郭遺...平尾城伊勢道路で分断された名門千種氏の城意外に残る遺構を楽しむ

  • 砕導山城 若狭その3 後に神社が置かれた三つの曲輪群を見学する

    砕導山城は福井県高浜町にあります。砕導山は「さいちやま」と読みます。その1では天王山曲輪を中心に、その2では千丈ヶ嶽曲輪を見学しました。今回は後世に社寺が祀られた愛宕宮曲輪、妙見宮曲輪、佐伎治宮曲輪を見学します。曲輪の名称は近年の命名と思われ砕導山城跡保存会のパンフレットに準拠しています。参考資料は(1)見学会当日資料(2)高浜町郷土資料館提供の当日資料(3)「福井県史通史編2(中世)」福井県編1994(4)砕導山城跡保存会のパンフレットと資料などです。※砕導山城その1は→こちら※その2は→こちら砕導山城愛宕宮曲輪と妙見宮曲輪には社殿があるが佐伎治宮曲輪は更地現況の三つの曲輪は小規模のように見えましたが、資料(2)の縄張図によると、愛宕宮曲輪と妙見宮曲輪の周囲アとイには尾根を断ち切る二重の堀切があり、ウに...砕導山城若狭その3後に神社が置かれた三つの曲輪群を見学する

  • 砕導山城 若狭 その2 千丈ヶ嶽曲輪は広大な曲輪群の中心部か 東海古城研究会の見学会で訪れました

    砕導山城は福井県高浜町にあります。砕導山は「さいちやま」と読みます。その1では天王山曲輪を中心に見学しましたが、今回は曲輪群の中でも最大規模と厳重な守りの千丈ヶ嶽曲輪を見学します。以前は天王山曲輪周辺のみが砕導山城と認識されていましたが、近年に曲輪群が発見されたので、個々の城郭遺構を曲輪と呼ぶことになったのではないかと思います。今回も参考資料は(1)見学会当日資料(2)高浜町郷土資料館提供の当日資料(3)「福井県史通史編2(中世)」福井県編1994(4)砕導山城跡保存会のパンフレットと資料などです。※砕導山城その1は→こちら砕導山城赤色立体図城域は東西約900m南北約500若狭最大の城郭とされるその1では天王山曲輪の周囲を取り巻く「段切り」地形に注目しましたが、曲輪群で最大規模の千丈ヶ嶽曲輪では山城らしい...砕導山城若狭その2千丈ヶ嶽曲輪は広大な曲輪群の中心部か東海古城研究会の見学会で訪れました

  • 砕導山城 若狭 その1 広大な曲輪群と段切り遺構が見どころ 東海古城研究会の見学会で訪れました

    砕導山城は福井県高浜町にあります。砕導山は「さいちやま」と読みますが、難読ですね。今回は所属する東海古城研究会の日帰り見学会で、近くの高浜城も併せて見学しました。高速道路が出来ても、愛知県から若狭までバスで往復約6時間かかりますが、以前は1泊したとベテラン会員さんのお話でした。今回の参考資料は(1)見学会当日資料(2)高浜町郷土資料館提供の当日資料(3)「福井県史通史編2(中世)」福井県編1994(4)砕導山城跡保存会のパンフレットと資料などで、当日は保存会の方のガイドがありました。砕導山城若狭湾内の高浜湾には高浜漁港があり往時も良好な漁港だった高浜の港は漁港とし、漁師だけでなく魚を商売も盛んだったようで、逸見氏の戦いには漁師や商人も加勢したとされます。また軍港としても重要な拠点だったようです。砕導山城現...砕導山城若狭その1広大な曲輪群と段切り遺構が見どころ東海古城研究会の見学会で訪れました

  • 力尾城 伊勢 道路開削で一部の遺構が消滅したが残存部分だけでも楽しめる山城 ハチに注意!

    力尾城は三重県三重郡菰野町菰野字力尾にあります。城主は土方氏と伝わり、土方氏が菰野陣屋へ移った後、山下に土方氏の菩提寺として見性寺が創建されました。城域の遺構は南側にバイパス道路(306号)を敷設するため平成10、11年に発掘調査が行われ、そのご主郭に当たるⅠ郭は道路工事で消滅しましたがその他の遺構の多くはおおむね原形を残しているようでした。今回の参考資料は(1)「再発見北伊勢国の城」伊藤徳也著2008(2)「三重の中世城城館」三重県教育委員会1976(3)「力尾城跡発掘調査報告」三重県埋蔵文化財センター2001などです。※資料(3)は→こちらからダウンロード可能(約30MB)力尾城菰野陣屋へ移る前の土方氏の居館は山下の見性寺にあったか見性寺は土方氏の菩提寺として造営され、今でも立派な山門等が残り、城山の...力尾城伊勢道路開削で一部の遺構が消滅したが残存部分だけでも楽しめる山城ハチに注意!

  • 愛知県の赤色立体図が公開されました!

    東海古城研究会の公式「X」(旧Twitter)で愛知県の赤色立体図公開の情報が掲載されましたので早速見てみました。これまで近隣の岐阜県、静岡県、長野県の赤色立体図は公開されていましたが、愛知県の赤色立体図はありませんでした。今回の公開で、これまで見学した、これから見学する愛知県の山城を赤色立体図で見ることが出来るようになりワクワクです。参考例として、以前当ブログに掲載した愛知県豊田市の浅谷城の赤色立体図を見てみましょう。※東海古城研究会の公式「X」は→こちら※浅谷城は→こちら浅谷城カシミール3Dの3D画像では細かな地形の表現は難しい浅谷城赤色立体図細かな地形が表現され、城の立地と遺構配置が把握しやすい浅谷城概略の縄張図浅谷城手書きの概略図では描ききれていない細かな地形まで表現されている赤色立体図は細かな地...愛知県の赤色立体図が公開されました!

  • 鶴ヶ城 美濃 大堀切が見どころの鎌倉期に築城され戦国期まで改修が繰り返された山城

    鶴ヶ城は岐阜県瑞浪市土岐町鶴城にあります。鎌倉時代に土岐氏が築城したと伝わり、織田信長によって後に改修が行われたとされます。城の築かれた地山は砂岩の岩盤で、これを削り出した切岸が守りの要となっているようですが、背後の尾根を大きく掘り切った大堀切の規模は圧巻で見どころでした。土岐氏の時代には南東約2.5㎞にある土岐氏の居館である一日市場館の詰城だったともいわれます。今回の資料は(1)「岐阜県中世城館跡総合調査報告書第三集」岐阜県教育委員会2004(2)東海古城研究会会員さんの調査資料(3)「東美濃の山城」東美濃歴史街道協議会のパンフレットなどです。鶴ヶ城土岐氏の本拠地一日市場館が2.5㎞先に見える尾根上に占地されている資料(3)で鶴ヶ城と呼ばれるのは「縄張りが鶴翼を広げたように見えることから」とされますが、...鶴ヶ城美濃大堀切が見どころの鎌倉期に築城され戦国期まで改修が繰り返された山城

  • 杉谷城 伊勢 方形の曲輪が連続する信長狙撃で有名な萩原善住房が城主だったと伝わる城郭

    杉谷城は三重県菰野町杉谷にあります。善住房は居所から杉谷善住房とも呼ばれます。佐々木承禎に頼まれて千種越えをする信長を鉄砲で狙撃しましたが失敗し、後に捕らえられて鋸引きの刑に処せられたと伝わります。後世の耕作地化や宅地利用などで改変がありましたが、見どころの多い城郭遺構を見学することができました。今回の参考資料は(1)「三重の中世城城館」三重県教育委員会1976(2)「再発見北伊勢国の城」伊藤徳也著2008と国土地理院Webの地図・空中写真閲覧サービスなどです。※資料(1)は”三重の中世城城館”でWeb検索するとpdfファイルでのダウンロードができます(約18MBあり)。杉谷城付近には伊勢の有力豪族が割拠していた千種城、保々西城、田光城などには伊勢の優族が割拠していたようで、ほうけいの曲輪が連続する構造は...杉谷城伊勢方形の曲輪が連続する信長狙撃で有名な萩原善住房が城主だったと伝わる城郭

  • 仁木城 三河 その2 春日部氏の詰城として築かれ、家康による改修が行われた可能性がある山城

    仁木城は愛知県豊田市上仁木町にあります。今回はその2です。今回の参考資料も(1)「藤岡・小原・旭の中世城館」愛知県中世城郭研究会1993(2)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994(3)「小原の城郭」作図:千田嘉博小原村文化財保護委員会1993などです。城址位置の地図、城域全体図はその1をご覧ください。その1は→こちら仁木城Ⅰ郭を取り巻く土塁は全周を取り巻く石塁だった?現況はⅠ郭の土塁は全周を取り巻いていませんが、資料によってはほぼ全周を取り巻いていた、部分的に土塁を設けてなかった、などの見方があるようです。仁木城Ⅰ郭北辺土塁石積の土塁(石塁)だったか見どころです!Ⅰ郭の土塁は、かなり風化しているため往時の姿は不明確ですが、写真のように石積だったことが確認できる遺構もあり見どころでした。仁...仁木城三河その2春日部氏の詰城として築かれ、家康による改修が行われた可能性がある山城

  • 若狭 砕導山城と高浜城 東海古城研究会の見学会 案内ハガキが届きました

    東海古城研究会の10月度、日帰りバス見学会の案内ハガキが届きました。-----------以下案内ハガキ文面の一部----------------------------------------日程、費用などの案内と問い合わせ・申し込みの窓口は、東海古城研究会の公式「X」に掲載されていますのでご覧ください。→東海古城研究会の公式「X」砕導山城の赤色立体図高浜町公民館所蔵規模の大きな山城で見どころ豊富な砕導山城にワクワクです!若狭砕導山城と高浜城東海古城研究会の見学会案内ハガキが届きました

  • 仁木城 三河 その1 春日部氏の詰城として築かれ、家康による改修が行われた可能性がある山城

    仁木城は愛知県豊田市上仁木町にあります。春日部家綱が流浪の身となってこの地に居住し、小原一円を領有したと伝えられ、春日部の姓は後に春日井と改められ、ご子孫は仁木城の山下に居住するとされ、往時の居館もここにあった可能性が指摘されます。今見る城郭遺構は、その後に武田勝頼の三河侵入に備えた家康による改修が行われた可能性が考えられるようです。今回の参考資料は(1)「藤岡・小原・旭の中世城館」愛知県中世城郭研究会1993(2)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994(3)「小原の城郭」作図:千田嘉博小原村文化財保護委員会1993などです。仁木城春日部氏が崇敬したとされる白鳥神社が田代川を挟んで祀られる仁木城の南側の尾根には古墳群が在り、古くから田代川の水利による田地が開けていて、山間部であっても、先住...仁木城三河その1春日部氏の詰城として築かれ、家康による改修が行われた可能性がある山城

  • 米倉城 遠江 混乱する伝承が残る城郭 主郭部の残りが良好

    米倉城は静岡県周智郡森町米倉にあります。森町米倉は現在森町一宮に住所表示が変更されたようですが、城の名は「こめぐら」と呼ばれ、米蔵と書かれた資料もありました。城主は二俣近江守昌長が在城したと伝承されてきましたが、確証はないようです。今回の参考資料は(1)『静岡県の中世城館跡』静岡県教育委員会1978(2)「静岡県の城跡西部・遠江国版」静岡古城研究会2022(3)「遠江史蹟瑣談」岩田孝友著1952などです。米倉城各所に割拠していた土豪が信玄の侵攻で武田に属したか遠江の城郭は、信玄の侵攻によって割拠していた土豪の城が改造された例が多くみられますが、資料(2)によると米倉城も進軍する武田軍の駐屯地となった可能性が考えられるとされます。※仲明城は→こちら家田城は→こちら片瀬城は→こちら米倉城二俣街道は城主の伝承か...米倉城遠江混乱する伝承が残る城郭主郭部の残りが良好

  • 天王山砦 美濃 木曽川の渡河地点を見下ろす武田氏によって築かれた単郭の拠点

    天王山砦は岐阜県恵那市武並町藤にあります。明治まで木曽川を渡し船で渡河していた地点を見下ろす軍事拠点として、武田氏の美濃侵攻時に築かれた可能性のある単郭の城郭で、遺構の残存状態は良好でした。今回の参考資料は(1)「信濃をめぐる境目の山城と美濃・飛騨・三河・遠江編」宮坂武男編2015(2)「岐阜県中世城館跡総合調査報告書第三集」岐阜県教育委員会2004(3)ひなたGIS岐阜県CS立体図などです。天王山砦明治の地図には武並橋はなく渡船場の記号が描かれている木曽川は、木曽ヒノキなどの材木を流すために邪魔になる橋は作られず、鉄道が敷設され、ダムが作られるようになって橋が作られるようになったようで、明治の地図を見ると、木曽川のあちこちに渡船場の記号が見られます。天王山砦掘切や竪堀群が厳重に東に備えている東から延びる...天王山砦美濃木曽川の渡河地点を見下ろす武田氏によって築かれた単郭の拠点

  • 広見城 三河 その4 拡張された城域の興味深い登城路を探索する

    広見城は愛知県豊田市広幡町にあります。その1~その3では縄張図に描かれた広見城の多数の城郭遺構を見てきましたが、その4では拡張されたとされる遺構への登城路を探索してみたいと思います。参考資料は(1)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994(2)現地案内板(3)保見の歴史を伝える会の資料などです。※その1は→こちらその2は→こちらその3は→こちら広見城八草城の中条秀正によって築かれ(諸説あり)正林寺が秀正の菩提寺とされる資料(1)によると、広見城の遺構の構造から、築城当初の城域を後に拡張したと考えられる遺構が見られるとありました。その3で見学したときに虎口地形のように見える部分がありましたのでヒョットすると拡張された部分の登城路ではないかと思って探索しました。広見城地点31に虎口地形が見られた...広見城三河その4拡張された城域の興味深い登城路を探索する

  • 齢松山城 信濃 城郭遺構の残りが良好 城域を取り巻く鬼場新汐も興味深い

    齢松山城は長野県茅野市本町にあります。上原城の東の備えとして築かれ、諏訪氏の支族矢ヶ崎氏が居城したとされます。城域を取り巻くように残る鬼場新汐(堰)の跡は江戸期に設けられた農業用水路ですが、その歴史も興味深いものがあります。今回の参考資料は(1)「信濃の山城と館6」宮坂武男著2013(2)ひなたGIS長野県立体図(3)Ⅰ郭に立つ案内板などです。齢松山城齢松山は南下の福寿院の山号にちなんで名付けられた齢松山城は上原城の諏訪氏の支城として東に隣接する鬼場城よりも古く、鬼場城が築かれると重点は鬼場城に移ったと考えられています。齢松山城Ⅰ郭Ⅱ郭堀切三五郎(さぐろ)鬼場新汐などが読み取れる鬼場新汐跡が帯曲輪のように城域を巻いていますが、江戸期に作られたもので、城郭遺構とは関係がないようです。齢松山城城道不明でaから...齢松山城信濃城郭遺構の残りが良好城域を取り巻く鬼場新汐も興味深い

  • 原城 肥前 世界文化遺産 島原・天草一揆の地を訪ねる

    原城は長崎県南島原市南有馬町にあります。有馬氏が日野江城から移る予定で築かれ、その後沙汰止みになったと伝わります。江戸時代になって有馬氏の転封により松倉氏が島原城を築き、原城は廃城になったとされます。歴史上有名な島原・天草一揆では廃城となっていた原城が一揆勢の拠点として利用されました。島原・天草一揆は以前は「島原の乱」として知られていましたが、その経緯から一揆として考えられるようになったようです。東海古城研究会の2泊3日特別見学会で肥前、肥後の城郭見学の一環として訪れました。今回の参考資料は(1)見学会資料(2)現地案内板(3)「パンフレット世界遺産原城跡」南島原市などです。原城近年の発掘調査により多数の遺構が確認され原城の全貌が見えてきた資料(3)によると幕府軍の本陣、城を封鎖するための柵、海上を封鎖す...原城肥前世界文化遺産島原・天草一揆の地を訪ねる

  • 隠岐城 近江 祖先が隠岐国主の隠岐氏によっての築かれたと伝承される城館

    隠岐城は滋賀県甲賀市甲賀町隠岐にあります。隠岐城は隠岐国主佐々木判官義清の遠孫といわれる佐々木兵庫頭清三が築き、自らを隠岐と改め同時に村名を隠岐と改めたと伝わります(諸説あり!)。今回の参考資料は(1)「甲賀市史第七巻甲賀の城」甲賀市史編纂委員会編2010(2)「甲賀郡志下」滋賀県甲賀郡教育会編1971(3)「滋賀県中世城郭分布調査2(甲賀の城)」滋賀県教育委員会1984などです。隠岐城周辺の城郭群は隠岐氏の支城の可能性が考えられている隠岐氏の出自には諸説があるようですが、周囲の城館群は隠岐氏の支配下にあり、隠岐城は領主の居館の位置付けだった可能性が考えられるようです。隠岐城今は大岡寺となり遺構の改変もある寺号石柱に隠岐城跡とある大岡(たいこう)寺は、隠岐城の廃城後に当初は清三寺、後に大岡寺と称した寺院が...隠岐城近江祖先が隠岐国主の隠岐氏によっての築かれたと伝承される城館

  • 名護屋城 肥前その2 破却の跡が生々しく残る見どころてんこ盛りの総石垣造りの豊臣秀吉の大城郭

    名護屋城は佐賀県唐津市鎮西町名護屋にあります。東海古城研究会の九州地区特別見学会(2泊3日)で訪れた名護屋城、今回はその2です。参考資料は(1)見学会資料(2)名護屋城跡ガイドマップ(3)「週刊名城を行く佐賀城名護屋城」小学館2005(4)備前名護屋城図屏風と諸国古城之図などです。名護屋城ガイドマップに加筆その1では大手口①→東出丸②→三ノ丸③→本丸と見学しました。その2では三ノ丸③→馬場⑥→弾正丸⑨→搦手口→二ノ丸⑦→と見学し本丸北東隅虎口へ至ります。名護屋城三ノ丸南西櫓鏡石が見どころ通称馬場⑥側(西)から三ノ丸の南西隅の櫓の鏡石は資料によると、場内最大の石が使われているとされ、馬場から三ノ丸に入る大名に見せつけていたのではないでしょうか。名護屋城本丸南辺新石垣左に通称馬場⑥東から本丸南辺の馬場側の石垣...名護屋城肥前その2破却の跡が生々しく残る見どころてんこ盛りの総石垣造りの豊臣秀吉の大城郭

  • 名護屋城 肥前その1 破却の跡が生々しく残る見どころてんこ盛りの総石垣造りの豊臣秀吉の大城郭

    名護屋城は佐賀県唐津市鎮西町名護屋にあります。東海古城研究会の九州地区特別見学会(2泊3日)で、熊本城→島原城→原城→日野江城→深江城→玖島城→今富城→平戸城→名護屋城→唐津城の十城を訪れました。今回は名護屋城を取り上げます。名護屋城は文禄・慶長の役で秀吉が築いた”陣城”とも言われますが、伏見城や聚楽第に匹敵する規模の大きな総石垣造りの大城郭で、見どころたっぷりでしたので2回に分けて掲載したいと思います。今回の参考資料は(1)見学会資料(2)名護屋城跡ガイドマップ(3)「週刊名城を行く佐賀城名護屋城」小学館2005(4)備前名護屋城図屏風と諸国古城之図などです。広島市立中央図書館所蔵浅野文庫「諸国古城之図」より「肥前名護屋」※上に掲載の絵図は広島市立中央図書館の承諾を頂き提供を受けた画像を使用しています。...名護屋城肥前その1破却の跡が生々しく残る見どころてんこ盛りの総石垣造りの豊臣秀吉の大城郭

  • 東海古城研究会の城郭研究セミナーが開催されます 非会員の参加もOK!

    毎年恒例の、東海古城研究会の城郭研究セミナー(通称夏季セミナー)が8月24日(土)に行われます。会員以外の参加もOKです。今年は会員さんの研究発表のほかに、外部講師の興味深い講演も予定されています。詳細や問い合わせ、申し込みは当ブログ内のブックマークから会の公式「X」へリンクしています。東海古城研究会の城郭研究セミナーが開催されます非会員の参加もOK!

  • 白瀬城 伊勢 その2 員弁川の絶壁の上に築かれた城郭 遺構の残りは良好だが主郭の位置に疑問が残る

    白瀬(しろせ)城は三重県いなべ市藤原町本郷にあります。その1では城域の西側半分を見学しましたが、その2ではj地域の東側を見学したいと思います。今回の参考資料も(1)「三重の中世城城館」三重県教育委員会1976(2)「再発見北伊勢国の城」伊藤徳也著2008と(3)「三重の城」福井健二著1979などです。※白瀬城その1は→こちら白瀬城員弁川沿いの水路を渡る橋13からの道aが城道かその1では中部電力の保守道bを使って城域に入りましたが、道aの方が古くからの道だった可能性がありそうでした。資料(3)によると白瀬城は東側に領地が隣接する治田氏に攻められて落城したとされます。白瀬城員弁川からの水路を渡る橋13がある水路は員弁川からの農業用水を得るための水路のようで、後世のものだと思われました。水路沿いの道あは狭く、車...白瀬城伊勢その2員弁川の絶壁の上に築かれた城郭遺構の残りは良好だが主郭の位置に疑問が残る

  • 白瀬城 伊勢 その1 員弁川の絶壁の上に築かれた城郭 遺構の残りは良好だが主郭の位置に疑問が残る

    白瀬(しろせ)城は三重県いなべ市藤原町本郷にあります。員弁川に削り取られた高さ35mの絶壁上に築かれ、5条の堀切で区切られた四つの曲輪の残存状態は良好でした。永禄年間に居住した近藤弾正左衛門吉綱が、永禄四年(1561)治田山城守に襲われ討ち死にし、城は火をかけられて落城したと伝わります。今回の参考資料は(1)「三重の中世城城館」三重県教育委員会1976(2)「再発見北伊勢国の城」伊藤徳也著2008などです。白瀬城員弁川に削られた台地上に在る高低差は35mを測る周辺には山口城、上平野城などが在り、今は工業団地が北側に造成され道路が通り、北側から見学に入れますが、古い道は南下の員弁川沿いから登る城道が在ったと思われます。※山口城は→こちら白瀬城道bは中部電力の送電線保守道古保川には橋がある今回の見学は藤原工業...白瀬城伊勢その1員弁川の絶壁の上に築かれた城郭遺構の残りは良好だが主郭の位置に疑問が残る

  • 家田城 遠江 点群データの立体図を利用して城郭の縄張りを確認してみる

    家田城は静岡県磐田市家田にあります。隣接する南側には仲明城があり家田城は仲明城の一部だったとする説もあるようです。今回は静岡県の3次元点群データを利用して城郭遺構を見学してみたいと思います。今回の参考資料は(1)「静岡県の中世城館跡」静岡県教育委員会1978(2)静岡県の城跡西部・遠江国版静岡古城研究会2022と(3)静岡県の3次元点群データによる立体図などです。家田城仲明城とは別の城郭として見学する資料(1)では家田城は仲明城の一部としていますが、資料⑵では周囲の状況から、別の城郭としています。当ブログでも別の城郭として扱っています。家田城点群データによる立体図で遺構の確認をする今回の見学では道aのルートで城域に入り道bのルートで下りました。資料(2)の縄張図には道Cのルートが一部示されていますが、確認...家田城遠江点群データの立体図を利用して城郭の縄張りを確認してみる

  • 土居城と上土居城 美濃 鳥羽川を挟んだ二つの城の関連はあるのか

    土居(つちい)城は岐阜県岐阜市下土居にあります。城主に土居駿河守頼継の名が伝わりますが、城歴等の詳細は不明のようです。上土居城は鳥羽川を挟んで上土居に築かれている山城ですが、詳細は不明です。今回の資料は(1)「岐阜県中世城館跡総合調査報告書第2集」岐阜県教育委員会2003(2)「城」第138号東海古城研究会1990などです。土居城と上土居城土居城は館城上土居城は山城資料(1)によると、土居城は鳥羽川の蛇行による自然堤防上にあったと推定され付近よりも少し高かったとされます。土居城図2昭和23年の空中写真国土地理院地図・空中写真閲覧サービスより土居城現在の地図に土居城推定地を落とし込む戦後まもなくの空中写真では、資料(1)で示された土居城推定地には住宅があるようですね。写真右側には南北に水路が流れ(現存)、そ...土居城と上土居城美濃鳥羽川を挟んだ二つの城の関連はあるのか

  • 飯盛山城 三河 その2 鎌倉期に足助氏によって築かれたが今はモミジの香嵐渓として有名

    飯盛山城は愛知県豊田市足助町にあります。今回はその2をお届けします。城址の位置、歴史、参考資料等はその1をご覧ください→こちら飯盛山城主な見学路はa・b→c、d、iその1ではa・b→c→eの見学路を登りⅠ郭に到達しましたが、その2では北西側のdから登りⅠ郭の北側の遺構を見学してiの道を下ります。飯盛山城見学路d途中にイノシシゲートがある北西斜面にはカタクリの群生地があり、春のカタクリとしても人気ですが、イノシシに荒らされないようにフェンスが設けられていました。飯盛山城見学路d途中の段々平場見学路dを登ると、途中に多数の階段状の平場がありました。資料によると戦争中に食糧増産のため、耕作地として造成された平場も多数あり、城郭遺構との区別は難しそうです。図2ではかなり省略しました。飯盛山城平場6南西から資料で遺...飯盛山城三河その2鎌倉期に足助氏によって築かれたが今はモミジの香嵐渓として有名

  • 飯盛山城 三河 その1 鎌倉期に足助氏によって築かれたが今はモミジの香嵐渓として有名

    飯盛山城は愛知県豊田市足助町にあります。初代足助氏は平安末期に足助の地に入り、足助氏を名乗り黍生城を築き、二代重秀が築城したのが飯盛山城とされ八代まで居城した伝わります。戦国時代になって鈴木氏が足助に入り足助鈴木氏として天正十八年の家康の関東移封まで続きました。今回の参考資料は(1)「足助の中世城館」足助町教育委員会2001(2)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994(3)現地案内板などです。※飯盛山城は、城郭遺構だけでなくその歴史も興味深いので2回に分けて掲載したいと思います。今回はその1です。飯盛山城足助七城と称される城塞群の中心にある足助氏は飯盛山城を中心として黍生城、臼木ヶ峰城、城山城、大観音城、真弓山(足助)城、成瀬城を築いて居館は飯盛山城の麓(現香積寺)に設けたとされてきました...飯盛山城三河その1鎌倉期に足助氏によって築かれたが今はモミジの香嵐渓として有名

  • 丸山能頭城 三河 乙川が削り残した急峻な地形の残存遺構は詰城だったか

    丸山能頭(まるやまのうとう)城は愛知県岡崎市丸山町能頭にあります。額田郡牢人一揆に登場する丸山中務入道の城とされますが、後には松平氏配下の成瀬伊賀守国次が居城したとされます。城址遺構は三河の大河矢作川の支流の乙川に削られた急峻な地形に残りますが、周囲の状況から想像すると居館とは別に築かれた、いわゆる詰めの城にあたる可能性がありそうに思いました。今回の参考資料は(1)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994(2)「岡崎市史第7巻」柴田顕正著出版岡崎市1929などです。丸山能頭城乙川がS字状に蛇行し削り残された突端にある乙川が土地を削り、岩盤に当って大きく蛇行する場所に城址はあり、川面から10m以上の高低差があります。付近には古墳が多数残り、古くから乙川沿いに人が集住していたとされます。丸山能頭...丸山能頭城三河乙川が削り残した急峻な地形の残存遺構は詰城だったか

  • 本庄山砦 遠江 夫婦のカモシカに出会い城郭遺構を二種類の立体図で確認して楽しむ

    本庄山砦は静岡県袋井市春岡字春日山にあります。古くから城郭または見張り台として利用されたと伝わりますが、今見る姿は徳川と武田が争った戦国期に構築されたものと考えられるようです。大正期以降に茶畑として利用された時期があり城郭遺構はかなり改変されたようですが、砦のイメージからはかけ離れた大きな規模の城郭遺構が残されていました。今回の参考資料は(1)「静岡県の中世城館跡」静岡県教育委員会1978(2)「静岡県の城跡西部・遠江国版」静岡県の城跡編集委員会2022と静岡県3次元点群データ、静岡県CS立体図などです。本庄山砦周囲には武田と徳川の奪い合った城郭が多数徳川が先行し、武田が奪い、それをまた徳川が奪い返すという争いが行われた遠江は、多数の城郭・砦が残されました。本庄山砦もその一つだったようです。本庄山砦CS立...本庄山砦遠江夫婦のカモシカに出会い城郭遺構を二種類の立体図で確認して楽しむ

  • 古御家(古小屋) 信濃 松岡城の防衛網の一環として松岡氏によって築かれた城郭

    古御家(ふるごや)は長野県高森町下市田にあります。古御屋とも呼ばれ遺構の一部は宅地や道路の造成で失われましたが、残存する遺構は規模の大きな堀切、竪堀など見どころが多かったです。今回の参考資料は「信濃の山城と館6」宮坂武男著2013などです。※松岡城は→こちら古御家天竜川の河岸段丘の尾根地形を利用して築かれている松岡氏は、大きな勢力を持ち本城の松岡城の周辺に多数の支城を配置し、南北の勢力と対峙していたようで、古御家と松岡城の行き来は段丘下の道を利用していたと思われます。古御家見学は高森南小側から往時の道は段丘下の道aからだったと思われますが、今回は段丘上の高森南小側に駐車して見学しました。北曲輪は住宅地の造成などで一部が改変されていて、北側を堀切③で断ち切っていたと思われます。CS立体図で見ると、往時は北曲...古御家(古小屋)信濃松岡城の防衛網の一環として松岡氏によって築かれた城郭

  • 矢草城 信濃 シンプルだが大手の守りの備えが興味深い山城

    矢草城は長野県下伊那郡阿南町大下条西条本城にあります。東に天竜川を見下ろす街道を扼する位置にあり、新野から北に進出し権現城、上田城などを築いた関氏が、下条村の下条氏と対峙し上田城を築くまでの短期間居住したとされます。今回の参考資料は「信濃の山城と館6」宮坂武男2013などです。※権現城は→こちら矢草城北進して下条氏の勢力圏に侵入した関氏だが、ついには敗退した資料によると、大沢城は下条氏の始祖の地で、下条村の吉岡に移るまで5代が居住したとされます。一時は勢力拡大に成功した関氏でしたが、領民の不支持によって敗退したようです。矢草城大手道はaの「城坂」方面から見学路はb見学は山下の路肩に駐車し熊谷家の脇を通る道からb、大堀切①を経由してⅠ郭に登りました。途中、道Cが分岐しますが、大日堂への参道だったようです。矢...矢草城信濃シンプルだが大手の守りの備えが興味深い山城

  • 肥前の城と肥後熊本城を訪ねる 東海古城研究会の特別見学会に参加

    東海古城研究会では、例月の日帰り見学会以外に、初夏は二泊三日、秋は一泊二日の特別見学会が行われています。今年は5月17~19日の二泊三日で熊本城→島原城→原城→日野江城→深江城→玖島城→今富城→平戸城→名護屋城→唐津城のルートでした。見学は時間の制約がある中で、できるだけ多くの城を見学するため、好天に恵まれた中、速足で歩いたので汗だくでした。今回は、ダイジェスト版として掲載しますが、城址ごとの記事は後日改めて掲載したいと思います。熊本城震災からの完全復興は緒に就いたばかりで、あと20年~30年はかかるとのことでしたが、天守の復旧を優先して行い、特設の見学路で見学ルートが設けられていました。島原城広い堀と高い石垣、破風のない五層の天守など見どころイッパイでした。バスの車窓からの写真で、色が少し変ですね。原城...肥前の城と肥後熊本城を訪ねる東海古城研究会の特別見学会に参加

  • 中山城 甲賀 油日城の西の守りを担う城郭群の一つか

    中山城は滋賀県甲賀市油日にあります。油日城の西側には前山城、岡崎城が西向きに備えた形で残されていますが、中山城もその一員だった可能性があり、遺構は西に向かっての備えが厳重だったように見えました。今回の参考資料は「甲賀市史第七巻甲賀の城」甲賀市史編纂委員会編2010などです。※油日城は→こちら中山城西からの侵入に対して油日城を守るように城郭群が築かれている杣川の流れに沿っての油日城への侵入に対して中山城と岡崎城・前山城のセットで防御していたように思います。中山城西からの遠景杣川と青野川に削られた東西に延びる尾根上に城址はありました。付近には大規模な圃場整備の記念碑がありました。尾根の左奥に油日城があります。中山城資料には西端部のアは描かれていない見学は祠の祀られている西端部のアから入りました。資料の縄張図で...中山城甲賀油日城の西の守りを担う城郭群の一つか

  • 岡城 三河 諸国古城之図を参考にして昔の姿を想定して楽しむ

    三河・岡城は愛知県岡崎市岡町にあります。岡城は全国に多数ありますが諸国古城之図では三河額田_岡村となっています。岡城は岡崎城の徳川家康が今川方から攻め取りましたが、関東移封後には上洛の際に岡崎城に入らず、岡城を岡村御殿と称して宿泊所として度々利用したと伝わります。諸国古城之図に残された姿は、岡村御殿を描いていると思われますが、絵図が描かれた当時にはかなりの部分の遺構がすでに失われ、民家が建ち並んでいたようです。今回は、絵図を参照しながら現地にわずかに残る遺構、古い地図、航空写真などを参考に往時の岡村城の姿を想像・想定して楽しみたいと思います。広島市立中央図書館所蔵浅野文庫「諸国古城之図」より「三河額田岡村」※上に掲載の絵図は広島市立中央図書館の承諾を頂き提供を受けた画像を使用しています。図の中心部の土塁で...岡城三河諸国古城之図を参考にして昔の姿を想定して楽しむ

  • 田中城 信濃 天竜川の沿いの低地に築かれた珍しい占地の城郭

    田中城は長野県上伊那郡箕輪町三日町にあります。城主は福与城主であった藤沢頼親が武田氏の南進で福与城を追われ、流浪の後に箕輪に戻り天竜川沿いに田中城を築いたとされます。現況は工場地帯となり城郭遺構はほとんど失われていました。福与城や付近の城郭は天竜川の段丘の台地上に築かれていますが田中城は、天竜川沿いの低湿地に築かれ、往時の城郭の周囲は沼田だったとされます。今回の参考資料は(1)「信濃の山城と館5」宮坂武男著2013(2)「伊那の古城」篠田徳登1971などです。田中城図2参考資料⑵「伊那の古城」より転載図を北上に回転加工資料⑵によれば、城は正八角形で直径350mであったと記され、三方は沼田、東側は天竜川だったとなっていました。藤沢頼親が河岸段丘上に城を築かず、特殊な立地の田中城を築いたのは、どんな思いがあっ...田中城信濃天竜川の沿いの低地に築かれた珍しい占地の城郭

  • 一夜の城 信濃 高遠城攻めの織田信忠の本陣 一夜にして築かれたと伝承される陣城

    一夜の城(いちやのじょう)は長野県伊那市富県桜井にあります。武田氏討伐のため織田信忠を総大将として高遠城を攻撃する際の陣城として築かれたとされます。高遠城は織田軍の攻撃により一日で落城したとされますので、一夜の城は作るのも短時間だった様ですが、使われたのも短時間だったと思われます。今回の参考資料は(1)「信濃の山城と館5」宮坂武男著2013(2)「伊那の古城」篠田徳登著1971などです。一夜の城高遠城は東6kmにある高遠城攻めの本陣として築かれた短期間の利用を目的とし、圧倒的な戦力差があったので、守りの備えは強力ではなかった様で、立地もほぼ平坦な場所でした。城は信忠の陣所とし設けられ、周囲に将兵の駐屯地が在ったのではないでしょうか。一夜の城土塁囲みの平場のシンプルな陣城資料⑵によると、築城には付近の農民数...一夜の城信濃高遠城攻めの織田信忠の本陣一夜にして築かれたと伝承される陣城

  • 下平城 伊勢 その2 二つに分離した興味深い城郭遺構の理由を探る 虎口の石垣が見どころ

    下平(しもひら)城は三重県いなべ市北勢町下平にあります。その1では二つに分離した南側の曲輪群を主に見学しましたが、その2では北側の主郭部を見学するとともに二つに分離している理由を考えてみたいと思います。今回の参考資料も(1)「再発見北伊勢国の城」伊藤徳也著2008(2)「三重の中世城館」三重県教育委員会1976(3)今昔マップonthewebなどです。下平城その1は→こちら下平城田切川と貝野川に挟まれた台地上に築かれている下平城と向平城は同じ城主だったと伝わりますが、築城時期などは不明のようです。両城を比較すると向平城は低い位置に在り、平場の面積も大きくとれそうですので、城主の居館は向平城に在り下平城は特定の役割のために築かれた城郭だったとも考えられそうですね。下平城明治の地図を今昔マップontheweb...下平城伊勢その2二つに分離した興味深い城郭遺構の理由を探る虎口の石垣が見どころ

  • 下平城 伊勢 その1 二つに分離した興味深い城郭遺構の理由を探る

    下平(しもひら)城は三重県いなべ市北勢町下平にあります。城歴は不明のようですが、城主は下平城西側の対岸にある向平城と共に田切左兵衛であったと伝わります。城郭遺構は主郭部と南部曲輪群に離れて残存していました。二つが離れている理由についても考えてみたいと思います。今回はその1として、南部曲輪群と周辺を見てゆきたいと思います。今回の参考資料は(1)「再発見北伊勢国の城」伊藤徳也著2008(2)「三重の中世城館」三重県教育委員会1976(3)今昔マップonthewebなどです。田切川を挟んだ向平城は→こちら下平城貝野川と田切川に削られた台地の尾根状地形上にある向平城とは田切川を挟んで向き合っていますが、両城が同じ城主だったとされます。東側は貝野川の向こうの養老山地までずっと城跡はなさそうです。下平城主郭部と南部の...下平城伊勢その1二つに分離した興味深い城郭遺構の理由を探る

  • 片山城 美濃その2 多数の城郭遺構がよく残る岐阜県下最大級の山城を堪能する

    片山城は岐阜県揖斐郡池田町片山にあります。興味深い遺構が多数で、残存状態も良好ですので、その1とその2に分けて掲載し、今回はその2です。今回の参考資料も(1)「岐阜県中世城館跡総合調査報告書第1集(西美濃・本巣郡)」岐阜県教育委員会(2)「岐阜の山城ベスト50を歩く」三宅唯美・中井均編2010(3)城ヶ谷7号墳・片山城跡:一般地方道大垣池田線道路改良工事に伴う緊急発掘調査報告書などです。その1は→こちら片山城円興寺峠を越える道は、古くから重要な街道だった円興寺道は京と北の揖斐郡を結ぶ峠道で杭瀬川や揖斐川の乱流に悩まされることのない安定した道だったのではないかと考えてみましたがどうでしょう。片山城城域を貫通する道は円興寺街道を規制して設けられたか資料(1)で、片山城内を貫通する道は円興寺道の通行を規制し、城...片山城美濃その2多数の城郭遺構がよく残る岐阜県下最大級の山城を堪能する

  • 片山城 美濃 その1 多数の城郭遺構がよく残る岐阜県下最大級の山城を堪能する

    片山城は岐阜県揖斐郡池田町片山にあります。城主は不破河内守光治と推定されているが築城時期、目的などは明確ではないとされます。城郭遺構は東西≒250m、南北≒400mで城域には多数の城郭遺構がビッシリと残っていましたので山城見学が堪能できました。今回の参考資料は(1)「岐阜県中世城館跡総合調査報告書第1集(西美濃・本巣郡)」岐阜県教育委員会(2)「岐阜の山城ベスト50を歩く」三宅唯美・中井均編2010(3)城ヶ谷7号墳・片山城跡:一般地方道大垣池田線道路改良工事に伴う緊急発掘調査報告書などです。城域が広く、遺構数も多いのでその1とその2に分けて掲載したいと思います。片山城片山から青墓に抜ける円興寺道を扼する城郭だったか円興寺は元円興寺に在った寺院のようですが信長の焼き討ちで焼亡、後に現在の位置に再建されたと...片山城美濃その1多数の城郭遺構がよく残る岐阜県下最大級の山城を堪能する

  • 井ノ口城 三河 額田郡一揆の拠点 その後の松平・徳川の発展のきっかけとなった

    井ノ口城は井ノ口砦ともいわれ愛知県岡崎市井ノ口町にあります。寛成六年(1465)三河国額田郡で反幕府・反守護のいわゆる「額田郡一揆」と呼ばれる蜂起事件が起こり、この地域で有力な大場氏、丸山氏、梁田氏などが井ノ口城を拠点として、京の幕府へ運ばれる年貢等を略奪したとされます。牧野氏、西郷氏によって井ノ口城は一旦は攻め落とされましたが、大将分のものは逃亡し狼藉を続けたと伝わります。幕府は改めて伊勢氏に命じて一揆の鎮圧を図り、政所執事の伊勢氏は配下の松平氏、戸田氏を用いて一揆の鎮圧に成功します。松平氏、戸田氏はこの功によりこの地域での支配権を獲得し、特に松平氏にとっては三河平定のきっかけとなったようです(一揆の理由・経過等については諸説があります)。今回の参考仕様は(1)「三河松平一族」平野昭夫2002(2)「愛...井ノ口城三河額田郡一揆の拠点その後の松平・徳川の発展のきっかけとなった

  • 高山屋敷 近江 高山城塞群の一つ 堀と土塁に囲まれた城郭遺構が残る

    高山屋敷は滋賀県水口町高山にあります。佐々木盛綱配下の高山源太左衛門が領したとされる地で、付近にはいくつもの高山氏由来の城郭遺構や屋敷地が残されています。今回の現在先は高山屋敷と名付けられた城郭遺構となっていますが、東側に隣接して屋敷地が在ったと考えられているようです。今回の参考資料は(1)「甲賀市史第七巻甲賀の城」甲賀市史編さん委員会編2010(2)「甲賀郡史」甲賀郡教育会1926(3)「水口町志」水口町志編纂委員会1959などです。高山屋敷周囲には数多くの甲賀の城が点在する資料(3)によると、高山氏は甲賀五十三家の一つに数えられ南の三大寺、北の岩坂まで領していた時期が有ったようですが東側は杣川を区切りとしたようです。附近には甲賀衆の城郭が多数残されています。高山屋敷Ⅰ郭東側に居館が在ったと思われるが現...高山屋敷近江高山城塞群の一つ堀と土塁に囲まれた城郭遺構が残る

  • 宇佐山城 近江 多数の石垣が見どころの城郭 東海古城研究会の見学会で訪れました

    宇佐山城は滋賀県大津市錦織町にあります。織田信長の命により森可成によって築かれたとされ、山下の大津方向から見える面には石垣が多用され見どころとなっています。今回は東海古城研究会の見学会で、琵琶湖畔の坂本城なども併せて訪れました。今回の参考資料は(1)見学会当日資料(2)「図解近畿の城郭Ⅰ」城郭談話会編2014(3)「近江の山城ベスト50を歩く」中井均編2006(4)「米原文化協会『城歩会』宇佐山城見学会資料」長谷川博美2018などです。宇佐山城志賀の陣では壺笠山の浅井・朝倉軍と対峙したとされる森可成は侵入してきた浅井・朝倉連合と宇佐山城を降り下って戦って討ち死にし、宇佐山城の出丸(端城)も落とされたが本城は落城を免れ、戦いは膠着状態に陥り両軍は和議を結んだと伝わります。その後、明智光秀が比叡山焼き討ちまで...宇佐山城近江多数の石垣が見どころの城郭東海古城研究会の見学会で訪れました

  • 東海古城研究会の機関紙「城」 第235号が刊行されました

    東海古城研究会の機関紙「城」の第235号が刊行され、会員に郵送で届きました。「信康事件の周辺に関するノート」は前号に続いて信康事件の論考で、松平家忠日記に登場する「新城」普請との関連などをとりあげて検討しています。「石樋丁場跡と周辺の残石」は、石丁場と刻印などを丹念に調査した結果を連載の形で報告しています。「岡崎公園内の発掘調査」はこれまでに数多く行われてきた岡崎城の発掘調査の結果をわかりやすくまとめて報告しています。「土岐市の城ケ根砦について」「月原本城山城登城路と特異な遺構を探査」は山城の探索と考察となっています。「城」の入手については東海古城研究会の公式「X」(旧Twitter)→こちらのDM又はGoogleフォームで問合せ、申し込みが可能です。東海古城研究会の機関紙「城」第235号が刊行されました

  • 油日城 近江 遺構がよく残るが後世の道路で城の向きが紛らわしい甲賀の城郭

    油日城は滋賀県甲賀市甲賀町油日にあります。有名な油日神社が北東約300mにあり、この地域の中心的な城郭だったとされ、北側に杣川、南側に心教田川が流れる尾根上に築かれています。付近には多数の城郭が点在し、西からの侵入に対して油日城を守る体制がとられているようにみえました。今回の参考資料は「甲賀市史第七巻甲賀の城」甲賀市史編さん委員会編2010などです。油日城近江から伊賀へ抜ける主要な街道の結節点にある近江から伊賀へ抜ける道は後世のJR草津線や車の道の開発によって旧街道は目立たなくなりましたが、今もほぼ残されているようでした。油日城後世の道路街道イ旧街道ア杣川の旧河道ウなどを考慮して遺構を見る油日城は城址の西側を通る道路イを抑える役割があったように一見思われますが、明治期の地図などで確認すると道路イは後世に敷...油日城近江遺構がよく残るが後世の道路で城の向きが紛らわしい甲賀の城郭

  • 中上城 伊勢 集落から離れた村の城 占地に関連して想像を膨らませる

    中上城は三重県員弁郡東員町中上にあります。花戸城、花扉城とも呼ばれ、築城は明応年間(1492~1501)坂太郎左衛門によって行われたとされ、時期は不明ですが敵に敗れて廃城になったと伝ええられています。その後、阪氏は蓮如上人に帰依し中上集落に遍崇寺を建立したとされます。今回の参考資料は(1)「三重の中世城城館」三重県教育委員会1976(2)「再発見北伊勢国の城」伊藤徳也著2008などです。中上城付近の集落にもそれぞれ村の城が築かれていた中上城の周辺には北山城、長深城、志知城など村の城が築かれていたようです。中上城城の占地が集落から離れていた特別な理由があったかA辺りが普通?村の城は集落に隣接している場合が多いと思いますが、中上城は集落の西端部から≒400m、中心部から≒800mの離れた場所に築かれていました...中上城伊勢集落から離れた村の城占地に関連して想像を膨らませる

  • 箕輪城 信濃 天竜川の河岸段丘上に築かれた箕輪氏の城塞群の中心城郭で遺構の残りが良い

    箕輪城は長野県上伊那郡箕輪町にあります。城主は箕輪左衛門重時と伝わり、天竜川対岸の福与城などと連携して当地区を支配していたされます。その後武田氏の南下によって伊那谷が支配されましたが、後に徳川氏によって付近に木下陣屋が置かれ箕輪城は廃城になったようです。天竜川の第二河岸段丘上に築かれた城塞群の中心が、今見る箕輪城だったとされます。今回の参考資料は「信濃の山城と館5」宮坂武男著2013などです。※宮武武男先生による箕輪城の鳥観図は長野県立歴史館HPの「宮坂武男城郭鳥観図」からご覧いただけます→こちら箕輪城河岸段丘上の南北に城砦群が築かれていた資料によると、箕輪城の城塞群は今見る箕輪城の北側に北城、中心部を南城(しろ山)、その南側にカネチョウ山があり、さに段丘南端部には砦が設けられていたとされ、天竜川対岸の福...箕輪城信濃天竜川の河岸段丘上に築かれた箕輪氏の城塞群の中心城郭で遺構の残りが良い

  • 仲明城 遠江 敷地川に突き出した支尾根に築かれ背後の尾根を厳重に遮断した城郭

    仲明(なかみょう)城は静岡県磐田市敷地字仲明にあります。附近を領していた敷地氏の居城と伝わりますが詳細は不明のようです。二重堀切などの遺構の特徴から、今見る姿は武田氏によって改修が行われたと考えられそうです。資料によっては付近の家田城と一体の城郭であったとされますが、遺構の状況などから別の城郭とも考えられています。今回の参考資料は(1)「静岡県の城跡西部・遠江国版」静岡県の城跡編集委員会2022と(2)「静岡県の中世城館跡」静岡県教育委員会1978などです。仲明城遠州に侵入した武田軍は付近に布陣した武田信玄の二俣城攻めの時には、合代島の亀井戸城に本陣が置かれた可能性があり、周辺が宿陣地となったとされ、仲明城もその範囲に入っていたと思われます。その際には社山城も二重堀切などの存在などから武田氏の配下となって...仲明城遠江敷地川に突き出した支尾根に築かれ背後の尾根を厳重に遮断した城郭

  • 滝川城 近江 大手道どこか?滝川一益ゆかりの城 興味深い遺構が多数

    滝川城(五反田城)は滋賀県甲賀市甲賀町櫟野小字五反田にあります。滝川城は櫟野一帯を支配した滝川氏一族の本拠とされ滝川一益が在城したゆかりの城として知られます。附近には甲賀の巨刹櫟野寺が在り、周りを取り囲むように展開している滝川氏の城郭との関係性も興味深いです。今回の参考資料は「甲賀市史第七巻甲賀の城」甲賀市史編さん委員会編2010などです。※付近の櫟野大原城その1は→こちら滝川城上、中、下ノ組は櫟野寺に関連した地名か櫟野寺は延暦寺の有力末寺で甲賀六大寺の筆頭として往時は多数の末寺があり、寺領は広大であったとされます。戦国期には滝川氏に寺領の多くを奪われたのかもしれないと想像しましたがどうでしょう。滝川城櫟野川越しに櫟野寺が良く見える滝川城は櫟野川を水堀に見立て西に滝川西城、川の向うには滝川支城を配し櫟野川...滝川城近江大手道どこか?滝川一益ゆかりの城興味深い遺構が多数

  • 大平本城 三河 その1 規模の大きな山城の城郭遺構と大平姫城との関連が興味深い

    大平(おおだいら)本城は愛知県豊田市大平町にあります。その1では主郭の南側を中心に見学しましたが、その2では主郭と城域の北側を見学したいと思います。今回の参考資料は(1)「藤岡・小原・旭の中世城館」愛知県中世城郭研究会1993(2)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994(3)「愛城研報告第16号」三河・大平城の縄張高田徹2012と東海古城研究会の「小原市場城と大平本城・姫城」城見学会資料2023などです。※大平本城その1は→こちら大平姫城は→こちら大平本城本城と姫城で市場古城と同様のU字形の尾根の内側に居館があったのか鈴木氏(鱸氏)が小原地区に侵入した当初は市場古城に入ったとされます。市場古城は北側の背後に馬蹄形の尾根を背負った立地となっていたとされます。大平城も本城と姫城の尾根に挟まれた...大平本城三河その1規模の大きな山城の城郭遺構と大平姫城との関連が興味深い

  • 大平本城 その1 規模の大きな山城の城郭遺構と大平姫城との関連が興味深い

    大平(おおだいら)本城は愛知県豊田市大平町にあります。隣接して大平姫城があり、両城は一体だった可能性もありそうです。当初は大内下総守久政が居城し、後に足助の鈴木氏(鱸氏)が小原地区に侵攻したときに奪われたとされます。今回の参考資料は(1)「藤岡・小原・旭の中世城館」愛知県中世城郭研究会1993(2)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994(3)「愛城研報告第16号」三河・大平城の縄張高田徹2012と東海古城研究会の「小原市場城と大平本城・姫城」城見学会資料2023(4)「大平本城跡発掘調査報告会資料」愛知県埋蔵文化センター2011などです。※大平姫城は→こちら大平本城小原地区の西部に位置し大平姫城と隣接して北西の美濃方面に備えた城郭か大平本城・姫城は主要な街道の結節点に築かれた城郭で、竪堀の...大平本城その1規模の大きな山城の城郭遺構と大平姫城との関連が興味深い

  • 大平姫城 三河 隣接する大平本城との関連が考えられる尾根先端の城郭

    大平(おおだいら)姫城は豊田市大平町にあります。隣接して大平本城があり、その関係性については諸説があるようですが両城は一体だった可能性もありそうです。当初は大内下総守久政が居城したとされますが、後に足助の鈴木氏(鱸氏)が小原地区に侵攻したときに奪われたと伝わります。今回の参考資料は(1)「藤岡・小原・旭の中世城館」愛知県中世城郭研究会1993(2)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994(3)「愛城研報告第16号」三河・大平城の縄張高田徹2012(4)「愛知縣西加茂郡全圖」西加茂郡教育會編纂松岡利助1915.6」西加茂郡教育會1915と東海古城研究会の「小原市場城と大平本城・姫城」城見学会資料2023などです。大平姫城小原地区は谷ごとに割拠した豪族により支配されていた足助鈴木氏の侵攻によって...大平姫城三河隣接する大平本城との関連が考えられる尾根先端の城郭

  • 野井城 美濃 主要な街道を扼する岩村城の出城の一つ 曲輪を囲む犬走が良く残る

    野井城は白金城城とも呼ばれ、岐阜県恵那市三郷町野井にあります。岩村藩の参勤交代で藩主が通った道という殿様街道・大名街道は幾本もあるようですが、野井城の東下の谷を通る道も殿様街道とされます。野井城はその立地から、岩村城への道の抑えとしての役割があったようです。今回の参考資料は「信濃をめぐる境目の山城と館美濃・飛騨・三河遠江編」宮坂武男2015などです。野井城殿様街道は東海自然歩道の一部となり、人気のハイキングコースとなっている土岐川筋の抑えとして取手平砦が設けられ、野井城と併せて北側の中山道方面を警戒していたと考えられるようです。※鳥居平砦は→こちら野井城野井地区からの道車は通行止めとなっている道は車両通行止めになっていますので、小ヶ沢池までの約1㎞はハイキング気分で歩きました。殿様街道からの明確な登城路は...野井城美濃主要な街道を扼する岩村城の出城の一つ曲輪を囲む犬走が良く残る

  • 小原地区の城郭 三河 東海古城研究会の見学会で訪れました

    小原の城郭は愛知県豊田市小原町にあります。今回は東海古城研究会の日帰りバス見学会で訪れました。見学先は市場城→市場古城→大平本城→大平姫城でした。午前中はあいにくの雨でしたが、午後は雨も上がり時折日が差す好天となり「終わりよければ全てよし」の見学会でした。小原地区には13の城址があるとされます。戦国時代以前には各谷間に関東から来た支配者が割拠したとされます。戦国期には足助鈴木氏の一員(鱸氏とも)が市場古城を足掛かりにして、小原地区全体を市場城を中心にして支配したとされます。後に小原鈴木氏は家康の関東移封に従わず、改易となり没落したと伝わります。市場城当日はベテラン会員さんが作成した資料が準備され、詳しい現地解説が行われました。午前中は雨でしたが、参加者の皆さんは熱心に説明に耳を傾け、遺構を見学しました。市...小原地区の城郭三河東海古城研究会の見学会で訪れました

  • 足助城 三河 その2 整備された城跡公園の興味深い城郭遺構を堪能する

    足助城は愛知県豊田市足助(あすけ)町にあります。城址が真弓山にあることから、真弓山城とも呼ばれ足助七城の一つとして、足助鈴木氏が築いたとされます。現在、中心部は城跡公園となっていますが、公園化に先立って発掘調査が行われ、多数の建物跡などが検出され、それに基づいたいくつかの建物などが復元・整備されています。その1では城跡公園外の興味深い城郭遺構を見学しましたが今回は整備された公園内を見学します。公園内には要所要所に案内パネルが設けられていますので、興味深い城郭遺構を堪能できます。足助城足助氏の飯盛山城と鈴木氏の足助城は築城年代が異なる古く鎌倉期に足助を領したのは足助氏、戦国時代に領したのは鈴木氏だった考えられ、足助氏が飯盛山城を築き鈴木氏が足助城を築いたとされます。いろいろな条件が重なって、飯盛山城の復原は...足助城三河その2整備された城跡公園の興味深い城郭遺構を堪能する

  • 足助城 三河 その1 整備された城跡公園の外側にある城郭遺構を見学する

    足助城は愛知県豊田市足助(あすけ)町にあります。城址が真弓山にあることから、真弓山城とも呼ばれ足助七城の一つとして、足助鈴木氏が築いたとされます。現在、中心部は城跡公園となっていますが、公園化に先立って発掘調査が行われ、多数の建物跡などが検出され、それに基づいた建物が復元・整備されています。中心部から幾本も延びる尾根は削平され曲輪が設けられ、城域は広く城跡公園外にも城郭遺構が残されています。公園化の整備に伴って公園内の見学は有料化され、公園の周囲にフェンスが設けられました。今回は城跡公園外の興味深い城郭遺構を見学したいと思います。今回の資料は(1)「足助の中世城館」足助町教育委員会2001(2)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994(3)「城跡公園足助城」パンフレットなどです。足助城主要な...足助城三河その1整備された城跡公園の外側にある城郭遺構を見学する

  • 東禅寺城 伊勢 150m超の断崖絶壁を利用した城郭は隣接する巨刹 東禅寺との関連があったか

    東禅寺城は三重県いなべ市藤原町東禅寺字神垣内にあります。築城の時期は明らかではないようですが城主は片山平三、斎藤助六が伝わります。片山氏は南北朝の頃、上木村を中心に付近十ヶ村を領したとされ、斎藤氏は東禅寺の坊官を務め東禅寺から石川城に移ったとされます。※石川城は東禅寺の北東800m付近の藤原町石川にありましたが、セメント工場の建設によって消滅しました。今回の参考資料は(1)「再発見北伊勢国の城」伊藤徳也著2008(2)「三重の中世城館」三重県教育委員会1976(3)Webサイトいなべ市地理情報「いなっぷる」などです。東禅寺城東禅寺は戦火で焼かれ焼亡したが東禅寺城に隣接した遺跡が確認されている東禅寺は地名として残るほどの巨刹寺院で、東禅寺城が東禅寺に隣接して築かれたといったほうが良いかもしれません。東禅寺城...東禅寺城伊勢150m超の断崖絶壁を利用した城郭は隣接する巨刹東禅寺との関連があったか

  • 櫟野大原城 近江 その2 興味深い多数の遺構が完存する甲賀大原氏の城郭 見どころてんこ盛りでワクワクの見学

    櫟野(いちの)大原城は滋賀県甲賀市甲賀町櫟野(いちの)にあります。見どころの多い櫟野大原城はその1で城域東側部分を見学しましたが、その2では西側部分を見学したいと思います。今回の参考資料も(1)「甲賀市史第七巻甲賀の城」甲賀市史編さん委員会編2010(2)現地案内板・大原自治振興会などです。※大原氏の大原城は→こちら櫟野大原城周辺地図はその1をご覧ください※その1は→こちら櫟野大原城U字型の珍しい堀切Eその役割は?東上から櫟野大原城で目を引く遺構の一つがⅣ郭のU字型の珍しい堀切でした。尾根を断ち切るように掘られてはいますが、その役割は何だったのか、資料(1)でもⅣ郭への雨水の流れ込み防止か?ヒョットすると城郭遺構ではないのかもしれないとも記されていました。U字型の雨水対策の堀切は初めて見ましたが、山城では...櫟野大原城近江その2興味深い多数の遺構が完存する甲賀大原氏の城郭見どころてんこ盛りでワクワクの見学

  • 櫟野大原城 近江 その1 興味深い多数の遺構が完存する甲賀大原氏の城郭 見どころてんこ盛りでワクワクの見学

    櫟野(いちの)大原城は滋賀県甲賀市甲賀町櫟野(いちの)にあります。甲賀の雄族大原氏が櫟野寺(らくやじ)の寺領以外の櫟野領も支配し、16世紀に一族の大原伴三郎が櫟野大原城を築いたとされます。鈴鹿峠まで7Kmの地で大原氏が領する東の端に位置しています。城域は櫟野川へ突き出した尾根上に在り、現況は周囲を田地が取巻いていました。今回の参考資料は(1)「甲賀市史第七巻甲賀の城」甲賀市史編さん委員会編2010(2)現地案内板・大原自治振興会などです。櫟野大原城は見どころが多いのでその1・その2で紹介します。※大原氏の大原城は→こちら櫟野大原城付近には滝川一益ゆかりの滝川城がある東7kmの鈴鹿峠までほとんどが山地櫟野大原城は尾根上に築かれ、遺構の状況から見ると西向きの備えがより厳重な城郭だったと思われました。東は鈴鹿峠...櫟野大原城近江その1興味深い多数の遺構が完存する甲賀大原氏の城郭見どころてんこ盛りでワクワクの見学

  • 堤城 遠江 牛渕川を利用した城 別郭の千畳敷は城域だったのか?

    堤城は静岡県菊川市下平川にあります。築城時期は明確ではありませんが1500年前後と考えられているようです。城主は松井氏が今川範国によってここに移されたとされます。堤城は城域の西側を菊川と並行して流れる牛渕川を守りに利用して西側の監視・防衛を役割として築かれたとされます。今回の参考資料は(1)「菊川市の城館周遊マップ」菊川市教育委員会(2)「静岡県の中世城館跡」静岡県教育委員会1978(3)「今川氏の城郭と合戦水野茂編著2019(4)「静岡県の城跡西部・遠江国版」静岡県の城跡編集委員会2022(5)「遠江国風土記伝」内山真竜著明治33年(1900)(6)「塩の道ウォーキング」静岡新聞社編著2000などです。堤城付近は牛渕川や菊川の大規模な洪水被害に悩まされ続けた牛渕川の河川改修や圃場整備は戦後になって行われ...堤城遠江牛渕川を利用した城別郭の千畳敷は城域だったのか?

  • 一色山城 尾張 尾張地区では珍しく城郭遺構の残りが良好な山城

    一色山城は愛知県瀬戸市川平町にあります。築城の時期は不詳ですが、天文三年(1534)に城主の磯村左近が品野城主松平家重と落合城主戸田家光に攻められて討ち死にしたとの伝説があるようです。城址は愛知森林管理事務所の管轄下にある山地にあり開発の手が入っていないため、城郭遺構の残存状況は風化による変化以外にはなさそうで、とても良い状態でした。今回の参考資料は「「愛知の山城ベスト50を歩く」愛知中世城郭研究会・中井均編2010などです。一色山城現在も周辺には民家はない南からの侵入に備えたか城主は品野城主松平家重と落合城主戸田家光に攻められて討ち死にしたとた伝わります。城の備えは南側を向いているようで、現在の207号線沿いの川(樋ヶ沢川)の谷間に往時も山道があったと思われます。一色山城道eは作業用道路でゲートがある愛...一色山城尾張尾張地区では珍しく城郭遺構の残りが良好な山城

  • 城ヶ峰砦 美濃 史料・伝承不明、人里離れた岩峰上に築かれた山道を扼する砦か

    城ヶ峰砦は岐阜県恵那市東野小野川にあります。巨岩に覆われた小ピークに城ヶ峰の名前が残り、城ヶ峰神社が祀られ、ここに城砦があったとされるようです。往時は山中に岩村から中津川へ抜ける地図に残らない程度の山道があった可能性がありそうです。付近の道路(413号)は後に敷設され、明治の地図にはそれらしい道は載っていませんでした。今回の参考資料は「信濃をめぐる境目の山城と美濃・飛騨・三河・遠江編」宮坂武男編2015などです。城ヶ峰砦小野川沿いに413号が敷設された保古の湖は大正時代、根の上湖は戦後に造られた灌漑用の人造湖で往時は城ヶ峰砦付近を通って中津川へ抜ける道があった可能性がありそうです。城ヶ峰砦明治の地図には歩く道も見当たらない往時の城ヶ峰砦付近は深い山の中で、近年の開発で周辺雄様子は一変したのがわかります。近...城ヶ峰砦美濃史料・伝承不明、人里離れた岩峰上に築かれた山道を扼する砦か

  • 安田城 越中 土塁の厚さに驚く復元された平城を堪能 東海古城研究会の見学会で訪れました

    安田城は富山県富山市婦中町安田にあります。全国制覇を目指す豊臣秀吉が越中の佐々成政を攻めた時、秀吉の本陣となった白鳥城の支城として前田氏によって築かれ、配下の岡嶋一吉が城主となったとされます。城郭遺構の配置から、それ以前にも館城が存在していた可能性もありそうですが詳らかではない様です。安田城はその後廃城となり耕作地化されて地表面からの確認が難しい状態になっていたようですが、発掘調査によって、江戸期の絵図に描かれた城郭遺構が確認され、復元されました。今回の参考資料は(1)見学会資料(2)現地パンフレット(3)「令和3・4年度安田城跡再整備事業の概要」富山県埋蔵文化財センター202306(4)現地案内板と学芸員さんの解説などです。安田城明治の旧地図では遺構の痕跡がわずかに認められる昭和になって圃場整備事業に先...安田城越中土塁の厚さに驚く復元された平城を堪能東海古城研究会の見学会で訪れました

  • 岡崎城 三河 清海堀探索、石垣、堀など 東海古城研究会の見学会が行われました

    岡崎城は愛知県岡崎市にあります。徳川家康の生誕地として知られ、若き日の家康が桶狭間合戦の後10年間を過ごしました。城郭としての歴史は15世紀中頃の西郷氏まで遡りますが、今見る岡崎城は江戸期に何度も改修が繰り返された姿となっています。今回は東海古城研究会の半日見学会が行われ、普段は立ち入ることが出来ない清海堀の探索と城内の石垣や堀、岡崎城に付随する大林寺の見学でした。当日資料と石垣めぐりのパンフレットなどを参照し、担当者の説明を聞きながら見学しました。岡崎城見学ルート国土地図に見学先とルートを加筆岡崎城は明治以降、城域の跡地を県役所、図書館、病院、裁判所、動物園、スケートリンクなどに利用し、公園化も進められ、河川の開削改修などもされてきたため現在、城郭遺構として見ることが出来るのは一部にとどまりますが、発掘...岡崎城三河清海堀探索、石垣、堀など東海古城研究会の見学会が行われました

  • 中金古城 三河 南北朝期の足助氏の城郭遺構か、三宅氏の中金城の詰城か

    中金古城は豊田市中金町にあります。飯田街道を見下ろす山上にあり、南下の尾根上の中金城との関連も考えられるようです。山上の中金古城の伝承は地元にもなく、その位置から古い時代(南北朝期)の足助氏に関連した城郭遺構の可能性と南側尾根に築かれている中金城の詰城という想定もあるようです。今回の参考資料は(1)「豊田の中世城館」愛知中世城郭研究会1992(2)「愛知県中世城館跡調査報告Ⅱ」愛知県教育委員会1994などです。なお資料⑵では中金城を中金城A、中金古城を中金城Bとし資料(1)では中金古城を(仮称)としています。※中金城は→こちら中金古城南北朝期の足助氏に属する城郭か、中金城の詰城か中金城は街道AとBの結節点に築かれ街道を扼する城郭とされますが、中金古城は古い形式の山城で南北朝期の足助氏に属するとされる見方と...中金古城三河南北朝期の足助氏の城郭遺構か、三宅氏の中金城の詰城か

  • 増山城 越中 規模の大きい城域に興味深い城郭遺構がてんこ盛りで見ごたえあり!

    増山城は富山県砺波市増山にあります。築城は南北朝期にさかのぼるとされ、その後幾多の武将の名が城主として登場するようです。その間に度々改修が行われ、居館を含めた今見る規模の大きな城塞群となったと考えられ慶長年間頃に廃城になり、その後耕作地としての利用があったようです。今回は東海古城研究会の一泊二日の特別見学会で訪れました。参考資料は(1)見学会当日資料(2)パンフレット「増山城跡」砺波市教育委員会2023(3)現地案内板などです。増山城和田川に造られたダムによって一部が水没した増山城の直下を流れる和田川にダム(昭和44年竣工)が作られたことにより城域西側の屋敷地や対岸の城下町などが一部水没したようですが、ほとんどの城郭遺構は現存し、資料⑵では「山城の教科書」と呼ぶにふさわしい山城と謳っていました。増山城城郭...増山城越中規模の大きい城域に興味深い城郭遺構がてんこ盛りで見ごたえあり!

  • 中金城 三河 主要な街道の結節点を扼する三宅氏の城郭

    中金城は愛知県豊田市中金町にあります。資料によっては、山頂部にある山城の中金古城を中金城B、中腹にある中金城Aとしている場合もあるようです。今回は中金城Aにあたる城郭を見学します。中金城は三宅氏が築いたとされ、山頂の中金古城の方が古く、中金城は後に居館として築かれた可能性があるとされます。今回の資料は(1)「豊田の中世城館」愛知中世城郭研究会1993(2)「愛知県中世城館跡調査報告3」愛知県教育委員会1997(3)「忘れられた街道上」中根洋治著2006(4)「愛知の歴史街道」中根洋治著1997などです。中金城主要な街道AとBの結節点を見下ろす位置に築かれている東西に走る国道153号線Aは古い飯田街道とほぼ同じルートを通り、矢作川の土場(川湊)のあった古鼡(ふっそ)から中金へ抜ける物流の道Bが中金で合流して...中金城三河主要な街道の結節点を扼する三宅氏の城郭

  • 松倉城 越中 南北朝期から250年間、重要拠点として補強され続けた遺構が見どころ 東海古城研究会の見学会で訪れました

    松倉城は富山県魚津市鹿熊にあります。築城年代の詳細は不明とされますが南北朝期前半と考えられています。その後、この城を巡って幾度もの戦いが繰り返され戦国末期までの約250年間にわたって重要な拠点としての役割を果たしてきたようです。今回の参考資料は(1)見学会資料(2)パンフレット「松倉城跡」魚津市教育委員会などです。東海古城研究会の一泊二日の特別見学会に参加して訪れました。松倉城かつては鹿熊に城下町があり、南東約5㎞には松倉金山もあり古くから栄えた資料⑵によると、松倉城の南東約5㎞には南北朝期からの金山があり、松倉が栄え、幾たびも奪い合われた要因の一つとなったようです。松倉城は堅固な城塞で籠城の記録が多く残るようですので、山下の鹿熊の城下町には居館があり、非常時には松倉城に入ったのかもしれません。松倉城山上...松倉城越中南北朝期から250年間、重要拠点として補強され続けた遺構が見どころ東海古城研究会の見学会で訪れました

  • 大和城 信濃 諏訪下社の有力な社人大和氏の鎌倉街道甲州街道を見下ろす城郭

    大和(おわ)城は長野県諏訪郡下諏訪町高木と諏訪市大和の境界に位置します。諏訪下社の有力な社人で武人だった大和氏の城郭で下社の領域の下諏訪の東側の守りを担っていたと伝わります。なお大和氏の居館は下諏訪の諏訪下社付近にあったとされます。今回の資料は「信濃の山城と館6」宮坂武男著2013などです。大和城諏訪上下社の争い、武田氏の侵攻など東からの脅威が多かったのに備えたか諏訪湖と北側から突き出した尾根の間を通り東から下諏訪に向かう鎌倉街道を抑える絶好の位置に大和城は築かれたようです。大和城鎌倉街道から大和城を見る東から城趾の東側に車を停め、残存する鎌倉街道を西に向かって歩き大和城に向いました。途中の鎌倉街道から大和城が良く見えました。ということは大和城からもこちらがよく見えるということですね。大和城大手道の途中、...大和城信濃諏訪下社の有力な社人大和氏の鎌倉街道甲州街道を見下ろす城郭

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